鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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「王塚古墳」に会う【JR九州天道駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-9】

2016-03-30 | JR九州ウォーキング
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2016年3月27日(日)

MAP

 11時過ぎに天道駅に到着。


(天道駅)

 「天道(てんとう)」は国語辞書では「太陽」など、漢和辞典では「天の意志」などが意味として乗っている。「おてんとうさま」に漢字があること、そしてこの字であるのをこの年になって初めて知った。

 線路を渡って、大将陣公園の階段を上る。日当たりのよい木や枝の桜は咲いているが、満開まではまだまだといった感じの桜並木を歩いて、さくら祭り会場へ。出店もあって賑やかであったが、寄らずに先を急ぐことにした。


(大将陣公園)


(大将陣公園)


(大将陣公園)


(大将陣公園)


(大将陣公園)


(大将陣公園)


(大将陣公園)

 しばらくは、田園地帯を歩く。被写体はないかとキョロキョロしながら。お腹も空いてきて、祭り会場で食事すれば良かったかな、と少し反省もしながら、歩く。


(桂川町総合グランド)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

 丁度お昼頃、「けいせんとれたて村農産物直売所」に着いたら、から揚げと混ぜご飯が何個か残っていた。迷わず買って、椅子を持って行って、建物の外で食べる。ウォーキングの時、お店でその土地の美味しいものを食べる楽しみもあるけど、こうやって食べるのも美味しい。


(一つ200円)

 そこの横の信号を渡ったところ桂川町住民センター「ふれあい広場」で王塚古墳などのパンフレットもいただき、コーヒーをご馳走になる。


(ふれあい広場)


(ふれあい広場)

 さて、今日の目的地まであと少し。急ごう。


(道沿いで)


(道沿いで)

 その前に、天神山古墳へ。内部の調査がされていないので詳細は不明とのこと。墳丘の一部が削られ豆田天満宮の社殿が建てられている。古墳に神社を建ててあるのはこれまでのウォーキングでもいくつかあった。


(天神山古墳)


(豆田天満宮)


(豆田天満宮)


(豆田天満宮)

 線路を渡って、寿命公園の丘陵を上る。「この丘陵には金比羅古墳・大平古墳・宮の上古墳などの前方後円墳のほか、茶臼山古墳をはじめとする円墳が19基所在する大規模な古墳群があります。」と説明書きがあったが、実感することはできなかった。
 公園丘陵の上り口の「寿命古墳こうえん」と書いた板の案内版に「昭和52年3月完工福岡県失業対策事業」と書かれていて、炭鉱事業の盛衰を感じずにはおれなかった。


(曲がり角)


(寿命公園)


(寿命公園)


(寿命公園から)


(寿命公園から)


(寿命公園)

 下ってしばらく歩いて、ようやく「王塚古墳」へ。今日2つのウォーキングで来たかったのはここ。ようやく着いた。
古墳そのものはビックリするほど大きいものではないが石室内の装飾に特徴がある。
 装飾古墳は主に5世紀~7世紀にかけて築造されるが、5世紀は熊本の宇土半島から八代平野にかけてが多い。それから徐々に北へと広がっている。模様も単純な線から複雑な線へ、抽象的なものから具象的なものへ、彩色も増えていき、ここ「王塚古墳」は赤・黄・緑・黒・白と国内最多の五色が使われている。装飾古墳の技術発展の頂点に立った古墳であろう。
 「王塚古墳」は6世紀中頃に築造されたと思われおり、歩いてきた所にもあったように周囲に古墳が多い。6世紀中頃といえば、日本書紀によると527年筑紫の君磐井の乱が起こっている。磐井の乱は528年筑紫国御井郡で最終決戦となり、大和王権の勝利で終結した。これだけの古墳を築いた、この地域の首長が磐井の乱でどのように動いたのだろうか。興味は尽きない。


(道沿いで)


(王塚古墳)


(王塚装飾古墳館)


(王塚装飾古墳館)


(王塚装飾古墳館発行
「コダイム王塚」より)

 今年は、正月熊本の井寺古墳に行き、筑後吉井駅ウォーキングでの日岡古墳・月岡古墳、熊本の装飾古墳見学に行ったりして、装飾古墳に縁がある。

 装飾古墳では高松塚古墳が全国的・一般的には有名だが、大陸の文化そのもので、描いた人達も大陸から来た人たちではなかろうか。それに比べ、熊本から福岡に展開する装飾古墳はこの地に縄文時代あるいはそれ以前から住んできた人たちの土着の文化ではないかと思う。桂川も縄文時代の遺跡があるようだ。

 王塚古墳の保護に尽くした人として、装飾古墳が多くある熊本県玉名出身の西村二馬さんが紹介されている。「石炭採掘をめぐり、連日のように業者が押し掛けて来た。」という。「古墳で飯が食えるか。」と罵倒され続けたのではなかろうか。それにも負けず守る人がいて、今、私たちは見ることが出来る。

 「王塚装飾古墳館」を見学し、いろんな思いをめぐらして、14時過ぎにゴール桂川駅へ。


(桂川駅)

 博多駅へ戻り、駅前広場であっていた「九州酒蔵びらき」でお酒を飲み、娘から「女性向けのお酒を」と注文され、一本買って後日渡すことにして帰路。

「博多」に会う【JR九州博多駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-8】

2016-03-28 | JR九州ウォーキング
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2016年3月27日(日)

MAP


(出発) 

 今日は、「博多駅」からのウォーキング。テーマは「春うららさくら舞う博多まち歩き」だ。
 九州初めての鉄道は明治22年12月11日、博多駅から久留米駅の手前「千歳川」という仮駅間を走った。1時間23分の汽車の旅であったという。鉄道が走った当初から博多駅は福岡市の玄関駅である。
 明治21年に「市制」が敷かれた時、市名を「福岡市」にするか「博多市」にするかでもめにもめたようだ。その時、鉄道の敷設計画があり、市名を「福岡」、駅名を「博多」とすることで決着がついた。裏話はいろいろあるようだが・・・。
 福岡市の中心部を流れる那珂川を挟んで東側が港を中心に貿易で栄えた「博多」の商人町で、江戸時代、黒田氏が藩主となり那珂川の西に福岡城を築き、城を中心にした武家の町が「福岡」。それで、今日のウォーキング「博多まち歩き」は那珂川の西側「福岡」は歩かない。

 8時20分頃、受付に着いたときはもう長蛇の列。受付の順番が来るまでに10分ほどかかってスタート。


(博多駅前広場)


(博多駅)

 中世の時代、「博多」は中国、朝鮮、東南アジアなどとの貿易で大いに栄えた。その航海の安全を守るのが「住吉神社」。今日は、住吉三日恵比寿神社の写真だけ撮って、本殿には行かなかった。


(住吉三日恵比寿神社)


(住吉神社で)
 
 先を急ぐ。


(キャナルシティ付近)


(地下鉄の工事中)


(うどん屋)

 7月の博多祇園山笠で有名な「櫛田神社」へ。山笠はテレビで全国中継されるほど有名になったが櫛田神社の氏子が中心になって行う祭り。「博多」の地域の人々が守り育てきた。7月15日の追い山では「博多」の街しか廻らない。


(櫛田神社)


(櫛田神社)


(櫛田神社)


(櫛田神社)


(櫛田神社)

 博多座、福岡アジア美術館の横を通り、博多川沿いを歩く。那珂川の中に夜の繁華街中洲があり、その向こうが「福岡」。中洲の東側を流れるのが博多川。西側は那珂川。中洲が終わったところで博多川は那珂川に合流する。


(福岡アジア美術館)


(ん)


(博多川沿いで)


(博多川沿いで)


(博多川沿いで)

 合流した後も、川沿いを歩いて、博多湾の「博多港」へ出る。「福岡港」は無い。博多湾のシンボルタワーは「博多ポートタワー」。展望台からは博多の街が見えるようだが(まだ一度も上ったことが無い)、今日はパス。


(博多湾で)


(博多湾で)


(博多ポートタワー)

 港には大型の客船が泊まっている。現在は大型の客船は1隻しか泊まれないので、2隻泊まれる埠頭にする計画があるようだ。


(停泊中の大型船)


(博多ポートタワー)


(博多ポートタワー)

 福岡サンパレス、福岡国際会議場の間を通って、「博多」の街の大通り「大博通り」を真っ直ぐに博多駅へ向かう。


(大博通りに出たところ)


(売り物件?)


(大博通り歩道)


(大博通り歩道)

 途中、真言宗の「南岳山東長寺」に寄る。お寺は、当初は海辺の地にあったが、福岡藩二代藩主によって現在地へと移った。東長寺は別地への再建であるが、「博多」には大きなお寺が多い。中世、博多が貿易で栄えた頃、お寺自身も貿易を行い、富を蓄えたものと思われる。お寺のお坊さんは当初は商人の貿易に通訳として参加していたが、徐々に自ら貿易をするようになったと、何かの本で読んだ記憶がある。


(東長寺)


(東長寺)


(東長寺)


(東長寺)


(商工会議所入口交差点)

 博多の街を歩いて、10時過ぎにゴール博多駅へ。
 今日の2つ目の福北ゆたか線「天道駅」へ急ぎ向かう。慌てて乗った列車が、途中の篠栗駅行きだった。篠栗駅で後続列車を待つ。


(篠栗駅)


(篠栗駅の桜は咲き始め)

「板碑」に会う【JR九州古賀駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-7】

2016-03-20 | JR九州ウォーキング
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2016年3月20日(日)

MAP

 古賀駅を9時50分過ぎにスタート。


(古賀駅)

 今回は前回参加と逆のコースを歩く。このコースの名物ヤギさんを撮ったりしながら進む。


(ヤギさん)


(地下道)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

 川岸に菜の花が咲き誇る大根川沿いに出ると、福岡県指定文化財の薬師如来像板碑がある。板碑(いたび)は「石で作られた卒塔婆(死者の供養塔や墓標)。鎌倉・室町時代、使者追善、生前の逆修(生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むこと)のために建立」するものであるが、ここの板碑は「言い伝えによれば、むかし筵内(むしろうち)に疫病が大流行し、これを封じるために三像を三個の平石に刻んで大根川(だいこんがわ)の岸に建てた。これが洪水に流され、後に現在地に移された薬師如来像板碑、熊野神社に現存する阿弥陀如来像板碑、磨滅して不明の像(千手観音像)が、その三基と思われる。」と説明板にある。


(大根川沿い)


(大根川沿い)


(大根川沿い)


(大根川沿い)


(薬師如来像板碑)

 大根川沿いを離れ、弘法大師像、須賀神社、谿雲寺と歩み、熊野神社の階段へ。250段の石段を上る。上ったところに阿弥陀如来像板碑がある。「建長七年乙卯二月一五日西暦1255年彼岸中」銘があるそうで、筵内にある三個の板碑はそのころの作とおもわれている。また、本殿の裏には木造阿弥陀如来坐像が安置されており、神仏習合の名残を感じさせる神社であった。


(萬徳地蔵)


(道沿いで)


(弘法大師像)


(須賀神社)


(谿雲寺)


(道沿いで)


(熊野神社)


(熊野神社)


(熊野神社)


(熊野神社阿弥陀如来像板碑)


(熊野神社)


(熊野神社)


(熊野神社阿弥陀如来坐像)

 階段を下って、「なの花祭り」会場へ向かう。出店やユーモラスな踊りなどで盛り上がっている。なの花の絨毯の中を写真を撮って廻って、何も食べないまま進む。


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場)


(菜の花まつり会場で)


 「九本柿庵」という古民家ギャラリー(?)に立ち寄り庭で写真を撮る。


(九本柿庵)


(九本柿庵)


(九本柿庵)

 丁度お昼頃、菜の花通りの角に「三洋軒」というラーメン屋さんがあったので入ることに。運よく一人席が空いていてすぐに座れた。そして久しぶりにラーメン完食。チャーシューが美味しかった。


(三洋軒)

 後は、ひたすら歩いてゴール古賀駅へ。12時40分頃到着。


(道沿いで)


(道沿いで)


(古賀駅)

 2週間ぶりのJR九州ウォーキングだったが、天気も良かったし、春を感じながらフォト・ウォークができた。心地よく博多駅方面行の快速列車に乗り、新幹線車内でビール。

「瑞鷹新酒」に会う【JR九州川尻駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-6】

2016-03-07 | JR九州ウォーキング
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2016年3月6日(日)

MAP

 前日からの天気予報では午前中3~4ミリの雨。空模様は曇りだが、シューズとカメラは雨仕様で自宅を出る。8時26分に川尻駅に着く。天気予報のせいか例年よりはこの時間にスタートする参加者が少ない感じがする。


(川尻駅)

 いつものように川尻神宮へ。川尻神宮は「若宮さん」とも呼ばれている。近世以前は「若宮五社大明神」と称していたのが起源のようだ。五社とは主祭神の鶴岡八幡宮大神、相殿神の伊勢の神宮、大阪の住吉大社、奈良の春日大社、熊本の阿蘇神社のこと。


(川尻神宮)


(川尻神宮)


(川尻神宮)

 本殿の裏手のお稲荷さんが祀ってある場所には梅の木があるが、今年は咲いていなかった。昨年はお稲荷さんにお参りする人も多かったけど、今年は見なかった。裏手なので誰かが行けばつられていく人も多いが、誰も行く人がいないと続く人がいない。今年は雨の予報で急ぎ足の人が多かったのかも知れない。


(川尻神宮)


(川尻神宮)

 川尻神宮を後にしてしばらくは歩き続ける。何もないところだが、いつも花の写真を撮っている所が何カ所かある。今年はほとんどのところであまり花を見なかった。


(道沿いで)

 左へ曲がるところの角には、「川尻電車終点跡」の碑がある。今、歩いてきた道は電車が走っていた時代があったが昭和40年に廃止されている。辛島町からここ川尻まで電車は走っていた。小学校低学年の時に川尻電車で遠足に来たような記憶がある。


(川尻電車終点跡の碑)

 この角から路地を入ったところに「鍛冶発祥地の碑」がある。川尻は刃物で有名で川尻駅前の大通りには刃物屋が数件点在している。説明板には「今から五百数十年前の室町時代の終わり頃、薩摩の国の刀鍛冶波平行安が刀作りに必要な良質な水を求めて川尻の横町に移り住み鍛冶を始めたそれから横町には多くの鍛冶職人が住み通称「鍛冶屋町」と呼ばれるようになった」とある。ここでは満開であれば紅白の梅が綺麗に咲き競うが今年は残念である。


(鍛冶発祥地の碑)


(紅梅の梅咲いてなかった)

 コースに戻り、「延寿寺」へ。延寿寺は西南戦争の熊本城攻防、田原坂の戦いなどで負傷した薩摩軍の兵士を収容した。「川尻町は薩軍の大本営が設けられ、(延寿寺も一時大本営となる。)衛病院が置かれた。薩軍は各寺院に戦死者の仮埋葬を願い出たが後難を恐れて引き受けようとする寺院がない時、当時二十八歳の傅弘應は進んで引き受け、戦後どのようなお咎めがあろうとも死を覚悟して言い開きをしようと決心し、寺領の一部を提供し、戦死者の月日、場所、姓名を記録して埋葬し読経回向を行った者が八百五十三名に及ぶ (延寿寺ホームページより) 」、その後遺骨は郷里に持ち帰られ、境内には「西南役薩軍戦歿者墓碑」が建立されている。
 延寿寺の境内には花も多い。毎年、その花々を撮るのを楽しみにしているウォーカーも多い。今年はここも少し残念な咲き具合である。


(法宣寺)


(延寿寺)


(延寿寺)


(延寿寺)


(延寿寺)


(西南役薩軍戦歿者墓碑)

 加勢川に出て加勢川橋を渡り、曹洞宗大本山永平寺直末寺で四門首のひとつで弘安元(1278)年創建の「大慈禅寺」へ向かう。川尻電車で遠足に来た時にここにも来た。道順で裏庭から入ると「臥竜ヶ池」が迎えてくける。法堂の前には梅の木があって、満開ではなかったがウォーキング参加者の目を楽しませてくれた。境内にある梵鐘は弘安10年の銘があり国指定重要文化財に指定されている。種田山頭火の句碑「まったく雲がない笠をぬぎ」もある。句碑の裏には「當十三回忌友人建立」とある。山頭火が亡くなったのは昭和15(1940)年。


(加勢川)


(加勢川橋から)


(大慈禅寺臥竜ヶ池)


(大慈禅寺法堂)


(大慈禅寺)


(大慈禅寺)


(大慈禅寺)


(大慈禅寺)


(大慈禅寺)


(大慈禅寺梵鐘)


(種田山頭火の句碑)


 表の山門を出たところに「山門不許酒肉五辛」の石碑があった。さて、これから「酒蔵びらき」に向かおう。


(山門不許酒肉五辛の石碑)

 加勢川沿いを歩いく。どうやら雨は降らないですみそうな天気になってきた。いつもだが菜の花が咲いている川沿いを歩くのは気持ちがいい。新町橋を渡って、なお加勢川沿いを歩いて、川尻船着場へ。熊本市から宇土半島にかけての地で獲れたお米は川尻に集積されこの港から大阪方面へ運ばれていた。


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(加勢川沿い)


(川尻船着き場)

 川尻の町並みを通って、「瑞鷹酒造資料館」へ。「熊本県酒造研究所」の発足経緯などもわかり、興味ひく展示がたくさんある。ホームページには現在一般公開していない、とあるのでこの日だけ見学できたのかも知れない。


(川尻公会堂)


(薩摩軍本営跡)


(お風呂屋さん)


(瑞鷹酒造資料館)


(瑞鷹酒造資料館)


(瑞鷹酒造資料館)


(瑞鷹酒造資料館)


(瑞鷹酒造資料館)

 酒造りの勉強をした後は、「瑞鷹」の新酒がいただける「川尻の酒蔵まつり」会場へ。11時が開門だが、それよりも早く開いたようである。先に入っていたウォーキング仲間の人たちと会い早速乾杯。最初の一杯は無料で、二杯目からは200円。仲間の皆さんには、早くから並んで場所確保して貰ったり、朝早くから起きて、から揚げ、おにぎり、天ぷらなどとなどの準備もしていただいた。釣った魚のお刺身を差し入れした仲間も。贅沢なおつまみでお酒も進む。各地から次々とウォーキング仲間が集まって今年も賑やかな宴会になった。


(酒蔵まつり会場)


(酒蔵まつり会場)


(酒蔵まつり会場)


(酒蔵まつり会場)


(酒蔵まつり会場)

 宴もたけなわになつて、酒の神様が天気予報を外し、青空を招いた。


(酒蔵まつり会場)

 今年は、敷物に坐って飲むのは禁止になったので、テーブルで飲むことに。テーブルでは他のお客さんたちとも自然と話を交わすようになる。柳川出身という女性ともお話しした。柳川藩立花氏は関ヶ原の戦いで西軍に参加したため所領を没収され、流浪の身となったが、加藤清正は立花氏の家臣団を肥後国領内に住まわせた。熊本市中央区京町の一角で、柳川小路(やながわしゅうじ)と呼ばれていた。今では「京町柳川」バス停にその名残がある。酔っていたので正確な話はしていないと思うけど、そういった話などで盛り上がった。
 
 三々五々皆さんそれぞれ帰路について、最後になってしまった。15時のゴール受付終了間際に川尻駅へ。
 その前に、川尻と言えば和菓子の町。開懐世利六菓匠(かわせりろっかしょう) を結成し、和菓子による町おこしをしている。今年は「もなか」を買って帰った。毎年の事だが酔っているので店の名前は覚えていない。


(川尻駅へ)

 翌日の地元の熊本日々新聞では、酒蔵まつりの参加者数は7200人と報道されていた。「瑞鷹」という一蔵元の酒蔵開きなのだが、「川尻の酒蔵まつり」という町をあげてのまつりになっているのも人が集まる要因かも知れない。


(新聞報道)

「佐賀牛極上カルビ焼肉弁当」に会う【JR九州武雄温泉駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-5】

2016-03-01 | JR九州ウォーキング
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2016年2月27日(土)

 コースMAP

 鹿児島本線鳥栖駅で長崎行特急「しろいかもめ」に乗り換え、肥前山口駅で佐世保行普通列車に乗り換えて武雄温泉駅に着いたのは始発駅から3時間以上経っていた。

 10時20分過ぎ駅南口からスタート。武雄市立図書館、競輪場を通り過ぎ、1942年中国子女の留学施設として佐賀市出身の実業家野中忠太が開設した「如蘭塾(じょらんじゅく)」へ。たくさんあった梅の木は花が咲き始めた頃で残念だったが、いただいたレモングラスティーはお口の中が気持ちよくなる感じで美味しかった。


(武雄温泉駅南口)


(御船山)




(武雄市立図書館)


(如蘭塾)


(如蘭塾)


(如蘭塾)


(如蘭塾)


(如蘭塾)


(如蘭塾)

 後にして、御船山の麓に拡がる御船が丘梅林へ。ここも満開にはも少し暖かい日がいるようだ。


(御船が丘梅林)


(御船が丘梅林)


(御船が丘梅林)


(御船が丘梅林)


(御船が丘梅林)


(道沿いで)


(道沿いで)


(保育園)

 武雄神社に着くと入口に池があって、「心」という文字の草書体の形をした「心字の池」とある。全体像は写真に撮れなかった。先週訪れた大分県日出町の松屋寺にも「心字池」があった。


(武雄神社)


(武雄神社)


(武雄神社)

 武雄神社は樹齢三千年のご神木を祀る神社としても有名で、ご神木は本殿の裏手を少し歩いて行くと、鬱蒼とした中に空間が広がっている所に堂々と立っている。樹根の部分は広さ12畳で天神様が祀られている。平成元年の調査によると全国6位の巨木という。


(武雄神社神木)


(武雄神社神木)


(武雄神社夫婦檜)

 佐賀県の神社に行くと気になるのが鳥居。柱がスマートでないというか堂々としているというか「違うなぁ。」という思いを佐賀に行くたびにしていた。知人に教えていただいたが「肥前鳥居」というそうだ。神社の鳥居に地域性があって名もついているとは不思議な気もする。神社は八幡、天神、春日など神社によって違うとばかり思っていた。

 話は飛ぶが、「肥前」は現在の佐賀県・長崎県で「肥後」は熊本県。「豊」の国は豊前・豊後、「筑紫」の国は筑前・筑後と地続きで分かれている。「肥」の国は肥前・肥後に分かれているが地続きではないこれも不思議だ。

 線路の下を通り、武雄温泉へ向かう。武雄温泉は1300年以前に書かれた「肥前風土記」記された温泉で、設計したは東京駅を設計した辰野金吾で、国の重要文化財に指定されている。文禄・慶長の役のでは、朝鮮出兵で名護屋城に集められた兵士が武雄温泉を訪れている。それらの兵士に対し、他の入浴客に迷惑をかけないこと、宿賃をはらうこと、屋敷の木など伐採しないことなど、豊臣秀吉が示した「入浴心得」の朱印状が残されている。


(道沿いで)


(鷺田神社)


(武雄温泉街)


(武雄温泉楼門)


(武雄温泉新館)


(豊臣秀吉朱印状)


(武雄温泉新館内)

 温泉には入らず、先を急ぐことに。長崎街道を歩いていると、「諏訪神社」があった。マップには書かれていなかったけどちょつと寄り道。社殿の裏に小高いところがあったので上ったら、広場があって仏像が置いてある。熊本駅コースで池上日吉神社でも社殿の裏に仏像が置かれていた。神仏習合時代の名残であろう。


(宮野町夢本陣)


(道沿いで)


(道沿いで)


(諏訪神社)


(諏訪神社)


(諏訪神社)


(諏訪神社)


(諏訪神社)


(諏訪神社)

 しばらく歩いていると高橋恵比寿神社に着いた。こんなところにと思っていたら表通りに出て、「高橋宿」のバス停があった。ここは宿場町だったところのようで恵比寿神社があるのにも納得である。


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(高橋恵比須神社)


(高橋恵比須神社)


(高橋宿)

 後は駅に向かうのみ、と思って線路沿いを歩いていたら、矢印が。線路から離れて川まで行き、川沿いを歩いて、川から離れたところに「武雄温泉物産館」があって、そこへ寄るコースになっていた。物産館を後にして線路沿いの道まで急ぐ。角にあった「宮地ハム」で粗挽きウインナーを買って、13時50分頃ゴール武雄温泉駅北口へ。


(道沿いで)


(道沿いで)


(武雄温泉駅北口)

 スタンプを押してもらって、直ぐに駅構内にあるカイロ堂へ。2014年九州駅弁グランプリ優勝の「佐賀牛極上カルビ焼肉弁当」。謳い文句は『A5等級の佐賀牛を当店自慢の自家製ダレで味付けした焼肉と一頭から少量しか取れない部位「三角」をカルビにして乗せました。佐賀牛の旨味を堪能できるお弁当』 (カイロ堂ホームページより) 1,620円。残っているかどうかスタートしてからずーっと気になっていた弁当。多分お昼最後の一つだったのだろう、陳列棚に一つだけ残っていた。2012年、2013年優勝の「佐賀牛すき焼き弁当」は残っていなかった。
 お店で温めて貰って食べた。温め方も上手だったんだろう。カルビも柔らかく味もしっかりしていて、もう美味しくて。以前は買ってそのまま外で食べたけど、温めたのを食べたら美味しさも倍増した感じがする。今日はこれを食べる楽しみで歩いてきた。時間的になかば諦めていたが、ありつけるとは。


(極上カルビ焼肉弁当)

 前後したけど、その後KIOSKでビール。特急「ハウステンボス号」で鳥栖まで。乗り換えて鹿児島本線で帰路した。


(締めの一杯)