よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年にオールジャパン完歩目指しています。





東海道道草ウオーキング№21 「吉田宿~二川宿」(愛知県豊橋市)

2017-03-26 11:07:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3月11日からの「瀬戸内倉敷ツーデーマーチ」に参加しますが、ついでに東海道を歩こうと思い、3/8~9日と2日間東海道を歩いてきました。

6:08新幹線のぞみで新大阪へ。新大阪から豊橋までは、こだま。豊橋駅に着いたのが10:30になっていました。豊橋から路面電車で前回ゴール地「札ノ木」へ。ここからスタートします。

  

しばらく歩くと「曲尺手(かねんて)」という地名の所に来ました。

曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名同士が道中かち合わないようにする役割も持っていました。 江戸時代、格式の違う大名が擦れ違うときは

格式の低い大名が籠から降りて挨拶するしきたりでした。 しかし、主君を籠からおろすことは行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。 そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、

行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難しました。

東惣門跡

東惣門は、鍛治町の東側に位置する下モ町の吉田城惣門西で東海道に跨って南向きに建てられていました。門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり、門外の西側に

駒寄場十一間がありました。惣門は、朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は、一般の通行は禁じられていました。

  

東惣門跡の所の歩道橋を渡ると「新町の常夜灯」があります。

案内板を見てみると、この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたものである。

以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれてきたが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。

この状況を憂えた常夜灯保存委員会により昭和55年豊橋公園内に復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。

「多米街道」の案内板があります。ここから多米を通って姫街道に出れます。

   

  

歩いていると瓦町に「寿泉禅寺」があります。寿泉禅寺は、臨済宗妙心寺派のお寺。石造りの楼門や三重塔が印象的でした。幼稚園も併設されています。

  

1号線殿田橋から左折。ここが飯村町。途中、岩西歩道橋の手前に「二川宿」の看板があったので進むと「岩屋観音」の方に出てきてしまいました。

どうも道を間違えたらしい。通りかかった人に聞き、街道に戻ります。

  

二川宿」に入ってきました。

 豊橋市二川町と大岩町は、江戸時代に東海道五十三次中33番目の宿場二川宿が置かれていました。二川宿は、二川宿と加宿大岩町からなっていて、町並の長さ12町16間(約1.3㎞)、

文政3年(1820)の記録では、本陣と脇本陣各1軒、旅籠30、家数合わせて306軒、人数1,289(男666、女623)人でした。

二川には、現在でも江戸時代の町割りがほぼそのままの状態で残り、東海道筋では滋賀県草津市の草津宿本陣田中家(国指定史跡)とここだけに現存する本陣の遺構があります。          

旧本陣のご当主馬場八平三氏は、昭和60年に全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、屋敷地を豊橋市に寄付されました。

市では、これをうけて同62年に二川宿本陣を市史跡に指定し、翌年から改修復原工事に着手し、同時に二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館を建設し、

二川宿本陣資料館として平成3年8月1日に開館いたしました。

また、本陣東に隣接する旅籠屋「清明屋」は平成12年に倉橋家より寄附され、同14年より改修復原工事に着手し、同17年4月29日より公開いたしました。これにより、大名の宿・本陣と庶民の宿・旅籠屋をセットで

見学できる施設となりました。あわせて資料館の増築、常設展の全面改装も行いました。

資料館では、「東海道」「二川宿」「本陣」という3つのテーマで常設展示を行い、随時特別なテーマに基づく企画展を開催しています。また、1階の体験コーナーには、浮世絵刷りや双六ゲームなどがあり、

江戸時代の旅を楽しく学ぶことができます。(二川宿資料館より)

400円の観覧券を購入し、中に入ってみます。常設展示には、「東海道」、「二川宿」、「本陣」の3つのテーマがあります。

今、お雛様のシーズン、館内にもお雛様が展示されていました。

  

向かいには、商家「駒屋」

  

商家「駒屋」、田村家は、元禄4年(1691年)に遠江国敷知郡中之郷村(現在の静岡県湖西市)から二川宿へ移り、初め医師を、後に米穀商・質屋を営みました。

明和7年(1770年)以降に、松音寺門前の瀬古町から新橋町の枡形北側の現在地に移転しました。 屋号は駒屋で、当主は善蔵(ぜんぞう)を世襲名としました。 代々二川宿内随一の有力者として、

宿役人や村役人を勤めました。
 
また、安政2年(1855年)には、幕府への献金によって苗字を名乗ることが許されました。 9代当主の善蔵苗政(みつまさ)(1830年~1891年)は、幹皋(かんこう)と号し、

家業や公務の傍ら、書、遠州流生け花、崋椿系南画、売茶流煎茶、俳諧など、多くの教養を身に付けた文化人としても活躍しました。
 
近代に入ると、10代当主の善蔵(邦三郎 1861年~1921年)は、二川郵便局長や渥美郡会議員などの公職にも就くとともに、 諸種の会社要職を歴任しました。11代当主の憲造(1889年~1953年)は、

薬学の道に進んで東京帝国大学教授・医学博士となり、 心臓注射液ビタカンファーを創製しました。

時間もかかりすぎたので次の宿場を目指します。

 

 

 

 

 

 

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第7回唐津・虹ノ松原ツーデーウオーク2日目20km(佐賀県唐津市)

2017-03-22 05:22:12 | オールジャパンウオーキングカップ

3/19(日) 唐津・虹ノ松原ツーデーウオーク2日目20kmに参加。

8:00 また今日も30kmとフライングスタートします。

  

今日は、鏡山登山がコースに入っています。30kは、頂上まで行きますが、20kmコースは、中腹までです。

  

鏡山の国道が20k、30kの分岐点です。ここから鏡山の中腹まで上り坂です。

   

チェックポイント手前の所から虹ノ松原が一望できます。

第1回のチェックポイントが、ぽんぽこ村です。ここでは、みかんのジェリーを頂きました。

  

ぽんぽこ村には、たくさんのベコニアがありました。

  

西九州道を潜った所から下りになります。

民家には、白木蓮、黄梅、八重の梅など綺麗な花が咲いています。天気もいいし、青空に映え綺麗です。

  

野田の湯(温泉)の所が2回目のチェックポイント。5~6年前は、ここで水を汲み、帰りに野田温泉に入ったことがあります。確か、65歳以上は、安かったと記憶しています。

   

チェックポイントを過ぎるとコースは田園地帯です。ここで30kmのトップの方から抜かれました。ちょっとついていこうかと思いましたが、すぐ無理とわかり、いつものようにマイペースで歩きます。

  

ある民家の前に来ました。ここでは、個人的にお接待をされています。子の接待に感激し、お礼を書きました。

  

  

4回目のチェックポイントは、五反田改善センター。ここで約15km地点。

チェックポイントのすぐ近くには、「大村神社」があります。 大村神社の社伝によれば、西暦752年(天平勝宝4年)、真備は広嗣の逝去の地大村に無怨寺を建立し慰霊の趣を表し、

広嗣は無怨寺大明神として崇められたという。無怨寺大明神は、明治期の神仏分離令によって、大村神社と改称されている。

  

関の清次と五輪の塔があります。

これは、謡曲「籠太鼓(ろうだいこ)」のモデルになりました。説明文を見ると。

関の清治は大村の里(現在の五反田地区)豪族であるが、親友の浜窪治郎の密告のため牢獄に繋がれた。強力な彼は、牢を破って脱出し行方を暗ました。探索の手は厳しく、妻は狂死し、

子は舌を噛み切って息たえた。これを聞き清治は自首して出たが、領主は妻子の者どもが死に至るまで清治の所在を白状しなかった貞節と孝行を称えて、その罪を許した。哀惜の情にたえず、

清治は自らの刃に伏してその後を追った。時人塔を建てて霊を弔った。程なくその側に一本の松が芽生えた。葉が三つあるので「三つ葉の松塚」「関清治松」と言う。 

  

これからは、玉島川沿いに歩きます。一昨日の「せっかくウオーク」でもここを歩きました。

  

黒田橋の欄干には、玉島川の鮎がデザインされています。玉島川は、古くは万葉集に詠われた歴史ある川で、神功皇后が鮎釣りをして戦勝を占ったという故事により、「」の漢字発祥の地

とも言われています。

   

浜玉町市街地にやってきました。もうゴールまではあと少しです。子供たちが「ひきやま公園」へ案内しています。先ほどの無人の接待所の子供さんもここにいるのかな?

ここが5回目のチェックポイント。

ひきやま公園には、7月に行われる「浜崎祇園祭子供山笠」が展示されています。

浜崎祇園祭は、諏訪神社の祇園社(本殿左奥)の祭礼です。起源は明らかではありませんが、

江戸時代中期の宝暦三年(1753)に、漁師の網元・中村屋久兵衛が疫病退散、五穀豊饒を祈念して、博多櫛田宮の祇園山笠を模した山笠三台を造ったと伝えられています。(浜崎祇園祭HPより)

 

   

12:10 ゴールの浜玉公民館に到着しました。

    

参加者は、2日間で1190人でした。

  

2日目20kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第7回唐津・虹ノ松原ツーデーウオーク1日目25km(佐賀県唐津市)

2017-03-21 04:54:57 | オールジャパンウオーキングカップ

3/18 今年も唐津・虹ノ松原ツーデーウオークに参加しました。会場の唐津市浜玉公民館までは、我が家から車で約40分。

こんな近い大会は毎年参加したいのですが、昨年の大会は、膝の痛みで初日の15kmだけで2日目はパスしました。

その膝痛もだんだん癒え、先週は倉敷で40kmも歩けるようになりました。まだ時々痛いですが、ほぼ全快に近い状態です。

今日は夕方同級生との飲み会があるため、スタートは、45kmと一緒にフライングスタートします。

  

7:30 岩手Oさんの「激」でスタート。コースは、先ず「「虹ノ松原」を通ります。

虹ノ松原は、日本三大松原の一つで(残りは、静岡・三保の松原、敦賀・気比の松原)幅500m、長さは約4、5kmの松原です。国の名勝に指定されています。

松原を抜けると「対州領」の石碑があります。ここは、対州藩(対馬)の飛び地でした。(あと、佐賀・鳥栖田代も対州藩の飛び地)

  

唐津東中学・高校の所には、「東経130度」の信号があります。東経130度線(とうけい130どせん)は、本初子午線面から東へ130度の角度を成す経線である。北極点から北極海、

アジア、太平洋、オーストラリア、インド洋、南極海、南極大陸を通過して南極点までを結びます。

松浦運動公園が45k、25kの分岐点です。何年か前は、ここが会場でした。

  

25kmコースは、松浦川に沿って歩きます。松浦橋の手前で25k、15kが分かれます。

  

 

松浦橋を渡ると右折。唐津城の入口に来ます。ですが、コースは、ここから唐津駅を通り、大島通りに向かいます。

  

唐津駅前が給水ポイント。

末慮館(まつろかん)は、日本稲作発祥の地「菜畑遺跡」にあり、邪馬台国時代の「末慮国」の遺跡の展示や竪穴式住居、日本最古の水田などが復元されています。

   

  

唐津市水産会館が最初のチェックポイント。ここでは、イカのゲソ焼き、サツマイモ、コーヒーなどが振る舞われました。

会館内の売店では、ミンククジラの刺身が売っていました。長いこと鯨の刺身は食べていないな~

  

  

唐津壱岐フェリーの所には、「線路の小径」が」あります。

1898年(明治38年)現在の唐津線沿線の唐津炭田から産出される石炭を唐津港へ輸送することと、沿線の松浦川及び牛津川の舟運を置き換えることを目的として計画されました。

この線路の小径は、当時の賑わいを後世に残そうと作られました。

  

 

旧高取邸は、杵島炭鉱などの炭鉱主として知られる高取伊好(たかとりこれよし)の邸宅です。唐津城本丸の西南の海岸沿い、約2,300坪の広大な敷地に大きく2棟の建物が建っています。

以前JR九州ウオーキングなどで中に入っていますので今回はパスします。

コースは、唐津城へ向かいます。

  

唐津城が2回目のチェックポイント。

   

ここからの眺めもビューポイントです。

真中の一番高い山が「浮岳」??かな。

唐津城を過ぎると、古い旅館が建ち並んでいます。

  

コースは、虹ノ松原を通り、海岸へ出ます。

  

12:56 ゴールの浜玉公民館に到着。初日の参加者は全部で600人でした。

    

明日は20kmを歩きます。

今日25kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第7回唐津・虹ノ松原ツーデーウオーク「せっかくウオーク」(佐賀県唐津市)

2017-03-20 06:47:24 | オールジャパンウオーキングカップ

18日から始まる「第7回唐津・虹ノ松原ツーデーウオーク」に先駆け、3/17(金)は、せっかくウオークが行われ、参加しました。

このせっかくウオークは、「玉島川春告魚ーク」とサブタイトルになっており、玉島川を遡上するシロウオを使った昼食と簗漁が見れるウオーキングです。

ウオーキングの前に会場近くの「魚半」で昼食です。(参加者は約50人)

       

2月下旬から 白魚(しろうお)の簗かけ漁がおこなわれることから、「春告魚」と呼ばれています。主に、踊り食い、卵とじ、かき揚げにして食べます。

福岡では、西部の室見川の白魚料理が有名です。シーズン中は、高級料理ですのでめったに食べることはできません。私も何十年ぶりにいただきます。(白魚は、ハゼ科)

踊り食いは、白魚をすくってポン酢でそのまま口の中へ流し込みます。胃の中へ入る時の食感がたまりません。

  

  

お腹も一杯になり、近くの浜崎海岸で記念写真を撮りました。

13:30 せっかくウオークのスタートです。今日は天気も良く少し歩くと汗ばんできます。

 

正念寺

江戸時代の明和8年(1771)、唐津藩の農民漁民が虹ノ松原に集結し、藩に対して新税の取り下げの要望をしました。虹ノ松原内には、唐津藩と天領の境界があり、この地の利を生かして

整然と虹ノ松原一揆が起こりました。農漁民の要望は受け入れられましたが、大庄屋の冨田才治ら4人が責任をとって自首し処刑されました。いまでもこの遺徳が偲ばれて、正念寺の蘇鉄の下に

冨田才治の首が埋葬されたとの言い伝えが残っています。

正念寺では、御煎餅、清見みかんが振る舞われました

  

  

  

玉島川にやってきました。浜玉町は、1956年、浜崎町と玉島村が合併して出来た町です。2005年唐津市に合併しました。

玉島川は、シロウオの産地として有名です。シロウオは、産卵の為水温8度を超えた頃から遡上を始め、漁は3月にピークを迎えます。

川の中にくいを打ち、長さ3メートル、高さ90センチのすだれを川下から見て「ハの字」になるよう固定、狭くなった先にシロウオを待ち受ける網カゴを置いた。簗は河口から約1キロの間に計8カ所仕掛けます。

  

  

  

15:10せっかくウオーク6kmゴール!会場では、明日からのツーデーウオークに備え、スタッフの方が準備されていました。

 

 

 

 

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大河ドラマ「おんな城主直虎」ゆかりの地を訪ねて(静岡県浜松市)

2017-03-14 14:34:37 | 歴史

 今年のNHK大河ドラマは、「おんな城主直虎」です。その直虎のゆかりの地浜松を訪ねました。

井伊直虎は、井伊谷城主22代直盛の一人娘として誕生。直盛には、男児がなく、従兄弟の亀之丞(23代直親)を娘の許嫁として家督を継がせる予定でしたが、直親の父親が今川義元に殺され、

命を狙われた直親も信州に身を隠します。幼き直虎は、直親が死んだと思い、自ら出家し次郎法師と名乗り、生涯未婚を通すこととなります。

 その後、成人した直親が井伊谷に戻るものの、桶狭間の戦いで直盛が戦死、その後直親も殺害され、井伊家は、存続の危機に直面します。

次郎法師は、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚の計らいで、井伊直虎と名乗り、5歳の虎松(24代直政)の後見人として井伊家を支えました。

1575年、15歳に成長した直政は、浜松城主の徳川家康に出仕し、見事に井伊家の再興を果たします。

先ずは、「浜松城」。

家康が、武田信玄の侵攻に備え、1570年(当時29歳)に築城したのが「浜松城」です。家康は、29歳から45歳までこの地で過ごしています。

    

城内には、直虎の幟も立っています。家康公のイラストの袴は、ピアノ、直虎が持っているのは、うなぎ。それぞれ浜松の特産が描かれています。

   

  

 「三方ヶ原古戦場跡」

元亀3年(1572年)、武田信玄と徳川軍が浜松市郊外の三方ヶ原で激突した戦い。家康の生涯で最大の敗戦といわれ、兵の数でも軍術でも劣る徳川軍は総崩れとなりました。

  

現在、三方ヶ原古戦場跡は、霊園になっています。

「龍潭寺」(りょうたんじ)

龍潭寺に着くと、駐車場は、満杯。また貸切バスが何台も停まっています。やはり大河ドラマの影響でしょうか?

ドラマでは、龍潭寺の南渓和尚を 小林馨さんが演じています。

龍潭寺は、井伊直虎が過ごした所とされています。井伊家歴代の菩提寺。小堀遠州作といわれる国指定名勝庭園や左甚五郎の龍の彫刻等文化財を多く有しています。

    

井伊家の始まりは約千年前。平安時代の西暦1010年に、龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる共保(ともやす)公を初代とします。

古来より水の湧き出る所は神聖視され、井伊家千年(遠江600年、近江400年)の歴史がここに始まります。鎌倉時代には、日本を代表する武家八介の一人として井伊介(いいのすけ)の名があり、

遠江地方の国人領主として栄えました。

南北朝時代には、南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子、宗良(むねなが)親王をお迎えし、一大勢力を誇りました。

戦国時代になると、今川氏からの圧力が強まり、支配下におかれることとなりました。 やがて永禄三年、二十二代直盛が桶狭間で戦死すると、井伊家は受難の時代を迎えます。

直盛には嫡男がなく、従弟の直親を二十三代当主として迎えるも、今川氏によって殺害され、井伊家の男子は、直親の遺児、幼い虎松(のちの直政)ただ一人となってしまいました。

やむなく、出家していた直盛の一人娘は、幼少の虎松の後見人となり『井伊直虎(次郎法師)』を名乗り、女領主として井伊家の舵取りをしました。しかし今川氏との徳政令(とくせいれい)を巡る攻防や、

家臣の謀反でお家断絶の危機を迎えます。

この時、徳川・武田の遠江侵攻が始まり、幼い虎松は戦乱を避けて、三河・鳳来寺へ預けます。やがて15歳になった虎松を徳川家康公に仕えさせ、直政となって活躍し井伊家再興を果たしました。

 家康公に仕えた直政は幾たびの戦いで功績をあげて「徳川四天王」と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きな貢献をしました。関ヶ原の戦いで勝利した家康公は「天下を争う大戦度々先鋒として

勝利を得ること誠に国の元勲なり」と直政の活躍を称えました。その後井伊家は直弼を含め5人が大老職を勤めるなど、江戸時代を通して徳川幕府を支えました。

幾多の苦難を乗り越えて繋がれた井伊家の歴史は千余年にわたり、龍潭寺はその菩提寺にあたります。(龍潭寺HPより)

   

  

  

  

  

龍潭寺の庭園は、江戸初期の築造で池泉鑑賞式庭園。国指定名勝庭園です。庭園には、ツツジが植えられあと1か月後には庭園一杯に咲くことでしょう。

   

境内の奥の方には、井伊家歴代の墓所があります。次郎法師(直虎)の墓は、下右の写真の右から2番目です。

   

龍潭寺の横には、「井伊谷宮」があります。

井伊谷宮は、御祭神「宗良親王」は、後醍醐天皇第四王子(宮内庁調べ)であらせられ、今より約650余年、動乱の南北朝時代に一品中務卿(いっぽんなかつかさきょう)征東将軍として、

この地を本拠に50余年の間、吉野朝方のためにご活躍になられました。

 その間、遠江・駿河・三河・甲斐・信濃・越後・上野・美濃等を転戦し、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称されました。 

親王は、御幼少の折から御出家せられ、やがて京都比叡山天台座主となられましたが、時代の波は親王にも及び、還俗して宗良親王となり、戦陣の中へ身を置かなくてはならなくなったのです。 

また、親王は、御幼少の頃より和歌に秀で、終生和歌の道の聖と仰がれました。唯その御生涯は、誠に悲惨な人生であり困苦辛難に満ちたものでしたが、どんな苦しい流浪の中にあっても和歌を離さず、

準勅撰「新葉和歌集」(吉野朝の歌人だけを集めた)の編纂を始め、親王の歌集である「李花集」など当時の歴史資料としても貴重な和歌を多く遣されました。

晩年再びこの地を訪ねられ、元中2年8月10日御歳73才を以ってこの地で薨去されたと伝えられています。(井伊谷宮HPより)

    

  

このあと、井伊家の居城「井伊谷城址」に行きました。坂道を上りながらやっとのことで着きました。

この城址は、高台にあるのでさすがに観光客の方は来られていません。

 井伊谷城は、この地の領地である井伊谷氏が築いた山城です。標高115mの山頂に単郭式の曲輪が築かれています。山頂の北半分は自然の地形を残し、南半分が平らに均されています。

曲輪の廻りには土塁がめぐり、南側と西側に出入口を持ちます。南側の出入口は、大手に、西側の出入口は、搦め手に相当し、大手口の西側には、土塁が高く築かれており、防御を固めています。

井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその麓にある城館に加え、最終的な詰め城である「三岳城」で構成されていた。

江戸時代の記録によると井伊谷城は、「御所の丸」と呼ばれていました。南北朝の動乱期(1336~1392)に南朝方の拠点として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁いた場所と関連付けられたことがうかがえます。

  

展望台からの眺め

 

井伊家のルーツを訪ねる旅でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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宮崎こばやし絶景ウオーク2017 2日目21km(宮崎県小林市)

2017-03-01 19:48:12 | オールジャパンウオーキングカップ

2/26(日)宮崎こばやし絶景ウオーク2日目。天気は曇り空でウオーキング中雨は降らないとの予報。朝の気温は4℃。

エントリーは、21kmコースですが、帰りのことも考え、30kmと一緒にフライングスタートします。

AM8:00スタート。スタート地点には、小林市のゆるキャラ「こすモー君」、童太鼓のお子さんから見送りしてもらいました。

  

1,9km地点の緑ヶ丘公園が最初の給水ポイント。ここには、SLが展示されていました。

公園の先には、梅の花が満開でした。

  

  

4,7km地点の石阿弥陀交差点が20k、30kの分岐点。20kmコースは直進します。

  

真方営農研修館では、トマト、チョコ、お菓子の接待。ここで5,8km。

  

高山公民館では、キンカン、お漬物の接待。キンカンが甘くておいしかったです。

ここから山手に向かいます。歩いていると「野首城址」の看板があります。この城は、伊東氏48城の一つで、城主は、米良筑後守、二ノ丸と本丸二つの曲輪があったそうです。

   

橋満橋にやってきました。この橋は、「昭和18年に地元の人々が材料を購入して祖国振興隊などの奉仕作業で造られました。戦時中のため、鉄筋が手に入らず、代わりに竹を使った竹筋コンクリート及び

石材を用いた大変珍しい橋です。浜ノ瀬川にかかっています。」小林市指定有形文化財になっています。

  

橋満橋を過ぎてすぐ、急な階段を下り、浜ノ瀬川に沿って歩きます。今までは、ここを登っていたのですが、今年は逆、下ります。急なため手すりを握りながらゆっくり、ゆっくり下りて行きます。

  

ここから「三之宮峡」です。三之宮峡は、九州山地南縁に堆積した加久藤溶岩凝灰岩層などが浸食された奇岩が卓越しており、屏風岩、千畳岩、他に河童洞、櫓の轟などの見所があります。

また、三之宮峡沿いには、11カ所の素掘りのトンネルがあり、昔、トロッコで木材運搬に使用していたそうです。現在は遊歩道になっています。

 

遊歩道から川の方に降りて写真を撮っていると30kmの先頭のウオーカーとすれ違いました。スタートは同時なんですが、もう5kmぐらいは離されています。

ゆっくり写真撮影していると、昨日一緒に歩いた敦賀Fさんご夫妻が来られましたので、ここからは、Fさんご夫妻と一緒に歩きます。

 

  

   

  

河童洞

三之宮峡を抜け、東方地区体育館が最初のチェックポイントです。

  

  

このあと、真方体育館給水所、チェックポイントの小林商工会議所を通り、工事中のJR小林駅へ。

小林駅の仮囲いには、小林市を含む「西諸県弁」が掲げていました。その一部ですが、なかなか難しいですね。(笑)

このポスターがこちらにアップされています。 http://www.tenandoproject.com/kotoba/01.html

  

小林駅南広場では、「ミルクスープ」が振る舞われました。ミルクスープのレシピは、こちらです。 https://cookpad.com/recipe/2865247

  

ゴールの小林市総合運動公園までの長い坂を上り、12:20 ゴールしました。

参加者数を見ると、2日間で1922人でした。(発表では、26日の合計が間違っています)

  

このあと、小林ICから宮崎道、九州道を通り、福岡の自宅には、17:00に到着しました。3日間の走行距離は、550kmでした。

いつもながら、小林の絶景ウオークは、大自然も素晴らしいですが、小林の皆様の暖かい「お・も・て・な・し」には感謝しています。

何か協力できないかと考え、小林市に少額ですが、ふるさと納税をすることにしました。いつまでもこの大自然を守ってもらいたいと思います。

今日2日目21kmのGPSです。また、スタートの時ONにするのを忘れてしましました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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宮崎こばやし絶景ウオーク2017 1日目30km(宮崎県小林市)

2017-02-28 18:30:55 | オールジャパンウオーキングカップ

2/25(土)小林市の朝7時の気温は1℃です。放射冷却のせいか、冷えています。  

ホテルで簡単な朝食を済ませ、会場の小林総合公園中央広場に車を走らせました。

今年も第19回宮崎こばやし霧島連山絶景ウオークが始まりました。初日の今日は、30kmコースにチャレンジします。

   

7:40から出発式。今日も準備体操は、ラジオ体操都城弁です。皆さん笑いながら体操をしていました。都城ラジオ体操のYouTubeは下記です。

https://www.youtube.com/watch?v=wpa_gGmEUPU

コスモスレディに見送られ8:00スタート。

朝の気温は、1℃。ちょっと寒いです。天気は快晴。霧島連山も綺麗に見えています。

   

2,2kmの窪田集落入口が20kと30kの分岐点。20kは、左折、30kは直進します。今日は、北九州Nさんご夫妻、福井Fさんご夫妻、佐賀・Mさん、長崎・Sさんと一緒に歩いています。

  

5,4km地点が最初の給水所「大牟田商店」。最初のチェックポイントです。地域の方が柚子茶、ぜんざい、お漬物などを振る舞っていただきました。

  

  

大出水湧水:直線で約300m上流から湧き出る湧水で、良質の米、野菜が収穫されています。 

田の神様:田の神の石像が九州地方南部の薩摩、大隅、日向の一部(都城周辺)に限って分布しています。ここでは、集落ごとに杓子やすりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する

石像を田の岸にまつる風習がみられます。

  

歩いていると、「琴熊添」という力士のポスターがありました。小林出身の力士だそうで現在怪我治療中、5月場所から復帰するそうです。将来が楽しみですね。

  

生駒高原に入りました。生駒高原には、河津桜が満開でメタセコイアと桜のコラボが綺麗です。

  

メタセコイアと夷守(ひなもり)岳の光景もビュースポットです。

  

生駒高原では、ふかしイモ、キャンディのサービス。店内に入ると、あまおうのソフトが売っていましたので思わず買ってしまいました。福岡のいちご「あまおう」愛でしょうか?(笑)

  

しばらく歩くと、大きな石像が建っています。今まで熊襲王が日本武尊と思っていましたが、日本武尊は、女装して熊襲王に酒を飲ませ、その隙に征伐したそうです。

  

 

宮崎道小林IC近くに来ました。ここの四季彩館が給水スポットです。ここでは、米で作ったパンが振る舞われました。

  

出の山名水ホタル館では、小林西高の生徒さんが作った「煮込みそば」が振る舞われました。

ここは、30k、20k、11kのコースが交わる所で、館内には、家族連れのウオーカーの方も多数見られました。30kコースは、15.8km地点でゴールまであと半分です。

  

30kmコースのチェックポイントは、出の山淡水魚水族館です。

  

歩いていると高千穂嶺が見えてきました。この高千穂嶺は、坂本龍馬が新婚旅行でお龍さんと一緒に登った山です。私も3年前、家内と一緒に登りました。勿論新婚旅行ではありません。(笑)

この光景も絶景ですね。

  

20,6km地点消防団訓練広場が給水スポット。地域の皆さんが、自家製のお菓子、お漬物を接待してくれました。また、ヤブツバキの花もいただきました。

ツバキの花言葉は「控えめな愛」。このウオーキング大会を陰で支えていただいているボランティアの皆様のようです。有難うございます。お陰様で楽しく歩けています。

  

  

細野地区に入りました。ここに「霧島峯神社」があります。

霧島岑神社由来略記往古、霧島岑神社は高千穂峰の中腹、瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊・木花咲耶姫命・彦穂々出見尊・豊玉姫命・鵜葺草葺不合尊・玉依姫命の六柱の神々である。

承和4年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預りのち従五位上を授けらる「続日本後紀」。天安2年(858)従四位下に叙せらる「三代実録」。とあり、

「延喜式神名帳」には日向の国式内四座の一であると記されている。天慶・天暦(10世紀)の頃、性空上人が霧島岑神社に参籠の折り、山麓四方に夷守神社他四社を創建し、

本社である霧島岑神社(別名、霧島中央権現)を合せて霧島六社権現と称した。天永3年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。

文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。

その地に座すこと480余年、享保元年(1716年)新燃岳噴火、社殿は焼失 御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが新瀬戸尾の地は全く荒廃したので享保14年(1729)、

夷守岳中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座された。その地を今に築地と言う。

明治5年(1872)県社に列せられ、翌6年細野村に合祀の世論起り夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷して今日に至っている。
    昭和56年3月 小林市教育委員会

 

   

   

この霧島峯神社が最後のチェックポイントです。神社のお守りを頂きました。

  

現在13:26.マップを見ると、ゴールの制限時間が15:00丁度。ここからゴールまであと約6km。ちょっとスピードアップします。

ゴールまでの最後の坂がきついです。(涙)

14:47 ようやくゴールしました。ゴール後汗を流す為、「神の郷温泉」に行きました。気持ちのいい温泉でした。

   

   

1日目30kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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宮崎こばやし絶景ウオーク2017「せっかくウオーク」(宮崎県小林市須木村)

2017-02-27 10:52:42 | ウォーキング

2/25から始まる「こばやし霧島連山絶景ウオーク」に参加しました。

この大会は5年ぐらい前まで宮崎市内で開催されていましたが、2013年JR吉都線が開通100周年を迎えることになり、会場を宮崎県小林市に移しました。

私は、小林会場になって最初の年、次の年、そして今年と3回目の参加になります。

今年は、24日から出発して「すきむらんどのせっかくウオーク」にも参加しました。須木(すき)村は、小林ICから車で約40分。熊本県側の山あいの集落です。

11:00受付開始。弁当と豚汁、それと地元の小学生が栽培したもち米を使った「おこわ」を頂きました。

  

  

  

12:30出発式。今日は須木小学校の全校生徒も参加しています。

出発前の準備体操では、都城弁を使った「ラジオ体操」が披露されました。体操の後半の部分の「飛ぶ」所は、都城弁で「ぴんこ ぴんこ」と言います。これには、参加者も一斉に笑い出しました。

そういえば、小林市を始め、旧「西諸県(にしもろかた)郡」の方言を使った小林市のPR動画「諸県弁がフランス語に似ている」がネットの再生回数が200万回を達したとのことです。

フランス人が、西諸弁を使って話しているのですが、どう聞いてもフランス語にしか聞こえません。皆さんはどう聞こえますか?YOUTUBEのアドレスはこちらです。https://youtu.be/jrAS3MDxCeA

 

大吊り橋を渡ります。この吊り橋は、歩道橋としては、日本一の吊り橋だそうです。高さは、30,5m長さ155m。

  

   

アップダウンが続きますが、周りの景色を見ると、「きつさ」も忘れそうです。

 

15分ぐらい歩くと「かるかや」の看板があります。ここを右折。

  

しばらく歩くと、「萱葺きの家」が見えてきます。

  

集落の中心に「萱葺きの宿 かるかや」があります。

ここは、宿泊設備もあり、地元でとれた食材を使った料理が有名です。須木萱葺きの宿かるかやのHPは、こちらです。http://www.sukimuland.jp/taberu/karukaya.html

ここでのんびり一日を過ごすと、きっと命の洗濯ができそうです。最近では、外国の方の利用も増えているそうです。

   

せっかくウオークのコースは、ここで折り返します。

   

しばらく歩くと、スタートした吊り橋が見えてきました。ここから見る吊り橋も絵になります。

  

コースは、ままこ滝(須木の滝)の展望台に向かいます。このままこ滝、正式には「須木の滝」です。この滝には下記のような伝説が残っています。

その昔、須木村の山深い滝の近くに若いきこりの夫婦が住んでいた。彼らには1人のかわいい女の子がいた。山の中の一軒家でも、親子水入らずの生活はとても楽しいものであった。
四季に移り変わる周囲の景色を眺め、日ごとに成長していくわが子の将来を思い浮かべながら、元気に働けることは夫婦にとって何よりの幸せと思われた。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。妻がふとした病がもとで、幼い娘を残して帰らぬ人となってしまったのである。平和で楽しかった生活は一瞬にして壊れてしまった。幼い娘を連れての深山での仕事はあまりにも無理があった。毎日の生活さえ男一人の手では思うままにならない。そこで、やむなく後添いを迎えることになった。
娘はやがて6歳となったが、後入りの母は娘が邪魔で仕方がない。何かにつけてはきつく当たっていた。娘にとって頼りの父は朝早く家を出て、夕方遅く帰るので、継母と終日暮らすよりほかになかった。
「ああ、お母さんが生きてくれていたら・・・」。子ども心に今は帰らぬ母親を慕って何度泣いたことであろうか。
ある昼下がりのことであった。野良仕事を終えた継母と娘は、滝の上の岩に並んで滝を見下ろしていた。いつもは娘を憎む継母も、その日だけはやさしく、「しらみでもとってやろうかね」と言いながら、娘をひざに引き寄せ、髪をとかし始めた。
すぐ真下の断崖(だんがい)を落ちる滝の水は、白竜が踊り狂うように地響きをたてていた。この継母に恐ろしいたくらみがあろうなどとは、つゆほども知らない娘は、うれしさで無心になって自分の帯と継母の帯の端とをしっかりと結んでいた。
そのときであった。ころを見計らっていた継母は、自分のひざに寄り添う娘をこん身の力で滝つぼに突き落とした。しかし、千尋の滝つぼに落ちていったのは、いたいけな娘とその子を憎んでいた継母の2つの塊であった。それ以降、人々はこの滝を「まま子滝」と呼ぶようになった。この話を聞いた村人たちは、2人の供養のために観音像を祭った。それで「観音滝」とも呼ばれている。
正式な名称は「須木の滝」。綾南ダム建設で湖の水位が上がったが、豊かに水をたたえる湖面に、滝音を響かせて落下する景観は雄大で、美しい。(みやざき神話と伝承101より引用)

 

   

  

14:18出発地のすきむらんどにゴールしました。ゴール後、食堂の横にある「かじかの湯」に立ち寄りました。

このかじかの湯、今日は、ベテランズデーということで65歳以上の入湯料は、半額の200円です。証明書が必要なのかな?と受付の方に聞きましたが、証明書はいらないとのこと。

自分では若いと思っていても他の人からみれば、それ相当の年齢に見えるのでしょうね。(涙)

7kmのウオーキングでしたがアップダウンがあったせいか、しっかり汗をかいていました。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国指定重要文化財「竪坑櫓」へウオーキング(福岡県粕屋郡志免町)

2017-02-21 16:35:08 | JR九州ウオーキング

 2/18(土)は、JR九州ウオーキング「国指定重要文化財『竪坑櫓』」のウオーキングに参加しました。

博多駅から篠栗線に乗り、長者原駅で香椎線に乗り換え須惠駅に到着。この日、JRウオーキングはこのコースしかなく、スタート場所の須惠駅には、たくさんの方が降りてこられました。

 

受付を済ませ、9:30スタート。

   

須惠町の地名の由来は、古代、須惠焼の窯があったことからその名がついたそうです。

私が社会人になって2年目ごろ、会社の工場が須惠町新原(旧産炭地)に移転することになり、その頃、連絡の為、博多駅の事務所⇔新工場間を一日に何回も往復していました。

当時は道路も狭く新工場に行く距離が長く長く感じていました。今回久しぶりに須惠町を歩きましたが、あのころからずいぶん変わりましたね。

旅石(たびし)八幡宮」は、今回パスしましたが、神功皇后が宇美八幡宮でお産される途中に立ち寄られ「あな わびし」と言われ、それが旅石という地名になりました。

西原の交差点を過ぎると「志免町」に入ります。

志免町の町名の由来は、かつて宇美八幡宮祭礼の際の第一の注連縄を引いた地であるから、また、神功皇后が宇美の地で応神天皇を出産した際に、注連縄を張ったという伝説に由来するともいわれています。

  

歩いていると前方に旧志免鉱業所の「竪坑櫓」が見えてきます。

志免鉱業所(しめこうぎょうしょ)は、糟屋炭田(かすやたんでん)の炭鉱の一つ。志免炭鉱とも呼ばれていました。採掘開始から閉山にいたるまで終始国営(戦前は海軍、戦後は国鉄)であった

日本国内唯一の炭鉱として知られています。1964年(昭和39年)閉山。志免鉱業所竪坑櫓、斜坑口などの遺構が現在も残されています。2009年(平成21)12月8日、竪坑櫓が国の重要文化財に指定されました。

   

     

 

志免町のランドマーク「竪坑櫓」です。高さ47,6m、長辺15,3m、短辺12,3mで、1943年(昭和18年)5月竣工。

志免町のHPを見ると、

竪坑櫓」は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、

坑員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。

さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、

ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。

 志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。

また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、

世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。

 1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、

開坑から閉山まで国営でありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。 

 日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。(志免町HPより引用)

この竪坑櫓は、平成21年(2009年)国の指定重要文化財に指定されました。

  

竪坑櫓の横には、志免町複合福祉施設「シーメイト」があります。館内には、竪坑櫓や炭鉱施設、博多山笠舁き山などが展示されていました。

  

志免町産業遺産収蔵庫では、換気用に使われた「飛行機の木製プロペラ」が展示されていました。

  

大正町商店街来ました。

歌手の郷ひろみさんは、福岡県須惠町出身です。ひろみさんのお母さんは、ここ志免町に実家があります。

昔、この地で郷ひろみさんの親戚の方が「ひろみ饅頭」を売っていました。酒まんじゅうみたいなもので饅頭に「ひろみ」という刻印が押されていました。

その頃勤めていた会社の女子社員にひろみさんの大ファンと言う方がおられ、私は、営業でこのあたりを通るとその子に、このひろみ饅頭を買ってきたりしました。

あれから40年・・・・・・・・もうひろみ饅頭は無く、跡地には新しい家が建っていました。新しい方は、ひろみさんとは全く関係のない方でした。

  

  

鉄道記念公園です。

志免町には、1985(昭和60)年まで石炭輸送のために作られた鉄道がありました。香椎線の引き込み線と、勝田線です。

香椎線は、1909(明治42)年から開通した博多湾鉄道旅石線(後に博多湾鉄道汽船から西日本鉄道、日本国有鉄道へ変わった香椎線引き込み線・1984(昭和59)年12月31日廃線)のことです。

勝田線は、1919(大正8)年に開通した筑前参宮鉄道(後に西日本鉄道から日本国有鉄道へ変わった勝田線・1985(昭和60)年3月31日廃線)のことです。

石炭景気の需要による開通で、当時の一日乗客数は300名、石炭は750トンと、石炭輸送が主でした。現在、勝田線は緑道として公園整備され、志免駅は志免鉄道公園となり、レリーフが当時を偲ばせています。

  

  

   

  

現在志免町の人口は、約4万人。この勝田線を残し、宇美八幡宮から太宰府天満宮まで延伸してたら、もう少し需要があったのではないかと素人ながら考える次第です。

コースは、志免町役場付近から「岩崎神社」に向かいます。

岩崎神社には、福岡市出身の元総理「広田弘毅」の書による「興風会之碑」があります。広田弘毅が外務大臣時代(昭和8~12年)の書ですが、「興風会」というのは、調べましたがわかりませんでした。

  

 

  

岩崎神社の絵馬堂が今日JRウオーキングの為に特別に開放されています。

この中には、志免町指定文化財の「黒田二十四騎図」(安政3年(1856))が奉納されています。他には、下関の講和条約、西郷隆盛征韓論の「西海揚波起源図」などもありました。

    

岩崎神社から引返し、ゴールの須惠駅を目指します。7kmを1時間40分のウオーキングでした。

  

YAMAPの軌跡です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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多々良川河畔ウオーク(福岡市東区)

2017-02-17 12:37:31 | ウォーキング

2/15(水)は、ふくおかウオーキング協会の「多々良川河畔ウオーク」に参加しました。

集合は、JR千早駅。  9:30 参加人数55人でスタート。

  

多々良川(たたらがわ)は、福岡県糟屋郡および福岡市を流れ博多湾に注ぐ河川。二級水系多々良川の本流です。全長17,4km。

神功皇后の三韓征伐の際、大陸渡来の鋳物工が住み着き、多々良川の川砂で鋳物を造りました。多々良(鑪)の地名もここから付けられたのではないでしょうか?

この近くの香椎宮は、神功皇后の夫、仲哀天皇が祀られています。

  

また、多々良では、昔2つの戦があった所です。

1336年の南北朝時代、南朝の熊本菊池氏と足利尊氏が戦った多々良浜の戦い。

1569年、戦国時代、大友宗麟と毛利元就の多々良浜の戦い。

どちらも多々良川浜の戦いとされています。

河畔には、歩道が設けられ、時にはサイクリングやウオーキングまた、このあたりにも絶滅危惧種「クロツラヘラサギ」が飛来してきますので野鳥の観察にもいい所です。

歩道の桜は、まだのようです。(福岡市開花予報日3/24)

 

河畔道には、細川幽斉の歌碑がありました。細川幽斉は、安土桃山時代の歌人です。

   いにしへは ここに鋳物師の跡とめて 今もふみみる たたら潟かな

  

松崎橋から左折し八田、土井の方に行きます。

  

九州道の高架を過ぎると粕屋町に入ります。

  

粕屋東中学、伊賀公園を通り長者原へ。

  

ゴールのJR長者原駅には、11:50に到着。

 

YAMAPからの軌跡

ゴール後、長者原駅より博多駅へ。

先週のテレビ「ケンミンショー」で紹介された「大地のうどん」博多駅店に行きました。大地のうどんの本店には何回も行ったことがありますが、博多駅店は初めてでした。

ちょうどお昼時間で店の前には行列ができていました。

名物のごぼ天うどんです。

  

 

 

 

 

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