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「鹿児島市ふるさと考古歴史館(掃除山古墳)」へ行った。【縄文を学ぶ-1】

2018-06-10 | 縄文を学ぶ
2018年5月2日(水)-(2)

 「縄文(時代)」がブームとか。

 「流行性感冒」を初め、これまで「流行」には無縁だったけど、「縄文(時代)ブーム」には少し乗っていこうと思う。

 「縄文時代」は戦後に出来た時代である。戦前は無かった。戦後学問的に作られた時代である。当時、日本列島で生活していた人々は「私たちは縄文人」と思って生きていたわけではない。私たちが勝手に「縄文人」、「縄文文化」、「縄文時代」と呼んでいる。

 縄文時代は何時から何時までか?は、ややこしい。

 年代測定の方法で何百年、何千年の違いも出てくる。

 何をもって縄文時代の始まりとするか、何をもって縄文時代の終わり、つまり弥生時代の始まりとするかも諸説ある。

 歳とってくるとややこしい話は避けたくなる。気楽に学んでいきたいと思う。

 世界史的には旧石器時代から新石器時代に移っていく。世界史的な旧石器時代は、日本史でも旧石器時代と呼ばれている。

 世界史的な新石器時代は、日本史では新石器時代ではなく、「縄文時代」と呼ばれる。「縄文時代」は、世界史的にも特異な文化を築いた時代という事でもあるようだ。

 縄文(時代)は[草創期][早期][前期][中期][後期][晩期]に分けられている。

 岡村道雄著『縄文の生活誌』(2008年発行、講談社学術文庫)読むと、[草創期]の代表的遺跡として鹿児島県の「掃除山古墳」が紹介されている。

 1回目の学びは、「掃除山古墳」の展示がある「鹿児島市ふるさと考古歴史館」へ行くことにしよう。

 鹿児島中央駅から指宿枕崎線で5つ目の慈眼寺駅で降りて、上り坂で少しきついけど歩いて行けるところに「鹿児島市ふるさと考古歴史館」があった。
 この日は、JR九州鉄道営業㈱が開催する「駅から始まるいつでも散策」を兼ねて歩いた。


(鹿児島市ふるさと考古歴史館)

 館内に入って先ず目に入ってビックリするのが「地層」の展示。高く広いのでカメラに収まらない。


(地層の展示)

 鹿児島では火山噴火で出来た火山灰層の年代が分かるので、発掘された遺跡が、どの火山灰層の上か下かで遺跡の年代が分かる。


(火山の説明)


(火山灰層に説明)

 掃除山古墳は説明によると、「今から約1万2800年前のサツマ火山灰層の直下から大量の土器片や石器とともに竪穴住居跡や炉跡が見つかりました。」


(掃除山古墳の説明)

 発掘された土器片・石器などから、「石器づくり」、「木を切る・加工する」、「土器づくり」、「調理」、「動物の解体」、「狩り」、「木の実の採集」、「竪穴住居」など縄文時代の生活が紹介されている。


(縄文時代の生活の説明)


(縄文時代の生活の説明)

 石鏃(せきぞく)は、矢の先端につける小型の石器で「狩り」で使われた。旧石器時代の恐竜など大型動物は滅び、小動物を捕える「狩り」のに弓矢を用いるようになったのも縄文時代の特徴としてある。

 石斧(せきふ)は、斧の形をした石器。打ち欠いただけで仕上げた打製石斧,磨いて仕上げた磨製石斧がある。磨製石斧が縄文時代を代表する石斧。

 スクレイバーは現在のナイフのような形をしたもの。狩りで獲った動物の肉を切ったり、皮をなめたりするのに使われた。

 ドングリなどは石皿と呼ばれる大きな石に載せて、敲石や磨石で敲いたり粉にしたりした。

 縄文時代を特徴づけるのに土器がある。草創期の土器として「隆起線文土器」が全国的には発掘されているが、南九州では「隆帯文土器」が発掘されている。


(隆帯文土器)

 このような道具や土器は縄文時代を通して使われた。というか、このような道具類を使って生活していた時代が縄文時代と呼ばれる。

 今でいう技術革新はほとんどなく1万数千年同じような技術を用いた生活が続いた。


(鹿児島には旧石器時代から縄文縄文時代前半にかけての遺跡が多い)


(遺跡から出土したもの)


(遺跡から出土したもの)

 土器は縄文時代を通して、さまざまな土器が現われ、土器の特徴によって先にあげた時代区分が作られている。

 「ふるさと考古歴史館」は「掃除山古墳」を中心に展示はされていない。鹿児島市の古代の歴史を学ぶ展示になっている。


(掃除山古墳の位置)


(縄文時代前期末から中世まで「不動寺遺跡」の展示)

 休日の日ではなかったので見学者は少なかった。


(緑に囲まれていた「ふるさと考古歴史館」)

 ぼちぼち学んでいこう。


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