鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

上田電鉄に乗って「無言館」へ行った思い出【上田市の旅】

2020-08-12 | 
2020年8月12日(水)

8月9日(日)、NHK・Eテレの日曜美術館で「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」が放送された。

2年前、2018年の11月1日に「無言館」へ行った時のことを思い出した。

長野県の旅を計画し、ネットで調べていて目についたのが上田市にある「無言館」。
第2次世界大戦で亡くなった画学生の絵画を展示する美術館。
2018年9月には吉永小百合さんらが無言館の存続を願いチャリティ朗読コンサートをされた記事、2018年9月15日に亡くなられた樹木希林さんが長い間支援していたということも知った。

その年に行くかどうかは決めていない計画だったけど、それらの記事が後押しして飛行機、鉄道、宿の手配をして長野へ。

上田電鉄別所線は、長野県上田市のJR東北陸新幹線上田駅、しなの鉄道上田駅と同じ駅舎にある上田駅と別所温泉駅間を走っている。
長野市の方面から、しなの鉄道に乗って上田駅へ。


(上田電鉄上田駅)

「別所線・信州の鎌倉シャトルバス」セット乗車券を買って乗車。潮田町駅で下車。駅舎をでたところにシャトルバスは待っている。すぐに発車。無言館バス停に5分余で着く。


(「別所線・信州の鎌倉シャトルバス」セット乗車券)

建物は見えないが、木立の中の方らしく、歩いていく。坂を上って行くと、「無言館」の建物が見える。


(「無言館」への坂)


(「無言館」が見えてくる)


(「無言館」)


(記憶のパレット)


(無言館 第二展示館 傷ついた画布のドーム)


(上の写真右下白いポストの横に立ててあるもの)

大きな美術館ではない。中に入るといつもの美術館鑑賞とは違った雰囲気がある。美術館のへの思いもあるからだろう。

展示してある作品は家族など身近な人を描いた画が多かった。召集令状がいつ来るかもしれない、いつ戦場へ行くかもしれない。その時に向き合い描かれた。

先日のテレビ番組を観て、運営する人、修復をする人、遺作を持ち込む人、それぞれの思いを感じる。そして、無言で語りかける作者。

勇ましい言葉や罵りは一歩間違えば「戦争」へと導くことがある。

「無言館」は木立の中に静かに佇んで鑑賞に訪れる人を待っている。


(「無言館」は木立の中)


(周囲は山王山公園。公園から)

シャトルバスで別所温泉へ。湯につかり長野の旅3日目の疲れを癒す。

翌日、別所温泉駅から、まーるい窓のある電車で、のどかな風景を眺めながら、上田駅へ戻った。


(別所温泉駅)


(丸窓電車)


(丸窓電車)


(丸窓電車)

*NHK・Eテレの日曜美術館「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」は、8月16日(日)午後8時より再放送が予定されているようです。番組表でご確認ください。
*上田電鉄別所線の運行状況は上田電鉄ホームページでご確認ください。
*信州の鎌倉シャトルバスの運行状況は上田バスのホームページでご確認ください。

黄金駅(JR北海道)へ行った。

2018-07-14 | 
2018年6月27日(水)

 バスを待つ間、雨は小降りになってきた。北黄金貝塚公園前バス停から2つ目の「黄金」バス停で降りる。JR北海道室蘭本線の無人駅「黄金駅」は、バス停から歩いて1分もかからなかった。


(黄金駅)

 かわいい駅舎からホームに出ると、目の前は海。


(黄金駅舎内)


(駅舎側ホームから)


(駅舎側ホームから)


(海側ホームから)

 伊達市こども向けホームページ「だてキッズ」によると、「黄金」の語源はアイヌ語で「オ・コンプ・ウシ・ペ」で、「昆布(こんぶ)をとるところの」意味に、「黄金蘂」という字をあてて、オコンシベまたはオコンボシと表していた。後に「黄金」と変わったようだ。

 駅名も1925(大正14)年の開業当時は「黄金蘂駅」であった。

 縄文時代は、列車が走るあたりは海だったのではなかろうか。

 駅舎内で乗る列車を待っていると、列車が近づく合図があった。慌ててホームで写真を撮る。後で、JR北海道のホームページの列車ガイドを見たけど、その列車の写真は載っていない。新しく導入される列車の試運転だったかもしれない。駅舎内には通過する列車の時間も掲示してあるけど、時間帯が違っていた。


(通過する列車)


(駅舎内の案内。九州では見ることのない注意書きもある。)


(時刻表)

 駅にいる間、雨は降ったり止んだりだった。やがて、乗車する列車が近づいてくる合図があって、列車がくる。ふと、反対側を見たら、有珠山や昭和新山がようやく姿を見せた。列車はワンマン運転。


(10時32分発の列車)


(有珠山・昭和新山)

 列車に乗って2つ目の駅は、海が見える駅というより、ホームのすぐ下が海の駅。あらかじめ調べることはしてなかったので、写真撮るのも忘れ、ただ見惚れていた。駅は「北舟岡駅」。

 次の伊達紋別駅で下りる。黄金駅で取った「乗車整理券」とともに駅員さんに料金を払う。その乗車整理券には「黄金」と駅名が書かれているので記念にいただきたいと申し入れたが断られた。残念。


(札幌行きの「北斗」)


(旭川行きの「ライラック」)

JR最北端の駅「稚内駅」に下車。

2018-07-01 | 
2018年6月28日(木)

 65年前、5歳だった「子ども」の遊び場は「駅」だった。そのころはJRの「駅」では無い、国鉄の「駅」。

 「駅」が遊び場になったのは2歳の頃からか3歳の頃からだろうが記憶にない。「ばあちゃん」が子守で連れてきたのか、「じいちゃん」が汽車を見に連れてきたのか、「とうちゃん」が「駅」に用事があって連れてきたのか、最初のきっかけがなんだったかも記憶にない。そのうち家から一人で遊びに行くようになった。お昼ご飯や、夕飯の時間に帰らないと、「ばあちゃん」や「じいちゃん」や「とうちゃん」や「かあちゃん」が迎えにくる。

 「駅」は楽しい。

 「子ども」には「汽車」の到着が近づいてくるのがわかる。ポイントの切り替えをしたり、信号機を操作したり、「駅員さん」の動きが慌ただしくなる。「子ども」は改札口の外から、動く「駅員さん」たちを出来るだけ近くで見ようと移動する。毎日のように遊びに来ていても、改札口の中ホームへと入ると叱られる。危ないから叱られるのだと、「子ども」もなんとなくわかっている。

 「汽車」に乗る人たちは、「駅」の窓口で切符を買う。しばらくは待合室の椅子に坐って待っている。乗る「汽車」の時間が近くなると、改札が始まる。乗る人たちは改札口に並んで、「駅員さん」の手に切符を渡す。「駅員さん」はその切符を手に取り、改札鋏で切符の端を少し切って、乗る人に返す。改札口の中に入って、見送る人に手を振る人もいる。「子ども」の近くで手を振っている人もいる。

 煙を吐いて「汽車」がホームに着くと、大勢の人が降りてくる。改札口の「駅員さん」に切符を手渡しして、通り抜けていく。洋服の人も、和服の人も、通り抜けて行く。「駅」を出ると、バス停へ向かったり、市内電車の電停へ向かったり、菊池電車の駅へ向かったり、歩いて、京町の方へ、池田町の方へ、花園町の方へ行く人たちもいる。「駅」の横の交番で道を尋ねる人たちもいる。

 貨物列車が停まらずに通過することもある。1つ、2つ、3つ、と「子ども」は貨車の数を数える。「子ども」は数の数え方を、貨車を数えることで覚えた。50ぐらいまで数えたような気がする。

 その「駅」に停まらない特急が通過する時が凄い。走る「汽車」から、機関車に乗っている人が、これまでの区間のタブレットを「駅員さん」に渡す。その勢いで、次の区間のタブレットを別の「駅員さん」から直ぐに受け取る。渡して受け取る、その素早しさを「子ども」は眼を真ん丸にして眺めていた。

 「汽車」が出発すると、次の「汽車」まで時間がある。その間も「駅」は忙しい。「駅員さん」はこの仕事、あの仕事と動き回る。

 「駅」を利用する人たちは、「汽車」に乗る人たちだけでは無い。「電報」の受付もする。まだ家庭に電話など無かった時代、もちろん携帯電話など無い時代、手紙や葉書よりも早く伝えたいときは「電報」で伝えていた。

 荷物を「鉄道」で送る人も来る。「鉄道」で運ばれてきた荷物を受け取る人も来る。宅配便などは無かった。郵便小包で送れないような大きな物は鉄道便で送っていた。駅で遊んでいると「とうちゃん」が荷物の受け取りに来ることもあった。

 「子ども」はそんな様子も見てまわる。ホームとの柵を鉄棒代わりに遊ぶ、交番の中に入っても遊ぶ、駅の前の広場でも遊ぶ。2系統あった市内電車の電停でも遊ぶ。菊池電車の駅でも遊ぶ。「駅」の周りは「子ども」とって何でも遊び場になる。1日中飽きることは無い。

 「子ども」は小学生になると「駅」で遊ばなくなった。行動範囲が広がっていく。そして、中学生、高校生、社会人へとなっていく。

 いつの頃かは覚えてはないけど、国鉄の鉄道の行き着く駅が、南は「枕崎駅」、北は「稚内駅」だということを知る。南の終着駅は「枕崎駅」だが最も南に位置する駅が「西大山駅」だと知ったのはそれよりも後だった。

 会社員を辞めて、プチ「鉄道の旅」を始めた。「西大山駅」は、1度だけ通過した。ホームに降りて記念写真だけは撮れた。「稚内駅」は、利尻・礼文の旅に参加した時、観光バスで見学した。

 今年5月、縄文を学ぶ旅を始めようと指宿に出かけた。途中、喜入駅で降りた。指宿行を待つ間、待合室で時刻表を見ていたら、「西大山駅」へ行こうとよ、と呼びかける「誰か」がいた。

 急遽、指宿駅に下りる予定を変更して、乗り越してJR最南端の駅「西大山駅」で下車した。

 帰りの指宿駅方面への列車を待つ間、無人駅で駅舎も無い「西大山駅」の周りをブラブラしていると、「稚内駅」へは行かないの、とささやく「誰か」がいた。

 翌6月、JR最北端の駅「稚内駅」へ向かう。

 飛行機で北海道へ。幾つかの縄文を学ぶ見学を済ませ、旭川に泊まる。翌日、旭川駅9時発「宗谷」に乗る。札幌駅始発の列車は、ほぼ満席。旭川駅を出てしばらくは、田植えがすんだ田んぼの風景が広がる。その後は、単調な景色を眺めているだけ。北海道らしい広々とした大地と、牛がのんびりしている姿が見れるようになったのは、稚内が近づいてからだった。


(旭川駅9時発「宗谷」に乗る)


(旭川駅9時発「宗谷」)


(田植え後の田んぼ)


(名寄駅で)


(牛がのんびりと)

 旭川駅から3時間40分。ようやく「稚内駅」に着いた。


(稚内駅に着く)

 ガラス越しに、着いた「列車」を大勢の人たちが写真に収めている。ちょうど4年前、同じくらいの時間に、同じようにガラス越しに写真撮った。その時、「観光で来て、ホームの外から写真撮るのではなく、列車で来てホームで写真撮りたい。」と思ったことが甦る。ホームで写真を撮る。「枕崎駅」から何キロ、「西大山駅」から何キロなどの案内板が目につく。4年前はホームの外から撮ったけど、ホームの中で撮ると、やはり嬉しい。


(線路はここまで)


(JR最北端の駅)


(西大山駅からの距離)


(南の終着駅とは友好都市)

 改札口をでたところは、複合施設「キタカラ」で、JR稚内駅、バスターミナル、映画館、コンビニ、グループホーム、高齢者住宅、地域交流センターなどが一体となっている。「道の駅わっかない」でもある。賑やかではあるが、ホームを出るとJR最北端の駅「稚内駅」に着いたという感激は薄れだす。小さくてもいいから、駅舎だけ独立してあって欲しい。その「駅」とホームを眺めていたいと思う。


(窓越しに。4枚上の写真の車止めの裏側)


(旧稚内駅時代の終着地点。現在の終着地点の延長上にある。)


(複合施設「キタカラ」)


(道の駅の説明板)


(記念入場券。「来駅証明書」とセットで売ってある。乗って来なくても買えるのが残念。)

 「古希」になった今年、「誰か」の声に引き摺られ、JR最南端の駅「西大山駅」とJR最北端の駅「稚内駅」に初めて下車した。

 そうしたら、「子ども」の頃の「駅」のことが次から次へと思い出されてくる。

JR九州の「記念入場券」

2018-05-05 | 
2018年5月4日(金)

5月2日、西大山駅へは、いつでも散策で「慈眼寺駅」を歩き、慈眼寺駅から喜入駅まで行き、喜入駅から西大山駅へ行きました。

その喜入駅に1枚のポスターが目に入る。

すぐに「喜入駅」の入場券を購入。

無人駅の「西大山駅」の入場券は、西大山駅からの帰りに指宿駅で購入。

翌々日の4日。熊本駅から肥薩線の「いさぶろう・しんぺい」に乗車。

「真幸駅」の入場券は人吉駅で販売されています。駅の停車時間は4分。
停車ホームからダッシュ。線路を渡って窓口で購入。

「嘉例川駅」の入場券は、吉松駅で買えそう。

吉松駅では「いさぶろう・しんぺい」から「はやとの風」に乗り換え。時間は3分。

ダッシュして跨線橋を上り下りし窓口へ。列が出来ていて購入を断念。

また跨線橋を急いで渡り「はやとの風」の発車になんとか間に合う。

隼人駅で下車し、窓口で聞いたけど「嘉例川駅」の入場券は販売されていませんでした。

嘉例川駅はお弁当の写真でご勘弁を。

「いさぶろう・しんぺい」から「はやとの風」と乗り継いだ記念に車内でクリアファイルいただきました。


(喜入駅でポスター)


(三駅の入場券)


(嘉例川駅で販売「百年の旅物語 かれい川」)



(クリアファイルのデザイン)

JR最南端の駅「西大山駅」に下車

2018-05-05 | 
2018年5月2日(水)-(3)

 5月2日ふとJR最南端の駅「西大山駅」に降りました。

 だいぶん前になりますが、枕崎駅から鹿児島中央駅行きの列車に乗った時、列車が停車中にホームに降りて写真を撮ったことはありますが、「下車」は初めてです。

 鹿児島中央駅発に喜入駅から乗車し、枕崎駅行きの13時38分で着き(当日は10分程遅れて着)。帰りは枕崎駅から鹿児島中央駅行き14時18分に乗車して指宿駅へ。

 鹿児島中央駅方面から列車で行って帰るには、これだけだと思います。

 「下車」した人は少なく、観光バスも来ていましたし、車で来ている「観光客」も多かったです。

 当日は雨模様で周囲を写真を撮って廻ることも出来ませんでした。開聞岳も隠れたままでした。駅の前にはお店が一軒ありますが、写真は撮ってませんでした。

 枕崎線は、以前乗車した時よりも本数が少なくなり「下車」する機会はますます減りそうです。


(開聞岳は雲の中)


(西大山駅)


(西大山駅時刻表)


(駅前のポスト)


(駅前の畑)

紅葉の竈門神社に行った。

2016-11-27 | 
2016年11月26日(土)

 大宰府にある、宝満宮竈門神社(ほうまんぐうかまどじんじゃ)に行きました。
 
 玉依姫命を主 祭神にお祀りする神社で、 「縁結び・方除け・厄除け」の神様ですが、紅葉で有名でこの季節は多くの参拝客が訪れます。

 西鉄太宰府駅の福岡銀行前からコミュニティバス「まほろば号」内山行に乗って100円です。




























九州横断特急に乗って阿蘇へ行った。

2016-08-04 | 
2016年8月3日(水)

 熊本と大分を結ぶJR九州豊肥線は熊本地震で大きな損壊を受け、肥後大津-豊後萩間が不通となった。7月9日から阿蘇-豊後萩間が開通し、現在は肥後大津駅-阿蘇駅間で不通となっている。豊肥線を走っていた九州横断特急も別府-阿蘇間3往復で運転再開された。宮地-阿蘇間は快速列車扱いで特急券はいらない。

 熊本から新幹線で博多へ。博多からは特急ソニックで終点大分駅に11時6分に着く。大分駅の府内中央口広場の工事が終わってから初めて降りた。以前はゴタゴタしたイメージがあったが、広々スッキリして気持ちがいい。熊本駅の再開発はまだまだ先だがどのように変貌していくのだろうか。


(博多駅で、青いソニックと白いかもめ)


(大分駅府内中央口)


(大分駅府内中央口)


(熊本・大分のフェアがあっていた)

 駅弁「一村一品運動大分づくし」を買って、11時58分発の九州横断特急に乗車。乗客は少なかった。13時40分宮地駅に着く。駅に着く少し前から雨が降り出したが駅に着いたとたんドシャ降りになる。


(九州横断特急)


(駅弁「大分づくし」)


(雨模様に)


(宮地駅前のどしゃ降り)


(宮地駅の時刻表)

 豊肥線はこれまで風水害の災害が多い路線で、2012年の水害では最も被害の大きかった宮地-豊後竹田間の復旧に1年程かかった。宮地駅には、その時と1990年水害の模様と復旧の過程がパネル展示してある。線路が宙に浮いたり、グニャグニャに曲がったり豪雨の凄さに圧倒される。
 それから4年後の今年、肥後大津-阿蘇間の復旧にはどれくらいの時間がかかるのだろうか。


(これまでの災害のパネル)


(これまでの災害のパネル)


(これまでの災害のパネル)

 いつもは歩くけど、タクシーに乗りコンビニで傘を買って阿蘇神社へ。

 1850年頃に建てられた阿蘇神社の楼門は、茨城鹿嶋市の鹿島神宮、福岡市東区の筥崎宮とともに三大楼門に数えられ、国の重要文化財に指定されている。高さが20メートル程ある楼門は、ぺしゃんこ状態に崩壊していた。拝殿や神殿も崩壊していた。
 崩壊した楼門前に仮設の参拝所が設けられて、次ぎから次へと参拝者が訪れていた。


(崩壊した楼門)


(崩壊した楼門と参拝所)


(参拝所から楼門)


(参拝所から楼門)


(2015年1月5日撮影の楼門)

 水基巡りの門前町は雨でほとんど人がいない。突き当たって左へ曲がりすぐに右に曲がると左手に旧女学校跡がある。昭和の戦前の建物の様だが校舎は無事だったようだ。


(水基巡りの門前町)


(雨で人通りが無く寂しそうな湧水)


(旧女学校)


(旧女学校)

 雨も降っているので、水基巡りの散策は止めて阿蘇駅へタクシーで向かった。途中、雨もあがる。


(阿蘇駅)


(阿蘇駅の時刻表)


(阿蘇駅から阿蘇の山)


(阿蘇駅から阿蘇の山)

 阿蘇駅に行くと、必ず寄るのが隣接している道の駅「阿蘇」のソフトクリーム売り場。阿部牧場、竹原牧場の2つの牧場の牛乳で作ったソフトクリームが売ってある。今日は牛乳本来の自然な甘さを活かした阿部牧場の方にした。竹原牧場はコクのある美味しさにこだわっている。
 物産売り場では、パンやから揚げを買って、駅前にある坊中温泉夢の湯で温泉に浸かる。


(道の駅阿蘇)


(道の駅阿蘇)


(阿蘇駅前の温泉「夢の湯」)

 露天風呂に入っていると、二匹のトンボがじゃれるように飛んできた。一匹が片方に言い寄っているようだが、片方は嫌っているよう。その片方が一匹が寄ってこないように水溜りの水を尻尾ではねている。一匹は離れてはねている様子を見いるだけ。そのうち片方が上へ飛んで行ったら一匹も追っていった。しばらくすると、一匹は一匹だけ下りてきて、露天風呂の周りを寂しそうに飛んでいた。
 露天風呂は木陰の中にあって、のんびりしたかったけど後の時間もあるので早々に出る。汗を流すために温泉に入ったけど、この時期は汗をかくために入った感じになる。

 入浴後、駅構内に入って、休業中の「火星」の写真を撮る。火星はJR九州「ななつ星」の朝食用のレストランとして阿蘇駅のホームに作られたが他の時間帯は一般のレストランとして営業していた。


(阿蘇駅構内レストラン火星)

 熊本駅からの観光列車「あそボーイ」は運休しているが、クロちゃんの家は無事にあった。


(阿蘇駅構内クロ駅長室)

 さて、熊本への帰りだが、不通の阿蘇駅-肥後大津間の代行バスがあるようなので時間を調べると、通学や通勤する人の便利のために早朝と夕方しかない。阿蘇駅17時10分発にはまだかなりの時間がある。


(代行バスの時刻表)

 熊本-大分間の特急バスは1日7往復ある。15時42分発に乗れそうなので、待つことにする。しかし、大分からのバスはなかなか来ない。
バスのターミナルで阿蘇の火山灰で作った「わが灰くまもん」を売っていたので買った500円。


(熊本-大分間のバス時刻表)


(「わが灰くまもん」キーホルダー)


(「わが灰くまもん」が出来るまで)


(阿蘇登山バスと定期観光バスは運休中)


(市内を廻るバス)


(市内を廻るバス)

 バスは25分程遅れてやっと来た。阿蘇駅で5、6人乗ったらほとんど満席状態になった。いつもはこの路線のバスは空いている。大きな災害があると「絆」が叫ばれるが、無縁の人たちも結構いる。自分の荷物を隣りの座席に置いて席を占拠する人たちのことだが、このバスでも平然としている人たちがいる。

 いつものバス路線国道57号線を熊本へ向かうと、赤水駅を過ぎてしばらくすると左手にあの阿蘇大橋がある。そこは通れない。赤水駅の手前の信号から右に曲がって外輪山へと上る。バスは一旦赤水駅まで行って引き返す。
 赤水駅には列車が停まっていた。回送列車が地震にあい立ち往生していたが、その列車だと思う。


(赤水駅の手前から右折し57号線迂回路へ)


(赤水駅に停まっている列車)

 上る車は渋滞。この坂は眺望のいいところだけど、雨がまた降りだし、雄大な景色は見れない。


(外輪山を上って行く)


(傷んだ田んぼではボーリングがあっていた)


(上って行くが渋滞)


(外輪山からの眺め)

 外輪山の上へ出て、左に曲がり通称ミルクロードへ。
 バスは肥後大津駅に着く。多くの乗客が降りた。阿蘇熊本空港を経由し熊本市内へ入ろうとする頃からドシャ降りの夕立が・・・。


(左に曲がりミルクロードへ)


(肥後大津駅)

 水曜日で雨も降っていたので阿蘇は観光客も少なかった。阿蘇へは熊本からも大分からも公共交通機関を使って行くことが出来る。今しか体験できない阿蘇へ足を延ばす人が増えてくれればと思う。雨も降っていたのでタクシーを使ったが、宮地駅、阿蘇神社、阿蘇駅、内牧温泉はバスで廻れる。

 熊本-博多-大分-阿蘇-熊本と家を出てから帰り着くまで約12時間。大分駅で買ったカボスハイボールと道の駅阿蘇で買ったから揚げで夕食。一日の旅を終える。

さきたま古墳群へ-埼玉の旅1日目

2015-11-05 | 
【写真はクリックすると拡大します】

10月31日(土)

「第38回日本スリーデーマーチ」参加のため埼玉県へ。

埼玉県で思い浮かぶのは大宮にある鉄道博物館くらい。
羽田空港から京急電鉄に乗りJR品川駅発9時50分小金井行に間に合った。
40分でJR大宮駅着。ニューシャトルに乗り換え「鉄道博物館(大成)駅」下車。
ニューシャトルは東北・上越両新幹線が建設されるに伴い、その沿線地域住民の足として導入された新交通システムの旅客輸送機関。昭和58年12月に開業し、新幹線高架軌道の張出し部分を活用して、大宮と内宿(伊奈町)の間12.7kmを走っている。(埼玉新都市交通株式会社ホームページより)


(ニューシャトル)


(鉄道博物館駅)

鉄道博物館では「SUGOCA」に入館料支払いの登録をして、そのICカードで駅と同じように入場する。ここには数年前に来たことがある。今日はぶらりと廻るだけにしたがやはりウキウキする。昼食用に駅弁を買おうとしたが迷ってしまう。結局、背中のリュックに入りそうな大きさの秋田駅「日本海たこびより」を買った。たこの味付きご飯、たこうま煮、たこバーグ、たこそぼろなどが入っている。


(鉄道博物館内)


(鉄道博物館内)

ニューシャトルでJR大宮駅に戻り、次の目的地JR行田(ぎょうだ)駅へ向かう。駅横の観光案内所で行き帰りの説明をしてもらいパンフレットをいただき、バス停のベンチで駅弁を食べながら、12時50分発観光拠点循環バス待った。やがて来たバスに乗り「埼玉古墳公園前」で降りる。


(JR行田駅)

古墳公園内にある「埼玉県立さきたま史跡の博物館」にはコインロッカーは設置されてなかった。受付でスーツケースを預かってもらい古墳公園内の埼玉古墳群散策に向かった。
埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は9基の大型古墳からなる全国有数の古墳群で関東では最も大きいのではなかろうか。古墳公園として散策コースも整備されている。


(奥に「さきたま史跡の博物館」)


(古墳公園散策マップ)

公園の中を通る道路を渡って直ぐのところに愛宕山古墳がある。古墳群の中では最小の前方後円墳で墳丘に石仏がある。うつかり見過ごして通り過ぎるところだった。


(愛宕山古墳)

真っ直ぐ進むと直径105m、日本最大の円墳、丸墓山古墳が見えてくる。学校行事であろう見学に来ていた小学生が記念写真を撮っていた。桜の木も多く4月は桜で綺麗だろうな。
頂上からは古墳群が見渡せる。
忍城(おしじょう)も遠くに見える。忍城は、豊臣秀吉の関東平定出陣の時、石田光成の水攻め大作戦に落ちなかった「浮き城」として有名である。


(埼玉村(さきたまむら)の時代から)


(丸墓山古墳)


(丸墓山古墳頂上から遠くに忍城)


(丸墓山古墳頂上から稲荷山古墳)


(丸墓山古墳頂上から将軍山古墳)

丸墓山古墳の急な階段をおそるおそる降りて、稲荷山古墳へ向かう。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、古墳群の中で最初に出現した古墳。1968(昭43)年の発掘調査で金錯銘鉄剣が発掘されている。ここの頂上からも古墳群や行田の田園風景を眺めることができる。


(稲荷山古墳)


(稲荷山古墳頂上)


(稲荷山古墳頂上から田園風景)


(稲荷山古墳頂上から丸墓山古墳)



(稲荷山古墳頂上から将軍山古墳)


次に向かった将軍山古墳は春先には墳丘一面に菜の花が咲くそうだけど今は秋。明治時代に横穴式石室が発掘され、その時の埋葬の状況が古墳の一角にある将軍山古墳展示館に復元されている。


(将軍山古墳展示館)


(将軍山古墳展示館内)

埼玉古墳群のほぼ中央にある二子山古墳でようやくコスモスと古墳を写真に撮る。二子山古墳は武蔵の国で最大の前方後円墳である。公園内には四季折々の花が咲くようだが、今日お花に会ったのはここだけだった。


(二子山古墳)

最初とは少し離れているが、公園の中を通る道路に戻って渡る。人家の中を通っていくと鉄砲山古墳がある。江戸時代、古墳の周辺が忍藩の砲術練習場になっていたことからこの名がつけられている。古墳の整備が行われていて青いシートが張られていた。


(鉄砲山古墳)

紅葉した木々の向こうには中の山古墳が見える。古墳群の南端にあるので訪れる人は少ないようだ。周掘りが復元されていた。


(中の山古墳)


奥の山古墳は鉄砲山古墳の横にある。周掘りが復元されている。


(奥の山古墳と周堀)

博物館に近いところに瓦塚古墳がある。整備にともなう発掘調査で多くの埴輪や土器などの遺物が出土している。そのためかどうかは分からないが、古墳の直ぐ横に「はにわの館」があり、はにわ作りの体験ができるようになっている。出来上がるまで2時間程かかるようだ。


(瓦塚古墳)

パンフレットには約3km、2時間ほどの散策コースと記されていたが、少し急いだので1時間ほどで一周した。

「埼玉県立さきたま史跡の博物館」へ戻り、館内を見学。展示してある国宝「金錯銘鉄剣」は、1968年に稲荷山古墳で発掘されているが、それから10年後、鉄剣に文字が刻まれていることが発見されその文字の中に「ワカタケル大王」と読める文字があったことで一躍話題になった。「ワカタケル大王」は第21代雄略天皇に比定されている。
熊本県菊水町(現和水町)にある江田船山古墳から1873(明治6)年以降に発掘された銀錯銘大刀(1965(昭和40)年に国宝に指定)に文字が刻まれていた。記されている大王の名は文字の判読が難しいことから諸説あったが、今では稲荷山古墳の文字とも比較検討されて「ワカタケル大王」とされている。そういうことから埼玉県の稲荷山古墳から出土した剣の文字解読は熊本では当時大ニュースであった。
稲荷山古墳は5世紀後半に築造されたと推測されており、江田船山古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測されている。5世紀から6世紀頃のヤマト政権は埼玉や熊本の地方の豪族とも関係を保ちながら、次第に支配を強めて行ったのだろうか。

博物館では、「古墳の終焉と律令時代の幕開け」という企画展があっていた。九州の博物館では弥生時代を中心とした企画が多いように思う。今、福岡市博物館では「新奴国展」が、八代市博物館では「交流する弥生人」が開催されている。九州と関東では古代歴史への関心に違いがあるのだろうか。

博物館の直ぐ傍には埼玉県名発祥の碑があった。明治4年県が設置されたときは、「埼玉県」と「入間県」の二つに分かれていたが、明治9年に今の圏域となり、県名は「埼玉県」となった。律令制度のころは「前玉(さきたま)」と呼ばれていた。と記されている。


(埼玉県名発祥の碑)

古墳公園を後にして観光拠点循環バスで秩父鉄道行田市駅へ。
行田市駅は昔のままの駅舎で、ICカードも使えない。JRもその他の私鉄もどんどん合理的な駅舎に生まれ変わっていく。ここは懐かしい、ほっとする、そんな感じの駅だ。
秩父鉄道寄居(よりい)駅まで50分程。途中、秩父鉄道熊谷駅でSLと行き違った。


(秩父鉄道行田市駅)


(秩父鉄道行田市駅)

寄居駅で東武鉄道東上線に乗り換える。東武鉄道鶴ヶ島駅に小川町乗換して約1時間で着いた。3日間滞在するホテル「シティ・イン鶴ヶ島」にチェック・インする。


(東武鉄道寄居駅)

ホテル近くのファミレス「とんでん」で、お勧めメニューのそばと寿司のセットに冷酒で夕食をとった。土曜夜の書き入れ時にに一人で入ったが、料理を運んでこられるとき、お茶を入れ替えてくれるとき、従業員の皆さんは丁寧に挨拶されるのが印象的だった。

乗り鉄を楽しんで、埼玉と熊本の歴史に触れ、埼玉の皆さんに親切にしていただき1日目が終わった。

上杉鷹山の米沢へ-山形県の旅4日目

2015-09-15 | 
【写真はクリックすると拡大します】

9月7日(月)

 寝るのも早かったけど、民宿の2日間で癖がついて早く目が覚めた。
 小雨の中、朝の露天風呂に浸かる。
 遊佐のウォーキングが終わって、その日に羽田から飛行機で熊本に帰るのは無理なようだったので山形市付近で宿泊するところをネットで調べたら「男気一人旅☆平日限定1泊2食付」というプランの宿があったので、利用した。もちろん「女子の一人旅」のプランもある。当日宿の案内等を見ていたら、皇族や多くの著名人が利用してきた宿のようだ。竹久夢二の作品を集めた「夢二ギャラリー」もあったので朝食後に鑑賞した。

 さて、山形県4日目。
 テレビの天気予報は山形県南部置賜地方の雨の確立午前50%、午後60%である。傘をさしての一日になるのを覚悟しホテルをチェックアウトしたら、雨が止んだ。
 ホテルの直ぐ横にある上山城へ行った。城の中は歴史資料館になっているようだが休館日であった。このあたりの歴史は知らないのでお城についても分からない。


(上山城)

 お城横の公園には斎藤茂吉の歌碑があった。上山市は斎藤茂吉の出生地である。昨日は山形駅から列車でかみのやま温泉駅へ来たが、一つ手前の駅は斎藤茂吉記念館前駅だった。


(斎藤茂吉歌碑)

 10分程歩いて駅へ。傘をささずに歩けたのはありがたかった。


(上山城)


(米沢駅)


(斎藤茂吉記念館前駅が隣駅)


(米沢行普通列車)


(山の斜面のハウスは何だろう)

 9時47分米沢行普通列車は遅れて入ってきた。米沢駅に着いて観光案内所で博物館や上杉神社へ行く方法を聞いたら、バスが直ぐに出るということで慌ててバス停へ向かった。スーツケースをコインロッカーに入れる時間もなく、バスの運転手に確認し乗った。15分ほどで上杉神社前バス停に着いた。雨は降っていない。
 先ずは、米沢市上杉博物館へ。中にコインロッカーがあった。100円入れて後からそのお金は戻ってくるロッカーだった。


(米沢市上杉博物館)

 博物館には上杉家に伝わる品々が展示してある。織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられる「上杉本洛中洛外図屏風」を大型スクリーンに映し出し解説する映像があった。上杉鷹山の展示コーナーでは鷹山の功績や人となりが紹介されている。上杉鷹山シアターでは3面マルチスクリーンで鷹山の物語が上映されている。鷹山を演じているのは鉄ちゃん西村和彦だった。


(上杉鷹山)

 上杉鷹山を有名にしたのは、1961年に第35代アメリカ合衆国大統領に就任したケネディである。日本人記者の「尊敬する日本人政治家は」との質問に「上杉鷹山」と答えたと言われています。上杉鷹山を欧米の人に最初の紹介したものとして明治27年(1894年)に出版された内村鑑三の英文著書がある。日本語訳「代表的日本人」(岩波文庫他)として出版されている。西郷隆盛(新日本の建設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖人)、中江藤樹(村落教師)、日蓮上人(仏教僧侶)の5人が紹介されている。
 上杉鷹山は米沢藩第9代藩主上杉治憲で、隠居後に鷹山と号した。日向高鍋藩の次男として生まれたが米沢藩に養子として迎えられ17歳で藩主となる。
 当時、藩の財政は厳しく、大倹約令を発令し、江戸藩邸での藩主の生活費をおよそ7分の2とし、日常の食事は一汁一菜、普段着は木綿、奥女中も50人から9人に減らした。食事や普段着は生涯にわたり実行したといわれる。倹約だけでは限界があることから、武士の庭のはじめ空いている地に漆・桑・楮の木を植え、産業の発展を図った。武士の婦子女には機織りを習得させ、絹織物を産業として発展させ今日も米沢織として発展している。公娼制度の廃止にも取り組んだ。
 鷹山はこれらの改革を領民の生活の向上を一番の目的として推進した。鷹山は35歳で家督を譲ったが、その時に、領民は藩主のためにいるのではない。藩主は領民を私物化してはいけない。など三ケ条を後継者に言い渡している。1785年、明治維新80年程前のことである。それは「伝国の辞」として伝えられている。
 上杉家第四代藩主上杉綱憲は吉良上野介の実子である。上杉家に残る文書では、討ち入りの日、吉良邸の警備は厳しいものではなかった、という興味深い展示もあった。綱憲の治世も財政悪化の一因となったともいわれている。


(鉄砲の体験コーナー)

 博物館の後は、上杉謙信が祭られている上杉神社にお参りし、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続などが所用した鎧などが展示してある上杉神社稽照殿(けいしょうでん)へ。戦国時代、闘いの真ん中にいた武将たちが戦場で使っていたものだけに迫ってくるものがある。


(上杉謙信像)


(上杉鷹山像)


(上杉神社)


(上杉神社)


(上杉神社)


(上杉神社)


(稽照殿)


(上杉神社)


(上杉神社)


(上杉神社)


(上杉神社)


(米沢市上杉博物館)

 上杉神社の境内を出るところに堀がある。鯉が泳いでいたが、鷹山は武士に鯉を育てさせ産業とした。土産物店などがあるところにはウコギソフトがあった。ウコギも鷹山が食用に推奨し垣根として植えられた。現在でも新芽を天ぷらやおひたしとして食べられている。根や茎は滋養強壮になる。


(お堀の鯉と鳩)


(土産物店近くの母子像)


(ウコギソフト)




 雨にはあわないまま、バスで駅へ。乗客は私一人だった。経営大丈夫かなといらぬ心配をする。
 14時38分発山形新幹線つばさで東京駅へ。遅い昼食になったが、山形駅で買った駅弁を食べる。東京駅着16時48分。羽田へ向かい帰熊。


(米沢駅)


(山形新幹線)


(駅弁)


(駅弁)

 今回の旅は鳥海ツーデーマーチに参加することが目的であったが、行は羽田から京急で品川駅へ。品川でJR山手線に乗り換え。東京駅から上越新幹線で新潟駅へ。新潟から白新線、羽越本線を特急で酒田駅へ。酒田から羽越本線普通列車で吹浦駅へ。2泊。帰りは、遊佐駅から羽越本線普通列車で酒田駅へ。酒田から陸羽西線快速で新庄駅へ。新庄から山形新幹線で山形駅へ。山形駅から奥羽本線でかみのやま温泉駅へ。1泊。かみのやま温泉から奥羽本線普通で米沢駅へ。米沢から山形新幹線で東京駅へ。山手線で浜松町駅。浜松町からモノレールで羽田へと移動。東京からの上越新幹線と帰りの米沢からの山形新幹線車内で駅弁も食べ、鉄ちゃんの楽しい旅でもあった。

遊佐(ゆざ)町は遠かった-山形県の旅1日目

2015-09-08 | 
【写真はクリックすると拡大します】 

 9月4日から7日まで山形県に行った。山形県遊佐町で5日と6日に開催される「第23回奥の細道鳥海ツーデーマーチ」に参加するのが目的である。
 「遊佐(ゆざ)町は、山形県庄内平野の日本海沿岸最北部に位置し、北は秀峰、鳥海(ちょうかい)山をはさんで秋田県に接し、南はかつて北前船で隆盛を極めた酒田市に接しております。農業を基幹産業として栄えてきたこの地は、海の幸や山の幸にも恵まれ、四季をとおして豊富で新鮮な食材と自然豊かな風景を楽しむことができます。」(遊佐町ホームページ「町長あいさつ」より)
 東京から遊佐町へ行くには、3つの方法があった。1つは山形新幹線で新庄経由、1つは秋田新幹線で秋田経由、も一つは上越新幹線で新潟経由である。
 羽田空港に着く時間、料金等から上越新幹線で行くことにした。羽田から東京駅へ行くのは初めての経験なのでスムーズに行けるか不安があったが、順調に行って、予定より一つ早い列車の切符に変更できた。
 駅弁の販売コーナーは種類が多く、どれを買うか迷ってしまう。目に留まったのが「鉄カツダイヤ弁当」。これに決めた。
ホームで待っていると折り返しの新幹線が入ってきた。世界中で称賛されている新幹線の清掃が始まる。到着して、清掃が終わって、8分程で出発した。


(新幹線清掃チーム)


(上越新幹線「とき」)


(上越新幹線「とき」)

 早速、駅弁を食べる。チキンカツをメインとした弁当だった。帰宅後調べたら、鉄道ダイヤ情報400号発行を記念し今年8月1日から販売されている期間限定弁当のようだ。


(鉄カツダイヤ弁当)


(鉄カツダイヤ弁当)

 上越新幹線もトンネルが多い。2時間10分程で新潟駅に着いた。


(新潟駅)


(新潟駅前、ここを歩いて行くと萬代橋)

 乗り換えの列車までは1時間半ほどある。蛭子能収が出演する『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』(熊本はBSで放送)で新潟駅の近くにあるのを知った「萬代橋」へ行こう。
 萬代橋は信濃川に架かる大きな橋ぐらいに思っていたら違っていた。平成16年には国の重要文化財に指定されている橋だった。現在の橋は3代目、1929年の完成で、1964年の新潟地震でも壊れなかったという。


(萬代橋)


(萬代橋からの眺め)


(萬代橋)


(萬代橋付近)


(萬代橋付近)


(萬代橋付近)

1886年(明治19年)に架橋された初代の橋名盤のレプリカが流作場五叉路に設置されていた。


(初代の橋名盤のレプリカ)

 橋の近くには高浜虚子の句碑もあった。「千二百七十歩なり露の橋」。


(虚子句碑)

 駅へ戻り、15時31分発秋田行き特急「いなほ7号」に乗車。この時間の前に出る「いなほ」は12時台で熊本からでは間に合わない。


(特急いなほ)

 「いなほ」の名のごとく、稲が実った田んぼの風景の中を走る。庄内平野(?)の広い広い稲穂の風景が続く。米どころを実感する。




(中条駅)



 府屋という駅あたりから日本海沿いに出る。これからは左手に日本海を眺めながらの列車の旅。指定席が車両の右側の席だったので、左側の空いている席から写真を撮る。撮り逃がした風景も多かった。














(あつみ温泉駅)





 鶴岡駅の手前から再び稲穂の風景になる。田んぼの中に突然風力発電の風車が見えた。九州では山や海岸で見ることが多いが、ここは田が広大で風も強いのだろう。




(風力発電)

 「余目」という駅があった。「あまりめ」だと思ったら「あまるめ」と読む。


(余目駅)

 17時37分、酒田駅着。
 17時49分発秋田行普通列車に乗り換える。
テレビでは見たことがあるけど、自分で「開」釦を押してドアが開く列車は初めての経験だ。列車内には「開」と「閉」の釦がある。


(秋田行普通列車)


(秋田行普通列車)


(秋田行普通列車)

 2日間宿泊する民宿がある吹浦駅(ふくらえき)に18時7分着。


(吹浦駅)

 駅にはツーデーマーチ主催者が用意したバスが待っていた。民宿にも到着時間を知らせていたら民宿「海の家よしの」のご主人も迎えに来られていた。申し訳ない。
宿に着いて早速夕食。同じ列車で来られた方とお話ししながらいただく。自分で飛行機やホテルの手配をして外国旅行が出来る人が羨ましい。いいなぁ。
 料理は写真に刺身、あら汁、ご飯。満足満腹。お酒は常温コップ酒。辛口ではないけど甘くも無いお酒。男の酒。2杯飲んだ。