探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

東海の覇者 今川義元と駿府

2019-05-04 00:12:26 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。
大型連休で実家に帰り、今川義元の展示をしている静岡市文化財資料館を訪ねた。

令和元年初日とあって、宮ケ崎の浅間神社には朱印の行列ができていた。それを余所に関口隆吉の碑をとおり資料館へ。企画展「東海の覇者 今川義元と駿府」を見た。いつもより人が入っていた。

新しくできる歴史博物館のプレ事業として催されたこの企画展は、その博物館の常設展の主軸になるとのことで、義元の再評価や今川歴代の功績、大原雪斎の役割や寿桂尼の立場など事細かにしかし簡潔に解説が施されていた。

中でも、義元の還俗前の称をずっと[梅岳承芳]と思っていたのが[栴岳承芳](せんがくじょうほう)だったこと、花倉の乱における対立構図、武田や北条との縁戚関係が時代ごと説明されるなど、とても分かりやすいものだった。

また、展示で義元の兄氏輝や息子氏真の治世にも触れていたことは、義元のみならず今川歴代[静岡のお殿様]を意識した歴史的位置づけと言える。静岡市民必見の展示であらう。

さらに、今川義元公生誕500年祭推進委による冊子『駿府と今川氏』がコンパクトにまとまっていて復習ができる。今後も行事が目白押しの[静岡市における今川年]にご注目あれ!



最後に、静岡市の浮月楼や教覚寺に住んでいた新札に選ばれた渋沢翁の記事を載せよう。[藤枝市郷土博物館にて5/31までパネル展示]



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国立公文書館「江戸時代の天皇」展と新井白石の墓-奉祝・新天皇陛下御即位-

2019-05-01 11:20:33 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
5月1日、皇太子徳仁親王が第126代天皇に御即位されました。
滞りなく代替わりの儀式が済み、新しい「令和」の御代が始まりました。
「平成」の御代は上皇陛下が仰った通り戦争のない平和な時代となりましたが、「令和」の御代も平和でかつ、多くの人々にとって幸多き時代になることを願っております。

一昨日29日(月・祝)に国立公文書館で開催されている「江戸時代の天皇」展を見に行きました。





江戸時代の天皇は一般的には馴染みがあまりないですが、実の所は近代天皇制へ向かう胎動期であったとも言えます。
幕末好きの方には孝明天皇は馴染みの深い天皇ですが、孝明天皇の代に急に天皇の存在が高まった訳ではなく、孝明天皇の祖父光格天皇の主体的な動きにより朝廷権威が浮上し、その後の孝明天皇に受け継がれるという流れになります。

今回の展示では江戸初期の後水尾天皇と幕府との軋轢、その後の協調時代、大嘗祭の再興、元号の選定と改元の経緯、そして光格天皇の朝儀再興についての文書類が展示され、近代天皇制前夜の流れが非常に良く分かる構成となっていました。
公文書館という性格上、ひたすら文書類が展示されているという視覚的に地味な内容ですが、最後に光格天皇の御幸・行幸の絵巻物が展示されているブースはなかなかの圧巻でした。この他にも小渕官房長官が掲げた「平成」の色紙も展示されていました。

光格天皇は第118代後桃園天皇に皇子がなく22歳で崩御されたため、傍系の閑院宮家より皇位を継承した天皇でした。以来、新天皇陛下までは直系の皇子による継承がされており、現皇室に直接繋がる天皇となります。

今回の展示でも取り上げられていましたが、閑院宮家は6代将軍徳川家宣を輔弼して「正徳の治」と呼ばれた政治改革を主導した新井白石の建議により興された宮家です。
当時の皇室は伏見宮・有栖川宮・桂宮の世襲親王家がありましたが、皇位継承者以外の皇子や皇女は出家し、門跡寺院に入ることが慣例となっていたため、皇位継承者の不足が危ぶまれていました。皇位継承問題が顕在化したのは第110代後光明天皇が22歳で崩御した際で、父後水尾法皇が生後間もない高貴宮(後の霊元天皇)を即位させようとしましたが、幼少のため、有栖川宮家継いでいた良仁親王(後の後西天皇)を中継ぎとして即位させることになりました。
皇位継承が不安定化しないためにも、3家の宮家以外にもさらに補完する宮家の必要性を感じた新井白石は将軍徳川家宣に建議し、その結果、東山天皇の皇子である直仁親王を初代とする新宮家が創設されました。これが閑院宮であり、直仁親王の孫祐宮兼仁親王が光格天皇となり、皇統が維持されることになります。

さて、国立公文書館「江戸時代の天皇」展を見た後、中野に所用があったため、久々に新井白石の墓所がある高徳寺(真宗大谷派、荒居山法喜院。中野区上高田1-2-9)へ立ち寄りました。
正面[新井源公之墓]と刻まれた小型の角石墓となっています。



両側には新井家の歴代墓が並んでいますが、殆どが同型の小型の角石墓となっています。



高徳寺はかつて浅草報恩寺内にありましたが、後に上高田の現在地に移転しています。
『寛政重修諸家譜 第18巻』に新井家の系譜が所載されていますが、そこには葬地は報恩寺と書かれています。
尚、その『寛政重修諸家譜 第18巻』によると、新井家は本姓清和源氏で義家流新田支流に属しています。先祖は新田蔵人太郎義房二男二郎某で、二郎某は出家し上野国新田郡荒居に住んだことにより、荒居禅師を称し、その子孫は荒居を称し、後に新井に改めたとあります。ただし白石の先祖については宮崎道生著『新井白石』(吉川弘文館)において白石自身が書いた『新井家系』『新井氏族志』『折りたく柴の記』や安積澹泊などへの書簡を精細に検討すると種々の難点があるとしています。

閑院宮家の創設が宝永7年8月11日(1710・9・4)で光格天皇の即位が安永8年11月25日(1780・1・1)であり、創設後70年で皇統の危機を救いました。
新井白石は享保10年5月19日(1725・6・29)に死去していますので、当然ながら光格天皇の即位は見ていません。新井白石は将来起こりうる危機を想定し、その根を摘み取りました。
つまり皇位継承の問題は何年も先の未来を見据えて考えねばなりません。
新天皇陛下の御即位により、皇位継承資格者が3名のみとなり、その内2名が50歳以上という異常な事態となっています。
平成の時代にも皇位継承問題が議論されましたが、何ら解決せずに現在に至っています。
どのような解決方法が良いかは様々な議論があり、現代的価値観や国民感情も配慮せねばなりませんが、私としては前例の無いことをするより、前例があることに近い形での解決方法が好ましいと考えます。その前例に現代的な価値観を吹き込み、多くの国民の共感を得られる解決方法というものがあるのではないかと思います。

新天皇陛下の御即位を祝福するとともに、今後も皇室が繁栄していくために「令和の新井白石」が登場することを願っています。
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今上天皇の恩師、小泉信三の墓

2019-04-30 08:32:54 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
平成最後の投稿となります。
いよいよ今日で平成が終わりますが、私は10代から30代の人生の大事な期間を「平成」の時代に過ごしました。この探墓巡礼顕彰会を結成したのも「平成」、初めての本を出版したのも「平成」です。
昨年末の平成最後の天皇誕生日での会見で、今上天皇は「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」と述べられましたが、私たちが平和を享受して今を生きているのも、今上天皇の平和へのたゆみない努力の賜物であるといっても過言ではありません。
今上天皇は第125代天皇の役割を全うし、未来を新天皇に託します。

その今上天皇に大きな影響を与えた人物として、東宮御教育常時参与として若き皇太子明仁親王の教育責任者となった小泉信三が挙げられます。
平成最後の記事としてこの小泉信三を取り上げます。

小泉信三は旧紀州藩士で慶応義塾総長・横浜正金銀行支配人などを務めた小泉信吉の二男として明治21年(1888)5月4日に生まれました。
父信吉が明治27年(1894)46歳で亡くなると一時期、家族で福沢諭吉の邸内に同居しています。福沢死去の翌年である明治35年(1902)慶応義塾普通部に編入学し、大学部では政治科に進みました。卒業後は教員に採用され、経済学部教授として、経済原論・経済史・社会問題などを教えました。信三は自由主義を論調として、反マルクス主義の旗手としてその名声を挙げました。
昭和8年(1933)から13年余り慶応義塾塾長を務め、昭和19年(1944)には内閣顧問を務めています。
太平洋戦争中に長男信吉が戦死し、自身も東京大空襲の際に焼夷弾に接触し顔面に火傷を負いました。
戦後、昭和天皇にたびたび御進講を行い、昭和24年(1947)東宮御教育常時参与となり皇太子明仁親王の教育全般を担う事になります。

信三はサー・ハロルド・ニコルソン著『ジョージ5世伝』、福沢諭吉著『帝室論』などを講義し、自由主義・民主主義の新時代の帝王学を明仁親王に説きました。
また、明仁親王が人と交わることが少なかったことと、牧野伸顕が文学をよく読み老化しなかったことを挙げて、小説を読むことをすすめ、幸田露伴『運命』をはじめ、志賀直哉『城の崎にて』などを一緒に読みました。
また、皇太子妃の選定にも関与し、美智子妃選定に至る過程でも尽力しています。

「勇気ある自由人」と呼ばれた信三は昭和41年(1966)5月10日、78才で死去。
弔問には皇太子明仁親王・美智子妃も訪れました。
葬儀は青山の葬祭場にてキリスト教式で行われています。

小泉信三の墓は多磨霊園(府中市多磨町4丁目628)3区1種17側3番にあり、正面[小泉家之墓]と刻まれ、墓誌には父信吉以降の小泉家の人々の名が刻まれています。



また、1区1種2側11番には妻とみの父で明治生命の創立者である阿部泰蔵の墓もあります。信三の長男信吉が戦死したため、とみの兄泰二の子準蔵を婿養子としおり、小泉家と阿部家は二重の姻戚関係となっています。



『慶應義塾 歴史散歩』によると、和歌山県和歌山市本町5丁目32の善稱寺(浄土真宗本願寺派)にも父信吉が建立した小泉家の墓があるとありますが、筆者は未確認です。

小泉信三については様々な書籍が出ていますが、昨年中公文庫より出版された小川原正道著『小泉信三―天皇の師として、自由主義者として』が読みやすと思います。

小泉信三の先祖についてですが、『小泉信三全集 別巻』に祖父小泉文庫が明治3年(1870)に提出した「小泉家系譜」が所載されています。
これによると、小泉家は源姓、家紋は横木瓜であり、祖父文庫の父小泉良左衛門芳房を初代としており、良左衛門芳房は「元御手弓同心小泉次左衛門保友養子 実根来者青木内膳房輝二男」とあります。また、同じく提出された「親類書」では文庫の母が小泉次左衛門とあるので、良左衛門芳房は次左衛門保友の婿養子となり小泉姓を称し、一家を興したことが分かります。
また、紀州藩士の系譜・親類書をリスト化した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』( 和歌山県立文書館編)によると、次左衛門の父は宇治田次郎右衛門とあり、宇治田姓となっています。ただ、次左衛門の諱に「保」の字があり、この「保」の字を通字としている小泉家が別にあることから、宇治田家より小泉家に養子に入り、小泉姓を称して別家を興したものと思われます。
この小泉諸家の関係は和歌山県立文書館所蔵の系譜や親類書を調査するとはっきりするのではないかと思います。
また、『小泉信三全集 別巻』には信三の母方林家の系譜も所載されており、林家も紀州藩の藩医の家柄となっています。

徳川御三家というと尾張藩・水戸藩は勤王で知られますが、紀州藩は2人の将軍を輩出したこともあり、徳川将軍家とは近いように思われますが、その紀州藩の藩士の子が現代の皇室に貢献したということは大変興味深いことだと思いました。

信三は昭和35年(1960)明仁親王の長男徳仁親王が誕生し、命名された際に「皇孫殿下御命名」と題して帝都日日新聞に寄稿しており、『小泉信三全集 第26巻』に全文が所載されています。

「皇孫殿下御命名
 皇孫殿下の御命名も目出たく行われ、両陛下や御父母殿下のおよろこびもいかばかりかと御察し申上げられる。どうぞこれからの長い年月に心身いよいよ健やかに御成長になることをお祈り申し上げている。
 皇室の御任務は、旧帝国憲法のときとは違ったものになったが、それは他面において精神的道徳的にはいよいよ重いものになったと考えられる。この事を最も早く説いた一人は福澤諭吉であった。明治15年先生は『帝室論』を著しその冒頭に「帝室は政治社外のものなり。苟も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可らずとの事は、我輩の持論にして」云々といった。
 かく自ら政治の衝に当らず、政争者のいずれを是、いずれを非とすべきものでないとすれば、帝室の任務はいずれの辺にあるとすべきであるか。先生は答えていう。それは民心融和の中心となられることにある。政争は苛烈なもので、それは火の如く水野如く、また盛夏の如く厳冬の如くであろうけれども、「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」という。先生はまた西洋の語に、皇室は栄誉の源泉であるというのを引いて「王家は勧る有て懲らす無く、賞する有て罰するなきもの」だともいった。
 立憲君主制の下において国会の支持を受ける首相が政治の全責任を負うべきはいうまでのないことである。しかし政党の首領であり、且つ三、五年にして更迭する首相が今日のやめ後日を、党のために国家と国民を忘れることは、決してないとはいわれないのである。
 立憲君主はもとより直接政治の衝に当るべきものではないが、不偏不党の立場にあってそうして連続して国の最高位に坐するところから、自然の国家及び国民の永続的利害に対し政治家の及ばぬ、特殊の見識と感覚とを抱くに至るべきは、当然考えられるところである。
 このことは聡明なる立憲君主を、政治家に対する最良の道徳的奨励者及び警告者たらしめる。それは政治家の責任を、少しも軽くするものではない。けれども公平にして、国民の過去と未来により遠く思い及ぶ君主の所見を、平生談笑の間にきくことは、達識ある政治家にとっての絶大の所得となり得るであろう。
 皇室の任務が精神的道徳的にいよいよ重いものになったと、前に記したのは主としてこれをいうのである。
 皇孫殿下御命名の日に『帝室論』をくり返すのも野暮な話と思われるかも知れないが、この皇孫殿下の末長き御健康と心身の見事な御成長を願う国民の一人として、今日それをいうことも許されるかと思う。ひとえに人々の寛恕乞う。」

小泉信二が「末長き御健康と心身の見事な御成長を願」った皇孫殿下は、明日、第126代天皇として御即位されます。
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昭和天皇漢学の師、服部宇之吉の墓

2019-04-28 00:33:29 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
当会では平成21年(2009)の発足時より全国歴史研究会の会誌である『歴史研究』の「史談往来」のコーナーにて「掃苔行脚」をリレー連載しています。
各幹事年2回担当が回ってきて、私はライフワークである福島県二本松市に関わる人物を取り上げています。
昨日配本となった第671号(2019年年5月号)で連載20回となりますが、今回は二本松藩士の子で昭和天皇の漢学の師となった服部宇之吉を取り上げました。

服部宇之吉は慶応3年4月30日(1867・6・2)二本松藩士服部藤八の三男として二本松城下で生まれました。父藤八は翌年の戊辰戦争における二本松城奪還戦において戦死したため、叔父服部喜平の養子となりました。明治6年(1873)喜平が東京麻布の丹羽邸に仕えるために上京した際に一家と共に上京し、麻布小学校、共立学校大学予備門、東京帝国大学文学大学へ進み、卒業後は文部省に入り、先日のブログでも取り上げた文部大臣浜尾新の秘書官などを務めました。
明治32年(1899)漢学研究のため北京へ留学した際に義和団事件に遭遇し、日本軍や在留邦人と共に2ヶ月の籠城を経験し、このことを後に『北京籠城日記』『北京籠城回顧録』として著しています。北京の後、ドイツへ留学し、帰国後は東京帝国大学教授となっています。
また、清国より文科進士を授与され、日本における中国哲学・史学・文学研究者の第一人者としてその名声を高めました。小柳司気太との共著『詳解漢和大字典』は漢和字典の定番として長年多くの人たちに重宝されています。

大正7年(1918)・大正9年(1920)御講書始で漢書の御進講を務め、大正10年(1921)9月30日に東宮職御用掛となり、週1回、皇太子裕仁親王(昭和天皇)への漢文の御進講を務めています。大正11年(1922)摂政宮となった裕仁親王への御講書始を務め、『昭和天皇実録 第3巻』に「論語為政篇子曰吾十有五而志于学章」と題した内容であったことが記されています。
皇太子妃良子女王(香淳皇后)が第一子を懐妊した際には芳賀矢一らと共に皇子・皇女の諱・通称各三案を考案しています。この時に生まれた第一子が照宮成子内親王で、その諱と通称は漢書『易経』を出典としています。
晩年は関東大震災で焼失した湯島聖堂の再建に尽力しました。

郷里二本松との関わりである寛延3年(1749)藩士達への訓戒として藩庁前に設置された戒石銘碑の研究を行い、『旧二本松藩戒石銘碑説明書』を著しています。また、『二本松藩史』刊行会理事長も務めています。

昭和4年(1939)7月11日73歳で死去。葬儀は築地本願寺で行われ、墓所は護国寺(真言宗豊山派、神齢山悉地院。東京都文京区大塚5丁目40―1)に設けられました。
墓所には宇之吉夫妻の墓碑と門下生によって建立された[服部隨軒先生墓碑銘]があります。



二本松における服部家の菩提寺は顕法寺(浄土真宗本願寺派、塩松山。福島県二本松市竹田1丁目198)であり、山の斜面にある墓地の中腹部に父藤八の墓をはじめ18基の墓碑が現存しています。



また、本堂近くには平成20年(2008)に二本松史跡保存会によって建立された[服部宇之吉博士顕彰碑]があります。



墓所・墓碑銘に関しては『歴史研究』をご覧頂ければと思いますが、文字制限により割愛した部分について紹介したいと思います。

服部宇之吉の生涯について参考になる資料としては『服部先生古稀祝賀記念論文集』、『斯文 21巻9号』所載「服部隨軒先生追悼録」があります。
『服部先生古稀祝賀記念論文集』には昭和11年(1936)に宇之吉本人が書いた「服部先生自叙」が収められています。
「服部隨軒先生追悼録」は縁者による追悼文が掲載されていますが、特に妻繁子による「我良人の生立の記」に宇之吉の生い立ちについて詳しく書かれています。

宇之吉が生れた翌年、戊辰戦争が起こり、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、落城するまで戦いました。父藤八もこの戦闘に加わり、落城の翌月の二本松城奪還戦で戦死ししました。母はこの年の春に既に病死していたため、赤子であった宇之吉は叔父夫妻に養育されていました。叔父も藩主丹羽長国のお供のため米沢に赴いていたため、養母と宇之吉は炎上する城下で死を覚悟していた所、服部家に出入りしていた農民が二人を救出し、自宅のある上川崎村(旧安達町)に匿われました。
やがて西軍が落人の詮索を始めると、養母に農家の婦人の服装をさせて農事を手伝わせました。しかし、農婦の姿をしてもどこか様子が違うので、家人が心配し、ある時西軍の兵士がやって来ると慌てて養母と宇之吉を馬小屋に入れて、山積みの馬糧の下に押し込みました。養母は短剣を抜き側に置いて、もし宇之吉が一声泣こうものなら、短剣で刺し、自らも自害する覚悟をしました。西軍兵士は槍の柄を頻りに糧のあちらこちらを突きましたが、幸いにも発見されずに済みました。宇之吉はこの時、一声も泣かなかったといい、さらにもう一度、馬小屋に隠れたことがありましたが、その時も発見されずに済んだといいます。
母子を匿った農家の主人はある時西軍兵士の怒りを買い斬られてしまいましたが、養母はそれを物陰から見て「胸ももえ上るばかりの怒り」を感じたといいます。

賊軍と呼ばれた二本松藩の藩士の子とした生まれた宇之吉ですが、学問で大成し、やがて天皇の師となったことで、その汚名をそそぐことができたのではないかと思います。
その表れとして、宇之吉は皇室への尊崇の念が強く、昭和8年(1933)皇太子明仁親王(今上天皇)が誕生すると、奉祝の念に堪えず、夫人と伊勢神宮、熱田神宮に参拝し、皇室の繁栄を祈りました。
宇之吉の病が重くなった時には昭和天皇・香淳皇后より見舞いの果物を下賜されると、感激し子供たちを呼び集め、「天恩の有難き由を聞かせ、宮城の方に向ひ御礼を申し述べた」といいます。
その声は病中にあって大きく明瞭であったといい、「謹しみて天を拝し天恩の有難きを拝謝し一日も早く御奉公申上度切願致し候」と三度同じように述べたといいます。

宇之吉の教え子は数多くいますが、その中に中国文学者目加田誠がおり、『斯文 21巻9号』に「先生の憶ひ出」と題し服部宇之吉との思い出を寄稿しています。
目加田誠は平成の改元の際の考案者の一人であり、つい先日、生前に残した元号案を推敲したとみられるメモが見つかり、政府の最終案に残った「修文」などを考案していたことが分かっています。

先日は皇太子徳仁親王の養育・教育に貢献した濱尾實、さらに以前は昭和天皇の倫理の師杉浦重剛のことも取り上げましたが、平成から令和の代替わりで皇室への注目が高まっている今、皇室を影で支えてきた人たちの存在も広く知られるべきだと思っています。
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まさか今年は静岡における今川年?

2019-04-23 01:17:09 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

どうしてか、小弟が静岡市で東軍慰霊祭をやらせていただいた後、静岡市が歴史で町おこしをしようとしている。

これは果たして偶然か?いや、そんなことは無い。今回の今川騒ぎ(!)も先考がずっと取り組んできた市の歴史博物館開館を見越したプレイベントの一貫だそうで。

でも、面白いことに東軍慰霊祭で協力をお願いしたIさんは父とともに市の歴史博物館に向けた勉強会にともに参加した仲だったし、慶喜公の大河のときに[けいきさんの会]を立ち上げて歴史で静岡を盛り上げようとされていたと後で知った。

そんな先人に導かれながら生まれた街が歴史を題材にして輝こうとしていることは、何か自分にもできることがあるのではないかと意を強くさせてくれる。

そんなことで大型連休、静岡市は[今川復権まつり]と題してイベントが目白押し。親子で楽しめそうな催しから、5/19には直虎の脚本家によるトークイベント、年2回しか入る機会が無い臨済寺で今川義元公の法要あり。

しかも1年を通して今川に関する講演が続くと、これはまるで[日本における□□(外国名)年]の今川版ではないか!

[静岡市における今川年]になりそうな予感ーー新聞広告やチラシで集めた情報を載せるので(=写真)、ご興味がおありの方はぜひ静岡市へ足を運んでみてください。



















何よりも静岡市民が駿河の殿様今川氏に関心を持つことを期待したい! 小弟はそれをよそに後藤庄三郎や中村一氏など、次の一手を考える。ネタが尽きないように。

忘れないうちに『探墓巡礼』をお持ちの方、いやこれから買う方もこの本さえあれば、静岡市内の山岡鉄舟の史跡は大概回ることができるのをご存知でしたか?

東京谷中の墓めぐりの本ですが、実は静岡を地元に持つ者ならではの史跡めぐりができる仕組みにしてあります。本に書いた番地を頼りにぜひ回ってみてください。

藤枝にゆかりのある高橋泥舟、柴誠一・松岡磐吉兄弟の出身地伊豆の国市韮山、小杉雅之進兄直吉の墓(静岡市)や根津勢吉の弟と墓なども載せています。

ついでに新紙幣となる渋沢栄一ゆかりの地も静岡市内にありますが、今日のところはこの辺で。
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