鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

「三内丸山遺跡(縄文時遊館)」へ行った。【縄文を学ぶ-10】

2018-09-25 | 縄文を学ぶ
2018年9月11日(火)

 「縄文を学ぶ」の10回目は青森県青森市の三内丸山遺跡。縄文時代最大の遺跡で、[草創期][早期]【前期】【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期から中期にかけての約5,500年前から約4,000年前まで続いた集落。

 訪れるのは2回目。2015年8月「縄文の杜あおもりツーデーマーチ三内丸山コース」に参加した時以来となる。あの時はウォーキングの途中寄ったので慌ただしく見学して回った。その時、「さんまるミュジアム」は見学していない。

 青森駅前12時10分発三内丸山行のバスに乗った。お昼どきだったが、高齢の女性を中心に乗客は多い。三内丸山まで10ヶ所程あったバス停のすべてに停まって、降りる人、乗る人がいた。「青森の高齢女性は元気だ。」と思いながら乗っていたら30分程で三内丸山遺跡に着いた。終点まで乗っていたのは2人だった。

 昼食は「縄文時遊館」内のレストランでと思い青森駅で食事せずにお腹を空かしてきたのだが、団体客でいっぱい。かなり前から待っている人たちがいて、いつ席が空くか分からない雰囲気だった。朝は空港でおにぎり1個だったと思いながらも昼食は諦める。

 「縄文時遊館」入口すぐのボランティアガイド集合場所に行き、13時からの案内で遺跡内を見てまわる。


(縄文時遊館に入って。写真右手の角の所にボランティアガイド集合場所。)


(三内丸山遺跡の全景)


(三内丸山遺跡の説明板)

 竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の土やゴミ、焼けた土や灰、石器や壊れた土器、土偶やヒスイなどが同じ場所に長期間継続して棄てられ小山のように盛りあがった「盛土(もりど)」が三カ所確認されており、南盛土は断面が公開されている。北盛土は埋もれている多量の土器の出土状態を、実物で見学することができる。


(南盛土の断面)


(北盛土に埋もれていた土器)

 「竪穴住居」は茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元されている。


(竪穴住居の復元)


(右から茅葺き、樹皮葺き、土葺き)


(中に入る。入口が狭いので頭ゴッン。)


(竪穴住居の中)

 三内丸山遺跡が縄文時代最大の遺跡といわれているのには、竪穴住居以外に大きな建物跡が多数見つかっていることがあげられる。

 高床式建物として復元されているのが「掘立柱建物」。地面に柱穴はあるが、炉や床などの跡が無いため、高床の建物と推測され、用途としては食料の備蓄などに使われたと考えられている。柱は約35cmの倍数で配置されている。


(掘立柱建物)

 「大型竪穴住居跡」が11軒見つかっている。それぞれの建物の時代はずれていて、各時期に1軒くらいの割合で建てられていた。長さ約32m、幅約9.8m、床面積約250㎡のものが復元されている。集会場や共同作業場などに使われていたのではないかと考えられている。


(大型竪穴住居)


(大型竪穴住居の内部。コンサートとかも開かれているとか。)

 三内丸山遺跡を象徴する建物はこれ。六本柱で作られている巨大な「大型掘立柱建物」がそびえ立っている。発掘調査で大型の柱穴が3個ずつ2列に並んで6基発見された。柱穴からは直径約1mのクリの巨木を利用した木柱の一部が残存していた。柱の間隔は約4.2m。建物の大きさは長さ約8.4m、幅約4.2mの長方形。柱穴は約1.2m~2.2m、深さは1.4mから2mある。遠くから見ても、近くによって見ても、見上げてしまう。でかい。


(「大型掘立柱建物」と「大型竪穴住居」)


(大型掘立柱建物。柱右下の方には草刈り機に乗って清掃する人)


(実際の発掘地点はドームの中に保存されている。)


(柱穴の中からはクリの木柱の一部が見つかった。)


(「大型掘立柱建物」の下から「掘立柱建物」)

 大林組と共同で、どれくらいの重さが加わっていたのかなど分析した結果、14m~23mの木柱が建っていたと推定された。その他の分析も加え、高さ14.7mの建物として復元されている。神殿、物見やぐら、モニュメントなどの説がある。

 私は、「大型掘立柱建物」は目印が一番大きな役割ではなかったかと思う。後述になるが、三内丸山には各地から様々なものが運ばれている。近くのムラムラからも人々が集まってきている。他の地域との交流が盛んであった。「大型掘立柱建物」を目印に人々がやって来た。

 これだけのものを建てるには、多くの労力が必要だ。近隣のムラの人たちも含めて多くの人たちが共同作業に加わった。一人あるいは数人程度ではできないものが出来て行く。「ヒト」の協力し合う力を実感しただろう。自分たちのムラあるいはグループの力を確認したであろう。一番大きな目的は、そのムラあるいはグループの団結を作って行くことだったのではなかろうか。出来上がる「もの」よりも作って行く過程の方が大事だったのではなかろうか。そして、それは楽しい時間だったと思う。

 共同作業では新たな言葉も生まれたかも知れない。

 他の地域の人たちは、協力し合って建てた巨大な建物を尊敬の眼差しで見ただろう。噂を聞いて観光に訪れた人もいたのではなかろうか。そうして、ムラはますます発展して行く。

 大人を埋葬した墓(土坑墓)は、長さ約2mの細長い墓穴で、道路を挟んで列状に並んでいた。


(大人の墓の説明板)


(この道路わきに墓は並んでいた。)

 子どもの遺体は土器の中に入れで埋葬されていた。棺に使われた土器は丸に穴が開いていたり口や底が壊されていて煮炊き用の土器とは区別されていた。


(子どもの墓)

 50分程かけて遺跡内を案内してもらった。広い園内からすると少し慌ただしい感じもした。(文章は案内の順序とは一致していません。下記のさんまるミュジアムの文章も展示の順序とは一致していません。)

 遺跡のガイドが終わって、三内丸山遺跡で発掘されたものが展示してある「さんまるミュジアム」へ。

 細長い展示室の真ん中には「円筒土器」が時代区分されて展示されている。「円筒土器」は三内丸山遺跡が存続した前期から中期にかけて北海道南西部から東北北部を中心に作られた。土器につけられている名前は「土器形式」といわれ、最初に見つかった遺跡の名前がつけられることが多いが「円筒土器」は土器の形からつけられている稀なケースである。

 展示では円筒下層式前半、円筒下層式後半、円筒上層式前半、円筒上層式後半、円筒上層式以降と分けられ展示してあったが、私の頭の中にはその区分も説明も入る余裕は無かった。「円筒土器」だけが刷り込まれた。


(円筒土器の数々)


(円筒土器の説明)


(円筒土器の説明)


(重要文化財の土器(①約4,200年前))


(重要文化財の土器(左②約5,500年前、右③約5,000年前))


(重要文化財の土器①の文様)


(重要文化財の土器②の文様)


(重要文化財の土器③の文様)


(煮炊きをした跡)


(重要文化財の台付浅鉢型土器(約5,000年~4,500年前))

 三内丸山遺跡では土偶が2,000点以上出土している。これまで出土している土偶が1万数千点といわれているので、圧倒的に多い。約2,000点の土偶のうち15%程度は他の地域から持ち込まれたと分析されている。

 土偶の展示は、これまで訪れたところでは覗き込むようにして見たが、ここでは壁に立てて展示してあるので見比べやすい。形、表情も様々で楽しい。ニヤニヤしながら見ているのにハット気付く。


(土偶の数々)


(その中から気になったものの一つ)


(その中から気になったものの一つ)


(その中から気になったものの一つ)


(重要文化財の大型板状土偶(レプリカ)(約4,500年前))

 土偶は女性を模したものではないかと見れることから、安産や子育てを祈願したものではないかと考えられるとの意見が多い。私は、もっと幅広く祈願されたのではないかと思う。現代、私たちは神社に様々なお願いごとをする。「交通安全」「商売繁昌」「合格祈願」「健康回復」「開運招福」「必勝祈願」などなど。縄文時代には縄文時代ならではのいろんなお願い事がされたであろう。土偶は現代でいえば「お守り」的なものではなかったろうかと思う。

 土偶はほとんどが「壊れ」て出土している。現代の私たちから見て「壊す」という行為は、何かを「祈願」する時の行為ではなく、「祈願」が成就したときあるいは役目を終えたときの「感謝」の気持ちを表している行為ではないかと思う。

 縄文時代には「壊す」「捨てる」という考えが無かったのではなかろうか。これまで見てきた貝塚や三内丸山遺跡の盛土は「感謝」の場だと思う。死者を葬るのも、その人に対する「感謝」を表しているのだと思う。

 北黄金貝塚(縄文を学ぶ-5)では、住居の近くの水が湧き出る場所付近で1,209点の礫石器が発見されている。握る部分に窪みをつけた磨り石、取って付きの磨り石、石皿、石器を作る道具などが壊された状態で出土していた。何らかの事情でムラを捨てて別な場所に移動しなければならなかった時に、それまでお世話になったものを「壊し」て「感謝」の気持ちを表してムラを去って行ったのではなかろうかと思う。水が湧き出る場所にも何らかの「壊す」行為をしていたかも知れない。

 土器や土偶の他にも動物や魚の骨、生活の道具や装飾品などの発掘されたさまざまなものが展示してあって、当時の生活を想像することが出来る。

 哺乳類では、ノウサギ、ムササビ、リス、モグラ、ネズミ、キツネ、タヌキ、ツキノワグマ、イタチなどが出土している。他の縄文遺跡で出土するシカとイノシシは少ない。鳥では、ワシ、ガン、カモなどが出土している。

 魚では、マグロ、マダイ、ヒラメ、ブリ、サバ、ニシン、カレイ、アナゴ、サケ、サヨリ、オニオコゼ、ホッケなどが出土している。


(マダイの骨。背骨が繋がっている状態から三枚におろされたと考えられている。)


(黒曜石製石槍)


(石鏃と針)


(木柱)


(ミニチュア土器)


(棒状土製品)


(水晶製石鏃)


(ヒスイ製大珠)


(ヒスイ製大珠)


(装身具)

 展示されているものの中には遠い地から運ばれたものも多い。

 ヒスイは、約500km離れた新潟県糸魚川市周辺から運ばれ、大珠などの完成品のほかに原石、加工途中のものも出土しており、遺跡内で加工が行なわれたと考えられている。黒曜石は、約400km離れた北海道遠軽町や約580km離れた長野県産など各地の産地のものが持ち込まれている。アスファルトは秋田県から、コハクは岩手県北三陸からなど各地との交流が盛んだった。


(交流の説明)

 遠くは北は400km、南は580km離れた各地から人々が、六本柱の「大型掘立柱建物」を目印に三内丸山遺跡へやって来た。三内丸山の人たちとだけでなく、違うムラムラの人たちが一度に集う事もあっただろう。お互いのムラの自慢話の花が咲く。言葉にも違いがある。手振り身振りで話しながらうなずく。新たな共通の言葉も出来てくる。「大型竪穴住居跡」は各地から集まってくる人々の交流の場にもなったし、宿泊施設にもなったのではなかろうか。

 三内丸山の人々にとってクリは重要だった。食料としても、堅穴住居、大型掘立柱建物や大型竪穴住居などの建築材料としても。集落ができる前はナラ類やブナの林が拡がっていた。居住が開始されてから急激にクルミ属、さらにはクリ林にとってかわったことから、人の手によってクリ林が作られたと考えられている。
 
 見学を終えて、お昼どきに満席だったレストランで「ソフト栗夢」。ほのかにクリの香りと甘さが。


(ソフト栗夢)

 縄文の人々がいかにスケールの大きい生活を送っていたかを実感させられる、三内丸山遺跡見学だった。

 青森駅に戻って、「青い森鉄道」で浅虫温泉駅へ。


(青森駅直ぐ近くの岸壁に浮かぶ青函連絡船「八甲田丸」)


(青い森鉄道)

 棟方志功ゆかりの宿に泊まり、棟方志功が愛飲した日本酒「遊天」で夕食。湯に浸かりぐっすり寝るはずだったが、夜中に目をさまし、いろんなことが頭の中を駆けめぐる。特にあの六本柱と土偶のことが。再び寝る。

[参考本]
岡田康博著『三内丸山遺跡』(同成社、2014年)
『改訂版 特別史跡 三内丸山遺跡』(東奥日報社、2015年)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿