会員のカトケンです。
今月30日の巡墓会の事前探索を兼ねて、護国寺・雑司ヶ谷とその周辺を訪れました。
当日皆さんにご紹介する以外にも見るべき墓がありました。
まずは護国寺の東側に位置する善心寺。
幕臣栗本鋤雲の養子貞治郎の墓がありました。(=写真)残念ながらこの一基のみで、鋤雲や他の関係墓碑はありませんでした。
貞治郎は明治になってから岩倉使節団に加わり渡仏。帰国後は外務省などに出仕したことが墓碑から読み取れます。
宗派は法華宗陣門流。
〔文京区大塚5-2-7〕
次に護国寺へ向かいましたが、同寺西隣の財団法人天風会に立ち寄り、中村天風の墓の場所を尋ねた後、境内へ。
右手の奥に深尾重孝の墓が累代の墓とともにありました。土佐藩家老で佐川城主の家系11代に当たります。その家臣である田中光顕の墓の裏手にあるのも何かゆかりがありそうです。
その周辺には薩摩の田尻稲次郎などの墓碑があります。
本堂裏手右側には、中村天風の墓がありました。きれいな花がいけてありました。(=写真)
若いころは日露役の軍事探偵を勤め、数少ない生き残りとなりました。各地を放浪しエジプトで出会ったヨガの大家にその場で弟子入り。ヒマラヤで修行ののち戦後我が国へいち早くヨガを伝導。
心身統一法で多くの人を成功に導く手伝いをしました。各界の著名人が数多く弟子入りし、今でも心酔する人が後を絶ちません。
護国寺の宗派は真言宗豊山派、山号は神齢山、院号は悉地院。
〔文京区大塚5-40-1〕
次に雑司ヶ谷では大井憲太郎の墓。朝鮮独立支援の口火を切った大阪事件の首謀者。その後衆議院議員。大正11年没(1922)、享年80歳。
(1種16号3側)
次に並河家の墓。(=写真)ここに葬られている並河一という人物は、新撰組隊士で彦根出身の佐々木一であると長らく言われてきましたが、当会会長 釣洋一先生が最近出された論稿で同一人物とするのに否定的な見解を示されました。
墓誌の右から4番目に「正五位勲四等並河一命、大正十五年(1926)五月二十九日、享年七十六歳」とあります。
(1種5号27側)
土佐関係では、戦前代々木にあった山内家史編纂所の所長を務めた沼田頼輔の墓。紋章学の大家でもあります。
(1種10号11側)
さらにそこから道を隔てたところに土佐出身でテレビ開発者の山本忠興の墓がにあります。中に骨壷が納められそうな形状のもので正面に「山本家之墓」と書いてあります。
(1種14号13側)
〔豊島区南池袋4-25-1〕
また、この日は巡墓会で回る予定になっている墓の近くで、知る人ぞ知るとっておきの墓にたどりつくことができました。
誠に勝手ながら、これはぜひ巡墓会に参加していただいた方にだけ紹介させていただきたいと思います。お楽しみに…
最後になりましたが、沼田博士の場所をご教示くださった会員のクロサカさんに感謝申し上げます。
今月30日の巡墓会の事前探索を兼ねて、護国寺・雑司ヶ谷とその周辺を訪れました。
当日皆さんにご紹介する以外にも見るべき墓がありました。
まずは護国寺の東側に位置する善心寺。
幕臣栗本鋤雲の養子貞治郎の墓がありました。(=写真)残念ながらこの一基のみで、鋤雲や他の関係墓碑はありませんでした。
貞治郎は明治になってから岩倉使節団に加わり渡仏。帰国後は外務省などに出仕したことが墓碑から読み取れます。
宗派は法華宗陣門流。
〔文京区大塚5-2-7〕
次に護国寺へ向かいましたが、同寺西隣の財団法人天風会に立ち寄り、中村天風の墓の場所を尋ねた後、境内へ。
右手の奥に深尾重孝の墓が累代の墓とともにありました。土佐藩家老で佐川城主の家系11代に当たります。その家臣である田中光顕の墓の裏手にあるのも何かゆかりがありそうです。
その周辺には薩摩の田尻稲次郎などの墓碑があります。
本堂裏手右側には、中村天風の墓がありました。きれいな花がいけてありました。(=写真)
若いころは日露役の軍事探偵を勤め、数少ない生き残りとなりました。各地を放浪しエジプトで出会ったヨガの大家にその場で弟子入り。ヒマラヤで修行ののち戦後我が国へいち早くヨガを伝導。
心身統一法で多くの人を成功に導く手伝いをしました。各界の著名人が数多く弟子入りし、今でも心酔する人が後を絶ちません。
護国寺の宗派は真言宗豊山派、山号は神齢山、院号は悉地院。
〔文京区大塚5-40-1〕
次に雑司ヶ谷では大井憲太郎の墓。朝鮮独立支援の口火を切った大阪事件の首謀者。その後衆議院議員。大正11年没(1922)、享年80歳。
(1種16号3側)
次に並河家の墓。(=写真)ここに葬られている並河一という人物は、新撰組隊士で彦根出身の佐々木一であると長らく言われてきましたが、当会会長 釣洋一先生が最近出された論稿で同一人物とするのに否定的な見解を示されました。
墓誌の右から4番目に「正五位勲四等並河一命、大正十五年(1926)五月二十九日、享年七十六歳」とあります。
(1種5号27側)
土佐関係では、戦前代々木にあった山内家史編纂所の所長を務めた沼田頼輔の墓。紋章学の大家でもあります。
(1種10号11側)
さらにそこから道を隔てたところに土佐出身でテレビ開発者の山本忠興の墓がにあります。中に骨壷が納められそうな形状のもので正面に「山本家之墓」と書いてあります。
(1種14号13側)
〔豊島区南池袋4-25-1〕
また、この日は巡墓会で回る予定になっている墓の近くで、知る人ぞ知るとっておきの墓にたどりつくことができました。
誠に勝手ながら、これはぜひ巡墓会に参加していただいた方にだけ紹介させていただきたいと思います。お楽しみに…
最後になりましたが、沼田博士の場所をご教示くださった会員のクロサカさんに感謝申し上げます。
(お寺の名前を書き間違えました)
今回案内予定のない安田善次郎を暗殺した朝日平吾の墓が護国寺の東側の西信寺にあります。
正面の墓碑銘は「顕理院殿鋤雲日達大居士 顕實院殿光濱日瑞令夫人」とありました。
側面に略歴が彫られています。
貞治郎のお墓の横に草ボウボウの空間がありました。墓域を満遍なく見ましたが、栗本家之墓も瀬兵衛、孝一郎と書かれた墓碑も見当たりませんでした。
貞治郎墓碑の右面に書かれた戒名も「顕功院栄達日法大居士 顕明院妙貞日操大姉」で、「鋤雲」の字はありません。貞治郎の墓碑の建立者は「孝子栗本清夫」とありました。
ミネルヴァ書房で栗本の伝記が出たことですし、森重さんのおっしゃられたように、これは一度皆で検証する必要がありますね。良いきっかけをつくることができたとしたら、これ幸いと存じます。