鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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モースが下車した「旧新橋停車場」へ行った-【縄文を学ぶ-番外編(1)】

2018-08-23 | 縄文を学ぶ
2018年7月26日(木)

 大森貝塚の発見者モースは、横浜港に入港した翌々日の1877 (明治10) 年6月19日、横浜から東京へと向かう汽車に乗って、大森停車場を過ぎたころ、線路脇に貝殻が散らばっているのを車窓から発見した。その後、東京大学の教授となったモースは9月に日本で最初の学術的発掘をおこなう(縄文を学ぶ-6)。

 モースが乗った鉄道は、1872(明治5)年に日本最初の鉄道として新橋と横浜間に開通した。開業時からの駅舎は1923年(大正12)年の関東大震災により焼失している。

 2003(平成15)年、「旧新橋停車場」の駅舎が開業時の外観で復元された。現新橋駅から歩いて5分程のゆりかもめ新橋駅近くにある。駅舎内の大部分はレストランになっているが東日本鉄道文化財団の「鉄道歴史展示室」も開設されていて、旧新橋停車場を中心に鉄道の歴史が学べる。


(復元された旧新橋停車場)

 1階展示室の床の一部はガラス張りで、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来る。正面玄関階段とプラットホームの先端部分でも、史跡の一部をじかに見ることができるようになっている。


(駅舎玄関遺構。正面玄関階段の最下段として使われていた切石)


(復元されたホーム)


(復元された線路。創業当時は枕木やレールの台座は土を被らせレールの頭だけが見えていた(写真奥)。)


(復元された0哩標識)

 鉄道歴史展示室には「映像の記憶」というビデオのコーナーもあり、開業当時の新橋駅や横浜・新橋間の映像、写真などが楽しめ、モースが乗車したころの駅や鉄道の雰囲気が味わえる。大森貝塚を見学した後に訪れると、モースもこんな雰囲気の汽車に乗って、大森貝塚を発見し発掘していたんだと、と映像に引きつけられていく。


(鉄道歴史展示室で買った絵葉書)
 
 大森貝塚-中里貝塚-縄文展-縄文の村(多摩ニュータウンNo.57遺跡)とまわった2泊3日の東京縄文の旅も、モースに始まってモースに終える。浜松町駅へ移動し、モノレールで羽田空港へ。

 年とったからだろうが考えることもあった。JRの電車に乗った時、ベビーカーのエリアが確保されている。さすが東京と思った。でも、そこに立っている人はベビーカーが乗って来ても全く動こうとしない。まだスペースはあったが・・・。別な電車に乗った時、子供二人連れのお母さんが乗ってきた。子供一人を抱っこして、もう一人は手をつないで。でも、誰も席を譲る人はいない。

 1万数千年前~2千数百年前の縄文時代、人びとは土偶を作って、安産や子の成長を願ったという。個人ではなく、ムラ全体で願ったであろう。

 「進歩」「発展」とは何なんだろう?

 空港で「COEDOビール」を飲んで、帰路に就いた。

「縄文の村(東京都立埋蔵文化財調査センター)」へ行った。【縄文を学ぶ-9】

2018-08-20 | 縄文を学ぶ
2018年7月26日(木)

 朝食を済ませ、多摩ニュータウン駅周辺をブラブラしたら、夏休みに入ったこともあって「サンリオピューロランド」の前には開館を待つ親子連れが長い行列を作っていた。

 「東京都立埋蔵文化財調査センター・縄文の村」(東京都多摩市落合)は、サンリオピューロランドの直ぐ近くにあった。入館料は誰でも無料。


(東京都立埋蔵文化財調査センター)

 常設展の入口では、「丘陵人(おかびと)の肖像」(縄文時代中期の作品)が迎えてくれる。


(丘陵人の肖像)

 多摩ニュータウンには964ヶ所遺跡があり、旧石器時代から近世まで、各時代の遺構や遺物が発見されている。発見された出土品の数々が常設展示してある。その一角に縄文時代のコーナーがある。


(展示ホール)

 すぐに目に入ったのは、「落とし穴」の模型。多摩ニュータウン地区では1万5千基以上の落とし穴が見つかっている。落とし穴は長さ1.5m、幅1m、深さ2m程で、底には篠竹などがうめこまれ、足がからまって逃げられないようになっている。


(落とし穴)


(縄文前期の土器)


(縄文中期の土器)


(土偶たち)


(石器道具の説明)


(石器など)

 平成30年度企画展示「蒼海(うみ)わたる人々-考古学から見たとうきょうの島々」(平成30年3月21日~平成31年3月10日)は、常設展と同じ会場に展示してある。


(「蒼海(うみ)わたる人々」の解説冊子から)

 興味を引かれたのは、「黒曜石」とイノシシの骨。

 「黒曜石」は、神津島(下田から約55km)が産地として知られている。多摩ニュータウンの縄文遺跡を始め、関東各地の縄文遺跡から出土している。特に恩馳産の黒曜石は不純物が少なく良質であったため人気があった。


(黒曜石の解説パネル)

 大島(伊東から36km)の下高洞遺跡(縄文時代後期~晩期)からは動物や魚の骨、貝殻などが見つかり、イノシシの骨も出土している。イノシシは本来伊豆諸島には生息していないとされている。縄文時代に人々は、海を渡って陸地から何十キロも離れた伊豆諸島の島々に住んだ。イノシシも連れて行った。


(イノシシの解説パネル)

 2日前に行った「北区飛鳥山博物館」には、縄文時代の丸木舟が展示してあった(縄文を学ぶ-7)。あのような丸木舟に乗って海を航海して黒曜石など運んだのだろうか。イノシシはどうやって運んだのだろう。
 

(八丈島の縄文時代等の出土品と北硫黄島石野遺跡の弥生時代(約1900年前)の出土品)

 展示室を出ると、体験コーナーでは磨石で木の実をすりつぶす体験などが出来る。


(体験コーナー)

 その奥に行くと凄かった。棚にびっしりと並べられ保管されている土器が見られるようになっている。昨日、「縄文展」で見た土器たちは現代人から見た美のエリートたち。ここに並んでいる土器たちはそこには選ばれなかった。エリートたちは「私を見て。」と叫んでいるように見えたけど、ここの土器たちは「私たちを知って。私たちが生活した頃を知って。」と叫んでいる、そんな気迫を感じる。「少しずつ学んでいくからね。」そう応えるしかなかった。


(壮観 縄文土器)


(棚の中から出てきた?縄文土器)


(棚の中から出てきた?縄文土器)

 土器たちの横には粘土を採掘している模型が展示してある。説明には「No.248遺跡で、縄文時代中期に粘土を採掘した大規模な土坑群が発見されました。地表から3メートルも掘り下げてようやく粘土層に到達し、手が届く範囲の粘土を採掘しています。縄文人がこれほど苦労してまで粘土を採掘したのは、壊れにくい縄文土器を作るための、質の良い粘土を求めたからでしょう。」と書かれている。


(粘土を求めて)

 館内を見てまわってから、併設されている遺跡庭園「縄文の村」へ。[草創期][早期]【前期】【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期から中期にかけての「多摩ニュータウンNo.57遺跡」に盛土をし、トチノキ・クルミ・クリをはじめ50種類以上の樹木やゼンマイ・ワラビ等を植栽して当時の多摩丘陵の景観が復元されている。


(縄文の村入口)


(縄文の村案内板)


(多摩ニュータウンNo.57遺跡の説明)


(縄文の村)

 村には、住居が3棟復元されている。入ってすぐにあるのは、関東地方を中心に縄文時代中期末(約4500年前)に流行した、住居の床に平らな石を敷きつめる「敷石住宅」。No.57遺跡でも3棟発見されているが、復元されているのは八王子市堀之内のNo.796遺跡から移築したもの。面積は約7㎡。


(敷石住宅。煙が出ていた。)

 この日は火焚きも行われていた。中はそれほど広くは無い。煙がもうもうとしてそんなに長くは居れない。外に出ると気持ちがいい。縄文の人たちは火を焚いて、長い時間住居の中で過ごしたのだろうか。外で生活した時間の方が長かったのではなかろうか。住居の中で火を焚くのは、他の動物たちが入って来ない効果があったのではないかと感じる。寝る時に火を焚いていると安心して寝れたのではなかろうか。


(敷石住宅入口)


(敷石住宅内部。石が敷いてある。)


(煙もうもう)

 前期の竪穴住宅(約6500年前)は、発掘当時の位置に復元されている。面積は約30㎡。「中央に火を焚いた炉があり、外敵の侵入を防ぐため入口は狭くなっています。家の中には4~5人が住んでいたようです。」との説明が書いてある。


(前期の竪穴住宅)


(竪穴住宅の内部)


(竪穴住宅の内部)

 3つ目は中期の竪穴住宅(約5000年前)。楕円形で面積は約15㎡でその頃の標準的な大きさ。「縄文の村」の直ぐそばに鉄塔が建っているがその東側で発見された住居をモデルに復元されている。


(中期の竪穴住宅)


(竪穴住宅の内部)

 縄文時代から使われていたのではないかと考えられている「湧水」の場所もある。昭和の後期まで湧き出ていたが周辺の開発で水は枯れている。すぐそばには線路があって、時折、電車が通過する音が聞こえる。


(湧水の場所)

 縄文時代前期から中期にかけての代表的な形の住居と当時の景観の雰囲気を感じながら見てまわった。センター内の体験コーナーには縄文服の着用も出来たが、その服を着て「縄文の村」を散策したらもっと楽しかっただろうと思う。

 「縄文の村」から歩いて5分の多摩センター駅へ。昨日、京王線で来たので、今日は小田急線に乗る。代々木上原駅で東京メトロ千代田線に乗換えて3つ目の表参道駅へ。駅から歩いて10分弱。「岡本太郎記念館」へ行く。

 見てまわると、岡本太郎に「ようこそ」と、来館を歓迎してくれているような感じがする作品と空間が拡がる。「縄文を楽しませてもらっています。」と感謝の気持ちを伝えて退館をする。(縄文に学ぶ-8))


(岡本太郎記念館)


(岡本太郎記念館で)


(岡本太郎記念館で)

 表参道駅に戻って、東京メトロ銀座線で新橋に向かう。

「縄文展(東京国立博物館)」へ行った。【縄文を学ぶ-8】

2018-08-14 | 縄文を学ぶ
2018年7月25日(水)

 朝から上野の森へ行くも、蒸し暑い。東京国立博物館近くのベンチでコンビニのお握りの朝食。しばらく木陰で休んでから、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」の開場を待つ列に並ぶ。通りかかる外人さんも何ごとかと看板を除いて行く。なかには、展示を見るために並ぶ外人さんもいる。


(東京国立博物館前の看板)


(入口付近の立て看板)

 9時半前に会場の「平成館」に係りの人の誘導で移動。杏さんの案内(音声ガイド)で、「縄文の美」「縄文の造形」に焦点を当てた展示を見てまわる。

 写真で見たことがあるような土器や土偶が次から次へと目の前に現われる。大胆な隆起、繊細な線などで紋様が作られている。「縄文土器」は煮炊き料理に使われたという。特に中期の土器は、これでもかこれでもかという隆起や文様がある。縄文の人たちは、煮炊きの実用には向かないような土器を作り続けた。それも、時代が進むごとに実用性とかけ離れて行くような紋様の土器が出現している。現代の私たちには理解できない「衝き動かす」何かがあったのだろう。

 縄文時代の前、旧石器時代の人々は、獲物をとったり、捌いたりする道具を、石を削って作った。出来上がりは素材に影響される。土器は、粘土から創造したものを作る。いろんな形、文様をつけて行く「創造する楽しさ」もあっただろうと思う。

 煮炊きしている間、食べている間、土器の文様を皆で眺めながら、「物語」が語られたのではなかろうか。今日一日の出来事もあったろう。ムラの歴史や先祖のことが語られたこともあったろう。視覚に訴えると「物語」の効果も高まる。「物語」には満天の星も登場するであろう。暗闇に沈む森とその中で生きる動物たち、ムラの廻りに拡がる山野草や木の実も登場するだろう。「物語」が語られみんなが共有することで、家族の一体感、ムラの一体感、地域の一体感が作られていく。そんなこともあったのではなかろうか。

 男の人が作ったのだろうか、女の人がつくったのだろうか。時代によっても、地域によっても違うかもしれない。一人で作ることもあったろうし、複数で作ることもあったろう。オーダーする人と作る人が別なこともあったろう。地面に棒で、「こんなのを作って欲しい。」と依頼すると、オーダーする人の思い以上の土器ができ上がったりする。

 いろんなことを思いながら見てまわる。

 土偶をこんなにいろいろ見ることも初めてのことだ。土偶は女性を形にしたもので、安産や子孫繁栄、豊穣を願って作られてといわれている。

 土偶も時代や地域によって変化する。現代、「土偶」という分野が作られているけど、当時の人たちは、同じようなものとして意識していたのだろうかと思ったりする。土偶の世界も奥が深そうだ。これまで土器に関心を持って見てきたが、これからは土偶の世界も学んでいこう。

 展示の中で、最も印象に残ったのは、土器では「微隆起線文土器」。最初に見たということもあるが、約一万二千年前に、集中して細かい線を描いている姿が目の前に浮かんでくる。鼓動も聞こえそうだ。

 土偶では「縄文の女神」。立ち姿に惚れ惚れする。モデルがいたのだろうか。ムラでシャーマンのような特別な存在の人だったのだろうか、それとも単にムラ一番の美人だといわれていた人だろうか。国宝に対して不謹慎だが「隣のムラに美しい人がいてね。その人をイメージして作ったんだよ。」と製作者の声が聞こえてきそうな気がする。

 縄文土器や土偶は長い間、土の中に眠っていた。私たちの目に触れるようになっても、元の姿には復元できないものの方が圧倒的に多い。ここに展示されているものは元の姿のまま出土したものや、元の姿に復元され、現代の人たちが「美」を感じるエリートたちの集り。2時間弱、1万数千年前から2千数百年前までの作品を作成している人の集中した姿が目に浮かんでは次の作品へと。写真で見るのとはとは違う、縄文の人たちの気迫に圧倒されながら見てまわった。異次元の世界に浸った。


(岡本太郎が撮影した東京国立博物館所蔵の縄文中期の土器)

 展示会場の出口のところに写真撮影可の作品が並べられている。縄文時代の土器や土偶が「美」として認められるようになったのは、1952(昭和27)年発行の「みづゑ」誌で、岡本太郎が縄文土器の「美」を評価したことに始まる。
 岡本太郎は、「荒々しい不協和音がうなりをたてるような形態、紋様。そのすさまじさに圧倒される。はげしく追いかぶさり、重なりあって、突きあげ、下降し、旋回する隆線紋(粘土を紐のようにして土器の外がわにはりつけ、紋様をえがいたもの)。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経のするどさ。」(岡本太郎「日本の伝統『縄文土器』」より)など縄文土器への強い思いを語っている。
 三点は岡本太郎が写真に収めた縄文中期の土器。「とくに爛熟したこの文化の中期の美観のすさまじさは、息がつまるようです。」(同上)と語る。


(図録と土偶パペットタオル)

 縄文時代の出土品が国宝に初めて指定されたのは1995(平成7)年。長野県茅野市棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」で、現在は6件指定されている。「縄文展」では6件すべてを見ることが出来る。私が鑑賞した7月25日は2件が未到着だった。

 「縄文展」は平成館2階で開催されているが、1階の「日本の考古」という常設展示も縄文時代を中心に見てまわった。東洋館地下1階のミュージアムシアターで上映されている「DOGU美のはじまり」を鑑賞。土偶の学びをはじめる。


(東洋館地下1階のミュージアムシアターの案内)

 東京国立博物館を出て、お隣の国立科学博物館へ。常設展示は65歳以上無料。常設展2F「日本人と自然」のコーナーに「巧みに生きる縄文人」という展示があり、縄文時代が概観できる。骨に関する展示が興味深かった。「早・前期の人骨は全体的に華奢であるが、中・後・晩期になるとがっしりと筋骨たくましくなる。」と説明されていた。入江貝塚で説明にあった、「ポリオにかかった人骨」のレプリカも展示してある。(縄文を学ぶ-4)


(国立科学博物館近くの野口英世の胴像)


(国立科学博物館内の展示)

 上野の森には何度か来たけど、「西郷さん」に初めて会いに行った。西郷隆盛が亡くなったのは明治10年9月。モースが大森貝塚を初めて発掘したのも明治10年9月のことで、その報告書の翻訳から「縄文土器」の名がついた。(縄文を学ぶ-6)


(上野の西郷さん)

 上野の森を後にして、新宿へ。新宿から京王線で多摩ニュータウン駅へ。今日の宿泊は多摩ニュータウン駅前のホテル。新宿から多摩ニュータウン駅へは京王線と小田急線の2つの路線がある。京王線で行くことにしたが、空いている席に素早く座る術を持たない田舎の年寄りは、縄文展の図録で重くなったリュックを背負い立ったまま多摩ニュータウン駅へ。疲れた一日をビールが癒してくれた。

参考文献
 図録『特別展 縄文―1万年の美の鼓動』(2018年)
 岡本太郎著『縄文土器』(「日本の伝統」光文社知恵の森文庫、2010年第6刷)
    昭和27年2月『みづゑ』で発表された。書籍『日本の伝統』は昭和31年に刊行されている。

 「微隆起線文土器」(青森県六ケ所村表舘遺跡・縄文時代草創期約12,000年前)の写真は 「六ヶ所村立郷土館」のホームページで見れます。
 「土偶縄文の女神」(山形県舟形町西ノ前遺跡・縄文時代中期 約4,500年前)の写真は「山形県舟形町ホームページ」で見れます。

「中里貝塚(飛鳥山博物館)」へ行った。【縄文を学ぶ-7】

2018-08-08 | 縄文を学ぶ
2018年7月24日(火)

 大森駅から電車に乗って王子駅で下りる。駅から階段を上った飛鳥山公園の広場には、「D51」の機関車、「都電」の電車も保存されていた。下の段にある水場からは子供たちの歓声が聞こえてくる。


(飛鳥山公園への階段)


(飛鳥山公園の「D51」)


(飛鳥山公園の「都電」)

 D51のすぐそばに3階建ての「北区飛鳥山博物館」がある。1階が北区の歴史や自然、文化を紹介する常設展示場で、1階のみ有料で65歳以上は150円。無料ではなかった。


(北区飛鳥山博物館)

 「縄文人のくらし」のコーナーに、北区の縄文時代遺跡の出土品が展示してあり、縄文時代の環境、人びとの生活の様子がわかるように説明されている。


(「縄文人のくらし」のコーナー)


(北区で出土した縄文前期の土器)


(北区で出土した縄文中期の土器)


(北区で出土した縄文後期の土器)


(北区で出土した石器)

 土器や石器が展示してあるなかで、「中里貝塚階層剥ぎ取り標本」が直ぐ目に入る。


(中里貝塚階層剥ぎ取り標本)

 中里貝塚(東京都北区上中里2丁目)は、[草創期][早期][前期]【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約4,600年~3,900年前)の貝塚。

 貝塚の規模は、長さ500m前後、幅100m以上の範囲に広がっていると考えられている。厚さも最大で4.5mもあり、これまで訪ねてきた貝塚と比べると、とても大きい。

 最も違うのは、生活臭が無いことだろう。

 貝塚には、貝、魚や動物の骨、土器、石器そしてお墓もあった。近くには住居跡がある。

 中里貝塚から出土したのは、ほとんどが、カキとハマグリで、土器、石器などの道具類、魚や動物の骨類などはほとんど出土していない。住居跡も無い。人々が生活した痕跡が見えない。

 出土した貝も、粒ぞろいの大型のものが揃っている。貝塚から発見された「木枠付き土坑」から、焼いた石を敷き、その上に貝を置き、水をかけ草木などでフタをして蒸気で蒸し上げる「蒸し焼き」や水を張ったところに焼いた石を投げ入れて沸騰させ、ゆであげる「ゆであげ」で貝をむき身にしていたと考えられている。


(中里貝塚のパネル説明)

 人が生活した痕跡が無く、大量の貝の加工を専門に行っていた中里貝塚は「水産加工場」ともいわれる。

 中里貝塚付近には同時期の遺跡や貝塚が存在している。それらのムラが、ここで貝を採集・加工して、それを交易品として内陸部のムラに供給していたのだと考えられている。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 縄文時代の生活の様子は想像するしかない。学問的には想像するにもそれなりの根拠がいるだろうが、素人は根拠なしでも想像できるのがいい。以下、根拠のない想像です。

 中里貝塚には、ある時期になると、海辺のいくつかのムラからも、内陸部のいくつかのムラからも人々が集まってきた。

 それぞれのムラは、集まる時期の目印を決めていた。あるムラでは〇〇の花の咲く頃、別な村では△△の芽の出る頃、また海辺の村では□□の魚の群れが現われる頃など。その時期なると中里貝塚へ行く準備をし、出かけて行く。海辺のムラからは舟に乗って来る人たちもいる。

 ムラムラから集まった中里貝塚では、ムラ単位で、あるいは、いくつかのムラの人たちが共同で、貝を拾い、「蒸し焼き」や「ゆであげ」していく。小さな貝を拾ったら、「海に戻しなさい。」と注意される。「これだけの大きさの貝だけにしなさい。」と見本を示したりもする。

 海辺のムラが日々経験すること、内陸部のムラが日々経験することは違うものも多い。作業しながらも、また休息のひと時にも、それぞれのムラでの体験が楽しく語られる。中には自慢話も出てくる。「このまえ獲ったイノシシはこんなに大きかったよ。」、他のムラの人「ええ、そんなに。」、自慢した男の妻「あんた、それは大げさだよ。これくらいでもっと小さかったよ。」などと。

 経験を伝えようと話す工夫も楽しい。経験したことのない話を聞きながら、想像を巡らすのも楽しい。

 違うムラの人たちと話をすると言葉が通じないこともある。手振り身振りで話すうちに、新しい言葉も生まれる。「もっと、きれいな縄文語にしなさい。」と説教する人はいなかっただろうな。

 ムラムラから人が集まると、集団お見合いの場にもなる。中には世話焼きお婆さんもいて、貝のことはそっちのけにして、あのムラの青年とこのムラ娘、こっちのムラの青年と別なムラノの娘を、と世話して廻る。カップルが出来ると皆でお祝いをする。

 何日か過ごすと、「もう、必要なだけ採ったから。」と三々五々ムラへ帰っていく。「楽しかったよ、〇〇の花の咲く頃また来るね。」「楽しかったね。△△の芽の出る頃また来るね。」と。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 縄文の展示は続く。北区の遺跡の出土品の展示、縄文時代の気候や生活を説明してある。東谷戸遺跡からバラバラの状態で発掘された土偶は、ほぼ完全な形に復原され展示されている。


(東谷戸遺跡から出土した土偶)

 1983(昭和58)年、東北新幹線上野乗り入れ工事に伴って、中里貝塚に隣接する中里遺跡(縄文時代中期から後期)の発掘調査が行われ、縄文時代中期初頭(約4,700年前)の丸木舟が出土した。全長は約5.8m、最大幅約70cm、最大の深さ約40cmの大きさで、ニレ科ムクノキの一木を最も厚い舟底で5cmになるまで、石斧を使って削って作ってある。展示室の真ん中にデンと構えている。大きい。魚を獲るための舟だろうか。あるいはどこかへ何かを積んで出かけたのだろうか。何人かの人たちが協力して作っている姿がうかんでくる。


(中里遺跡から出土した丸木舟)

 縄文時代の展示を見終えて、さあ、「中里貝塚」まで行こう。博物館の外はむし暑い。土地勘のないところを歩くには不安があるけどスマホのナビをたよりに歩いた。上中里駅までは狭い道をナビの導くまま。上中里駅からはほぼ一直線。曲がるべき角には何らかの目印があるだろうと、ナビを見ずに歩くが、「中里貝塚」への目印は無い。と、「上中里つつじ荘」の案内があった。ここかなと思って曲がったら、すぐに公園があって「史跡中里貝塚」の標柱が建っていた。


(中里貝塚のパンフレット)


(国指定史跡中里貝塚)

 道を挟んで、小さい公園が2つある。公園には「上中里2丁目広場」と名付けられているようだ。「中里貝塚」の説明板も立てられている。公園付近の現在の地図に中里貝塚が占める図があれば、貝塚の巨大さをもっとリアルに実感できたのでは、と思った。


(中里貝塚の説明)

 「中里貝塚」を後にして、尾久車両センターをちょっとだけ覗いて、田端駅へと歩く。


(尾久車両センター)

 田端ふれあい橋から線路を眺めるが、多くの電車が行きかうのには会わなかった。


(田端ふれあい橋から)

 田端駅から山手線で上野駅へ。上野駅構内で飲んだハイボールが疲れを吹き飛ばしてくれる。今日は上野駅前に泊まる。

 上野駅を眺めていると、集団就職列車を思いだす。集団就職で九州から東京に行く列車の終着駅は東京駅だが、集団就職といえば歌も映像も上野駅が流れていた。

 55年程前になる。中学校を卒業し集団就職列車で東京へ向かうクラスメイトをクラスの仲間たちと駅まで見送りに行った。駅のホームは同じ列車に乗る集団就職の中学生を見送る家族、友人たちで大混雑している。今から考えると、みんなよく連絡取り合い集まって見送ったと思う。まだ、家庭に電話があるところが珍しい時代で、もちろん携帯電話などなかった。その友とは数年間は連絡が取れていたが、今はどうしているかわからない。この東京の空のもとで元気に暮らしているのだろうか。

 集団就職が始まったのが、高度経済成長の始まりでもあった。コンピューターが出現し、やがて個人個人がパソコンを使うようになる。今、電話とコンピューターが一体となったスマートフォンが手元にある。家族や仲間とすぐにでも連絡を取り合うことが出来る。

 暮れ行く上野の森を眺めながら、縄文1万年に比べればたかだか数十年だが、これまでの変化をしみじみと感じながらビールを飲む。


(上野駅)