2018年5月2日(水)-(4)
「鹿児島市ふるさと考古歴史館」を後にし、慈眼寺駅から指宿駅へ行く予定が、急に思い立って最南端のJR駅「西大山駅」へ行き、指宿駅へ引きかえした。
西大山駅では開聞岳を入れて記念写真を撮るのが定番だがこの日はあいにくの雨模様で開聞岳は姿を見せなかった。
開聞岳から約10km離れた指宿市の「橋牟礼川遺跡」は、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かった。
「橋牟礼川遺跡」と隣接してある指宿市考古博物館「時遊館COCCO(ココ)はしむれ」へは、指宿駅から10分程歩いて着いた。
(橋牟礼川遺跡)
大正4年、旧制志布志中学校の男子生徒が鹿児島県の指宿で2つの土器のかけらを見つけた。この発見をきっかけに、大正7、8年京都帝国大学の浜田耕作博士らによって発掘調査が行われる。
地層中に堆積している火山噴出物はテフラと呼ばれている。テフラは「分析によっていつ噴出したかあきらかになっています。そのためテフラを含む地層は、その上下にある地層中の遺構や遺物の年代を決めるひとつの指標、「鍵層」として重要です。」(「鹿児島市ふるさと考古歴史館」の展示より)
発掘調査で、火山灰層の上から、弥生土器が出土し、下から縄文土器が出土した。縄文土器は縄文などさまざまな模様がつけられている。弥生土器は薄手で模様が少ないのが特徴。こうした特徴から縄文土器と弥生土器の区別が出来、縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが初めて明らかになる。
(橋牟礼川遺跡の紹介)
(橋牟礼川遺跡の紹介)
(橋牟礼川遺跡の紹介)
橋牟礼川遺跡あたりは開聞岳の噴火で何度も被害を受けてきた。地層には、縄文時代後期(約4000年前)、弥生時代中期(約2000年前)、西暦675年頃、西暦874年の噴火で降った火山灰が積もっている。
西暦874年の噴火は「日本三大実録」という古文書に記されていることから3月25日のことで、橋牟礼川の村は厚い火山灰に完全に埋もれたことがわかり、「東洋のポンペイ」とも呼ばれている。
7世紀の終わりころから9世紀の初めにかけて、南九州の人々は隼人と呼ばれていたが、その実態は謎に包まれている。橋牟礼川遺跡では、その頃の隼人の生活・文化を知る手がかりも埋もれているのではないかと考えられている。
(隼人の住まいの復元。実際に発掘された建物跡は2m下に保存されている。)
橋牟礼川遺跡は5000年もの間、人びとが住んでいた地と考えられていることから、様々な顔を見せる。
今年のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」は、西郷隆盛が主人公で、鹿児島のあちこちでキャンペーンがあっている。指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」でも特別企画展「いぶすき西郷どん館」が開催されていて、人出は多かった。
(時遊館COCCOはしむれ)
展示室は南九州の古代史が展示してある。約2万4千年前の姶良カルデラの噴火をCGで再現、約1500年前の古墳時代のムラを実物大で再現、などがある。
(ここでも地層の剥ぎ取りが展示されている。)
(地層の剥ぎ取りが展示)
(噴火の説明)
(石器時代の説明)
(石器時代の説明)
(古墳時代の再現コーナー)
縄文時代、弥生時代、古墳時代にかけての土器も展示してあり、建物の絵が描かれた、指宿市大園原遺跡で出土した縄文時代後期の土器には興味が引かれた。
(縄文時代草創期の豆粒文土器(上)と隆起線文土器(下))
(縄文時代早期の土器)
(縄文時代後期の土器。建物の絵が描かれている。)
私は、躰に装飾品をつけるのは苦手だが、現代の若者が躰につけている装飾品は縄文の人びとから引き継いできている。
(縄文時代の装飾品)
橋牟礼川遺跡発見のドラマの放映は見なかったし、「地層のはぎとり展示館」もあったようだが気がつかなかった。
西大山駅に寄り道したので計画した時間よりだいぶん遅れて着いたので、見学も早く切り上げ、急ぎ指宿温泉へ。砂湯に入り、黒豚のしゃぶしゃぶ、きびなごの刺身など薩摩料理に舌鼓。
学ぶより食い気。修行が足りない。
(翌日の指宿駅。前日は時折強い雨にうたれたが、いい天気に。)
「鹿児島市ふるさと考古歴史館」を後にし、慈眼寺駅から指宿駅へ行く予定が、急に思い立って最南端のJR駅「西大山駅」へ行き、指宿駅へ引きかえした。
西大山駅では開聞岳を入れて記念写真を撮るのが定番だがこの日はあいにくの雨模様で開聞岳は姿を見せなかった。
開聞岳から約10km離れた指宿市の「橋牟礼川遺跡」は、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かった。
「橋牟礼川遺跡」と隣接してある指宿市考古博物館「時遊館COCCO(ココ)はしむれ」へは、指宿駅から10分程歩いて着いた。
(橋牟礼川遺跡)
大正4年、旧制志布志中学校の男子生徒が鹿児島県の指宿で2つの土器のかけらを見つけた。この発見をきっかけに、大正7、8年京都帝国大学の浜田耕作博士らによって発掘調査が行われる。
地層中に堆積している火山噴出物はテフラと呼ばれている。テフラは「分析によっていつ噴出したかあきらかになっています。そのためテフラを含む地層は、その上下にある地層中の遺構や遺物の年代を決めるひとつの指標、「鍵層」として重要です。」(「鹿児島市ふるさと考古歴史館」の展示より)
発掘調査で、火山灰層の上から、弥生土器が出土し、下から縄文土器が出土した。縄文土器は縄文などさまざまな模様がつけられている。弥生土器は薄手で模様が少ないのが特徴。こうした特徴から縄文土器と弥生土器の区別が出来、縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが初めて明らかになる。
(橋牟礼川遺跡の紹介)
(橋牟礼川遺跡の紹介)
(橋牟礼川遺跡の紹介)
橋牟礼川遺跡あたりは開聞岳の噴火で何度も被害を受けてきた。地層には、縄文時代後期(約4000年前)、弥生時代中期(約2000年前)、西暦675年頃、西暦874年の噴火で降った火山灰が積もっている。
西暦874年の噴火は「日本三大実録」という古文書に記されていることから3月25日のことで、橋牟礼川の村は厚い火山灰に完全に埋もれたことがわかり、「東洋のポンペイ」とも呼ばれている。
7世紀の終わりころから9世紀の初めにかけて、南九州の人々は隼人と呼ばれていたが、その実態は謎に包まれている。橋牟礼川遺跡では、その頃の隼人の生活・文化を知る手がかりも埋もれているのではないかと考えられている。
(隼人の住まいの復元。実際に発掘された建物跡は2m下に保存されている。)
橋牟礼川遺跡は5000年もの間、人びとが住んでいた地と考えられていることから、様々な顔を見せる。
今年のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」は、西郷隆盛が主人公で、鹿児島のあちこちでキャンペーンがあっている。指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」でも特別企画展「いぶすき西郷どん館」が開催されていて、人出は多かった。
(時遊館COCCOはしむれ)
展示室は南九州の古代史が展示してある。約2万4千年前の姶良カルデラの噴火をCGで再現、約1500年前の古墳時代のムラを実物大で再現、などがある。
(ここでも地層の剥ぎ取りが展示されている。)
(地層の剥ぎ取りが展示)
(噴火の説明)
(石器時代の説明)
(石器時代の説明)
(古墳時代の再現コーナー)
縄文時代、弥生時代、古墳時代にかけての土器も展示してあり、建物の絵が描かれた、指宿市大園原遺跡で出土した縄文時代後期の土器には興味が引かれた。
(縄文時代草創期の豆粒文土器(上)と隆起線文土器(下))
(縄文時代早期の土器)
(縄文時代後期の土器。建物の絵が描かれている。)
私は、躰に装飾品をつけるのは苦手だが、現代の若者が躰につけている装飾品は縄文の人びとから引き継いできている。
(縄文時代の装飾品)
橋牟礼川遺跡発見のドラマの放映は見なかったし、「地層のはぎとり展示館」もあったようだが気がつかなかった。
西大山駅に寄り道したので計画した時間よりだいぶん遅れて着いたので、見学も早く切り上げ、急ぎ指宿温泉へ。砂湯に入り、黒豚のしゃぶしゃぶ、きびなごの刺身など薩摩料理に舌鼓。
学ぶより食い気。修行が足りない。
(翌日の指宿駅。前日は時折強い雨にうたれたが、いい天気に。)
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