【写真はクリックすると拡大します】
2016年3月27日(日)
MAP
11時過ぎに天道駅に到着。
(天道駅)
「天道(てんとう)」は国語辞書では「太陽」など、漢和辞典では「天の意志」などが意味として乗っている。「おてんとうさま」に漢字があること、そしてこの字であるのをこの年になって初めて知った。
線路を渡って、大将陣公園の階段を上る。日当たりのよい木や枝の桜は咲いているが、満開まではまだまだといった感じの桜並木を歩いて、さくら祭り会場へ。出店もあって賑やかであったが、寄らずに先を急ぐことにした。
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
しばらくは、田園地帯を歩く。被写体はないかとキョロキョロしながら。お腹も空いてきて、祭り会場で食事すれば良かったかな、と少し反省もしながら、歩く。
(桂川町総合グランド)
(道沿いで)
(道沿いで)
(道沿いで)
(道沿いで)
(道沿いで)
丁度お昼頃、「けいせんとれたて村農産物直売所」に着いたら、から揚げと混ぜご飯が何個か残っていた。迷わず買って、椅子を持って行って、建物の外で食べる。ウォーキングの時、お店でその土地の美味しいものを食べる楽しみもあるけど、こうやって食べるのも美味しい。
(一つ200円)
そこの横の信号を渡ったところ桂川町住民センター「ふれあい広場」で王塚古墳などのパンフレットもいただき、コーヒーをご馳走になる。
(ふれあい広場)
(ふれあい広場)
さて、今日の目的地まであと少し。急ごう。
(道沿いで)
(道沿いで)
その前に、天神山古墳へ。内部の調査がされていないので詳細は不明とのこと。墳丘の一部が削られ豆田天満宮の社殿が建てられている。古墳に神社を建ててあるのはこれまでのウォーキングでもいくつかあった。
(天神山古墳)
(豆田天満宮)
(豆田天満宮)
(豆田天満宮)
線路を渡って、寿命公園の丘陵を上る。「この丘陵には金比羅古墳・大平古墳・宮の上古墳などの前方後円墳のほか、茶臼山古墳をはじめとする円墳が19基所在する大規模な古墳群があります。」と説明書きがあったが、実感することはできなかった。
公園丘陵の上り口の「寿命古墳こうえん」と書いた板の案内版に「昭和52年3月完工福岡県失業対策事業」と書かれていて、炭鉱事業の盛衰を感じずにはおれなかった。
(曲がり角)
(寿命公園)
(寿命公園)
(寿命公園から)
(寿命公園から)
(寿命公園)
下ってしばらく歩いて、ようやく「王塚古墳」へ。今日2つのウォーキングで来たかったのはここ。ようやく着いた。
古墳そのものはビックリするほど大きいものではないが石室内の装飾に特徴がある。
装飾古墳は主に5世紀~7世紀にかけて築造されるが、5世紀は熊本の宇土半島から八代平野にかけてが多い。それから徐々に北へと広がっている。模様も単純な線から複雑な線へ、抽象的なものから具象的なものへ、彩色も増えていき、ここ「王塚古墳」は赤・黄・緑・黒・白と国内最多の五色が使われている。装飾古墳の技術発展の頂点に立った古墳であろう。
「王塚古墳」は6世紀中頃に築造されたと思われおり、歩いてきた所にもあったように周囲に古墳が多い。6世紀中頃といえば、日本書紀によると527年筑紫の君磐井の乱が起こっている。磐井の乱は528年筑紫国御井郡で最終決戦となり、大和王権の勝利で終結した。これだけの古墳を築いた、この地域の首長が磐井の乱でどのように動いたのだろうか。興味は尽きない。
(道沿いで)
(王塚古墳)
(王塚装飾古墳館)
(王塚装飾古墳館)
(王塚装飾古墳館発行
「コダイム王塚」より)
今年は、正月熊本の井寺古墳に行き、筑後吉井駅ウォーキングでの日岡古墳・月岡古墳、熊本の装飾古墳見学に行ったりして、装飾古墳に縁がある。
装飾古墳では高松塚古墳が全国的・一般的には有名だが、大陸の文化そのもので、描いた人達も大陸から来た人たちではなかろうか。それに比べ、熊本から福岡に展開する装飾古墳はこの地に縄文時代あるいはそれ以前から住んできた人たちの土着の文化ではないかと思う。桂川も縄文時代の遺跡があるようだ。
王塚古墳の保護に尽くした人として、装飾古墳が多くある熊本県玉名出身の西村二馬さんが紹介されている。「石炭採掘をめぐり、連日のように業者が押し掛けて来た。」という。「古墳で飯が食えるか。」と罵倒され続けたのではなかろうか。それにも負けず守る人がいて、今、私たちは見ることが出来る。
「王塚装飾古墳館」を見学し、いろんな思いをめぐらして、14時過ぎにゴール桂川駅へ。
(桂川駅)
博多駅へ戻り、駅前広場であっていた「九州酒蔵びらき」でお酒を飲み、娘から「女性向けのお酒を」と注文され、一本買って後日渡すことにして帰路。
2016年3月27日(日)
MAP
11時過ぎに天道駅に到着。
(天道駅)
「天道(てんとう)」は国語辞書では「太陽」など、漢和辞典では「天の意志」などが意味として乗っている。「おてんとうさま」に漢字があること、そしてこの字であるのをこの年になって初めて知った。
線路を渡って、大将陣公園の階段を上る。日当たりのよい木や枝の桜は咲いているが、満開まではまだまだといった感じの桜並木を歩いて、さくら祭り会場へ。出店もあって賑やかであったが、寄らずに先を急ぐことにした。
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
(大将陣公園)
しばらくは、田園地帯を歩く。被写体はないかとキョロキョロしながら。お腹も空いてきて、祭り会場で食事すれば良かったかな、と少し反省もしながら、歩く。
(桂川町総合グランド)
(道沿いで)
(道沿いで)
(道沿いで)
(道沿いで)
(道沿いで)
丁度お昼頃、「けいせんとれたて村農産物直売所」に着いたら、から揚げと混ぜご飯が何個か残っていた。迷わず買って、椅子を持って行って、建物の外で食べる。ウォーキングの時、お店でその土地の美味しいものを食べる楽しみもあるけど、こうやって食べるのも美味しい。
(一つ200円)
そこの横の信号を渡ったところ桂川町住民センター「ふれあい広場」で王塚古墳などのパンフレットもいただき、コーヒーをご馳走になる。
(ふれあい広場)
(ふれあい広場)
さて、今日の目的地まであと少し。急ごう。
(道沿いで)
(道沿いで)
その前に、天神山古墳へ。内部の調査がされていないので詳細は不明とのこと。墳丘の一部が削られ豆田天満宮の社殿が建てられている。古墳に神社を建ててあるのはこれまでのウォーキングでもいくつかあった。
(天神山古墳)
(豆田天満宮)
(豆田天満宮)
(豆田天満宮)
線路を渡って、寿命公園の丘陵を上る。「この丘陵には金比羅古墳・大平古墳・宮の上古墳などの前方後円墳のほか、茶臼山古墳をはじめとする円墳が19基所在する大規模な古墳群があります。」と説明書きがあったが、実感することはできなかった。
公園丘陵の上り口の「寿命古墳こうえん」と書いた板の案内版に「昭和52年3月完工福岡県失業対策事業」と書かれていて、炭鉱事業の盛衰を感じずにはおれなかった。
(曲がり角)
(寿命公園)
(寿命公園)
(寿命公園から)
(寿命公園から)
(寿命公園)
下ってしばらく歩いて、ようやく「王塚古墳」へ。今日2つのウォーキングで来たかったのはここ。ようやく着いた。
古墳そのものはビックリするほど大きいものではないが石室内の装飾に特徴がある。
装飾古墳は主に5世紀~7世紀にかけて築造されるが、5世紀は熊本の宇土半島から八代平野にかけてが多い。それから徐々に北へと広がっている。模様も単純な線から複雑な線へ、抽象的なものから具象的なものへ、彩色も増えていき、ここ「王塚古墳」は赤・黄・緑・黒・白と国内最多の五色が使われている。装飾古墳の技術発展の頂点に立った古墳であろう。
「王塚古墳」は6世紀中頃に築造されたと思われおり、歩いてきた所にもあったように周囲に古墳が多い。6世紀中頃といえば、日本書紀によると527年筑紫の君磐井の乱が起こっている。磐井の乱は528年筑紫国御井郡で最終決戦となり、大和王権の勝利で終結した。これだけの古墳を築いた、この地域の首長が磐井の乱でどのように動いたのだろうか。興味は尽きない。
(道沿いで)
(王塚古墳)
(王塚装飾古墳館)
(王塚装飾古墳館)
(王塚装飾古墳館発行
「コダイム王塚」より)
今年は、正月熊本の井寺古墳に行き、筑後吉井駅ウォーキングでの日岡古墳・月岡古墳、熊本の装飾古墳見学に行ったりして、装飾古墳に縁がある。
装飾古墳では高松塚古墳が全国的・一般的には有名だが、大陸の文化そのもので、描いた人達も大陸から来た人たちではなかろうか。それに比べ、熊本から福岡に展開する装飾古墳はこの地に縄文時代あるいはそれ以前から住んできた人たちの土着の文化ではないかと思う。桂川も縄文時代の遺跡があるようだ。
王塚古墳の保護に尽くした人として、装飾古墳が多くある熊本県玉名出身の西村二馬さんが紹介されている。「石炭採掘をめぐり、連日のように業者が押し掛けて来た。」という。「古墳で飯が食えるか。」と罵倒され続けたのではなかろうか。それにも負けず守る人がいて、今、私たちは見ることが出来る。
「王塚装飾古墳館」を見学し、いろんな思いをめぐらして、14時過ぎにゴール桂川駅へ。
(桂川駅)
博多駅へ戻り、駅前広場であっていた「九州酒蔵びらき」でお酒を飲み、娘から「女性向けのお酒を」と注文され、一本買って後日渡すことにして帰路。