会員のカネコです。
ここ数回にわたり間宮林蔵の先祖と考えられる小田原北条氏家臣間宮氏一族について書きましたが、間宮氏一族の中からは火附盗賊改を勤めた人物がいます。
我々の師である釣洋一先生著『江戸刑事人名事典』には次のように書かれています。
間宮友三郎光徳
元文5年(1740)申歳生まれの光徳には、藤五郎、与五郎という二人の兄がいたが、二人とも早世したため、宝暦14年4月4日(1764・5・4)25歳で亡父光政の遺跡を継いだ。同月18日(5・18)浚明院殿(家治)に初めて謁す。
明和2年11月29日(1766・1・10)西城御書院番に列し、御徒頭に進んだ後、寛政9年12月23日(1798・2・8)御先手鉄砲頭に転じ、5年後に火附盗賊改加役を務めた。
この釣先生の本には間宮友三郎光徳について三田村鳶魚が「泥坊の話」に記述したことを載せています。これによると文化元年(1804)の3、4月頃盗賊の清吉という者が荒かせぎをしていて、なかなか捕まらず、その被害は6、7月に増えていき、火盗改であった、間宮友三郎は御免願を出したとあり、間宮友三郎光徳が清吉を捕らえられなかったことで火盗改を辞職したことになっています。
しかし、釣先生は間宮友三郎光徳は文化元年7月4日(1804・8・9)に現職中に死去解任されたことを指摘しています。
つまり三田村鳶魚が清吉を捕らえられなかったことで辞職したと言っているのは誤認ということになります。
同書には間宮友三郎光徳は東京都葛飾区堀切の妙源寺に合葬墓があると記されており、法名は観立院殿誰有日珠居士。墓碑の写真も掲載されています。
私は平成21年(2009)7月に妙源寺にある二本松藩儒から昌平黌教授となった安積艮斎の墓所を見に来た際に間宮家の墓所も確認しました。
正面中央に[妙法 顯了院殿法山日到居士]と刻まれています。『寛政譜』で照合すると光徳の父光政であることが分かります。その隣に刻まれている[卓曜院殿義峰日忠居士]は左側面の銘文から明治元年(1868)に死去した江戸期最後の当主光平であることが分かりました。
『寛政譜』によるとこの間宮家は笹下城主間宮豊前守信元の四男間宮監物信俊を祖としています。信俊は天正18年3月29日(1590・5・3)伊豆山中落城の際に兄康俊とともに討死にしたとあります。康俊は間宮林蔵の祖間宮隼人の父という説がある人物です。
信俊の長男源十郎も同じく戦死し、二男三郎右衛門光信が徳川家に仕え300石を賜り旗本となりました。妻は北条家の家臣江戸摂津守忠朝の女、後妻長谷川四郎兵衛重次の女とあります。
その後、正信-政重-政茂-光政と続き、友三郎光徳となります。
家紋は角四目結、五三の桐、三割桔梗とあります。
間宮一族を追跡する中で、火盗改となった人物を再発見し、改めて間宮氏族の幅広さを感じました。
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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム
ここ数回にわたり間宮林蔵の先祖と考えられる小田原北条氏家臣間宮氏一族について書きましたが、間宮氏一族の中からは火附盗賊改を勤めた人物がいます。
我々の師である釣洋一先生著『江戸刑事人名事典』には次のように書かれています。
間宮友三郎光徳
元文5年(1740)申歳生まれの光徳には、藤五郎、与五郎という二人の兄がいたが、二人とも早世したため、宝暦14年4月4日(1764・5・4)25歳で亡父光政の遺跡を継いだ。同月18日(5・18)浚明院殿(家治)に初めて謁す。
明和2年11月29日(1766・1・10)西城御書院番に列し、御徒頭に進んだ後、寛政9年12月23日(1798・2・8)御先手鉄砲頭に転じ、5年後に火附盗賊改加役を務めた。
この釣先生の本には間宮友三郎光徳について三田村鳶魚が「泥坊の話」に記述したことを載せています。これによると文化元年(1804)の3、4月頃盗賊の清吉という者が荒かせぎをしていて、なかなか捕まらず、その被害は6、7月に増えていき、火盗改であった、間宮友三郎は御免願を出したとあり、間宮友三郎光徳が清吉を捕らえられなかったことで火盗改を辞職したことになっています。
しかし、釣先生は間宮友三郎光徳は文化元年7月4日(1804・8・9)に現職中に死去解任されたことを指摘しています。
つまり三田村鳶魚が清吉を捕らえられなかったことで辞職したと言っているのは誤認ということになります。
同書には間宮友三郎光徳は東京都葛飾区堀切の妙源寺に合葬墓があると記されており、法名は観立院殿誰有日珠居士。墓碑の写真も掲載されています。
私は平成21年(2009)7月に妙源寺にある二本松藩儒から昌平黌教授となった安積艮斎の墓所を見に来た際に間宮家の墓所も確認しました。
正面中央に[妙法 顯了院殿法山日到居士]と刻まれています。『寛政譜』で照合すると光徳の父光政であることが分かります。その隣に刻まれている[卓曜院殿義峰日忠居士]は左側面の銘文から明治元年(1868)に死去した江戸期最後の当主光平であることが分かりました。
『寛政譜』によるとこの間宮家は笹下城主間宮豊前守信元の四男間宮監物信俊を祖としています。信俊は天正18年3月29日(1590・5・3)伊豆山中落城の際に兄康俊とともに討死にしたとあります。康俊は間宮林蔵の祖間宮隼人の父という説がある人物です。
信俊の長男源十郎も同じく戦死し、二男三郎右衛門光信が徳川家に仕え300石を賜り旗本となりました。妻は北条家の家臣江戸摂津守忠朝の女、後妻長谷川四郎兵衛重次の女とあります。
その後、正信-政重-政茂-光政と続き、友三郎光徳となります。
家紋は角四目結、五三の桐、三割桔梗とあります。
間宮一族を追跡する中で、火盗改となった人物を再発見し、改めて間宮氏族の幅広さを感じました。
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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
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