鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

波上宮、護国寺、旭ヶ丘公園、松山公園、首里城、牧志公設市場-沖縄の旅4日目

2015-12-21 | 日記
【写真はクリックすると拡大します】

12月14日(月)

 2日間の癖が治らず、朝早く目が覚める。まだ夜明け前で暗い。早朝の散歩とホテルから出ると少し雨が降っていた。傘を取りに戻り、海岸へ向かって歩く。波上宮(なみのうえぐう)の横に出たら並木道があった。昔はここらあたりが海岸であったろう。海岸へ出ようと思ったが海岸沿いには自動車学校などがあって出られそうにないので引き返して波上宮にお参りすることに。


(波上宮と護国寺)


(波上宮横の並木)


(波上宮横の並木)

 拝殿で海に向かってお参りする。宗像大社も宮地嶽神社も海には背中を向け参拝する。御由緒には「創始不詳なれども、往古この南西諸島に住んだ我々の祖先が、海の彼方に神の国の存在を信じ、日々この神に祈る拝所(御願所)としてこの波の上の岸端に祭りを営んだのに始まる。」とあった。航路安全守護神であるがもともとは海の彼方の神に祈っていたのだ。


(波上宮)


(波上宮)


(波上宮)


(波上宮)


(朝焼け雲)


(海岸)

 御祭神はイザナミノミコトが主祭神と記されているがこのことに関しては「当宮御鎮座伝説に、昔、南風原村崎山の里主が海岸で霊石を得、熊野神より国家鎮護の神託を受け、王朝に奏して社殿を祀った」とある。いつごろから大和の神が祭られたのだろうか。

 波上宮の隣には波上山三光院護国寺(はじょうざんさんこういんごこくじ)が建っている。高野山真言宗のお寺である。石碑には「頼重上人薩摩国坊之津一乗院より来琉開山」「1368年琉球国王察度鎮護国家の勅願寺として創建」と記してある。1368年は足利義満が室町幕府第3代将軍に就いた年で、中国では明が成立した年にあたる。


(護国寺)


(護国寺)

 沖縄は稲作文化の弥生土器時代や古墳が造営された時代がない、稲作文化が定着するのは12世紀前後、平安時代の頃からである。その後、城砦や拝所などのグスクが登場しグスク時代と呼ばれる時代になる。グスクを支配するものが按司である。按司の中から強力な按司が生まれ、今帰仁グスクを拠点とした北山、浦添グスクを拠点とした中山、島尻大里グスク南山の三山時代となる。三山うちの中山を支配したのが察度で明国からの要請に応じて冊封(さくほう)を関係となる。

 波上宮のホームページには「人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ」とあり、護国寺のホームページには「武寧王より最後の尚泰王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に参詣し、当寺本堂に於いて君臣の縁結びの盃を取り交わしたとされています。」とある。波上宮、護国寺それぞれの役割があったようだ。

 波上宮と護国寺の入り口に立つと、お隣さんというよりは一体としてあるように感じられる。神仏習合の形をそのままのこしているのではなかろうか。

 護国寺の境内なのか隣りの旭ヶ丘公園内なのかわからないようなところに、1871(明治4)年に宮古島の船が遭難して台湾に漂着した際、原住民によって殺害された乗組員54人を弔う「台湾遭害者之墓」がある。この事件を口実に明治政府は1874年に台湾に出兵し、中国との交渉で沖縄を日本領土として認めさせる。この間、1872年には琉球王国を琉球藩とし、琉球王を琉球藩主とする。1875年には琉球藩に清国との冊封関係を断つことを通告する。1879年には首里城の明け渡しと廃藩置県の布告で、沖縄県となった。琉球王国が琉球藩となり沖縄県となる一連を琉球処分といわれている。


(台湾遭害者之墓)

 波上宮・護国寺のお隣り旭ヶ丘公園には「子桜の塔」がある。子桜の塔は「昭和19年8月22日夜半学童疎開船対馬丸は米潜水艦の魚雷攻撃を受けて悪石島沖で轟沈しいたいけな学童と付き添いの人1484人の尊い生命がひと時に奪われてしまいましたこれらのみたまを弔い慰め世界の恒久平和を念ずるために多くの人々の善意で小桜の塔は建立されました」。その対馬丸事件を後世に伝えるため公園の一角に対馬丸記念館が建てられている。まだ開館時間前だったため中の見学は出来なかったのは残念だった。


(子桜の塔)


(戦没新聞人の碑)


(対馬丸記念館)

 公園内には「海鳴りの像」もあった。戦時中、沖縄県民が乗船して撃沈された船舶は26隻になるという。対馬丸を除く25隻の船舶で犠牲になった1927人の霊を祀ってある。


(海鳴りの像)

 ホテルへの帰り道、松山公園に寄った。大きな公園のようであるが道路側を少しだけ見学した。公園内に「沖縄県立第二高等女学校跡 白梅の乙女たち」の像が建っている。沖縄戦では女学校や師範学校の女子学生が野戦病院などに動員され、多くの若き命が犠牲となった。第二高等女学校は動員された46名の生徒のうち22名が戦死した。学校は戦争の激化で自然廃校となる。戦後校章の白梅から「白梅学徒隊」などと呼ばれるようになった。


(孔子廟)


(若狭町大通り跡)


(松山公園)


(松山公園)


(白梅の乙女たち像)

(松山公園)

 コンビニでパンを買って、8時頃にホテルに帰り朝食。
 朝食後、チェックアウトして沖縄都市モノレール県庁前駅へ。
 1日乗車券700円を購入。よく見ると「購入後24時間有効です。」と書いてある。「1日乗車券」というよりは「24時間乗車券」と名称変更した方が話題にもなるし、使い勝手も良くなる。昨日、那覇に着いたのは15時30分過ぎていた。今日は14時頃には那覇空港に着きたいと思っている。昨日1日乗車券を買って、今日も使えたのだ。もっとも昨日はモノレールに乗る予定はなく必要はなかったが。


(1日乗車券)


(モノレール)


(モノレール)

 駅構内のコインロッカーにスーツケースを預けて首里駅へ向かう。首里駅に着いてから歩いて首里城へ。9時30分ころ着いたが修学旅行や団体の大勢の人だ、東アジアの人も多い。


(久慶門)


(園比屋武御嶽石門)


(歓会門)


(漏刻門)

 首里城は、南山、中山、北山と支配が分かれていたのを第一尚氏の時代に武力統一し、王が住まい政治を行うグスクなった。第一尚氏の時代は1406年~1469年までのわずか64年で幕を閉じたが、それは第7代尚徳がクーデターによって殺害されたことによる。当時対外交易長官だった金丸が王位に即位し、明国に対して政権の継続性を主張するため尚円と名乗った。第二尚氏3代目尚真王の時代(1477年~1526年)、按司の首里集居、神女組織の確立などで中央集権を確立し、王国の基盤強化が図られた。第二尚氏時代は1470年(応仁の乱が1467年である。)から明治政府廃藩置県の1879年まで続くことになる。

 首里城に来たのは2回目だが中を見学することにする。見学は南殿から入ることになっている。琉球王の肖像画が展示してあるが第二尚氏時代のものしかない。第一尚氏時代のものはない。漆塗りがふんだんに使われていることも知る。玉座の上の「中山世土(ちゅうざんせいど」の扁額は清の第4代皇帝康熙帝が贈ったものを復元している。


(正殿)


(2階御差床)


(正殿と南殿)


(教会門と久慶門)

 正殿を出て、北殿の中に入ると首里城の全体図があった。正殿裏の美福門付近に「佐敷殿」が記されている。行きたい、と思ったが正殿の裏は入れなかった。

 守礼門の写真を撮って円鑑池の方へまわる。途中第32軍司令部壕がある。12月11日放送のNHKBS「こころ旅」のオープニングで火野正平がお手紙を読んだ場所円鑑池に出る(今日、12月21日ビデオで放送を見て知ったのだが。)。弁財天堂の写真を撮って首里城を後にする。


(守礼の門)


(第32軍司令部壕)


(円鑑池。ここで火野正平はお手紙読んでいた。)


(弁財天堂)


(弁財天堂)


(円覚寺総門)

 首里城を出たところには県立芸術大のキャンパスがあり、「沖縄県師範学校付属小学校跡碑」が建っている。沖縄以外の師範学校は戦後それぞれの地域の大学の教育学部や教育大学になり付属小学校はそれぞれの付属小学校として続いている。沖縄県はアメリカの統治下に置かれたので日本の学校制度を離れ、後続校を持たずに廃校となっている。校舎も戦争で失った。


(沖縄県師範学校付属小学校跡碑)

 首里駅からモノレールに乗り、牧志駅で降りる。向かった先は「牧志第一公設市場」。沖縄の魚やお肉を見てまわって、まだお腹は空いていない時間だったが2階の食堂へ。お店はいくつもある。どこに入るか迷うけどとりあえず一軒のお店に座る。メニューを見て、ビールと「へちまの味噌煮定食」750円を注文する。これは美味しかった。というか今回の沖縄の旅では一番美味しかった。


(モノレールから)


(モノレールから)


(牧志第一公設市場)


(牧志第一公設市場)


(牧志第一公設市場)


(牧志第一公設市場)


(へちまの味噌煮定食)


(牧志第一公設市場)

 市場を出て、国際通りにある「那覇市伝統工芸館」へ入る。琉球びんがた、首里織、琉球漆器、壺屋焼、琉球ガラスが展示してある。芸術的なことは私には分からないが、それぞれの作品に力強さを感じる。素晴らしいものを見せてもらったと思う。ここではそれぞれの体験教室もある。即売所で壺屋焼のビアカップを買う。


(那覇市伝統工芸館入居ビル)


(那覇大綱引き祭りの縄)

 国際通りは素通りして、空港へ向かうべく牧志駅からスーツケースを預けてある県庁前駅へ。駅へ近づくと駅横のショッピングビルにLIBROの看板がある。本屋がある、とビルの7階へ。1日目に寄った本屋さんには置いてなかった本を探す。あったあった。「谷川健一・折口信夫著『琉球王国の源流』かじゅまるブックス3、榕樹書林」税別900円。民俗学者折口信夫はこの本の中で南北朝の時代(1336年~1392年)熊本の八代から水俣方面にかけてに居を構えた南朝方の名和一族に関係するものが琉球に渡ったのではないか推測をされている。八代から水俣の間には「佐敷」がある。第一尚氏創始の思紹・巴志親子は沖縄の「佐敷」から挙兵し、中山王を破り、北山、南山を滅ぼし統一王国を樹立した。折口信夫の説を補強しているのが水俣出身の谷川健一である。第一尚氏の部隊が南北朝時代に数々の戦を経験した人々であるならば、琉球の地で戦っても強かっただろうと思う。この本の存在を知って沖縄で手に入れたいと思っていたが、1日目の本屋に無くて諦めていた。それが最後に実現するとは。

 県庁前駅に戻り、スーツケースをコインロッカーから取り出し、那覇空港へ。


(モノレール車内で)

 4日間の沖縄の旅も終わった。最も印象に残ったのは1日目沖縄県立博物館へ行った時のことである。博物館は基本的に時代区分にしたがって展示がされている。その区分の仕方にそれぞれの博物館というかその地域の特色がある。展示の大きな項目として、(前の方は略する)「貝塚のムラから琉球王国へ」、「王国の繫栄」、「薩摩の琉球支配と王国」、「王国の滅亡」、「沖縄の近代」(これより後の方は略する)、とあって、「王国の繫栄」と「王国の滅亡」の間に「薩摩の琉球支配と王国」と書かれた展示の垂れ幕があった。「王国の繫栄」「王国の滅亡」という順であれば特に感じないが、「薩摩の琉球支配と王国」と書かれた幕は意外感があって最も大きな印象に残った。
 薩摩軍の琉球侵攻は1609年春、徳川家康が江戸幕府を開いた6年後である。3千の軍が琉球に侵攻する。軍事力の差は大きく首里城は占拠され、琉球王国は奄美諸島を薩摩に割譲したほか、多額の納税義務を負うことになる。納税の負担を強いられるのは庶民である。その後の庶民の生活は一変したであろうことは容易に想像できる。薩摩は徳川家康の許可を得て侵攻した。琉球王国と徳川幕府は徳川将軍が代わるたびに「慶賀使」を、琉球国王が代わるたびに「謝恩使」を琉球から将軍のもとに派遣する関係が続くことになる。明治維新後は中国・日本とのこれまでの関係を維持しながら、独自の王国を存続する意思を主張したが叶わず、琉球処分による沖縄県が誕生した。

 このブログは今回の旅で興味を持ったことを後から調べて書いたものが多い。それもまた旅の楽しみであると思う。

 沖縄の歴史についてはあまり知らなかった。通史みたいな本も少ない。旅とその後で知ったことも少しのことでしかない。新たな疑問も生まれてくる。

 沖縄を語るには沖縄の歴史を知らなくてはいけないと感じている。

なごやんばるツーデーマーチ2日目辺野古サンライズコース-沖縄の旅3日目

2015-12-19 | JWAウォーキング
【写真はクリックすると拡大します】

12月13日(日)

 今日のスタートは7時。まだ暗いうちにメイン会場の21世紀の森屋内運動場へ。朝食は会場でパン。途中、お腹が空いた時のためパンを2個リュックに入れる。

 メイン会場~道の駅許田(きょだ)~久志(くし)公民館~辺野古公園~二見の里~世冨慶(よふけ)公民館~名護市営市場~メイン会場の31.2kmが今日のコース。


(21世紀の森屋内運動場)

 昨日歩いた21世紀の森ビーチから名護漁港、国道58号線へ出て名護湾の海岸沿いを歩く。湾の向こうに宿泊したホテル、21世紀の森ビーチ、屋部の海岸などが見える。


(21世紀の森ビーチ)


(名護湾)


(名護漁港)


(名護湾)


(名護湾岸)


(名護湾)


(名護湾)


(名護湾)

 5.9km地点の道の駅許田でトイレ休憩。朝の8時頃なので物産センターは開いていない。しばらく海岸線を歩いて山道へ入る。上りを歩いていると突如として大きなお寺「名護山平安寺」が現われた。人家が密集しているようなところでは無い。


(平安寺)

 トンネルを出てもしばらく上りが続いたがやがて下りに海が見えた。海に出て歩けるかな、と思ったら「蘇る大地の碑」があって左へ曲がる。左手に見えるのは久志岳か。このあたり一帯の高地は開墾されているので、「蘇る大地の碑」はこのことかも知れない。


(太平洋)


(蘇る大地の碑)


(久志岳(左)と辺野古岳(右)?)


(パイナップル畑?)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

 海の見えないところを歩いて、13.6km地点の久志公民館へ。チェックポイントのスタンプを押してもらう。


(久志公民館)


(久志公民館)


(道沿いで)

 公民館をすぐそばに「祝女殿内(のろどぅんち)」があった。「琉球では、神々を祭る役目は女性のものであった。一般にオナリ神信仰とよばれるが、オナリ(女性)は霊力が高く、エケリ(男性)を守護する力があると信じられていた。農耕儀礼を中心とする年間を通じてのさまざまな行事・祭礼があり、その場面で神々に豊作を祈願し、収穫のよろこびを感謝したのは女性たちであった。(高良倉吉著「琉球王国」岩波新書より)」琉球王国第二尚氏の時代、そのような女性たちを組織化した。王の妹を頂点の聞得大君職とし、地域にはのろを配置した。殿内はのろが住むや屋敷である。
そのすぐ傍には久志之若按司御位牌安置所がある。按司はグスクを居城とした地方の領主である。久志の若按司の「策謀術で敵同士を仲違いさせ、ついに主君の仇討を果たす」物語は組踊として上演されたりしている。


(祝女殿内)


(久志之若按司御位牌安置所)

 少し歩いたら海に出た。ここで、チェックポイントのスタンプを押してもらうマップを落としていることに気がつく。先ほどの公民館だろうと引き返すとあった。気を取り直して再び海の見えるところへ。歩いていても海が見えるは一瞬一瞬で、海の見えない道を歩く。


(道沿いで)


(一瞬海沿いを)


(海の見えない道を歩く)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(また少しの間海が見える)


(サトウキビ畑?)

 17km地点、辺野古公園に着く。ここでも海は眺めただけで先へ進む。


(辺野古公園)


(辺野古公園)

 海側には在日米軍海兵隊基地がある。普天間基地の移転先とされる所だ。道の反対側には基地移転反対派のテントがある。基地に沿って歩いていると、また一瞬海が見えるところがあった。


(米軍基地の道路反対側)


(米軍基地の道路反対側)


(一瞬海が見える)

 沖縄半島で東側と西側の海を持つ自治体は北端の国頭村、南端の糸満市の他は名護市だけである。西側名護湾沿いを歩いて山を越え東側太平洋に出たのだが太平洋の海はチラリチラリと見ただけで、海側には米軍基地もあるし海沿いを歩くことはなかった。残念な気持ちである。


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

 22km地点の介護老人施設二見の里ではトイレ休憩だけで先へ進む。やがて世冨慶川に架かる長堂橋に出る。橋には名護親方・程順則(なごうぇーかた・ていじゅんそく)の像が置かれている。程順則は「近世の沖縄を代表する政治家で、66歳のとき、名護間切の総地頭(そうじとう:今でいう市長)となり、名護親方となのります。名護にいたのは7年間でしたが、その功績や人徳から人々に親しまれ、名護聖人(なごせいじん)とも呼ばれました。」(名護市ホームページより)


(道沿いで)


(道沿いで)


(ツーリングの集団)


(昨日見た嘉津宇岳)


(長堂橋)


(長堂橋)

 橋は長かった、1km程はあったろう。


(名護湾が見えた)


(長堂橋の終わり)

 橋を渡り終えしばらく歩くと世冨慶地区に着く。朝方通った海沿いの道が見える。5kmコースと合流したようで小さい子どもを連れた参加者たちと会う。


(世冨慶地区)


(世冨慶地区)

 わが国で最も大きいといわれる東江(あがりえ)のミフクラギを見て、昨日訪れた名護博物館、ひんぷんカジュマルへ出る。「「ひんぷん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、三府龍脈碑を建てました。この石碑がひんぷんのように見えることからヒンプンシーと名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしかひんぷんがじまると呼ばれるようになりました。」(名護市ホームページより)


(東江のミフクラギ)


(名護博物館)


(ひんぷんカジュマル)

 名護の商店街を通って21世紀の森屋内運動場へ。ゴールして今日もオリオンビール。ウォーキング中に食べなかったパンがおつまみ。


(名護の商店街)


(道沿いで)


(ゴール)


(参加者数)

 2日間のウォーキングを終えて、名護バスセンターから高速バスで那覇へ。高速バスの停留所何カ所かはインターチェンジから出たところにあるのでその都度インターを出てまた入る。名護へ行くときも感じたが、ETCを使ってインターを通過する車が少ない。多くの車は直接支払の方に並んでいた。那覇バスセンターで降りたら山形県の遊佐でお会いした方に会う。同じバスだった。ご挨拶して、今日の宿泊先西鉄リゾートイン那覇へ。

 一休憩して、お肉を食べたいと思いフロントで紹介してもらう。地図に印をつけてもらったがなかなか見つからない。同じところを何度か行ったり来たりしてようやく気付いた。観光客用の大きな看板などがないお店「サウザンステーキ」は地元の人が利用するような小さなお店でカウンターがあった。お勧めは千円のサウザンステーキ200gということでその食券を買う。もちろんビールも。ライス、サラダ、スープもついてきた。赤身の肉で、とても美味しいとまではいかないが、千円で肉を食べたという満足感は得られる。

 コンビニでオリオンビール500mlとチョコレートを買ってホテルに帰る。
 今日もウォーキングとオリオンビールの一日になった。

なごやんばるツーデーマーチ1日目勝山と屋部みどりの道コース-沖縄の旅1、2日目

2015-12-17 | JWAウォーキング
【写真はクリックすると拡大します】

12月11日(金)

 沖縄の旅1日目は13時前に那覇空港に到着。モノレールでおもろまち駅へ。沖縄県立博物館は駅より歩いて10分程のところにあった。沖縄の歴史、自然を学びたいとの思いで行ったが、さっと見てまわってしまった。「博物館展示ガイド」を買って後日勉強しよう。

 博物館隣りのショッピングセンター2階にある書店で、沖縄の出版社のある本を探したが置いてなかった。店員さんに聞くと「お取り寄せで1週間位かかる。」というので諦めて、那覇空港へ戻る。

 那覇空港から高速バスで名護へ向かう。バスはウォーカーが多く満席状態、いつもとは違う乗客数で地元の利用者の方々はびっくりされたかもしれない。2時間近くかかって名護バスセンターに着いた。飛行機に乗っている時間よりも長かった。宿泊ホテルはバスセンター近く「ゆがふいんおきなわ」。18時頃で薄暗くなりかけていたが、ホテルはすぐにわかり暗くならないうちに着いて良かった。

 夕食はホテル近くの居酒屋でお刺身、ジーマミー豆腐、ふーちゃんぷる、オリオンビール、泡盛。

12月12日(土)

 日の出前に目が覚めた。ウォーキングの準備をして、コンビニを探しながら海岸沿いの道を歩いて行くが無い。メイン会場の「名護市21世紀の森屋内運動場」を過ぎても無い。朝食は食べなくともなんとかなるだろう思いメイン会場へ行ったらパンの販売があっていて助かった。


(ホテルから)

 会場入口前にはオリオンビールのテントがあった。「ゴールの後はオリオンビールが飲める。」と嬉しくなった。その後、受付で貰ったマップのチェックスタンプ頁を見たら、ゴール後にオリオンビールが提供されると書いてある。ますます嬉しくなる。

 「なごやんばるツーデーマーチ」1日目は「勝山と屋部みどりの道」に参加する。メイン会場~勝山シークヮーサー~屋部(やぶ)支所~21世紀の森ビーチ~メイン会場の実距離19.4kmのコースである。

 勝山シークヮーサーまでの道のりは9.2km。道々、撮ったことのない花ばかり目につくのでいて、立ち止まってシャッターを押す回数が増える。JR九州ウォーキングではウォーカーが前後に見えなくなってもそんなに不安感は無いが、JWAウォーキングで知らない土地を歩いていてウォーカーが前後に見えなくなると不安になる。じっくりと写真撮ることが出来ない。慌てて前を行くウォーカーの背中を追いかける。


(沖縄各地のウォーキングの紹介)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

 国道58号線に出たところの案内標識を見て、海洋博があったところの近くなんだと思いながら歩く。屋部川を渡る橋の所から海が見えたが一瞬だった。


(案内標識)


(国道58号線)


(道沿いで)


(道沿いで)


(国道58号線)


(屋部川の橋から)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

 少し上って着いた勝山シークヮーサーは「農業生産法人有限会社勝山シークヮーサー」がシークヮーサーのジュース等を生産販売所である。サービスのジュースをいただいた。酸味や苦みがあり大人のジュースという感じがする。歩いてきた体の疲れがとれる。チェックポイントもここであった。スタンプを押してもらい進むと、「嘉津宇岳 (かつうだけ)入口」の案内板があった。「かつう」がもともとあった名で「勝山」は後からつけられた名のような気がする。


(嘉津宇岳)


(嘉津宇岳)

 みかん畑や古い沖縄の建物、セメント工場などを通過すると名護湾に出た。しばらくは湾沿いを歩く。屋部地区で一時海沿いを離れ、15.3km地点の屋部支所でトイレ休憩。その後はまた海沿いを歩いて「21世紀の森ビーチ」へ出る。ビーチを歩いて、川のところから海岸線の道へ出て市役所方面に戻りゴールメイン会場へ。オリオンビールが待っていた。


(道沿いで)


(道沿いで)


(海が見えた)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(名護湾)


(名護湾)


(名護湾)


(名護湾)


(名護湾)


(名護湾)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(21世紀の森ビーチ)


(21世紀の森ビーチ)


(21世紀の森ビーチ)


(21世紀の森ビーチ)


(21世紀の森ビーチ)


(名護市役所)


(オリオンビール)


(オリオンビール)

 ホテルへ戻り一休憩して、オリオンビール工場へ。朝方歩いたメイン会場南側の海岸沿いではなくメイン会場北側の道を歩いていると「宮里前の御嶽のハスノハギリ林」があった。名護湾の海岸線はかつてハスノハギリ林が続いていてここ宮里前の御嶽が海岸であったようだ。


(宮里前の御嶽のハスノハギリ林)


(宮里前の御嶽のハスノハギリ林)

 オリオンビール工場はホテルから3キロ弱だったろうか。今日は土曜日で製造ラインは動いてなかったが、見学は出来た。見学の後は試飲。コップ2杯飲ませていただいた。2杯とも泡が最後まで残って味も香りも楽しめた。ビールの注ぎ方はプロだ。


(オリオンビール工場)


(オリオンビール工場)

 工場の直ぐ傍に名護博物館があったので見学。名護はかってくじら漁が行われていたことを知る。見学後、博物館の近くのガジュマル緑地へ行ったら、徳田球一の記念碑がある。「徳球さん」が名護の出身とは初めて知った。


(名護博物館)


(ガジュマル緑地)


(ガジュマル緑地)

 そこの橋の袂にある近辺の地図案内板を見ると、近くにといってもオリオンビール工場の方へ戻らなければならないが名護城跡が公園となっている。階段を五百段位上っただろうか名護神社がある。小さいお宮である。振り返ると抜群の眺望で名護の市街、名護湾が見渡せる。裏へ回るとさらに上っていけて名護城の主郭があった場所にたどり着くことができたようだが、眺めに満足して階段を下る。


(首里城跡公園)


(首里城跡公園)


(首里城跡公園より)


(首里城跡公園より)


(首里城跡公園)

 下る途中の横道に入ると、ノツポヤシ広場がある。その広場の入り口の右手には「白い煙と黒い煙」という碑が建っている。大正時代、黒い煙を吐く船に乗り大和の国へ出稼ぎに行く娘を名護城跡から白い煙を焚いて見送る老夫婦の哀別を主題とした物語の碑である。


(白い煙と黒い煙)


(ノツポヤシ広場)


(ノツポヤシ広場)


(首里城跡公園より)

 階段を下りた頃にはうす暗くなってきた。先ほどのガジュマル緑地へ戻る。ここらからホテルへの帰り道が名護の繁華街になる。ホテルまで少し距離がある。ここで食事をしお酒を飲んだら帰り着くまでがきつい、と思いながら歩いているとホテルが近くなってきた。「宮里前の御嶽のハスノハギリ林」のそばに、ビール工場へ行く時に気になっていた食堂があったので入った。入ってすぐのところに食券販売機があって沖縄そば数種類とカレー、スパゲティー位しかメニューがない。「ソーキそば」600円の券を買う。沖縄そばは何度か食べたが美味しいと思ったことはなかった。これは美味しい。そばの食感、そばにからまるつゆとそばの味、絶妙だ。これまで食べた麺類の中でもこれほどのものはそうはお目にかからない。店の名前はどこかにか書いてあったのだろうけど、目に入らなかった。後で調べたら「宮里(みやざと)そば」で沖縄でも有名なお店のようだ。

 ホテルに辿り着いて、自動販売機でオリオンビール500ml、350円。
 ウォーキングとオリオンビールの一日が終わる。

「赤間」の名を考える-ウォーキングの楽しみ

2015-12-09 | 旅で思う
11月8日(水)

 「縄文時代の遺跡で最も大規模な青森県の三内丸山遺跡へ一度は行ってみたい。」との思いからネットで交通手段やその他の観光地を調べていたら、「第13回縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目三内丸山遺跡コース」というのが目に留まった。これにしよう。早速、ホテルを予約し参加の申し込みをした。

 8月1日、ツーデーマーチ2日目に三内丸山遺跡へ行った。遺跡に立って感じて目に浮かんだのは、そこに住んでいる人たちがあっちこっちでザワザワと話をしている姿だった。昨日の出来事だったり、今日のこれからの予定だったり、単なる話だったり、これから皆で協力し合っての作業のことだったり、「ことば」で、今でいうコミュニケーションを図っている姿だ。ある特定の場所を話題にするのに、地名も創りだされただろう。六本柱の大型掘立柱建物も皆で話し合いながら共同作業で作り上げていくのは楽しかっただろう。などなど興味はつきない。

 青森から帰って縄文時代の事について少し調べようと書物を探していたら「縄文時代のコトバ」(福田浩・中島敏之著、上毛新聞社出版局、平成19年)という本があった。
その本の中に『ma ま 間(本では「さんずいに」)』という項目がって、掛り間(本では「さんずいに」)=入江や島かげを利用する港をさし、日本海岸から北海道にかけて使われる。そして大間岬などがあげられている。

 福岡には「赤間」や「福間」があるなぁ、2つとも海岸は近いのではないか、とその時は思っていた。

 10月25日、JR九州ウォーキング教育大前駅コースに参加した。教育大前駅~正助ふるさと村~伊豆本店~唐津街道赤間宿にある「赤馬館」~釣川沿いを久桜公園~赤間駅と歩いた。伊豆本店は酒蔵であるが、その前にコースを外れて「八所宮」へ行った。八所宮の説明には「本宮は天照大神のご両親を始め、遡る事、神代四夫婦八柱の神をお祭りし八所宮という。八所の神は、神武天皇東征の折姿を現し赤馬に乗り皇軍を先導されたと伝えられている。このことからこの地域一帯を『赤馬の庄』と言い、本宮は赤馬の庄の総鎮守の神社として人々の尊敬を集めてきた。」とあった。

 赤間の宿は玄界灘に注ぐ釣川の中流域にあり、ゴールの赤間駅までは釣川沿いを歩いた。「赤間」の名は縄文時代のことばの『ま』とは関係ないのか、海岸まではかなり距離はあるし、と思ってその日のウォーキングは終わった。

 3週間後、11月14日にはJR九州ウォーキング東郷駅コースに参加した。雨の中、「いせきんぐ宗像」を見学し宗像大社に向かう途中から釣川沿いを傘さして歩く。25日に歩いた釣川の下流にあたる。宗像大社を出たところに「宗像市郷土文化学習交流館海の道むなかた館」があったので見学をすることにした。展示室では古代から現代まで宗像地区と他の内外地域との交流の歴史が紹介されていた。そこには縄文時代の地形図があった。それを見てビックリした。なんと、釣川は赤間宿近くまで玄界灘から続く海で入り江になっていた。(「撮影禁止です。」といわれたので写真はありません。)

 そうすると、やはり「赤間」は縄文時代から「あかま」ないし「〇〇ま」と言われたていたのではなかろうか。神武東征の話はもともと「あかま」と云われた地域に後から話が出来たのか、あるいは「〇〇ま」と云われていた地域に神武東征の話から「あかま」と呼ばれるようになったか、それは分からない。しかし、縄文の時代から日本列島共通のことばで「〇〇『ま』」と名づけられていたのは違いないのではなかろうかと思う。赤間宿近くには吉留池ノ浦遺跡、吉留下惣原遺跡、冨地原深田遺跡などの縄文遺跡もある。

 青森県三内丸山遺跡から出土した黒曜石には長野県産のものもある。縄文時代は特に船を使って広範囲に交流していた。そのような交流に必要なことから日本列島で共通なことばや地名が出来ていったのではないかと思う。

 このような事を考えるのも私のウォーキングの楽しみの一つである。


(「教育大前コース」このあたりは古代から人々が住んでいたのではと思って撮った1枚。釣川の上流方向。)


(「教育大前コース」赤間駅付近の釣川。縄文時代このあたりまで海だった。)


(「東郷駅コース」宗像神社への道。ここは海だった。)


(「東郷駅コース」釣川が玄界灘に注ぐところ。)

「木の葉猿」に会う-JR九州ウォーキング木葉駅コースに参加

2015-12-02 | JR九州ウォーキング
11月29日(日)

JR九州ウォーキング木葉駅コースに参加。
今日のテーマは『西南戦争遺跡散策とふれあいの丘交流祭を訪ねて』。

木葉駅は両親に連れられて来たかすかな記憶がある。多分60年程前のことだと思う。
通過することはあっても降り立ったのはそれ以来である。
9時15分頃「ぎよくとう勝手に宣伝隊」に見送られてスタート。

西南戦争は熊本城で官軍と薩軍が激戦を繰り返す中、薩軍の一部の部隊が玉名・玉東方面に北上し、小倉から応援に向かってきた官軍と激突。薩軍は後退し田原坂の決戦になった。

玉東町にある西南戦争遺跡、高月官軍墓地、正念寺、上木葉官軍本営跡、有栖川宮督戦地、徳成寺、宇蘇浦官軍墓地と路地をくねくねと曲がりながら廻った。

高月官軍墓地は官軍兵士980名を葬ってあり、官軍墓地の中でも最大のものである。宇蘇浦官軍墓地は少し上った山の中にある。墓地の入口には「明治十年之役官軍戰死者墳墓地」の碑が建っている。当時は「明治十年の役」と言われていたようだ。「西南の役」あるいは「西南戦争」とはいつだれが名づけて定着したのだろうか。

正念寺、徳成寺は官軍の包帯所が置かれ、町医者や地元の人々が治療を手伝った寺院である。官軍、薩軍の隔てなく治療を行いその活動が日本赤十字社の前身博愛者の設立に繋がっていった。

上木葉官軍本営跡には現在は公民館が建っている。有栖川宮督戦地は征討総督に任命された有栖川宮熾仁親王が田原坂戦を見て廻った地で、激戦地吉次峠などが見渡せる眺望の開けた高台にある。

それぞれの遺跡では地元のボランティアガイドの方々が熱心に説明して下さった。この日のウォーキング参加者は1,000名を超えていたようで、大変だっただろうけど皆さん熱の入った説明だった。

西南戦争の遺跡を廻った後、宇都宮神社、木の葉猿窯元へ行く。
木の葉猿は「養老7年、この地に侘び住まいをしていた都の落人が、夢枕に立った老翁のお告げによって奈良の春日大明神を祭り、木の葉山の赤土で祭器を作り残りの土を捨てたところ、猿に化した、という伝説から生まれたものである。」と窯元に説明書きがある。
宇都宮神社は、豊臣秀吉に反旗を翻した豊前宇都宮氏を秀吉が黒田官兵衛・長政親子や加藤清正らに宇都宮父子を討つことを命じ、鎮房は中津城で長政に、子・朝房はこの地で清正に殺される。清正は朝房の亡霊の祟りに悩まされるようになり春日大明神宮に朝房の霊を祀り、それから宇都宮神社と呼ばれるようになったという。
境内の紅葉が綺麗だった。

木の葉猿窯元では、型を使わず指先だけで粘土をひねつて一体一体を手作りで作られているのを見学できた。見ざる言わざる聞かざるの木の葉猿は子供の頃はよく見かけていたので懐かしいが、新しい猿も生まれている。以前は窯元も多かったと思うが今はここ一軒だけだろうか。

鹿児島本線の踏切を渡り、通過する鹿児島本線の列車、九州新幹線の列車を撮りながら、
ふれあいの丘交流センターへ。お祭りがあってて、JRウォーキング参加者には搗き立てのお餅がプレゼントがあった。お餅の列に並ぶ前に、だご汁の列に並んで買ってから、お餅をその中にいれてもらった。300円だったが具沢山で美味しかった。

木葉駅に帰る道沿いからは、木葉山が石灰岩の山でもあることがわかる。
11時40分頃に、今年のJR九州ウォーキングのラストウォークをゴールした。
間もなく下りの列車が来たので帰路。
自宅について炬燵の中でビール。1年を締めくくった。

コースの雰囲気はアルバムを見てください。
こちらです。
http://opa.cig2.imagegateway.net/s/m/BNsHBk8yzVt


(木の葉猿)


(宇都宮神社)