鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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「赤間」の名を考える-ウォーキングの楽しみ

2015-12-09 | 旅で思う
11月8日(水)

 「縄文時代の遺跡で最も大規模な青森県の三内丸山遺跡へ一度は行ってみたい。」との思いからネットで交通手段やその他の観光地を調べていたら、「第13回縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目三内丸山遺跡コース」というのが目に留まった。これにしよう。早速、ホテルを予約し参加の申し込みをした。

 8月1日、ツーデーマーチ2日目に三内丸山遺跡へ行った。遺跡に立って感じて目に浮かんだのは、そこに住んでいる人たちがあっちこっちでザワザワと話をしている姿だった。昨日の出来事だったり、今日のこれからの予定だったり、単なる話だったり、これから皆で協力し合っての作業のことだったり、「ことば」で、今でいうコミュニケーションを図っている姿だ。ある特定の場所を話題にするのに、地名も創りだされただろう。六本柱の大型掘立柱建物も皆で話し合いながら共同作業で作り上げていくのは楽しかっただろう。などなど興味はつきない。

 青森から帰って縄文時代の事について少し調べようと書物を探していたら「縄文時代のコトバ」(福田浩・中島敏之著、上毛新聞社出版局、平成19年)という本があった。
その本の中に『ma ま 間(本では「さんずいに」)』という項目がって、掛り間(本では「さんずいに」)=入江や島かげを利用する港をさし、日本海岸から北海道にかけて使われる。そして大間岬などがあげられている。

 福岡には「赤間」や「福間」があるなぁ、2つとも海岸は近いのではないか、とその時は思っていた。

 10月25日、JR九州ウォーキング教育大前駅コースに参加した。教育大前駅~正助ふるさと村~伊豆本店~唐津街道赤間宿にある「赤馬館」~釣川沿いを久桜公園~赤間駅と歩いた。伊豆本店は酒蔵であるが、その前にコースを外れて「八所宮」へ行った。八所宮の説明には「本宮は天照大神のご両親を始め、遡る事、神代四夫婦八柱の神をお祭りし八所宮という。八所の神は、神武天皇東征の折姿を現し赤馬に乗り皇軍を先導されたと伝えられている。このことからこの地域一帯を『赤馬の庄』と言い、本宮は赤馬の庄の総鎮守の神社として人々の尊敬を集めてきた。」とあった。

 赤間の宿は玄界灘に注ぐ釣川の中流域にあり、ゴールの赤間駅までは釣川沿いを歩いた。「赤間」の名は縄文時代のことばの『ま』とは関係ないのか、海岸まではかなり距離はあるし、と思ってその日のウォーキングは終わった。

 3週間後、11月14日にはJR九州ウォーキング東郷駅コースに参加した。雨の中、「いせきんぐ宗像」を見学し宗像大社に向かう途中から釣川沿いを傘さして歩く。25日に歩いた釣川の下流にあたる。宗像大社を出たところに「宗像市郷土文化学習交流館海の道むなかた館」があったので見学をすることにした。展示室では古代から現代まで宗像地区と他の内外地域との交流の歴史が紹介されていた。そこには縄文時代の地形図があった。それを見てビックリした。なんと、釣川は赤間宿近くまで玄界灘から続く海で入り江になっていた。(「撮影禁止です。」といわれたので写真はありません。)

 そうすると、やはり「赤間」は縄文時代から「あかま」ないし「〇〇ま」と言われたていたのではなかろうか。神武東征の話はもともと「あかま」と云われた地域に後から話が出来たのか、あるいは「〇〇ま」と云われていた地域に神武東征の話から「あかま」と呼ばれるようになったか、それは分からない。しかし、縄文の時代から日本列島共通のことばで「〇〇『ま』」と名づけられていたのは違いないのではなかろうかと思う。赤間宿近くには吉留池ノ浦遺跡、吉留下惣原遺跡、冨地原深田遺跡などの縄文遺跡もある。

 青森県三内丸山遺跡から出土した黒曜石には長野県産のものもある。縄文時代は特に船を使って広範囲に交流していた。そのような交流に必要なことから日本列島で共通なことばや地名が出来ていったのではないかと思う。

 このような事を考えるのも私のウォーキングの楽しみの一つである。


(「教育大前コース」このあたりは古代から人々が住んでいたのではと思って撮った1枚。釣川の上流方向。)


(「教育大前コース」赤間駅付近の釣川。縄文時代このあたりまで海だった。)


(「東郷駅コース」宗像神社への道。ここは海だった。)


(「東郷駅コース」釣川が玄界灘に注ぐところ。)

方言に出会わなくなった-この夏東北を旅して

2015-10-09 | 旅で思う
 最近は、同じ年齢の人よりも耳が悪い。話をしていても聞き取れないことが多い。列車に乗ると不安なのに車内放送がある。降車駅が近づいていることや、乗換などの放送を聞き取ろうとするが、分からないことが多い。九州では列車に乗ることに慣れてきたので車内放送がよく聞き取れなくても不安は少ないが、それでも初めての路線では不安がある。知らない土地ではなおさらである。
 
 「奥の細道鳥海ツーデーマーチ」に参加のため山形県を旅した時、井上ひさし著「国語元年」(岩波文庫、2012年(2002年初版))という本を持って出かけた。本はカバーに書いてあるのを借りれば、『「共通語」を発明せよ。明治7年、文部官僚・南郷清之輔は「全国統一話言葉(はなしことば)」制定を命じられ、まず家中から口語の統一をこころみる。しかし南郷家はお国ことばの坩堝。清之輔は長州弁、妻と舅は薩摩弁、使用人たちは遠野弁に津軽弁、江戸武家言葉に町言葉。単語のちがい、異なる発声。屋敷中は大混乱に・・・言語と近代国家の奇妙な緊張関係を、ユーモラスに描いたテレビ版戯曲、文庫初登場』という内容のもの。1985年、NHK総合テレビで放送されたテレビドラマ。「國語元年」(中公文庫)の戯曲である。
 
 この本の中には『子音となるとさらに一層(ヨッポド)大変ヂャ。たとえば奥羽人は「十(ジュー)五夜」をば「ズーゴヤ」と言う。「人力車」をば「ズンリキシャ」と言う(ユー)。つまり奥羽人は「ジュー」チュ音も、「ジ」チュー音も、「ズー」チュー音一個で間に合わせチョルのでアリマスナ。』という清之輔の台詞も出てくる。
 
 読んでいたから不安が増していたわけではないけど、降りる駅と乗換を間違えないようにしなくてはと思いつつの旅だった。9月4日、東京駅から上越新幹線で新潟駅へ。新潟駅15時31分発秋田行き特急「いなほ7号」に乗車した。知らない土地で知らない路線である。ところが乗った「いなほ7号」の車内放送はそんな不安など一掃する格別なものだった。一語一語の発音がはっきりしていて、これまで乗った列車の中で最も明瞭でわかりやすい放送だった。
 もっともJR東日本の列車なので、車掌さんが東北の人とは限らないが、JRグループが車内放送の全国コンクールをしたらトップクラスではないかと思うほどであった。
 列車で旅をすると車窓や駅弁や楽しむことは多いが、車内放送に感動した旅はこの時が初めてであった。

 40年程前に福島・宮城を旅したことがある。その時は東北訛りなり東北弁をよく聞いたという印象が残っている。その場面の一部は旅の思い出として残っている。
 この夏、ウォーキングで青森に行ったり、山形に行ったりした旅では東北訛りなり東北弁にはあまり出会わなかった印象がある。それは、耳にとっては安心の旅であったが、そこそこの土地ならではの言葉に出会わなかった寂しさを感じる旅でもあった。


(7月29日青森県の太平洋沿いをウォーキング)


(9月5日山形県の日本海沿いをウォーキング)

縄文と弥生そして今

2015-09-02 | 旅で思う
 今年、7月21日吉野ケ里遺跡を訪ねた。昨年(2014年)のJR九州ウォーキングで訪れて、今回は2度目である。
 東の正門から入ると壕があり敵の侵入を防止する乱杭や逆茂木があるのに驚かされる。中に進むと大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や、高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭、南のムラ一般の人々が住んでいた地域があり、吉野ヶ里は弥生時代の大規模な環壕集落であり、弥生の人々は、城柵、物見櫓等の防御施設に囲まれた生活が営まれていたことが実感できる。


(2014.4.6吉野ヶ里公園)


(2014.4.6吉野ヶ里公園)


(2014.4.6吉野ヶ里公園)


(2014.4.6吉野ヶ里公園)

 一方、8月1日に訪れた縄文時代の三内丸山遺跡は、そのような防御施設は無い。縄文の人々は、解放された空間に集団生活の場を創り生活していたことが実感できる。杭はゴミ捨て場として利用されていたと思える所で、土留め用として利用されていた。


(2015.8.1三内丸山遺跡)


(2015.8.1三内丸山遺跡)


(2015.8.1三内丸山遺跡)


(2015.8.1三内丸山遺跡)

 縄文遺跡と弥生遺跡、短期間にそれぞれの遺跡に立った時感じたのは、「争い」「闘い」ということだった。弥生は「争い」「闘い」の時代だった。縄文は「争い」「闘い」のない時代だったということだ。
 縄文という時代への興味がますます深まっていく。
 例えば、縄文と弥生土の土器の違いがある。「縄文土器のデザインはおおぶりで、模様も特徴的なものが多いですが、弥生土器は比較的質素なものが多いです。」(「マナペディアホームへージ『縄文土器と弥生土器の違い』」より)というのも、開放感のある生活の違いが、創った土器の違いと関係があるのではないかと思う。
 縄文時代は、人々は能力の違いはあっても、差別なく、一人一人が協力し合いながら、一人一人も、また集団も、創造性を発揮することができる社会ではなかったろうか。協力し合う中で言葉も創られていったし、巨大な建築物も創られていった。生活必需品も、装飾品も創られていった。そんなことを思う。
 三内丸山遺跡の縄文時代は、1万数千年の間平和であった。青森に行った日が青森空襲70年の日だった。第二次大戦後の平和はまだ70年しか経っていない。しかし、徐々に閉塞感は強まっている。これからの平和に不安を感じる時代になってきている。
 そんな今は、急かされて、生かされている、そんな時代のような気がする。私たち一人ひとりも、創造性も、何でも経済効果の対象にされてしまう。縄文時代、弥生時代の遺跡に立って感じる。

佐賀の橋、青森の橋

2015-08-13 | 旅で思う
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 今年の6月13日、JR九州ウォーキングで相知駅へ行きました。
 相知駅は、佐賀県唐津市相知町にあります。日本の滝百選に選ばれている「見帰りの滝」があります。6月には、ブルー、ピンク、紫など40種約40,000株にものぼるアジサイが咲き、あじさい祭りが行われます。ウォーキングは祭りに合せて開催されます。
 相知の「地名の由来は、河川が交通手段であった遠い昔に、松浦川と厳木川が入り組むこの地が交通の要地となり、宿場とされてきたところから、人々が出逢い、親しく語らうところとして、「逢う地(あうち)」と呼ばれ、いつしか「相知(おうち)」になったといわれています。」(唐津市ホームページ『地域紹介:「新市のルーツ探訪」相知」より』)
 相知では、松浦川と厳木川が合流しているだけでなく、松浦川や厳木川にも小さい川が合流しています。ウォーキングではその何カ所かに出会います。ゴール間近で厳木川に他の川が合流している地点に橋がありました。その橋の名前は「出逢橋」という名前でした。それぞれの川の上流に住んでいる人が、川沿いに歩いてくると、そこで出逢うことができます。


(奥が厳木川、手前の川が合流している)


(出逢橋)

 8月1日は、縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目の三内丸山コースに参加しました。八甲田丸広場をスタートし、しばらく歩いて沖舘川の川沿いを歩きました。その時に橋が2つ並んでいるのが目に入ったので写真を撮りました。3枚目の写真、手前の橋の名前を見ると「相野橋」という名前でした。その後に、写真奥の橋を渡りました。ここは、2つの川の合流地点かもしれないと思い確認しょうとしましたが、その位置からは判りませんでした。橋の写真を撮るときも、橋が2つ並んでいることだけに注目し、川の流れはよく見ていませんでした。後で写真を見ると2つの川の合流地点でした。「相野橋」も「逢の」橋だろうと思います。


(右が沖舘川、左から川が合流している)


(相野橋)

 九州の佐賀県と東北の青森県のウォーキングで出逢った2つの橋、2つの川が合流している地点の橋に「逢う」が由来している名前が付けられていました。こんな発見もウォーキングの楽しさかな、と思います。