鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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駅から始まるいつでも散策②-三角駅

2016-12-24 | ウォーキング
2016年12月24日(土)

JR九州が開催する「駅から始まるいつでも散策」2回目は三角駅へ。


(今日のマップ)

10月29日(土)JR九州ウォーキングに参加してから、約2カ月ぶりに三角を歩いた。

その時のコースから「法の館」から山道を上って展望台へ行くのをカットされていることと東港の海岸沿いを歩いて「サンサンうきっ子みすみ」に寄るのをカットされていることが違う。

それで距離が短くなっている。11時ごろスタートして、12時10分ごろにはゴールしたが、2か月前とはちがって、工事中の天草五橋新一号橋が繋がっている。

2か月前の写真と、コースの説明は、その時のブログ下記の『「新一号橋」に会う』を見ていただければと思う。

「新一号橋」に会う【JR九州三角駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-19】


(スタート三角駅)


(三角駅)


(三角小学校の横を通る)


(中神島と雲仙)


(旧宇土郡役所、現九州海技学院)


(旧簡易裁判所、現法の館)


(三角西港ムルドルハウス)


(三角西港より工事中の新一号橋と現一号橋)


(三角西港より工事中の新一号橋と現一号橋)


(三角西港浦島屋)


(浦島屋ベランダより)


(帰りの道から)


(ゴール三角駅)


(三角駅から海のピラミッド)


(「サンサンうきっ子みすみ」のお弁当)


(帰りの列車が入線)

突然に話題が変わるが、最近読んだ本にこんなのがあった。
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 先日、ある老人が電車の中で若者から席をゆずられてというので、
 「冗談じゃない。おれはまだ六十八なんだぞ」
 憤然として、ついに、ゆずられた席へかけなかったという話を聞いた。
 いやはや、いまの老人は実に気が若い。
 私は、五十二歳になる。
 その私が今年になってから、地下鉄の中で、可愛らしい女子高校生に、
「どうぞ、おかけ下さい」
 二度も、席をゆずられてしまった。
 どういうわけか私の眉毛は白くなるばかりで、おそらくあと二年もすれば真白になってしまうにちがいないが、そういうことが私はあまり気にならぬのかして、地下鉄で席をゆずられたときも、「ありがとう」と、素直に礼をのべて、かけさせてもらった。
 いまどき、老人をいたわってくれる若い人がいるとおもうと、むしろ、うれしかったほどで、
(いいぞ。これからは、こんなことをしてもらえるようになるのだから・・・・・・)
 たのしんでいるほどなのである。
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池波正太郎著『散歩のとき何かたべたくなって』新潮文庫から引用した。昭和56年初版発行となっているが、昭和52年平凡社より単行本として刊行されたものの文庫本なので40年程前の話題になる。

今も昔も変わらないんだ。

私が最初に席を譲られた日は、平成21(2009)年11月15日とはっきりしている。61歳の時である。

この日はJR九州ウォーキングに初めて参加した日だ。駅も三角駅だったが、コースは今と違って、戸馳へ行くコースだった。

行も帰りも列車は一両編成。

帰りの列車で、まだ出発前だった。乗った時はもう満員で立っている人も多かった。私は吊り革を持って立っていた。すると、座っていた若い女性が「どうぞ」と言ってくれた。周りを見渡すと、私より年配と思われる多くの人が立っていたので、お断りした。

最初の参加で疲れた顔をしていたのかもしれない。今、思い返すと、「悪いことをした」と思う。

結局、その彼女(ひと)は、座って本を読まれていた。新書本だったか文庫本だったかはもう忘れたが、市販のブックカバーをつけて読まれていた。その姿を見て、「自分も帰りの列車では本を読もう」そう思った。

ウォーキングその日ではなかったと思うが、すぐにブックカバーを買いに行った。新書版用を買ったので、その彼女(ひと)も新書本を読まれていたかもしれない。

しかし、長続きはしなかった。今は、ビールの誘惑に負けて、帰りの列車ではウトウトしている。

でも、今日はいつも楽しむ三角線の景色をチラとは見たが、熊本駅からの行も、熊本駅までの帰りも本を読むことに専念した。あの日を想いだしながら。


(今日は文庫本)

JRに乗ってのウォーキングは今年最後になる。

駅から始まるいつでも散策①-西小倉駅

2016-12-13 | ウォーキング
2016年12月12日(月)

JR九州が開催する「駅から始まるいつでも散策」に初参加した。



小倉で午後から用事があったので、早めに熊本を発って「西小倉駅」へ。駅でマップを貰い10時過ぎにスタート。



駅前は「大門跡」。熊本と違って小倉は「〇〇門跡」という遺跡などが多く残されている。



安国寺は足利尊氏が全国に建てたお寺の一つ。



三の丸土塁跡を歩く。



小倉城内に入って、いつもは気にしていなかった建物「白洲灯台」を見学。




一般の武士の登城口である鉄門(くろがねもん)跡の階段を上る。



小倉城には明治8年歩兵14連隊が置かれ、明治31年には第12師団司令部が置かれる。その当時の正門跡が残されている。

西南戦争で、乃木希典はここ小倉城から歩兵14連隊を率いて熊本城に籠城している政府軍の支援に駆け付けた。



松本清張記念館。松本清張は小倉で育ち、小倉の朝日新聞西部本社に入社し、その後小説家になる。「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞。記念館には書斎が復元されている。



小倉城は細川忠興が約7年ほどかけて建てた城。細川家は20年程後熊本へと移る。



八坂神社への入口にある「中津口門の大石」の片方。二度目の移転でここにある。



八坂神社。七月には岩下俊作の小説「無法松の一生」で有名な小倉祇園祭が行われ、町中に祇園太鼓の音が鳴り響く。無法松と祇園太鼓は村田英雄の歌での方が有名になっているかも知れない。



八坂神社から小倉城。



宮本武蔵の碑。宮本武蔵が小倉に住んでいたということを知る人も少なくなっているだろう。武蔵は細川家とともに熊本へ移り生涯を終える。



お堀端で見かけた。



紫川の「鴎外橋」。



森鴎外文学碑。



鴎外橋のモニュメント



紫川を綺麗にしていた。



旦過市場は小倉の台所。2日前も北九州に行って旧友と酒を酌み交わし、「サバの刺身は小倉が一番」などと盛り上がったので、市場でサバの写真を撮ろうとしたら禁止された。



ホテルニュー田川の前にある「無法松の碑」。



ホテルの横路を通って古船場公園へ。二十才前後はこの付近に住んでいた。公園も開放的になっている。



古船場公園から左折し、小文字通りを越えて、しばらく歩いて森鴎外旧居。月曜日で休館。森鴎外は軍医として第12師団司令部に勤務。小倉城内に残っている正門を通って登庁していた。

松本清張の「或る『小倉日記』伝」は、鴎外が小倉に赴任していた3年間の日記「小倉日記」の行方を探す人物が主人公の小説。



昔、西鉄電車が走っていた道を紫川に架かる勝山橋へ。下流の橋は常盤橋。「小倉の五街道」と呼ばれる、長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還の起点でもあり終点でもある橋。

橋の向こうの鉄橋を走っているのは、博多-門司港間の特急「きらめき」。九州新幹線の全線開業までは博多-熊本間などを走っていた「つばめ」の車両。



旧小倉県庁跡。明治9年に福岡県に合併されている。警察署や裁判所として使われていたが、今はパン屋さんになっている。



常盤橋から西小倉駅への室町通りを歩いて11時40分頃ゴール。室町に戻って焼き鳥「烏丸(からすま)」で「究極の親子丼」スープ付1000円(単品800円)。炭火焼のみつせ鶏、濃厚な生卵、うまい。


銀水駅へ行った。

2016-12-11 | 日記
2016年12月11日(日)

 JR鹿児島本線を北上すると熊本県の最北の駅が荒尾駅、次が、福岡県の最南の駅大牟田駅、その次が銀水駅です。

 写真を撮りに行きました。

 銀水駅は大正15(1926)年、当時の福岡県三池郡銀水村に開業しました。現在は大牟田観光協会が駅業務を行う業務委託駅です。

 1時間に1本程、八代-銀水間を走る列車があります。大牟田駅で殆どの人が降り、銀水駅で降りたのは一人でした。

 熊本県内の古い駅で、いつの間にか建て替わっている駅があります。「写真撮っておけば良かったのに。」後からそう思わないようにと思い行きました。


















「弾痕」に会う【JR九州木葉駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-27】

2016-12-01 | JR九州ウォーキング
2016年11月27日(日)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング木葉駅コースに参加。

木葉駅の所在地熊本県玉名郡玉東町は1955(昭和30)年当時の木葉村、山北村が合併した町。(合併時は玉東村)

JR鹿児島本線を熊本駅から北上すると、4つ目の駅が植木駅、それから田原坂駅、木葉駅、肥後伊倉駅、玉名駅(旧高瀬駅)と続く。

明治10年2月21日、政府軍熊本鎮台が守る熊本城へ薩摩軍の侵入で西南戦争の熊本城攻防が始まる。激しい戦いが始まった夜、西郷小兵衛(西郷隆盛末弟)らの提案で、一部部隊が数隊に分かれて北上することが決まる。

2月22日、小倉から南下してきた乃木希典率いる政府軍の支援部隊が木葉に集合。夜7時、北上したてきた薩摩軍と政府軍の両軍は戦闘を開始。この戦いで政府軍の連帯旗が奪われる。その後も政府軍、薩摩軍とも応援部隊が続々と駆け付け、瀬高(現玉名市)と木葉(現玉東町)間で一進一退の激しい戦いが続く。乃木希典は負傷し、西郷小兵衛は2月27日戦死する。(西郷小兵衛戦死地は玉名駅ウォーキングで訪れる。)

木葉駅で受付の後、雨の中傘をさして歩いて数分で訪れたのは「高月官軍墓地」。西南戦争の官軍墓地の中でも最大のもので、田原坂・吉次峠・横平山の戦闘で戦死した官軍兵士約980名が葬ってある。23日の木葉の戦いで死亡した政府軍吉松少佐を称える詩碑もある。


(高月官軍墓地)


(吉松少佐を称える詩碑)

小さい路地を通って、大きな道へ出て、玉東町役場を経て、「正念寺」へ。日本の赤十字社は西南戦争を契機に発足した。正念寺は3月8日から4月24日まで、負傷した兵士を治療した官軍の大包帯所(病院)跡で、赤十字社の前身・博愛社発祥の地碑が建っている。


(路地を歩く)


(路地で)


(正念寺)


(正念寺)

戦場でおびただしい数の負傷兵が手当もされずに放置されているのを見た佐野常民は征討総督有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出し、設立の認可を受けた。(熊本市中央区水前寺に移築されている認可の儀式が行われた「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」は熊本地震で崩壊。)博愛社は1887(明治20)年に日本赤十字社と改称した。

正念寺の山門には、36発の小銃の弾痕が残っている。


(正念寺山門弾痕)

正念寺を後に、上木葉官軍本営跡、有栖川宮督戦の地へと歩く。上木葉官軍本営跡は田原坂占領の頃まで官軍の本営として使用され、本営が移った後も陸軍中将・山県有朋が本営を設け、作戦指導や戦後処理などをおこなった。有栖川宮督戦の地は本営跡直ぐ近くの見晴らしのいい所にあり、征討総督有栖川宮熾仁親王が田原坂攻略戦の戦地を見て廻られた地の記念碑が建っている。


(道沿いで)


(上木葉官軍本営跡)


(上木葉官軍本営跡)


(有栖川宮督戦の地)


(有栖川宮督戦の地)


(有栖川宮督戦の地)

地元以外の人が訪れて見晴らしても戦地が分かるような絵図の案内板があればもっといいと思う。

下って狭い路地をしばらく歩いて、「木の葉猿窯元」へ。木の葉猿は、土製の手ひねりで素焼きの素朴さと、とぼけた味の玩具。


(路地を歩く)


(路地を歩く)


(木の葉猿窯元)


(木の葉猿窯元)


(木の葉猿窯元)

正念寺とともに官軍の大包帯所(病院)がおかれた徳成寺を経て、少し急な坂を上って宇蘇浦官軍墓地へ。墓地には官軍の将兵および抜刀隊として参加した警視局巡査たち398名の戦死者を葬っている。


(徳成寺)


(宇蘇浦官軍墓地)

政府軍は、刀や剣などを使った薩軍の白刃攻撃に悩まされる。そこで政府軍の後方支援に当たっていた警視隊の中から選抜した「抜刀隊」編成し、薩軍と戦った。抜刀隊の墓と将兵の墓は違っている。抜刀隊の墓の上部には丸みがある。


(抜刀隊の墓)

薩軍に包囲され、通信手段を失った熊本城籠城部隊は、高瀬へと進出してきた政府軍に本部に密使を派遣する。2月26日、谷村計介伍長は百姓姿に変装、夜中に城を出る。2回ほど薩軍に捕らわれるがいずれも脱走。3月2日に本部に到達。そこでも薩軍と間違われて捕らわれの身になったりする。嫌疑が晴れて状況報告の任を全うする。その2日後田原坂の戦いで戦死する。谷村計介伍長の墓もここにある。


(谷村計介伍長の墓)

急な坂は、雨が降っているので滑りやすい。用心して下る。少し歩いて、宇都宮神社の階段を上ると落葉と紅葉の囲まれたこじんまりとした社殿が。今日は雨で参加者が少なくて良かった。もう誰も来ないで。一人占めしていたい。そんな感じに浸る。


(宇都宮神社)


(宇都宮神社)

有名な社寺の、紅葉を見に行くのか人を見に行くのかわからないところへ行くよりは、ここがいい。

カメラは電池切れの警告になってだいぶん経つ。ゆっくり写真は撮れない。そういえば、昨年もここで写真を撮ったが、人が多くて困ったことを思い出す。

階段を下りてしばらく歩いて、大きな通りから少だけ入ったところに「乃木希典奮戦の地」がある。昨年は行っていない。直ぐ横に神社があった。熊本地震で階段が壊れて立ち入り禁止になっていた。


(雨は降り続く)


(乃木希典奮戦の地)


(乃木希典奮戦の地横の神社)

「ふれあいの丘交流センター」まで2km程歩く。最後は坂を上る。お祭りがあっているが、雨でお客さんは少ない。サービスで杵でついたつきたてのお餅をいただく。お餅を噛むとお米そのものの甘い味が口の中に拡がる。顔には笑みが。噛む、笑む。噛む、笑む。美味しい。こんなにお餅が美味しいとは、忘れていた味だ。一気に満足感が。昨年はだご汁の中にお餅を入れて食べたので、お持ちの味の感激は無かった。


(ふれあいの丘交流センター)


(サービスのお餅と300円のだご汁)


(農産物等も売られていたがお客は少ない)

下って、相変わらず傘をさして1km程歩いて、ゴール木葉駅へ。すぐに来る列車を待ちにホームへ。


(木葉の山並み)


(木葉駅が見えてきた)


(木葉駅)

西南戦争の瀬高・木葉の戦いは、西郷小兵衛の戦死もあり、戦局が政府軍有利に展開しだす。3月4日政府軍は田原坂に総攻撃を開始。激しい戦闘を繰り返す。政府軍が用いた弾薬は1日平均で約32万発。3月20日早朝、戦いの膠着を破るべく総攻撃をかけ、不意を突かれた薩軍の防衛線を崩し、田原坂を突破した。熊本城への攻防を戦い続けていた薩軍は、八代に上陸した政府軍に背後も突かれ、4月には熊本からの撤退を余儀なくされる。

田原坂は曲がりくねった急な坂から一の坂、二の坂、三の坂と上るにしたがい、ゆるやかな坂になり、今は田原坂公園になっている頂上に達する。3年程前までは、田原坂を上るJR九州ウォーキングが開催されていたが、無くなって残念に思っている人は多い。

木葉駅を出た列車は、左手に田原坂公園を見ながら進み田原坂駅に着く。そこから4つ目上熊本駅を過ぎ熊本城も見えてくると、やがて熊本駅に着く。今年(今日?)のJR九州ウォーキングを終える。