鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

駅から始まるいつでも散策⑥-新水前寺駅

2018-06-18 | ウォーキング
2018年6月2日(土)


(今日のマップ)

 JR九州鉄道営業㈱が開催する「駅から始まるいつでも散策」。新水前寺駅(熊本県・豊肥本線)へ。

 JR豊肥本線は、2016(平成28)年の熊本地震で被災し、肥後大津駅―阿蘇駅間の約27キロが現在も不通になっている。不通区間全体で被害があった約50カ所のうち、復旧工事に着手したのは22カ所。比較的工事が容易な肥後大津―立野間(約10キロ)で復旧工事が優先的に進められいるが、いつから再開できるかの目途は立っていない。


(新水前寺駅。行先案内の内容が全面復旧するのをくまモンも待っている。)

 さあ、Start。駅員さんに「行ってくるね。」


(新水前寺駅)

 改札口から直ぐの階段を下り、「新水前寺駅前電停」を左手に電車通り沿いを水前寺方面へと歩く。

 「新水前寺駅前電停」の次、「国府電停」のところには障害者が働くパン屋さんがある。


(国府電停のところにある障害者が働くパン屋さん)

「国府電停」の次は「水前寺公園電停」。電停がある四つ角を右へ曲がる。


(水前寺公園電停)

 しばらく歩くと、右手に「熊本出水郵便局」が見える。


(熊野宮)


(道沿いで)


(熊本出水郵便局)

 熊本出水郵便局のすぐ先の信号を左に曲がる。


(信号を左に曲がる)

 少し歩くと、左手に江津湖が見える。象さんのプールも見える。ここから下りて遊歩道へ。


(江津湖が見える)

 遊歩道を歩く。


(遊歩道)


(遊歩道で)

 遊歩道から道路へ出ると、屋形船やボートのお店がある。


(えとうボートハウス)

 通り越すと、駐車場。


(公営の駐車場)


(注意書き)

 ここから、対岸へと二つの島と三つの橋を渡る。


(中の島一号橋)


(ボート乗り場)


(中の島二号橋から)


(中の島三号橋)

 橋を渡り終えて金峰山を眺める。


(金峰山)

 歩いてきた遊歩道の対岸の道に出るので、左に曲がる。


(水量が少ない)

 木陰で休憩するもよし。


(休憩所)

 すぐ横には「水前寺海苔発生地」の紹介がしてある。
 『水前寺成趣園の湧水は、水前寺川を経て上江津湖に流入するが、この水域に自生する茶褐色で不定形の藍藻がスイゼンジノリである。明治5年(1872年)オランダの植物学者スリンガーによって初めて世界に紹介された。』(紹介板より)
 江戸時代は肥後藩の献上品の一つにもなっていたと記されている。

 1924(大正13)年、国指定天然記念物になっている。


(水前寺海苔発生地)


(水前寺海苔発生地のところ)


(国指定天然記念物の碑などが建っている。)

 対岸に見えるは、先ほど歩いた遊歩道。


(対岸の遊歩道)


(チョウチョもいた)

 少し歩くと象さんの滑り台があるプール。熊本出水郵便局先の信号を左に曲がって、江津湖の遊歩道に下りたところからもこの象さんが見えた。
 ずいぶん前だけど、テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」で紹介された。

 夏は、子供たちが水遊びしてはしゃいでいる。


(象さんプール(正式な名前は知らない))

 象さんプール内も、その周りからも水が湧き出している。水は江津湖へと流れて行く。


(プールからは勢いよく水が流れていた。)

 象さんプール辺りは、水の綺麗さが実感できる。


(ホタルも見れる)


(ホタルも見れる)


(透き通っている)

 橋を渡ると芭蕉園。
 芭蕉園には、中村汀女や夏目漱石の句碑もあるけど、写真無しですみません。


(橋を渡る。この辺りは少し大きい子供たちの水遊び場。)


(芭蕉園)


(水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)の方から流れてくる)

 芭蕉園の横には熊本県立図書館と細川家の砂取邸の庭園がある。


(熊本県立図書館と細川家の砂取邸の庭園)

 コースから少し外れるけど、県立図書館へ上る。


(県立図書館へ)

 「星の王子さま」の訳者、内藤濯(ないとう あろう)の文学碑がある。内藤濯は熊本市出身。


(内藤濯の文学碑)


(熊本県立図書館)

 くまもと文学・歴史館が熊本県立図書館に併設されている。
 小泉八雲、種田山頭火、石牟礼道子など熊本出身やゆかりの文学者が紹介されている。
 歴史的な文書類も企画展示されているが、この日は、企画展示室では何もあってなかった。


(くまもと文学・歴史館)

 くまもと文学・歴史館の左手から階段を下り、コースに戻る。


(5枚上の写真、水前寺成趣園の方から流れてくる水辺に出る)

 うなぎの「東濱屋」の玄関前の歩道を横断し、橋を渡る。


(橋の上から)


(アップ)

 橋を渡ってすぐに、水前寺児童公園に入る。


(水前寺児童公園入口)


(水前寺児童公園)


(水前寺児童公園のプール。夏は子供たちの歓声が響く)

 児童公園を出て、「水前寺公園電停」の一つ隣、「市立体育館前電停」にある歩道を渡る。


(市立体育館前電停)

 渡った所も公園。


(水前寺江津湖公園水前寺地区)

 歩道を渡って、右へ歩き、消防署の角から左へ曲がる。
 しばらく歩くと、臨時にしか使われない水前寺成趣園の入口に突き当たる。
 右へ曲がる。
 少し歩くと、夏目漱石旧居がある。


(突き当たって右へ)


(夏目漱石旧居。新屋敷にあった第三の家を移転)

 熊本洋学校教師館ジェーンズ邸は、熊本地震で倒壊し、今は片づけられている。


(ジェーンズ邸が建っていたところ)

 何度も来たところなので、すぐに後にする。
 水前寺成趣園裏沿いの狭い道を通る。
 以前は、もっと狭かったけど、少し広くなっている。

 狭い道を出たところで、左折。
 少し歩くと、駐車場のところに水前寺成趣園の北門入口がある。そこから入園。
 水前寺成趣園内を散策。
 のんびりと、と思うけど、暑い。お昼頃でお腹も空いてきた。
 さっさと歩く。


(北門入口の案内)

 古今伝授の間(こきんでんじゅのま)は、細川家の初代・細川幽斎が、後陽成天皇の弟君八条宮智仁親王に古今和歌集の奥儀を伝授した場所であることから、この名前がついている。大正元年(1912年)に京都から移築されている。
 
 数年前だか、古今伝授の間で将棋の大きな対局があっていて、羽生さんを見かけたことがある。


(古今伝授の間)


(園内で)

 園の北側には細川家の歴代がまつられる出水神社もある。


(出水神社)

 水前寺成趣園は桃山式の回遊庭園。


(公園の正面入口から入ったところ)

 公園を出て、参道の土産物屋さんで、いきなり団子をいただいた。1個110円。お茶も出してくれる。熊本の「いきなり団子」は、テレビ番組「秘密のケンミンSHOW」でも数か月前に紹介されていた。


(参道の土産物屋)

 真っ直ぐ歩いて、電車通りに出る。


(電車通りから水前寺公園に行く案内)

 熊本市電。運が良ければ、ななつ星をデザインした水戸岡悦治デザインの超低床電車「COCORO」にも会える。


(「国分電停」の熊本市電)

 「国分電停」を過ぎて、「新水前寺駅前電停」に着いた。
 JR新水前寺駅は高架駅。熊本市電の電停とJR九州の駅が雨に濡れずに繋がっているのは熊本駅とここだけ。


(新水前寺駅前電停。左上がJR九州新水前寺駅)

 新水前寺駅にゴール。


(新水前寺駅)

 暑い日だったけど、午前中だったのと、水辺を歩いたので気持ち良かった。

 江津湖は上江津湖と下江津湖の2つが連なっている。コースで歩くのは、上江津湖の半分強。江津湖全体の3分の1弱位しか歩いていない気がする。少し消化不良の感がある。
 

 ◇「駅から始まるいつでも散策」の詳細はJR九州鉄道営業㈱のホームページ、駅におかれているパンフレットを見て下さい。

「上野原遺跡(上野原縄文の森)」へ行った。【縄文を学ぶ-3】

2018-06-13 | 縄文を学ぶ
 2018年5月4日(木)

 約9,500年前に「ムラ」がつくられた上野原遺跡へ行くには、鹿児島中央駅から宮崎方面への列車で、右手に鹿児島湾と雄大な姿を見せる桜島を眺めながら、9つ目の国分駅で降りる。

 でも、この日は、熊本から「いさぶろう・しんぺい」に乗り、肥薩線の人吉駅経由で吉松へ。吉松から「はやとの風」に乗り換え、隼人駅へ。国分駅は隼人駅の一つとなり駅。

 上野原遺跡は鹿児島県霧島市東部の標高約250mの台地上にある。国分駅から公共交通機関は無い。タクシーで約20分。料金は3,000円程。

 「歩いたら何時間ぐらいですかねー。」とタクシーの運転手さんに聞いたら、「さあー。歩くの好きなんですか。」と呆れた口調で答えられた。しばらく行くと、高台が見えて、あの一番上ですよ。」と強く教えていただいた。

 「帰りは歩こうかな。」などと話していたら、タクシーを降りる時、「帰りは電話してください。」と名刺を渡された。帰りのお客さんというより無茶な事はしないようにと心配の方があったかも知れない。

 上野原遺跡は、テクノパーク建設のため造成する際の発掘調査で、次々と新発見が相次いで、現在では約38ヘクタールが「上野原縄文の森」として整備されている。


(上野原縄文の森展示館)


(縄文の森内のウォーキングマップ)


(縄文時代はこんな森が拡がっていたのでしょうか)

 縄文時代は、[草創期]【早期】[前期][中期][後期][晩期]と区分されているが、上野原遺跡は早期前葉から中葉の日本列島で代表的な縄文遺跡になる。

 現在、国指定史跡にあたる地域で、竪穴住居52軒、集石遺構39基、連穴土坑16基などが発掘されている。


(発掘現場の案内板)

 竪穴住居は、地面を直接掘りくぼめて床とし、そこへ屋根をかけた半地下式の住居。

 竪穴住居などは、約1万1,500年前のさつま火山灰の上に建てられている。そして、52軒のうち10軒には、約9,500年前の桜島噴出の火山灰が積もっていた。

 【縄文を学ぶ-1】で紹介している掃除山古墳は、約1万1,500年前のさつま火山灰の下から発掘されている。

 52軒は、住居が重なり合っていることや,埋まり方に違いがみられることから,建てられた時期に差があり,ムラは長期間にわたって営まれていたと考えられている。火山灰などから一つの時期には8軒から10軒程度の「ムラ」があったのではないかと推測されている。

 縄文時代の特徴として「定住化」があげられるが、上野原遺跡は定住化初期の集落「ムラ」といえるだろう。


(復元された「ムラ」)

 縄文時代の住居は、発掘された地面から、掘られた床面の広さ、柱の位置などはわかるが、その上にどのような建物が建っていたかはわかっていない。復元されている住居の上屋は想像されたものでしかない。上野原遺跡では、ドーム状に復元されている。


(堅穴住居)

 住居の大きさは最大で16平方メートル、最少で3平方メートル、5~10平方メートルが34軒。中で生活するという程の広さではない。火を焚いた形跡は残っていない。

 復元された住居に入ったが、中は狭い。外の広々としたところにいた方が気持ち良い。縄文の人たちも、住居の中での生活は、夜寝る時とか限定されていたのではなかろうか。


(堅穴住居内部)

 定住生活は、縄文の人たちが周囲の人たちと「話し」をするという楽しみを覚えさせたと思う。外で、隣近所の人たちと狩りなどの自慢話やらをしていたかもしれない。夜、遅くまで。

 「話し」の中で新しい「言葉」も生まれたであろう。

 現代、若者が新しい言葉を作りだすと年配者は「言葉の乱れ」などとぼやくが、縄文時代はどうだっただろう。

 発掘された跡は埋められているが、「遺跡保存館」では、発掘されたままの状態を見ることが出来る。

 住居の側には、連穴土坑、集石遺構が作られている。

 集石遺構は、石をたくさん集めて焼き、その中に葉でつつんだ肉などを入れ、石蒸し料理をした施設と考えられている。

 連穴土坑は、大小二つの穴をトンネルでつなぎ、小さな穴に肉などをつるし、大きな穴で火をたいて、くん製料理した施設と考えられている。

 蒸し料理やくん製は縄文時代の始めからあった。


(遺跡保存館内部)


(遺跡保存館内部)

 「地層観察館」では、上野原遺跡の地層が、そのまま見られるようになっている。約9500年前とそれ前後の地層もはっきりと見られる。


(「地層観察館」で地層。⑦が約9,500年前の地層。)


(「地層観察館」で地層の案内)


(霧島連峰)


(桜島)

 「上野原縄文の森展示館」では、「9500年前の上野原」、「7500年前の上野原」、「南の縄文文化」、「考古学ギャラリー」が常設展示されている。

 訪れた日には、企画展示として、南日本新聞に連載中の『古の美術品』展があっていた。見たことのない、様々な種類の土器や、土偶、耳飾りなど展示してあって、目がくらくら、度肝を抜かれてしまった。

 常設展示を見学。南九州の土器は、縄文草創期は「隆帯文土器」が作られていたが、早期には貝殻文様で円筒形の平底土器に変化していく。北部九州以北の日本列島では、縄文をつけた底の尖った土器が主流になる。

 円筒土器の他、角形なども作られていく。


(円筒土器)


(角型土器)

 「土器の製作・使用」は、「定住化」とともに縄文を特徴づける。

 縄文時代の土器は、煮炊き用に使われた。ドングリやトチなど堅果類、ヤマイモなど根茎類は製粉して、アク抜きをして食したと考えられている。ゼンマイやワラビなどはそのまま、熱を加えて調理していた。

 つぶす道具として磨石や石皿が用いられた。

 石鏃は、狩りの道具として使われた。
 石斧は、木の伐採や加工のための道具。
 礫器は、固いものをぶつ切りにしたり、土堀り具などとして使用された。


(磨石・石皿)


(石鏃・石斧)


(礫器)

 壺型土器は、煮炊き用に使われた痕跡が無く、何かの貯蔵用か、あるいは何らかの祭祀用か、用途不明の土器で、南九州だけに出土する。


(壺型土器)


(壺型土器の謎)


(一緒に埋められていた双子壺。)

7,500年程前になると、土器もさまざまな形が作られ、土偶や耳飾りも日本列島の他の地域に先駆けて作られるようになる。


(7,500年程前の出土品)


(土偶)


(石製垂飾)


(異形石器)


(耳飾り)


(異形土製品)


(深鉢)

 日本列島のどの地域よりも先に成熟した南九州の縄文生活は、突然終焉を迎える。

 約6,400年前、屋久島の北、鬼界カルデラが爆発する。爆発によって舞い上がったアカホヤ火山灰は関東地方にまで及んでいる。

 鬼界カルデラの爆発により、貝殻文様で底が平らな円筒土器や壺型土器など、南九州独特の土器は消滅する。


(鬼界カルデラの爆発前後の耳飾り)

 アカホヤ火山灰の上から発掘される遺跡では、南九州の独自性が消え、轟式土器や曽畑式土器など北部九州から全国的に展開される土器が使用される。

 縄文時代の本を読むのは難しい。土器の名前がいろいろと出てきて、頭の中が混乱して、何が何やらわからなくなる。展示されている縄文土器をいっぱい見てきて、土器の名前で、もう頭の中は飽和状態になって、思考力も記憶力も落ちてきた。

 「南の縄文文化」、「考古学ギャラリー」は、さっさと眺めて行くだけになった。

 各コーナーでは、「縄文クイズラリー」があっていて、挑戦したら、最後には「上野原ムラ名誉住民票」が発行された。


(上野原ムラ名誉住民票)

 「縄文シアター」では、縄文時代の上野原の生活の様子がラブストーリーで上映されている。

 実際は、展示館の展示から見学し、歩き回りながら野外の展示を見学した。もう、かなり長い時間滞在していて、時間も遅くなったし、疲れたので帰ることにしよう。

 鹿児島は、縄文草創期、早期の遺跡が多い。日本列島の各地に先駆け、縄文時代を特徴づける「定住生活」、「土器の製作・使用」それに伴う道具や施設など早くから成熟した生活を送っている。

 地球が、旧石器時代の寒冷化から徐々に温暖化し、縄文的な生活が出来る気候風土が、日本列島の中で南九州にいち早く訪れたのではなかろうか。

 書物を読んだだけでは、ぼんやりとしていた縄文時代のイメージがかなりはっきりしてきた。タクシーの中で「来てよかった。」とつくづく思う。

 国分駅から近くの霧島温泉に泊まることも考えたけど、2日前に指宿温泉に泊まったので、今日は泊まるのは止めとこう。

 左手に鹿児島湾と桜島を眺め鹿児島中央駅へ。駅内の食堂街の居酒屋に入り、焼酎のききざけと黒豚の角煮など薩摩料理。焼酎は疲れた体に効いたが、角煮は美味しかった。

 土器の名前は頭に残らない。先行き不安な「縄文を学ぶ」。

「橋牟礼川遺跡(COCOはしむれ)」へ行った。【縄文を学ぶ-2】

2018-06-10 | 縄文を学ぶ
2018年5月2日(水)-(4)

 「鹿児島市ふるさと考古歴史館」を後にし、慈眼寺駅から指宿駅へ行く予定が、急に思い立って最南端のJR駅「西大山駅」へ行き、指宿駅へ引きかえした。

 西大山駅では開聞岳を入れて記念写真を撮るのが定番だがこの日はあいにくの雨模様で開聞岳は姿を見せなかった。

 開聞岳から約10km離れた指宿市の「橋牟礼川遺跡」は、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かった。

 「橋牟礼川遺跡」と隣接してある指宿市考古博物館「時遊館COCCO(ココ)はしむれ」へは、指宿駅から10分程歩いて着いた。


(橋牟礼川遺跡)

 大正4年、旧制志布志中学校の男子生徒が鹿児島県の指宿で2つの土器のかけらを見つけた。この発見をきっかけに、大正7、8年京都帝国大学の浜田耕作博士らによって発掘調査が行われる。

 地層中に堆積している火山噴出物はテフラと呼ばれている。テフラは「分析によっていつ噴出したかあきらかになっています。そのためテフラを含む地層は、その上下にある地層中の遺構や遺物の年代を決めるひとつの指標、「鍵層」として重要です。」(「鹿児島市ふるさと考古歴史館」の展示より)

 発掘調査で、火山灰層の上から、弥生土器が出土し、下から縄文土器が出土した。縄文土器は縄文などさまざまな模様がつけられている。弥生土器は薄手で模様が少ないのが特徴。こうした特徴から縄文土器と弥生土器の区別が出来、縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが初めて明らかになる。


(橋牟礼川遺跡の紹介)


(橋牟礼川遺跡の紹介)



(橋牟礼川遺跡の紹介)

 橋牟礼川遺跡あたりは開聞岳の噴火で何度も被害を受けてきた。地層には、縄文時代後期(約4000年前)、弥生時代中期(約2000年前)、西暦675年頃、西暦874年の噴火で降った火山灰が積もっている。

 西暦874年の噴火は「日本三大実録」という古文書に記されていることから3月25日のことで、橋牟礼川の村は厚い火山灰に完全に埋もれたことがわかり、「東洋のポンペイ」とも呼ばれている。

 7世紀の終わりころから9世紀の初めにかけて、南九州の人々は隼人と呼ばれていたが、その実態は謎に包まれている。橋牟礼川遺跡では、その頃の隼人の生活・文化を知る手がかりも埋もれているのではないかと考えられている。


(隼人の住まいの復元。実際に発掘された建物跡は2m下に保存されている。)

 橋牟礼川遺跡は5000年もの間、人びとが住んでいた地と考えられていることから、様々な顔を見せる。

 今年のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」は、西郷隆盛が主人公で、鹿児島のあちこちでキャンペーンがあっている。指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」でも特別企画展「いぶすき西郷どん館」が開催されていて、人出は多かった。


(時遊館COCCOはしむれ)

 展示室は南九州の古代史が展示してある。約2万4千年前の姶良カルデラの噴火をCGで再現、約1500年前の古墳時代のムラを実物大で再現、などがある。


(ここでも地層の剥ぎ取りが展示されている。)


(地層の剥ぎ取りが展示)


(噴火の説明)


(石器時代の説明)


(石器時代の説明)


(古墳時代の再現コーナー)

 縄文時代、弥生時代、古墳時代にかけての土器も展示してあり、建物の絵が描かれた、指宿市大園原遺跡で出土した縄文時代後期の土器には興味が引かれた。


(縄文時代草創期の豆粒文土器(上)と隆起線文土器(下))


(縄文時代早期の土器)


(縄文時代後期の土器。建物の絵が描かれている。)

 私は、躰に装飾品をつけるのは苦手だが、現代の若者が躰につけている装飾品は縄文の人びとから引き継いできている。


(縄文時代の装飾品) 

 橋牟礼川遺跡発見のドラマの放映は見なかったし、「地層のはぎとり展示館」もあったようだが気がつかなかった。

 西大山駅に寄り道したので計画した時間よりだいぶん遅れて着いたので、見学も早く切り上げ、急ぎ指宿温泉へ。砂湯に入り、黒豚のしゃぶしゃぶ、きびなごの刺身など薩摩料理に舌鼓。

 学ぶより食い気。修行が足りない。


(翌日の指宿駅。前日は時折強い雨にうたれたが、いい天気に。)

「鹿児島市ふるさと考古歴史館(掃除山古墳)」へ行った。【縄文を学ぶ-1】

2018-06-10 | 縄文を学ぶ
2018年5月2日(水)-(2)

 「縄文(時代)」がブームとか。

 「流行性感冒」を初め、これまで「流行」には無縁だったけど、「縄文(時代)ブーム」には少し乗っていこうと思う。

 「縄文時代」は戦後に出来た時代である。戦前は無かった。戦後学問的に作られた時代である。当時、日本列島で生活していた人々は「私たちは縄文人」と思って生きていたわけではない。私たちが勝手に「縄文人」、「縄文文化」、「縄文時代」と呼んでいる。

 縄文時代は何時から何時までか?は、ややこしい。

 年代測定の方法で何百年、何千年の違いも出てくる。

 何をもって縄文時代の始まりとするか、何をもって縄文時代の終わり、つまり弥生時代の始まりとするかも諸説ある。

 歳とってくるとややこしい話は避けたくなる。気楽に学んでいきたいと思う。

 世界史的には旧石器時代から新石器時代に移っていく。世界史的な旧石器時代は、日本史でも旧石器時代と呼ばれている。

 世界史的な新石器時代は、日本史では新石器時代ではなく、「縄文時代」と呼ばれる。「縄文時代」は、世界史的にも特異な文化を築いた時代という事でもあるようだ。

 縄文(時代)は[草創期][早期][前期][中期][後期][晩期]に分けられている。

 岡村道雄著『縄文の生活誌』(2008年発行、講談社学術文庫)読むと、[草創期]の代表的遺跡として鹿児島県の「掃除山古墳」が紹介されている。

 1回目の学びは、「掃除山古墳」の展示がある「鹿児島市ふるさと考古歴史館」へ行くことにしよう。

 鹿児島中央駅から指宿枕崎線で5つ目の慈眼寺駅で降りて、上り坂で少しきついけど歩いて行けるところに「鹿児島市ふるさと考古歴史館」があった。
 この日は、JR九州鉄道営業㈱が開催する「駅から始まるいつでも散策」を兼ねて歩いた。


(鹿児島市ふるさと考古歴史館)

 館内に入って先ず目に入ってビックリするのが「地層」の展示。高く広いのでカメラに収まらない。


(地層の展示)

 鹿児島では火山噴火で出来た火山灰層の年代が分かるので、発掘された遺跡が、どの火山灰層の上か下かで遺跡の年代が分かる。


(火山の説明)


(火山灰層に説明)

 掃除山古墳は説明によると、「今から約1万2800年前のサツマ火山灰層の直下から大量の土器片や石器とともに竪穴住居跡や炉跡が見つかりました。」


(掃除山古墳の説明)

 発掘された土器片・石器などから、「石器づくり」、「木を切る・加工する」、「土器づくり」、「調理」、「動物の解体」、「狩り」、「木の実の採集」、「竪穴住居」など縄文時代の生活が紹介されている。


(縄文時代の生活の説明)


(縄文時代の生活の説明)

 石鏃(せきぞく)は、矢の先端につける小型の石器で「狩り」で使われた。旧石器時代の恐竜など大型動物は滅び、小動物を捕える「狩り」のに弓矢を用いるようになったのも縄文時代の特徴としてある。

 石斧(せきふ)は、斧の形をした石器。打ち欠いただけで仕上げた打製石斧,磨いて仕上げた磨製石斧がある。磨製石斧が縄文時代を代表する石斧。

 スクレイバーは現在のナイフのような形をしたもの。狩りで獲った動物の肉を切ったり、皮をなめたりするのに使われた。

 ドングリなどは石皿と呼ばれる大きな石に載せて、敲石や磨石で敲いたり粉にしたりした。

 縄文時代を特徴づけるのに土器がある。草創期の土器として「隆起線文土器」が全国的には発掘されているが、南九州では「隆帯文土器」が発掘されている。


(隆帯文土器)

 このような道具や土器は縄文時代を通して使われた。というか、このような道具類を使って生活していた時代が縄文時代と呼ばれる。

 今でいう技術革新はほとんどなく1万数千年同じような技術を用いた生活が続いた。


(鹿児島には旧石器時代から縄文縄文時代前半にかけての遺跡が多い)


(遺跡から出土したもの)


(遺跡から出土したもの)

 土器は縄文時代を通して、さまざまな土器が現われ、土器の特徴によって先にあげた時代区分が作られている。

 「ふるさと考古歴史館」は「掃除山古墳」を中心に展示はされていない。鹿児島市の古代の歴史を学ぶ展示になっている。


(掃除山古墳の位置)


(縄文時代前期末から中世まで「不動寺遺跡」の展示)

 休日の日ではなかったので見学者は少なかった。


(緑に囲まれていた「ふるさと考古歴史館」)

 ぼちぼち学んでいこう。

駅から始まるいつでも散策⑤-慈眼寺駅

2018-06-10 | ウォーキング
2018年5月2日(水)-(1)

 JR九州鉄道営業㈱が開催する「駅から始まるいつでも散策」。慈眼寺(じげんじ)駅(鹿児島県・指宿枕崎線)へ。


(今日のマップ)

 4月中旬、「鹿児島市立ふるさと考古歴史館」への道順を調べていたら、鹿児島中央駅から指宿枕崎線に乗り「慈眼寺駅」で降りて、歩いて行けるようだ。慈眼寺駅は、4月下旬からスタートする「駅から始まるいつでも散策」第5弾(4月21日~9月30日)のコースにも入っている。

 久しぶりに「駅から始まるいつでも散策」にも参加しようと5月に入ってすぐに出かける。

 天気は雨模様。

 慈眼寺は橋上駅。階段を下りて、改札口を抜け、ドアの外に出て、右手を見ると、「ふるさと考古歴史館」と「谷山神社」への案内板が。


(慈眼寺駅出入口、上が線路)


(ふるさと考古歴史館への案内)

 線路に沿って歩くと、再び案内板が。「谷山神社」の幡も。


(ふるさと考古歴史館への案内)

 案内に沿って、右折して線路を渡る。上は高架の道路。

 上り坂あじさいロードを歩く。花はまだ。マップにはコースに咲く花々の見頃の期間が書いてあるけど、いずれの花とも時季外れウォーキング。しかも、傘を差したりたたんだりして歩く。


(あじさいロード)

 「谷山神社登口」看板から急な坂道を上って、展望台に。鹿児島湾を眼下に絶景のはずが、桜島は雲に隠れて全く見えない。


(谷山神社登口案内)


(上り道)


(展望台から)


(展望台から)

 谷山神社に参拝。谷山神社の祭神は懐良親王(かねながしんのう・かねよししんのう)。南北朝時代、南朝の征西大将軍。


(谷山神社)


 熊本県八代市に墓があったけど、と思って由緒書を読む。懐良親王は征西大将軍に任命され九州に入るとき、薩摩へ上陸されここ谷山に滞在された。その後、熊本へ向かわれている。

 137段の階段を下りる。雨で濡れた階段を下りるのは怖い。幸いにも傘を差さすことなく下りられ一安心し階段を見上げる。


(谷山神社から下りる階段)

 階段から直ぐに「ふるさと考古歴史館」が見える。鹿児島市の歴史や地形が学べる。この日は、子供たちが火おこしなどの体験学習をしていた。


(ふるさと考古歴史館)

 鹿児島市の歴史を学んで、駐車場の横を左折。コスモス園が拡がるが時季ではない。


(コスモス園)

 階段を下りて行くと、ゴーゴーと音がする。雨で増水した川の水が勢いよく流れている。かなり上って来たので、川は急流。マップでは川沿いの道を歩く。道の状態もわからない。正規のコースを歩くのを諦めた。


(階段を下りる)


(和田川)

 来た道を引きかえし、踏切を渡って、谷山護国神社へ。川沿いを歩いてきたとしたら、ここに出る。


(谷山護国神社)

 谷山護国神社前の四つ角は少し複雑。コースは慈眼寺東公園を通ることになっているのでキョロキョロ。神社の横が公園だった。

 公園沿いを歩いて、左折。すぐに慈眼寺駅に着いた。


(慈眼寺東公園)


(慈眼寺駅)

 次の目的地へ。

「駅から始まるいつでも散策」の詳細はJR九州鉄道営業㈱のホームページ、駅におかれているパンフレットを見て下さい。