鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

明けましておめでとうございます―2023年

2023-01-06 | 熊本の話題
2023年1月1日(日)

明けましておめでとうございます。
本年も当ブログをよろしくお願いします。

1年元気に歩けますよう、今年も三社参りウォーキングしました。

一社目は健軍神社へ。
これまで、おみくじには縁がなかったけど、おみくじを引きました。



「小吉」でした。



健軍神社を後にして、電車通りへ出ると、熊本市電の「COCORO」に会いました。
JR九州のななつ星などをデザインしている三戸岡悦治さんがデザインした電車で、熊本市電開業90周年を記念して導入されています。

元日のウォーキングではこれまで会うことはありませんでしたが、今年は会えました。



少しだけ寄り道し、九州学院のところへ。
プロ野球セリーグで三冠王を達成したヤクルトスワローズ村上選手の母校です。



門の前の通りは通称「九学通り」です。
門のすぐそばに金色の郵便ポストがあります。



2021年の東京オリンピックで金メダルに輝いた選手のゆかりの地に設置されているそうですが、
熊本は野球チームの一員だった村上選手を称えてここに設置されています。



二社目は藤崎八旛宮へ。



おみくじは「大吉」でした。



神社を後にし、参道でいつものように甘酒をいただきました。



三社目、加藤神社へ。

おみくじは、箱へ入れるようになっています。
後ろは宇土櫓。



おみくじは「末吉」でした。



宇土櫓は10年かけての解体修復工事に入っています。
足場の基礎工事中です。



三つの神社で引いたおみくじは「小吉」「大吉」「末吉」でした。
どれが当たるか分かりません。
山あり谷ありかもしれませんが、元気にウォーキングできればと願っています。

宇土櫓が10年後に修復完成するまで、元日のウォーキングでレポートできればとも願っています。

熊本城宇土櫓を見に行った【熊本の話題】

2022-10-23 | 熊本の話題
2022年10月22日(土)

熊本地震(2016年)で損壊した熊本城宇土櫓の解体復旧工事が始まるとのことで宇土櫓を見に行きました。
熊本城からそれ程離れていないところで生まれましたが、小学校の高学年までは天守閣は無く、宇土櫓を見て育ちました。

宇土櫓は、3層5階地下1階、高さ19mの多層櫓で、国指定重要文化財です。
他のお城を見た時、「宇土櫓の方が立派ばい」と思ったりしていました。

熊本地震発生の時は、宇土櫓がどうなったのかが気になりました。

宇土櫓は、今から400年以上前の慶長年間(1596~1615年)に建てられたとされていますが、はっきりした築造年は分かっていません。
今回の解体で、築造年が分かるものが出てこないかも注目されます。

解体から復旧まで10年もかかるそうです。
この歳になると、10年は長いです。











10月20日天守閣より撮った宇土櫓。



天守閣の中にあった宇土櫓の模型。


立田山のヤエクチナシ【熊本の話題】

2021-06-26 | 熊本の話題
2021年6月14日(月)

熊本大学の東側の道を入ると泰勝寺跡(立田自然公園)に着く。
突き当り左側の道へと歩くと、安永信一郎の歌碑、徳永直文学碑が建っている。

その前を通り過ぎ直ぐ、右手の階段を上ると、立田山配水池から立田山(標高152m)への登り口に出る。



緑に囲まれて爽やかに上る。



それほどは上っていない右手に豊国大明神参拝入口という案内があり、階段を上ると豊国台公園という広場になっている。





公園の奥の方に、国指定天然記念物「立田山ヤエクチナシ自生地」の案内板がある。

「立田山ヤエクチナシは旧第五高等学校の浅井東一教授が大正9年(1920)発見したものであり、立田山にある一重のヤエクチナシの中に、自然に八重が生まれる環境が珍しいということで国の天然記念物に指定された。」と記されている。
指定は昭和4年。



当時からの株は消滅しているようであるが、現在は「拝聖院系」と「正系浅井系」という2種の株が植えられている。

拝聖院系は「ここから360m北西の拝聖院に伝承の株」平年の花期は6月初旬から約1.5か月。



正系浅井系は「浅井博士が泰勝寺跡に植えられた株」平年の花期は6月中旬から約1.5か月。



拝聖院系


拝聖院系


拝聖院系


正系浅井系


正系浅井系





公園内には大きな岩もある。
立田山は約20万年前の金峰山の火山活動で出来た山で、これらの岩も20万年前から鎮座していたのであろうか。



山を下って、登山口の入り口、最初の写真のところに戻ると金峰山が見えた。



上りも下りも頂上でも立田山の山登りを楽しむ人たちに会う。
蒸し暑かった。

「装飾古墳室(熊本県立美術館)」へ行った【熊本の話題】

2020-06-29 | 熊本の話題
2020年6月24日(水)

熊本県立美術館が、熊本城二の丸広場の西側に緑の木々に覆われるようにして佇んでいます。
前川國男によって設計され、代表作の一つとして数えられています。
傾斜や楠などの木々を意識して設計されているようで、美術の鑑賞だけでなく、心地よい空間を感じることができます。





玄関ホールに入って、ロビーから階段を下ると1階展示室、階段を上ると2階展示室となっています。
階段を下ると1階展示室と反対の方に、装飾古墳(そうしょくこふん)を常設展示する、「装飾古墳室」があります。
観覧料は無料です。





室内に入ってすぐに装飾古墳の説明があり、装飾古墳の文様としては、
(1)幾何学的な文様(円文、同心円文、三角文、直弧文など)、
(2)器財器物文様(靫、盾、弓などの武器武具や舟や家屋など)、
(3)人物鳥獣文様(人物、馬、鹿、鳥など)
などが代表的なものとして挙げられています。
ひとつの古墳に各種の文様が描かれている場合も多く見られるということです。

古墳の壁画や出土物の精巧なレプリ力や実物が展示してあります。

◆鍋田横穴(なべたよこあな)(第27号) 7世紀 山鹿市
「横穴の出入り口を守護するかのように、人物と武器類が浮彫されています。中央の大きな靫(ゆぎ)を中心に、さまざまなものを配置した構成が見事です。県内の装飾古墳のなかでもっともすぐれた浮彫の一つです。」(靫・・・背に負う矢筒)

それぞれの古墳には、写真右下のように説明のパネルが設置してあります。「」の中はその一部からで、古墳、文様、装飾などについて、詳しい説明をしてあります。



◆チブサン古墳 6世紀 山鹿市
「奥壁中央の菱形文に円文を配置した図柄は、人の顔にも乳房にも見える不思議な文様です。チブサンの名は、付近の人々がこれを乳房と見て、母乳が豊かに出るように祈ったことに由来します。我が国の代表的な装飾古墳のひとつです。」





◆千金甲(せごんこう)1号(甲号)古墳 5世紀 熊本市
「同心円や靫などの彫刻や、赤・緑・黄などの彩色がよく残っている、はなやかな装飾古墳のひとつです。靫は、その霊力によって古墳を守るという意味かもしれません。」

◆翳(さしば)・蓋(きぬがさ)・靫(ゆぎ) 姫ノ城古墳 6世紀 八代市竜北町
「阿蘇凝灰岩で作った石製表飾品は、石人・石馬とも称され、古代九州を代表する遺物です。筑紫君磐井に関係するものとして知られています。熊本県下では10ケ所で出土しており、姫ノ城古墳は、その分布の南限です。」

◆広浦(ひろうら)古墳石棺財 広浦古墳 4世紀末頃 上天草市
「石棺の内側に浮彫で刀やあぶみ、鏡、刀子などが表現されています。初期の装飾古墳の一つで、被葬者に対する副葬品の意味を込めて彫られたと考えられます。」



◆鴨籠(かもご)古墳石棺 鴨籠古墳 5世紀 宇城市
「この石棺は、棺の上蓋も身も阿蘇凝灰岩をくり抜いて造ったもので、蓋には直弧文などが線刻されています。九州の装飾古墳としては初期に属します。」



◆弁慶ヶ穴(べんけいがあな)古墳 6世紀 山鹿市
「横穴式石室の壁に、赤・白・灰の顔料(岩絵具)を用いて、幾何学文や舟・馬・人物などが描かれています。ことに舟と馬は数も多く、古墳の主と舟・馬とのかかわりが注目されます。」

◆臼塚石人(うすづかせきじん) 臼塚古墳 6世紀 山鹿市
「臼塚古墳の墳頂に立っていた石人です。古墳に立てられた石人・石馬・石製品は、北九州を中心に26ヶ所から発見され、そのうち石人は15ヶ所あります。頭部を失っているものの、この石人は彫刻としてもっともすぐれたものです。」



◆井寺(いでら)古墳 6世紀 上益城郡嘉島町
「古墳時代の代表的文様である直弧文(直線と弧線を組み合わせて作る文様)。この名称は本古墳の装飾文様から始まり、全国的に広まり定着したものです。薄れてはいますが、直線と弧線で区切られた部分が、赤・白・緑でこまかく塗り分けられています。」



◆大村(おおむら)横穴群(第11号) 6世紀後半 人吉市
「横穴の入り口を守護するかのように、靫などの武具類を浮彫しています。装飾古墳としては最南端に位置しています。球磨川を代表する装飾横穴墓です。」

写真が無いものもありました。すみません。

「いろいな装飾文様」、「全国の装飾古墳」、「九州の装飾古墳」のパネルもあり、装飾古墳について学ぶことができます。



例えば、井寺古墳の直弧文については写真のような説明がされています。



井寺古墳は熊本地震の震源地近くにあり、大きな損傷を受けています。その他の古墳も大きな損傷を受けています。
古墳をもとの姿に戻すにはノウハウも乏しく、技術的な問題が山積していると思います。

装飾古墳は4世紀末頃から7世紀頃まで造られており、全国に約700基、そのうち約200基が熊本県内にあります。

梅原猛、岡本太郎など、装飾古墳から古代の人々の美の力に魅せられた人たちはたくさんいます。

高松塚古墳が古墳の壁画としてはもっとも有名ですが、九州の装飾古墳は、高松塚古墳のように大陸の影響を受けたものとは全く違うものだと思います。
九州の装飾古墳には、土着の人々の息遣いや精神を感じます。

縄文時代の土器や土偶などに表現されている息遣いや精神から引き継いだものを感じます。縄文の遺跡巡りをして、そのことを強く感じるようになりました。

照明を落とした「装飾古墳室」を出て、階段を上がると、鮮やかな緑が目を癒してくれます。



美術館の敷地入り口(一番上の写真右下)から見える熊本城です。



熊本城は「特別見学通路」が出来、特別公開されています。1つ前のブログに書いています。
「装飾古墳室」に熊本城とともに訪れる人が増えればいいなあと思います。

熊本地震から4年が過ぎましたが、熊本城の復旧だけでなく、古墳・装飾古墳の復旧にも関心を持つ人が増えることを願っています。

※開館日は熊本県立美術館のホームページでご確認ください。

「浜田知明回顧展」と新緑の熊本城【熊本の話題】

2019-04-29 | 熊本の話題
2019年4月25日(木)

新緑の熊本城が好きです。
出かけました。

城内二の丸広場にある熊本県立美術館では、「浜田知明回顧展 忘れえぬかたち」が開催されています。


(「浜田知明回顧展」チラシ)


(「浜田知明回顧展」チラシ)


(熊本県立美術館)


(熊本県立美術館)

13時頃について、先ずは美術館の喫茶室「桜Cafe」のテラスで新緑を眺めながらお昼。
気持ちいいです。何を食べても美味しく感じられます。


(二の丸広場から喫茶室のテラス)


(メニュー)


(テラスからの眺め)

食事が終わって、美術館1F会場へ。


(熊本県立美術館正面入り口)


(熊本県立美術館正面入り口)


(熊本県立美術館正面入り口)


(熊本県立美術館内から)


(会場へ)


(1Fへの階段から)

熊本県立美術館には、浜田知明さんの作品を展示する常設のコーナーがあります。企画展の出口の場所にあるので、さまざまな企画展を見学した後に寄って観ています。大規模な作品の展示を観るのは、2015年8月「浜田知明のすべて展」以来になります。

浜田知明さんは、昨年7月に100歳の生涯を終えられました。
パンフレットには、「本展では、作品そのものに注視して頂くよう、浜田の言葉を記したパネルはあえて最小限にとどめます。また制作手順ではなく、主題や造形により作品を分類・展示することで、「反戦の画家」というイメージにとらわれない主題の多様性や、その中に通底する造形性をみてゆく構成とします。」と説明があります。

展示の構成は
第一章 原点のかたち
第二章 体験のかたち
第三章 制作のかたち
第四章 世のかたち
第五章 心のかたち
第六章 幻想のかたち
第七章 仕事のかたち
第八章 平面のかたち/立体のかたち
第九章 忘れえぬかたち
終章 そして兵はゆく
となっています。

浜田さんの作品の中で一番好きなのは「情報過多的人間」です。作品以上に作品名が好きなのかもしれませんが。1975年の作品で当時はこのような言葉は無かったと思います。「情報化社会」という言葉が使われ出したのも、これよりも後のことだと思います。

今回もクスッと、見つめました。

同じ作家の展覧会でも観る時観る時の自分の心境で、関心をもつ作品が変わってきます。今回は、「壁にぶちあたった男とそれを嗤う男」という作品の前で立ち止まりました。
「壁にぶちあたった男」も「それを嗤う男」も、自分自身のように私は感じます。


(「壁にぶちあたった男とそれを嗤う男」)

怒りや、笑いや、をいっぱい感じられました。展示の構成では、「第五章心のかたち」が最も印象に残りました。

5月26日(日)まで開催されています。

同時開催の「熊本地震と文化財」は7月7日(日)まで開催されています。
収蔵品で、熊本地震で壊れ、修復された作品などが展示されています。これまで観たことのない作品も多く、興味津々で観ました。


(美術館掲示板)

私は、美術的な事はわかりません。

中学校の写生大会は熊本城であっていました。春と秋にあっていたのか、春か秋にあっていたのかは忘れました。

春の写生大会の時だったと思います。熊本城のクスノキを描いたら、「新緑はそんな色じゃなかろう。」と注意?批評?されたことを、ふと思い出しました。

そんな程度なので、美術で褒められたことも、成績が良かったこともありません。

歳を重ねても新緑を描くことはありませんが、美術館に行くのは好きです。5月の熊本県立美術館に行くのは、特に好きです。

新緑がいいです。


(写真のクスノキを描いたような?)


(描いた場所付近は立ち入り禁止)


(大天守)


(二の丸広場)


(野鳥園)


(藤崎台のクスノキ・国指定天然記念物)


(護国神社前の広場)


(細川刑部邸)


(熊本市博物館)


(細川刑部邸)


(三の丸駐車場の方から熊本県立美術館)


(二の丸御門跡)


(城内いたるところに崩れた石垣が保存されている)


(百閒石垣)


(土嚢の間からも新しい息吹)


(熊本城大天守・小天守)

2019年も正月2日は益城町三社参りウォーク

2019-01-02 | 熊本の話題
2019年1月2日(水)

正月2日、熊本地震で最も被害の大きかった益城町の三社参りウォークも3回目。

熊本市と益城町の境に小楠公園(熊本市東区沼山津4丁目)があります。
りりしく「横井小楠像」が建っています。



熊本市から益城町への県道熊本高森線は、熊本市内は4車線だが、益城町内に入ると2車線になっています。
熊本県は、熊本地震後の創造的復興の一つとして益城町内の4車線化を計画、今年から工事に入る予定です。



高速道路の下は4車線化に対応できるようになっているので、構想そのものはかなり前からあるのではないでしょうか。



そんなことを考えながら県道を歩いていると、「惣領木神神社」に着きます。
昨年の正月にはお洒落な神殿に再建されていました。



しばらく歩いて、「安永神社」へ。県道から2分程入ります。
鳥居が修復されていて安心しました。昨年までは、このままで大丈夫かなと心配でした。



昨年の写真です。



神殿も修復されています。「安永神社」は大きな木々に囲まれていて、気持ちがいいです。



県道に戻って歩く。4車線化に向けて、県の買収が済んだ土地もチラホラあります。



益城町木山交差点。熊本県と益城町が、ここから益城町役場を中心に再開発の計画をしています。

昨年の1月2日時点では、益城町の都市計画審議会で区画整理事業計画が否決されていましたが、その後、県と町の説明が繰り返され、承認されました。。

昨年のブログには次のようなことを書いていました。
『賛否相半ばのようで、対立が先鋭化しなで冷静な判断が出来るようになればと思います。
そのためには計画する側のそれこそ本当の丁寧な説明がいるのではないでしょうか。』

4車線化と中心部の再開発で益城町は大きく変貌すると思います。若者が定住したくなる町になればと思います。



交差点から右折し「木山神宮」へ。



新たな鳥居に掲げられるのはいつになるでしょうか。



崩壊した神殿の解体作業は終わっていました。



昨年の写真です。



参拝します。



解体の作業手順が貼ってありました。。



作業中の写真も添えられています。上の方に何かが。



説明がありました。



これです。



木山神宮のすぐそばを秋津川が流れています。
横井小楠旧居四時軒・横井小楠記念館(熊本市東区沼山津1丁目)の横を秋津川が流れていますが、その上流になります。



熊本地震後、益城町総合体育館がで最大の避難所となりました。昨年はまだ解体中でしたが、解体も終わり、新たな体育館の建設が始まっています。



昨年の写真です。



完成イメージ図です。



木山城址公園も復旧工事が始まっていました。



県道熊本高森線へ出て、2km程東へ歩きます。風が強いと寒いです。



「津森神宮」に着きます。

津森神社の楼門。明治14年建立、平成18年に大修理を行ったと説明してあります。
神仏習合の形式で、大きさは熊本県一とも説明に書いてあります。



津森神宮。



津森神宮には「日本一の大銀杏」があります。



日本一と称する根拠の説明もあります。



2km程戻ります。西へ向かって歩きます。
益城町総合体育館から県道熊本高森線へ出たところの橋の下ですが、復旧工事が始まっていて、階段を上れません。



昨年の写真です。まだ、工事が始まる前でここの階段を上りました。



戻って、橋の端を歩きます。橋の上から先ほどの工事現場。この橋のあたりまでが4車線化の予定のようです。



橋から直ぐに木山上町バス停に着きます。信号のある交差点は、「木山神宮」へと右折した益城町木山交差点です。

今日も曇り空で寒かったです。
益城町三社参りウォークを終え、過去2回と同じく、このバス停からバスで帰ります。



2016年4月の熊本地震後、2018年11月末現在、県内で21,678名の人たちがいまだ応急仮設住宅等(建設型仮設住宅・借上型仮設住宅・公営住宅等)に住まわれています。(2017年11月末は42,988名)

仮設住宅退去後の支援も課題としてあげられています。

完全復興まで、まだまだ遠いです。

2019年も元日は三社参りウォーク

2019-01-01 | 熊本の話題
2019年1月1日(火)

明けましておめでとうございます。

平成最後の元日も熊本市内三社参りお一人ウォーク。

最初は健軍神社へお参り。長い列が出来ていました。



健軍神社で毎年買っている「えとお守り」も10個目になりました。後2年、干支を一回りするのが目標です。



いつも眺めさせてもらいます。



毎年、撮っていますが、周りの木が茂ってきたような。



元日の三社参りウォークを始めて最初の頃だったと思います、この公園に雪だるまが出来ていました。熊本で元日に積もるほどの雪を見なくなって何年も経ちます。温暖化ですかね。



新水前寺駅にウォーキングのパンフレット貰いに寄り道しました。



熊本市立図書館の近くにある是法神社。



是法神社境内の放牛地蔵。放牛地蔵(ほうぎゅうじぞう)とは、肥後の国の僧放牛が1722(享保7)年から10年かけて作った石仏百余体のことをいいます。



明治3年から徳富蘇峰・蘆花兄弟が住んでいた旧居の復興はまだ先。周囲は立ち入り禁止。隣接する徳富記念館は開館中です。



白川に架かる「明午橋(めいごばし)」は、2013年9月から架け替え工事中でした。昨年11月に仮橋から新しい橋へ切り替わりました。熊本地震の影響で工事期間が長くなり、この間、三社参りウォークも仮の橋を渡っていました。



架け変わった新しい橋を渡ります。気持ちいいですね。



工事資材は撤去中です。



藤崎八旛宮も長い列でした。



藤崎八旛宮で。古いお札等は火の中に。



藤崎八旛宮の参道もたくさんの人出です。



甘酒でほっと一息。



坪井恵比須神社。小さいころは、もっと大きな神社でした。



熊本信愛女学院に建っている「三毛子さん」。もう熊本でも数少ない女子高です。駅伝の強い学校ですが、今年の県予選は2位。残念ながら都大路を走れませんでした。



坪井川の鯉は元気。



熊本城の天守閣が見えてきます。



棒庵坂(ぼうあんざか)を上ります。



加藤神社入口から熊本城宇土櫓。創建当時の建物です。後ろは大天守。



加藤神社境内から熊本城天守閣。右が大天守、左が小天守ですが工事中。



加藤神社も参拝の長い列が出来ていました。



三社参りウォークを終えて、高橋公園の「横井小楠と維新群像」へ。後ろは熊本地震で崩れた熊本城の石垣。



今年も1年元気で歩きたいと思っています。

ブログの更新もままならず、昨年の書き残しがまだあります。頑張っていきたいと思っています。

今年も1年、おつき合いをよろしくお願いします。

熊本駅「0番Aのりば」「0番Bのりば」とお別れ

2018-03-24 | 熊本の話題
2018年3月24日(土)

 3月16日まで豊肥線のほとんどの列車は熊本駅「0番Aのりば」、「0番Bのりば」を利用していました。
 熊本駅の新たな在来線高架ホームが完成して、3月17日のダイヤ改正から高架ホームが豊肥線の発着になりました。

 22日にダイヤ改正後初めて豊肥線を利用しました。
 列車は高架1番ホームに入りました。
 ホームの階段を下りると直ぐに新幹線の乗換え口があります。

 「0番Aのりば」、「0番Bのりば」から新幹線乗換え口までは少し距離があり、歩きながら「さあこれから新幹線だ!」と気持ちが高まっていましたが、その気分が味わえなくなりました。



 3月15日撮影。左の線路が17日から高架ホームへつながる線路。



 3月22日撮影。右の線路が16日まで豊肥線が利用していた線路。
 16日の夜に左側の線路に切り替えられた。



 3月22日撮影。写真上の左側の線路から高架ホームへと向かう。
 2月17日の線路ウォークで歩いたところを列車で通過。  



 3月22日撮影。高架1番ホームに着く。



 3月16日19時30分頃撮影。この日で熊本駅「0番Aのりば」「0番Bのりば」とお別れ。

2018年も正月2日は益城町三社参りウォーク

2018-01-02 | 熊本の話題
2018年1月2日(火)

 昨年に続いて、正月2日は熊本地震で最も被害の大きかった益城町三社参りウォーク。

 熊本市と益城町の境にある小楠公園(熊本市東区沼山津)へ。昨年は倒壊した「横井小楠像」などの復旧作業で公園には入れなかったが、今年は入れます。横井小楠像も復旧しました。

(横井小楠像)


(小楠公園)


(小楠公園から四時軒辺りの案内板)

 小楠公園前バス停から東が益城町。県道熊本高森線の道路幅も4車線から2車線に。

(小楠公園前バス停から)

 熊本県は益城町内の2車線を4車線にする計画を発表したが反対も多いようです。

(都市計画の案内板)

 路線バスは、昨年1月3日までは高速道路下のバス停までしか運行されていませんでした。


 惣領地区の氏神「惣領木神神社」へ。鳥居も社殿も新しく立派になっています。

(惣領木神神社鳥居)


(惣領木神神社)


(鳥居に書かれている。)

 歩いている途中コンビニも営業しているので、寄っておにぎりを買い、県道熊本高森線から少し入った「安永神社」へ。
 安永神社は鳥居も社殿も昨年のままです。
 鳥居の傾きも変わっていない感じです。

(安永神社鳥居)


(安永神社)

 神社の紋は昨日の健軍神社と同じのようです。阿蘇神社の神紋だと思います。

(安永神社)


(安永神社裏の大木)

 路線バスも走っています。

(産交バス)

 道路沿いには病院がたくさん建っています。
 道路の4車線化には地元医師会も地域医療を守れないとして反対しています。
 病院は道路拡張で駐車場を削られたら開業できなくなる恐れがあると思います。
 理髪や飲食店などいろんなお店も道路沿いに並んでいます。
 それぞれのお店の死活問題がからんでいます。

(道路沿いの医療機関)


(道路沿いの医療機関)

 県道熊本高森線の木山の四角。
 熊本県と益城町が、ここを中心に再開発の計画をしていますが、益城町の都市計画審議会で区画整理事業計画が否決されました。
 区画整理は災害に強いまちづくりをめざし、緊急車両が通れるよう道路を拡幅したり、宅地や防災公園などを一体的に整備したりする計画です。
 賛否相半ばのようで、対立が先鋭化しなで冷静な判断が出来るようになればと思います。
 そのためには計画する側のそれこそ本当の丁寧な説明がいるのではないでしょうか。

(木山の四つ角)

 木山の四角を右に曲がって、「木山神宮」へ。
 木山神宮の神殿は倒壊したまま。

(木山神宮)


(木山神宮)


(木山神宮)


(木山神宮)


(木山神宮)


(木山神宮)

 木山神宮のすぐそばを流れる秋津川。
 下流は熊本市方面で熊本市東区沼山津にある横井小楠旧居「四時軒」の裏を流れています。

(秋津川の下流方面)

 熊本地震で益城町最大の避難所となった「益城町総合体育館」は取り壊されています。
 ここには多くの芸能人が訪れました。
 私は、ここは1日だけボランティアで行きました。

(益城町総合体育館)

 益城町総合体育館すぐ横の秋津川。
 上流で木山川から分かれている。
 昨年も同じような光景が見れました。

(秋津川の上流方面)

 木山城址は、まだ地震後そのままです。

(木山城址)

 寺迫交差点を右折して県道熊本高森線へ戻ります。

(寺迫交差点)

 歩道の復旧工事が進んでいます。

(歩道)

 まだの所もあります。

(歩道)

 田んぼの向こうに見えるのは仮設住宅だと思います。

(仮設住宅?)

 寺迫交差点から30分程歩いて、ようやく「津森神宮」に着きました。
 津森神宮の由緒によると「昔はここは入り江(津)でしたが、神武天皇の霊体出現時より、たちまち森となり、この地は津森と言われ宮所の名となっています」とあります。
 縄文時代、このあたりまで有明海の水がは入り込んでいた時期があるのではないかと思います。

(津森神宮)


(津森神宮)

 神様の避難所(防空壕)。説明板には「この地層は、9万年前の阿蘇山噴火の火砕流が冷えたもので、硬くて崩れにくいため、戦時中空襲からご神体を守るためのもうけられました。」とあります。

(津森神宮 神様の避難所)

 甘酒をいただきました。

(津森神宮)

 樹齢500年の銀杏。

(津森神宮)

 津森神宮へ来た道を引き返します。
 寺迫交差点の下は昨年と変わっていませんが1月10日から復旧工事が始るようです。

(寺迫交差点の下)


(寺迫交差点の下)

 木山の四角すぐ横の木山上町バス停。昨年はここから無料のシャトルバスで古閑入口バス停まで行きました。
 今日は路線バスに乗ります。
 昨年、ここでシャトルバスを待っている女性の方と4車線化のお話しなどしました。
 道路向こうにおられた知り合いの方とも道路越しに気軽に話をされていました。
 4車線になると道路の向こうとこっちで気軽に話をするということは出来なくなると思います。
 2車線の今は一帯となっている地域も分断されることになって行くのではないでしょうか。
 将来を考えると4車線化や再開発は町の発展には繋がっていくと思います。
 しかし、今を生きる人にとっては人と人の関係が薄れて行く社会にもなって行きます。
 バスが来たので熊本市内へ向かいます。


 益城町は復興が進んだ部分とまだまだの部分が混在しています。
 昨年と最も変わったのは、車と人が多く見受けられるようになったことです。
 コンビニ、商店、飲食店その他いろんなお店が再開しています。
 県道熊本高森線はひっきりなしに車が通っていました。

 三社参りウォークが今年も四社参りウォークになりました。
 天気も良く、日焼けしています。

 昨年の益城町三社参りウォークのブログはこちらです。
 「2017年正月2日は益城町三社参りウォーク」

2018年も元日は三社参りウォーク

2018-01-01 | 熊本の話題
2018年1月1日

新年おめでとうございます。

今年も1年の始まりは熊本市内の元日三社参りウォークです。

自宅から、熊本市内で最も古いといわれる健軍神社へ。長い列に並んでお参り。

(健軍神社)


(健軍神社楼門)

健軍神社前には「西南の役 熊本隊出陣の碑」があります。
薩摩西郷軍の決起に呼応し熊本隊1400名が健軍神社に集結、挙兵します。
明治10年2月22日のことです。

(西南の役 熊本隊出陣の碑)

三社参りの途中にある是法神社にもお参りします。神社の隣には観音堂があります。

(是法神社)

是法神社からすぐの堂免公園。今日は子供たちの姿は見えません。

(堂免公園)

堂免公園のトイレ。いまどき煙草の吸殻を置けるようになっているとは。
利用するたびに新しい吸殻が置いてあります。
熊本市には早く手を打って欲しいと思います。

(堂免公園のトイレ。煙草の空き箱も置き捨て。)

明午橋は工事中。仮橋を渡る。

(明午橋から子飼橋と立田山)


(明午橋から大甲橋と白川)

藤崎八旛宮でも並んでお参り。

(藤崎八旛宮)


(熊本の日本酒です。藤崎八旛宮で。)


(藤崎八旛宮今年の秋季例大祭の案内。)

藤崎八旛宮の前にあるパン屋さん。元日も営業中。パンを買いました。

(グラバーズベーカリー)

宮本武蔵は細川藩に抱えられ晩年を熊本で過ごしました。
旧居跡は熊本西年金事務所になっています。

(宮本武蔵旧居跡)

宮本武蔵旧居跡の横を流れる坪井川は鯉が泳いでいます。

(坪井川)

熊本西年金事務所あたりから熊本城が見えますが、大天守は修復工事が進んでいます。

(熊本城)

熊本城内にある加藤神社裏の石垣と井戸。熊本城内には井戸が120程あったといわれています。

(加藤神社裏の石垣と井戸)

棒庵坂を上ります。

(棒庵坂)

加藤神社に着きました。ここも長い列です。列から少し離れてお参りしました。

(加藤神社鳥居)


(加藤神社)

無事だった宇土櫓。平屋の続櫓は崩壊したので修復中です。

(宇土櫓。後方は大天守と小天守)

熊本城にはこのような案内板がいたるところに立っています。
地震前より親切になりました。

(石垣の復旧手順)


(案内板がある場所も図示してあります。)

奥が大天守、手前が小天守。

(修復工事中の天守閣)

国の重要文化財に指定されている不開門(あかずのもん)が建っていましたが、崩壊後に片づけられています。

(不開門が建っていた場所)


(不開門の案内板)


(石垣修理の案内板)

北十八間櫓は石垣も建物も崩壊しました。北十八間櫓も国の重要文化財に指定されていました。
下の広場は子供の時の遊び場でもありました。
今は広場も立ち入り禁止で鳩が伸び伸びと遊んでいます。

(北十八間櫓の石垣)

高橋公園の横井小楠銅像。左より坂本龍馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久。
後ろは崩壊した熊本城東十八間櫓の石垣。東十八間櫓は崩壊し片づけられている。

(横井小楠と維新群像)

元日の熊本日日新聞には、被災し部分運休が続く南阿蘇鉄道が全線復旧後にJR肥後大津駅まで直接乗り入れする計画であることが報じられています。
しかし、国の災害復旧は災害前の状態に戻すことが原則で、新たな価値を付ける復旧には消極的とも報じられています。


8キロほどのウォーキングですが、久しぶりに歩いたので気持ち良かったです。
歩いていると、あちこちで走る人が目につきます。

刺激を受けて、夕方は4キロほど走りました。