鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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「777段」に会う【JR九州八代駅 鉄卓のフォト・ウォーク2020-12】

2020-11-24 | JR九州ウォーキング
2020年11月23日(月・祝)

今日は、鹿児島本線八代駅(熊本県八代市)。



「SL鬼滅の刃号」を見物する人で喧騒するであろう熊本駅を早々に出発し、南へ。



八代駅は肥薩線の始発駅。ホームへ入るとこれが目に入る
肥薩線は7月の「令和2年7月豪雨」で大きな被害を受け、八代駅と吉松駅(鹿児島県)間は不通となって、復旧の目途はたっていない。
早急の復旧を祈願する。



八代の11月23日は、ユネスコ無形文化遺産「八代妙見祭」のメイン行事神幸式(お上り)が行われる日。
今年はコロナと7月豪雨で八代地域も大きな被害を受けたため中止に。



JRと接続する「肥薩おれんじ鉄道(旧鹿児島本線)」も、7月の豪雨で大きな被害を受けたが、11月に全線開通している。



JR貨物の八代駅も隣接している。肥薩おれんじ鉄道で鹿児島へ荷物を運ぶ。



水無川の川沿いを歩いた後、何度か左折、右折する。







妙見宮参道へ出て、妙見宮へは入らず右折し「砥崎河原」へ。
祭があっていれば、砥崎河原では、演舞や馬追いが披露される。
階段は早くから場所を確保した人でいっぱいになる。
川の中を水しぶきを上げながら駆け抜ける馬追いはカメラマンの腕の見せ所。
しかし、今日はウォーカーがちらほら歩いているだけ。



水無川沿いを歩いていく。









「八代妙見宮中宮跡」へ。平安時代の27年間、この地に妙見宮があった。
上宮跡は海抜400mの横嶽の頂上にある。
下宮は現在地の妙見宮。



中宮跡にある名水百選に選ばれている水。水汲みしている人がいた。



中宮跡を折り返し、「懐良親王御陵」へ。
南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王は、征西将軍となり九州における南朝方の中心として活躍した。





先へ進む。幾つか目のお宮。



妙見宮の横に出て、お宮へ。



祭が中止になり、寂しそうに見える。



占いによって神幸行列のお面の順番が決まり、翌年の天気を告げるそうだ。
先頭が緑の水王なら翌年雨の多い年になるという。



妙見宮を後にして、「薩摩街道」を歩く。





いよいよ、「東片自然公園」の777段の石段。
JR九州ウォーキングや八代国際スリーデーマーチで何度かここへきているが、石段を上ったことは無い。
今日は上ろう。



上を見ると石段ばかりで気持ちが萎える。目の前の石段だけを見ながら、疲れが出てきた足を黙々と上げる。
半分以上は上がっただろうか、休憩所があって一息つく。



また、黙々と上る。六百段の標識。もう少し。気力を振り絞る。



やったー、頂上。

足はふらふら。眺めは抜群。

球磨川方面。



スタートした八代駅方面。



ゴールのある新八代駅方面。



堪能して、下ろう。

一眼レフカメラはリュックの中に入れる。

あと20段ほどで頂上かというところから右に入ると、「聖徳太子堂」がある。
寄ってみる。

掃除をされている方がいたので伺ったら、町内で持ち回りでお世話をしているとのこと。
750段ほどの石段を上り下りしてお世話されているようだ。



下りは石段の下を見るのが怖い。前を行く人の背中と目の前の石段だけを見て足を運ぶ。

長い階段をようやく下り終えた。ほっ。
下ってきた石段を見上げ、バッグから出したカメラを構える。



さて、ゴールへ向かおう。





もう、階段はいらんよ。



「晩白柚」は八代の名産品。



「イ草」も八代の名産品。





「松中信彦スポーツミュージアム」は入ったことがあるのでパス。



新八代駅東口にゴール。



新八代駅内のくまモン。
毎年、10月には「やつしろ全国花火競技大会」が開催されるが今年は中止。



中宮跡を折り返したあたりで、ウォーキング仲間のKさんと会った。
Kさんには、ゴールまで年寄に付き合っていただいた。有難うございます。駅でお別れ。

駅の西口には「がめさん公園」がある。がめさんとは妙見祭の人気者亀蛇のこと。
ゴールの後、「八代よかとこ物産館」で買ったお弁当にkioskで買ったビールをもって公園へ。





777段を上ってのビールは美味い。
今日のウォーキングを終える。

「炭坑節の町の秋」に会う【JR九州田川伊田駅 鉄卓のフォト・ウォーク2020-11】

2020-11-17 | JR九州ウォーキング
2020年11月14日(土)

今日は、日田彦山線田川伊田駅(福岡県田川市)。



博多駅から福北ゆたか線で新飯塚駅へ。乗り換えて、後藤寺線で田川後藤駅へ。日田彦山線に乗り換えて一駅、田川伊田駅に着く。

久しぶり来た。改札口までアプローチが懐かしい。
受付を済ませ、駅を見ると、駅舎が新しくなっている。駅前広場は整備中なので、まだ新しくなってすぐのようだ。



駅の真ん前に「風治八幡宮」。七五三の姿もちらほら。





「伊田商店街」は、時間が早いのかまだシャッターが下りたままの店が多い。
各店のシャッターには絵が描かれて、シャッターアート商店街に変身している。



商店街から横道に入ったところで。



商店街を後に「石炭記念公園」へ。三井田川鉱業所伊田坑の跡地に整備されている。



田川は炭坑節発祥の地。
田川市のホームページによると正調炭坑節の歌詞は
「香春岳から 見下ろせば 伊田のたてこうが 真正面
12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔 サノヨイヨイ」
である。



炭坑夫之像。



明治41年に完成の二本煙突。45m程あるそうだ。



石炭歴史博物館もあるけど、前に来た時に入ったので、パスした。

石炭公園を出てから右折し、信号から左折して小路を進み「三井寺」へ。







夏は風鈴がかかっていて、「願掛け風鈴」とネットで話題になっているらしい。



お寺の裏の竹林から出ていく。



すぐに、田川市民球場に着いた。スポーツの秋、野球の試合があっている。



市民球場から、まっすぐ歩く。街路樹の銀杏は黄葉。









国道201号線に出て左折。
サッカーの練習をしている田川科学技術高校を横目に通り過ぎると「相撲茶屋貴乃花」がある。



貴乃花部屋が九州場所で使っていた土俵。
毎年、11月は大相撲九州場所が開催されるが、今年はコロナの影響で、東京の国技館で開催されている。
お相撲さんを見る機会のない11月の福岡は寂しい。



ちゃんこのお振舞をいただく。美味しい。有難うございました。



ここで食事をしようかと迷ったが、お昼にはまだ早いので、先へ進む。
国道201号線の下をくぐって左折。
平成筑豊鉄道(愛称:へいちく)糸田線沿いを歩く。



大藪駅の横を通過。



気温も上がり、かなり暑くなってきた。
と、その時、1両編成の列車が来た。慌ててカメラを向けたが遅かった。
暑さで、反応が鈍くなっているようだ。

気を取り直して先へ進む。





森本うなぎの看板が見える。「疲れには鰻だ」と入る。
地元のお客さんが多いようだ。
うなぎを待つ間、帰りの列車の時間を調べる。うなぎを食べてからでは、次の列車は間に合わないかも知れない。

食べ終わってから、元気を出して、急ぐ急ぐ。
少しカット出来そうだけど、マップのとおりに歩く。

後藤寺商店街はお昼時だったけど人通りは少ない。



「ひたひこウォーキング」のゴール受付は商店街の中であった。

JR日田彦山線では「ひたひこウォーキング」が開催されている。主催は日田彦山線活性化推進沿線自治体連絡会。
JR九州ウォーキングと共催なので、JRの日田彦山線の駅で開催のウォーキングがそのまま「ひたひこウォーキング」にもなる。
JRのウォーキングとは別に「ひたひこウォーキング」のスタンプ帳があるので、それにスタンプを押してもらう。

スタンプ3個でひたひこオリジナルマフラータオル、6個でひたひこオリジナルカードケース、10個で地元特産品が貰える。
有効期限は、いぜんは2年間だったが、今は3年間。

スタンプが3個になったので、タオルと交換した。これで3つ目。孫へのプレゼントになる予定。
チロルチョコもいただいた。



商店街を出てすぐ、ゴール田川後藤寺駅へ。一歩及ばず、間に合わなかった。
次は約1時間後。



駅のまわりをブラブラしながら、駅から10分弱の「春日神社」へ。お昼の時間だっので七五三の姿はなかった。





「風治八幡宮」も「春日神社」もマップでは寄り所にはなっていなかったが、立派なお宮だった。

駅へ戻って。ホームへ。



左は、平成筑豊鉄道の列車。右はJR日田彦山線小倉駅行きの列車。



JR後藤寺線の列車が入ってきた。折り返しで新飯塚駅へ向かう。新飯塚駅では博多駅行きに乗り換える。



ゴールした駅で、帰りの指定席を発券してもらうことは多い。今日もそう。
駅員さんの口調がはっきりしている、声も聞き取れる、難聴の私でも話されている言葉が全部わかる。気持ちよく指定席の発券をしてもらった。

配慮されたのであろう、博多駅での乗り換えもスムーズにいく車両で西日が当たらない席に座る。
駅員さんとのやりとりを思い出しながら、今日のウォーキングを終える。

県庁へ、ルフィ像へ、図書館では学び【熊本城から歩く-3】

2020-11-11 | 熊本城
2020年11月8日(日)

熊本城から歩く3回目はルフィ像が建っている「熊本県庁」へ行こう。

お城は江戸時代の「県庁」。スタートはお城の二の丸広場。



二の丸広場の秋。



城彩苑の銀杏も色づいてきた。



お城からすぐ。旧交通センターの「サクラマチクマモト」へ。
「県庁」は、昭和25(1945)年から昭和42(1967)年までこの地に建っていて、現在地に移転したのち交通センターになった。
交通センターは、令和元(2019)年に桜町バスターミナルに変わって、建物も近代的になり「サクラマチクマモト」と呼ぶ。





「サクラマチクマモト」の4階テラスへ。





眼下に見える「花畑公園」は工事中。
花畑公園から長塀にかけては藩主の邸宅「花畑屋敷」があった。



「サクラマチクマモト」を出て、工事中の花畑公園を横目に長塀へと行く。

清正公さんも秋に包まれて。



4年前の熊本地震で損傷した長塀の復旧は近そうだ。



この日は「まち・はなパビリオン」という催しがあっていて、熊本市の街中は花でいっぱい。

長塀の通りも花の展示で華やかだ。長塀の復旧を祝うかのように飾ってある。





熊本市役所に出る。



上通を歩いて、肥後銀行のところで右折。白川公園へ。
「県庁」は白川公園に建っていた時期があると聞いている。





白川公園の紅葉を眺めながら、上通りの蜂楽饅頭をいただく。「黒一つ白一つ」と言って買った。



白川沿いを歩いて。



白川に架かる「明午橋」を渡る。



新屋敷を流れる大井出川を渡る。



中央消防署の信号を渡って、すぐに右へ。またすぐに左へ行くと、「徳富記念園」がある。
徳富蘇峰、蘆花兄弟が幼少時代を過ごした徳富旧邸は、熊本地震で損傷を受け、修復工事中。



信号のところに戻って右折。堂免公園へ。



公園の紅葉を眺めながら行徳パンで買ったパンでお昼。



公園から東へ。熊本学園大学の正門入り口へ。大学の銀杏並木は紅葉が始まったころ。
コロナ対策のため校内は関係者以外は立ち入り禁止になっている。



熊本学園大学産業資料館。明治27(1894)年に建てられた熊本紡績の赤レンガ工場の一部を熊本駅近くから移転してある。



学園大学14号館の海老原喜之助の壁画「蝶」。



学園大学から南へ歩く。隣は、熊本県立劇場。現在、改修工事中。



豊肥線の踏切を渡る。左に水前寺駅。



右に新水前寺駅。両駅間は踏切から目視で見えるが、両駅とも特急の停車駅。線路の上を歩けば1kmは無いのではないか?



さらに、まっすぐ歩いていくと、電車通りに出る。出たところにバス停がある。停留所の名は「国府」。



少し離れた電停の名も「国府」。



電車通りの横断歩道を渡ったところの住居表示も「国府」。



この辺りは、律令制が始まったころ、今でいえば「県庁」にあたる「国府」が置かれていた。
熊本大学、熊本学園大学の構内を通って国府までほぼ一直線に太宰府からの官道が通っていたようだ。

肥後国の国府は2回移転している。
最初は、ここ熊本市中央区国府、次に熊本市南区城南町陣内、3番目が熊本市西区二本木に置かれていた、という説。
城南町陣内が最初で、国府に移り、二本木に移ったという説があるようだ。

水前寺公園前の電停があるところの信号を右折。熊野座神社がある。



境内に大きな石が置いてある。七重の塔の心礎。
国府の東には、国分寺と国分尼寺が建てられた。この礎石は国分寺の七重の塔の心柱のもの。元位置より移動したとみられている。



最初の信号を左折して歩く。江津湖へと清流が流れている川を渡る。



そこには、「熊本県立図書館 くまもと文学・歴史館」がある。
くまもと文学・歴史館の企画展「絵図が語るくまもと」は見学済みなので今日は入らない。



熊本県立図書館3階の郷土コーナーへ。



図書館の係の方に「熊本県庁の移り変わりを知りたい」と伝え、資料を探してもらう。
資料を調べて分かったこと。少し長くなる。

[明治2(1869)年6月] 
 版籍奉還
 肥後藩は熊本藩となり、藩庁は花畑邸に。花畑邸とは花畑屋敷のことであろう。
[明治4(1871)年7月] 
 廃藩置県
 旧熊本藩は熊本県となる。花畑邸の藩庁は熊本県庁に。
 旧人吉藩は人吉県。
 天草郡は長崎県に。
[明治4(1871)年10月]
 県庁は花畑邸から二の丸へ移転。
[明治4(1871)年11月]
 熊本県は熊本県と八代県に分けられる。
 人吉と天草は八代県に併合。
[明治5(1872)年6月]
 県庁は二の丸から飽田郡二本木村に移転。
 熊本県は白川県と名称変更。県庁が白川沿いに移ったためと思われる。
[明治6(1873)年1月]
 八代県が白川県に併合。
 この時に、ほぼ現在の熊本県の同じ領域になる。
[明治8(1875)年11月]
 白川県庁が熊本城内古城の古城病院跡に移転。
[明治9(1876)年2月]
 白川県が熊本県に再び呼称変更。
[明治20(1887)年1月]
 熊本県庁が南千反畑町に移転(現在の白川公園の地)。
[昭和20(1945)年7月]
 戦災で焼失
 熊本市公会堂を仮庁舎
[昭和25(1950)年4月]
 桜町に新庁舎完成。
[昭和42(1967)年3月]
 水前寺に移転する。
 桜町の跡地は交通センター(現桜町バスセンター)となる。
だいたい、このような変遷があったようだ。

参考にした資料は主に
『熊本県史 近代編第一』昭和36年3月31日発行
『新熊本市史 通史編第5巻近代Ⅰ』平成13年3月30日発行
その他数冊がある。
(メモしましたが間違いがあればすみません)  

係の方には大変親切にしてもらった。
調べたいことがあったら、図書館へ行って聞いてみよう。

最初の「県庁」は、「サクラマチクマモト」の4階から見た「花畑屋敷」にあった。
「県庁」は白川公園にあったのではなく、「県庁」の跡地が白川公園になっている。
「白川県」となったのは二本木に移転した時で、白川沿いにあったことなどかららしい。
二本木から引っ越した時には「熊本県」に戻っている。
今の白川公園の地も白川沿いだが、そこに「県庁」を建てた時は「熊本県」という呼称が定着していたのだろう。
などなど調べながら思った。
県立図書館を後にする。

県立図書館の隣は「熊本市体育館・青年会館」。ここの前庭は大きな木でおおわれている。
秋は紅葉、春は新緑が楽しめる。好きな場所だ。
円形に8つのベンチが置かれていて、季節や時間で日当たりのいいベンチ、日差しを和らげるベンチを選んで坐る。





砂津小学校の信号を渡り、県庁へ。
銀杏並木は色づき始め。



熊本県は、漫画『ONE PIECE』と連携し『ONE PIECE 熊本復興プロジェクト』を立ち上げている。



尾田栄一郎氏には熊本県民栄誉賞が贈られ、受賞を記念して県庁プロムナードに平成30(2018)年11月に「ルフィ像」が設置された。
プロジェクトとして、この後、熊本地震で被害が大きかった8市町村に、麦わらの一味の仲間の像を設置が進められている。
ウォーキングで行った場所では、阿蘇駅前に「ウソップ像」が設置されていた。



ルフィ像のまわりには若者たちが大勢来ている。年寄は早々に退散しよう。
今日の「歩く」はここまで。

「SL鬼滅の刃号」に会う【JR九州荒尾駅 鉄卓のフォト・ウォーク2020-10】

2020-11-08 | JR九州ウォーキング
2020年11月3日(火・祝)

今日は鹿児島本線荒尾駅(熊本県)



熊本駅のホームは溢れんばかりの人。何事かな?アレかな。
やはり「SL鬼滅の刃号」。

JR九州は、肥薩線人吉へ「SL人吉号」を運行していたが、7月の豪雨で肥薩線は大きな損傷を受けて、運行ができないでいる。
そこで、今人気の鬼滅の刃とコラボして、5回のみ臨時列車「SL鬼滅の刃号」として運行することになった。
11月1日に続いて、3日も運行日。

SLがホームに入って、いいポジションで写真を撮ろうと人々が動き出した。
私が乗っている列車は出発まで少し時間がある。ホームに出て、写真を撮って戻ってくる人もいる。

喧騒を後に乗車している上り普通列車は出発。
荒尾駅までの各駅のホーム、沿線にもカメラやスマホを持った人が大勢いる。

年配の人の姿もある。
熊本駅まで電化が延びたのは1965(昭和40)年なので、鹿児島本線でSLを見るのは久しぶりだと懐かしく見に来ている人もいるだろう。

9時17分に荒尾駅に到着。



受付を済ませ、歩き始める。

踏切で警報機が鳴った。SLではなく、上り普通列車が通過。
JR九州アプリの列車の位置情報でSLが走っている場所を確認したが、玉名駅あたり、まだしばらくは荒尾駅付近を通過しそうにない。



踏切を渡り、「宮崎兄弟の生家」へ。
近代日本の中で先進的な思想を育んだ、宮崎八郎、民蔵、彌蔵、滔天兄弟の生家、孫文をかくまった家としても有名。

資料館で学ぶことができる。何度か来ているので資料館には入らなかった。



1987(明治30)年11月孫文が宮崎家を訪問した時を再現してある。





「東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所 平和資料館」へ寄る。旧日本陸軍最大規模で約100万坪の火薬工場が荒尾市にあった。
学徒を含む3000人弱の男女が働き、火薬・炸薬(爆薬)類を製造していた。



戻って、「宮崎兄弟の生家」近くの踏切へ。

踏切付近では、10人ほどの人がSLを待っている。
JR九州アプリで確認したら、SLは長洲駅付近にいる。
長洲駅から南荒尾駅を通過したらこの踏切のところに現れる。
もうすぐ来そうだ。待とう。

ウォーキング参加者では最初に待ったと思うが、後から来る人も徐々に待つ人が増えだした。
待つのは長く感じる。

カメラを構えるのに集中して、汽笛の音が鳴ったかどうかは憶えていない。
来た、パチパチと撮る。



踏切から次の寄り所「四山神社」までは、長い道のり。





2016(平成28)年11月のウォーキングでは300段以上ある階段を上った。今日のコースは坂を上って、頂上の「四山神社」へ。







神社から雲仙の眺め。



神社は、高さ56mある四ツ山丘陵の頂上に建っている。その裏手に「四ツ山古墳」がある。
6世紀後半頃の横穴式石室墳で円墳と推定されている。
四ツ山丘陵上には、この外6基の古墳があったが、四ツ山炭鉱の開発で消失している。



これから万田坑をめざす。



三池炭鉱専用鉄道敷は、宮原坑や万田坑などの坑口から、積み出し港である三池港を結ぶ運炭線として、利用された。
2015(平成27)年、「明治日本の産業革命遺産」の構成施設の一つとして世界文化遺産に登録された。



四山神社を下りてすぐのところに旧西原駅がある。
三池炭鉱専用鉄道が通勤電車として運用されたころのプラットホーム。



しばらく市中を曲がり曲がりしながら歩く。



三池炭鉱専用鉄道敷跡へ。



階段を上がったところは旧原万田駅。1951(昭和26)年、三池港駅~万田駅間の通勤電車の運行が開始された。



鉄道敷跡を歩く。















旧妙見駅。





アソニット工場跡。
1963(昭和38)年11月9日に起きた三池炭鉱三川抗で発生した炭塵爆発で罹災した炭鉱労働者の授産施設として設立された。
この時の炭塵爆発では、炭鉱労働者458人の犠牲者が出た。
工場は1995(平成7)年10月に閉鎖されている。



万田坑が見えてきた。万田坑も「明治日本の産業革命遺産」の構成施設の一つとして世界文化遺産に登録されている。







今日は、鉄道敷跡を歩くのはここまで。向うへと歩くと宮川坑がある。

4年前に参加した時は大牟田駅がスタートで鉄道敷跡は宮川坑から歩き始め、万田坑を経由して、旧原万田駅まで歩いて、ゴールの荒尾駅まで今日と逆のコースを歩いた。

今日は、大牟田駅スタート・ゴールのJR九州ウォーキングも開催されている。
そのコースでは宮川坑へ行く。

4年前は一緒に開催されていたものが、別々のコースとして開催されているようだ?



万田坑へ。



レンガの建物の内部。





万田坑の入り口のところにある「まるごとあらお物産館」で、ふくやまベーカリーのメロンパン。ふんわりサクサク。お昼はこれだけで済ませよう。



直ぐ近くにある「万田坑ステーション」では、万田坑施設全体を復元した模型、万田坑の古写真などのパネル、映像などが楽しめる。



ゴール荒尾駅へと向かう。







荒尾駅へ着いてゴールのスタンプを押してもらう。熊本駅方面への下り列車には少し時間があるので、駅をブラブラ。



大正時代の天才少女詩人海達公子の詩碑。



跨線橋。最近、古くてこれだけ長いのは珍しい。



鳥栖方面への上り列車が到着。



下り列車も到着し、熊本駅へ。

駅の「肥後よかもん市場」で再度の昼食とビール。
今日は「SL鬼滅の刃号」の盛り上がりが強烈だったなぁ、と思いながらウォーキングを終える。

日本稲作発祥の地「菜畑遺跡(松蘆館)」へ行った。【縄文を学ぶ-14】

2020-11-07 | 縄文を学ぶ
2020年10月31日(土)

JR九州博多駅から福岡市営地下鉄線を走り、姪浜駅で地上に出る。
姪浜駅からはJR九州筑肥線。やがて、行く手右側に玄界灘が見えてくる。

奴国から出発した電車は、玄界灘を望みながら伊都国を通過していく。
虹の松原の松林が見えてきたら、もうすぐに松蘆国。
魏志倭人伝に記されている、邪馬台国までの道の逆を行き、佐賀県唐津市にある唐津駅に着く。

駅から近代図書館の方に出て、図書館の手前から右折。



ハローワーク唐津入口の信号をまっすぐ渡り、桜並木を進む。
15分ほど歩くと「日本稲作発祥の地」菜畑遺跡・松蘆館に着く。





菜畑遺跡は[草創期][早期][前期][中期][後期]【晩期】と区分される縄文時代の晩期を代表する遺跡である。

昭和55年から56年にかけての調査で、約2600年前、縄文時代晩期の土器とともに炭化米、石包丁、鍬、水田などが発見された。

当時、新聞に大きく報道された。
確か、「縄文時代に稲作が」みたいな報道だったように思う。
「弥生時代の始まりが早くなったのではないの」と思ったことがある。

縄文時代終わりと弥生時代を始まりを定義する学説はいろいろあって、そう単純なことではないようだ。

「松蘆館」は高床倉庫をイメージして建てられ、菜畑遺跡で出土した縄文時代晩期、弥生時代早期の資料が展示されている。



出土品を元に当時の様子を想像して再現されている。水田があるのが、これまで見てきた縄文時代を想像し再現したものとは違う。



炭化米。





パネルでは、出土品を元に当時の生活の様子を知ることもできる。





畑作では、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウ、ナスビ、メロン、キュウリなど、現在の農家で栽培されているもののほとんどの品種が作られていた。



狩猟や漁労、農具や食事・食器などのパネルもあった。菜畑遺跡への稲作の伝搬を説明したパネルもあった。

豚の下あごは豊作を祈る儀式で使われていたと思われている。



屋外は遺跡公園「出あいふれあいの広場」として整備されている。

竪穴式住居。



発見された最古の水田跡は、小規模(10~20㎡)のもので、海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画されていた。







縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての水田跡が何層か発見されているようなので、水田の移り変わりの説明があればもっと良かったのにと思う。

松蘆館を後に、唐津城へと向かう。

ハローワーク唐津入口の信号を左折し、すぐに目に入ったお店「だし遊膳 新」で昼食。
佐賀の海の幸、山の幸を刺身、天婦羅、牛のたたきなどでいただいた。美味しかった。

途中、青木繁の作品が多く展示されている河村美術館に寄り道。。



美術館からすぐに唐津城に着く。階段を上るとふじ棚が迎えるが花が奇麗なのは5月の連休の頃。天守閣へ。



天守閣の展望台より海を眺める。稲はこの海の彼方から運ばれてきたのだろう。そう思って眺める海は格別だ。



唐津の観光名所「虹の松原」も見える。



旧唐津銀行の建物などを眺めながら20分弱歩くと曳山像のある唐津駅前に着く。
唐津神社や曳山展示場には寄らなかった。



ウォーキングでは春は田植え、秋は稲刈りの田んぼを眺めながら歩くことも多い。
今秋も稲刈りの前や終わった田んぼを眺めながら歩いている。

お米を食べる生活を送ってきて今がある。
日本稲作発祥の地を訪ね、稲作の伝搬、2600年前の炭化米、復元された水田、渡ってきたであろう海を眺めた。
感慨深いものがある。

帰りは、唐津駅から佐賀駅へと唐津線に乗る。山あいをのんびりとローカル線の旅。
佐賀駅から長崎本線で鳥栖へと向かう、途中、弥生時代の大規模集落を再現した吉野ヶ里公園への最寄り駅、吉野ヶ里公園駅を通過し、帰路へ。

九州の縄文遺跡を学んだのは5つ目である。
【縄文を学ぶ-1】で鹿児島県の「掃除山古墳」が、1万2800年前、草創期の代表的遺跡であることを学んだ。
【縄文を学ぶ-2】で鹿児島県の「橋牟礼川遺跡」では、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かったことを学んだ。
【縄文を学ぶ-3】で鹿児島県の「上野原遺跡」が、早期の代表的な遺跡で、約9,500年前に「ムラ」がつくられていたことを学んだ。
【縄文を学ぶ-13】で熊本県の「曽畑貝塚」では、約5500年前、前期に使われていた土器に「曽畑式土器」の名がつけられていて、曽畑式土器が奄美から沖縄まで広く発見されていることを学んだ。
そして【縄文を学ぶ-14】で佐賀県の「菜畑遺跡」が、約2600年前、晩期の代表的遺跡で日本稲作発祥地であることを学んだ。

九州でもまだまだ縄文時代を学べそうだ。

「コスモスだ!鉄橋だ!」には会ったが・・・【JR九州採銅所駅 鉄卓のフォト・ウォーク2020-9】

2020-11-04 | JR九州ウォーキング
2020年11月1日(日)

今日は日田彦山線採銅所駅(福岡県)。昨春以来の参加。


(今日のマップ)

採銅所駅前では同じ列車から降りた、里山をランニングするのだろう本格的な長距離ランナー姿の若者2人がいた。
列車の中は年配者が大勢いて座席は占領され、降りる駅も同じ。びっくりしたであろう。
地図を見せて歩くところは教えたけど、走るところを聞くのは忘れた。



採銅所駅にはウォーキングで何度か来ているが、駅前にこれがあるのに初めて気づいた。



日田彦山線は、2017年7月の九州豪雨で被災し、今でも一部不通区間がある。
住民の多くは鉄路での全面復旧を要望したが、JR九州は不通区間についてBRT(バス高速輸送システム)での復旧を提案していた。
地元自治体と協議を重ね、豪雨から3年目の7月にBRTでの復旧が決まった。
鉄路での復旧には地元自治体の巨額の費用負担がネックになった。

複雑な思いを胸に歩く。





古宮八幡宮の長い階段を横目に先へ。







右折し、踏切を渡る。



平安時代、宇佐神宮に奉納した神鏡を鋳造した場所「清祀殿」。



銅を採掘した坑道「間歩(まぶ)」といい、宇佐神宮に奉納していたこの地の坑道を「神間歩」という。



秋だなぁ、と感じながら元の道へ。









曲がったところに戻り、右折。秋の里山を歩く。





金辺川あまぎばしを渡る。右折し、川沿いを歩く。





宮原コスモス畑に着く。この時期に来たのは初めて。
直ぐ近くには六十尺鉄橋(第二金辺川橋梁)がある。鉄橋の上を列車が通過する時間には間があるようだ。
列車を待つのは諦める。



六十尺鉄橋のすぐ横にある小さい鉄橋。道路に架かっている。



コスモスを撮って回る。







六十尺鉄橋。列車が走っていたら「コスモスだ!鉄橋だ!絶景だ!」になるところだったが残念。



金辺川を渡り、六十尺鉄橋をくぐり過ぎてから振り返る。



先へ進む。



旧街道へ入る。私は初めて歩く。

須佐神社。素盞鳴命を祀っている。



鳥居をくぐったところに万葉歌碑がある。抜気大首「豊国の香春は我家紐児にいつがり居れば香春は我家」。
香春には大宰府へと続く官道が通っていた。





古くからの町なんだと感じながら歩む。









西念寺楼門。



元光願寺の大クス。



同じ場所に、伊能忠敬測量止宿之地碑もある。



善龍寺。紅葉の始まりが奇麗。







先へ進もう。



下をくぐる。



香春神社へ着いた。







昭和14年、香春岳一の岳より轟音とともに落下した石。
香春神社の神殿は直撃を免れ、人災も無かったことから神宿る石として祭られている。



お昼時。腰掛けるにちょうどいい石を見つけ、コスモス畑で買ったお握りをいただく。



食べつつ眺めつつ。
須佐神社から香春神社まで2kmあっただろうか。
少し歩いたらお寺、また少し歩いたらお寺と感じるくらいお寺が多かった。
香春駅近くの金辺川沿いにはには山頭火遊歩道があって、山頭火の句碑がたくさんある。
山頭火が香春を好んだ一つにお寺が多いこともあったのかも知れないと思う。



ゴール香春駅へと向かおう。

今日も何か所かで見た。これ何だろう?



香春岳は石灰岩の山。以前はセメント工場があったが閉鎖され、採掘だけが行われているようだ。





足元も見よう。



何枚か上の写真にもあったが、石灰岩を運ぶコンベア。



金辺川沿いの銀杏並木。この並木の下あたりが山頭火遊歩道だと思う。



香春駅へゴール。



直ぐに列車が入ってきた。田川後藤寺駅へ、乗り換えて新飯塚駅、乗り換えて博多駅。
博多駅1階にある「博多ほろよい通り」へ。真昼からどの居酒屋もお客さんが多い。
若者の酔っ払いも多い。

スタート時に会った若者たちを思い出しながら美味しくビール。

今日のウォーキングを終える。

◆山頭火遊歩道を歩いた時のブログはこちらです。
「筑豊で山頭火」に会う【JR九州香春駅 鉄卓のフォト・ウォーク2019-6】