2018年7月24日(火)
「大森貝塚は、東京横浜間の帝国鉄道の西側に位置し、東京から6マイル弱の距離にある。それは、東京行きの汽車が大森駅を発してすぐ車窓から見える。」(「大森貝塚」岩波文庫)
1877 (明治10) 年6月17日、横浜港に入港したモースは翌々日、横浜から東京へと向かう汽車に乗り大森停車場を過ぎたころ、線路脇に貝殻が散らばっているのを車窓から発見した。
東京で、モースは東京大学の動物学の教授に招請され、条件面を詰めて引き受ける。9月16日、モースは他の教授や学生たちと大森貝塚を初めて訪れ、最初の発掘をおこなった。
明治10年は、国内最後の内戦、西南戦争が勃発した年。2月に薩摩の西郷軍と政府軍の戦闘が熊本城を中心に始まり、熊本、宮崎、鹿児島を中心に激しい戦いがあった。9月24日に鹿児島の城山で西郷隆盛が亡くなり、両軍合わせて13,000名余の死者をだして終焉を迎えた。その頃のことである。
モース自身は3回の発掘を行った。大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、2年後に東京大学理学部紀要の第1巻第1号にその成果が発表された。
この報告書の中で土器につけられた縄目模様を「cord marked pottery」と書かれ、幾つかの訳の中から「縄紋」が定着し、後に「縄文」と書かれるようになる。「縄文時代」という名は、大森貝塚から発掘された土器が由来となっている。
私は、浜松町駅から電車に乗り大森駅で下りた。車窓から、ここが大森貝塚という場所はわからなかった。ホームには「日本考古学発祥の地」碑が建っている。
(大森駅「日本考古学発祥の地」碑)
大森駅から歩いて3分程。NTTデータ大森山王ビル(大田区山王1丁目)の脇に、「史跡大森貝塚」という案内板がある。ビル敷地内の横道を通って、線路脇に出ると「大森貝墟」の石碑がある。
(NTTデータ大森山王ビル)
(「大森貝墟」の石碑)
大森貝塚発掘100年を記念した碑もあり、「モース博士と大森貝塚」と書かれた説明には以下のことが書かれている。
「アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877)6月横浜から新橋へ向う車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。
モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績をのこしました。また独立心と独創性をもち、たえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。
このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます。
1977年10月 東京都大森貝塚保存会 日本電信電話公社」
大森貝墟の碑からさらに3分程歩くと「大森貝塚遺跡庭園」(品川区大井6丁目)に着く。品川区はモースが縁で、生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市と姉妹都市提携を結んでいる。提携を記念して、昭和60年に開園した。
大森貝塚遺跡庭園には、縄文の広場、貝塚展示ブース、貝塚学習広場、モース広場などが設けられている。
(大森貝塚遺跡庭園)
(大森貝塚を学べる)
(大森貝塚を学べる)
(貝塚の展示。実際位置より上に設置してある。貝とかは出土したもの)
(縄文の広場)
(モースの銅像)
(遺跡庭園からJR京浜東北線の列車)
遺跡庭園の線路際には、「大森貝塚」の石碑が建っている。大森貝塚には2つの石碑が別々な場所に建てられている。「?」の解答は「品川歴史館」にあった。
(「大森貝塚」の石碑)
「品川歴史館」には、大森貝塚の碑から3分程歩いて着いた。
(品川歴史館)
70歳以上は観覧料無料と書いてあったので、「区民が無料ですか?」と聞いたら、区民以外も対象ですとのこと。障害者も無料。小中学生は品川区立に通う生徒は無料のようだ。
1Fは品川宿の宿並復元模型など品川の歴史が展示してある。モースのコーナーが2Fに設けているので階段を上る。
「?」の解答は、モースの発掘から40年程後、記念碑の建設が計画されるようになったが、発掘に携わった人たちもその場所がどこかわからなくなっていて、「貝塚」碑は1929年(昭和4年)に、「貝墟」碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。その後、公文書の発見、それぞれの碑付近の発掘調査などから「大森貝塚遺跡庭園」の地点が「大森貝塚」の場所とされている。
大森貝塚は、[草創期][早期][前期][中期]【後期】[晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約3,000年~2,500年前)の遺跡。
モースコーナーには、当時発掘された土器の複製品が展示されている。1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などのため発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかり、それらの一部も展示されている。
(品川歴史館モースコーナー)
(品川歴史館モースコーナー)
(大森貝塚の説明)
(大森貝塚の説明)
(大森貝塚付近の模型)
(発掘された土器)
(発掘された土器)
(発掘された動物の骨)
(品川歴史館で買った絵葉書。発掘当時のスケッチ。)
庭も散策し、大森貝塚を学んで、大森駅へ引きかえした。「日本考古学発祥の地」碑に再び会う。
(品川歴史館庭から)
モースは、大森貝塚の発掘が先を越されないかいつも心配していた。そのライバルが幕末に長崎で西洋医学を教えたシーボルトの次男、ハイリッヒ・F・シーボルトであった。
そのシーボルトが、著書「考古説略」の中で「考古学」という言葉を初めて使用したという。
大森駅から次の目的地へ向かう。
[参考本]
加藤緑著「日本考古学の原点・大森貝塚(シリーズ遺跡を学ぶ)」新泉社、2006年 第1版第1刷
モース著、近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚(岩波文庫)」岩波書店、2015年第9刷
山田康弘著「つくられた縄文時代(新潮選書)」新潮社、2015年
「大森貝塚は、東京横浜間の帝国鉄道の西側に位置し、東京から6マイル弱の距離にある。それは、東京行きの汽車が大森駅を発してすぐ車窓から見える。」(「大森貝塚」岩波文庫)
1877 (明治10) 年6月17日、横浜港に入港したモースは翌々日、横浜から東京へと向かう汽車に乗り大森停車場を過ぎたころ、線路脇に貝殻が散らばっているのを車窓から発見した。
東京で、モースは東京大学の動物学の教授に招請され、条件面を詰めて引き受ける。9月16日、モースは他の教授や学生たちと大森貝塚を初めて訪れ、最初の発掘をおこなった。
明治10年は、国内最後の内戦、西南戦争が勃発した年。2月に薩摩の西郷軍と政府軍の戦闘が熊本城を中心に始まり、熊本、宮崎、鹿児島を中心に激しい戦いがあった。9月24日に鹿児島の城山で西郷隆盛が亡くなり、両軍合わせて13,000名余の死者をだして終焉を迎えた。その頃のことである。
モース自身は3回の発掘を行った。大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、2年後に東京大学理学部紀要の第1巻第1号にその成果が発表された。
この報告書の中で土器につけられた縄目模様を「cord marked pottery」と書かれ、幾つかの訳の中から「縄紋」が定着し、後に「縄文」と書かれるようになる。「縄文時代」という名は、大森貝塚から発掘された土器が由来となっている。
私は、浜松町駅から電車に乗り大森駅で下りた。車窓から、ここが大森貝塚という場所はわからなかった。ホームには「日本考古学発祥の地」碑が建っている。
(大森駅「日本考古学発祥の地」碑)
大森駅から歩いて3分程。NTTデータ大森山王ビル(大田区山王1丁目)の脇に、「史跡大森貝塚」という案内板がある。ビル敷地内の横道を通って、線路脇に出ると「大森貝墟」の石碑がある。
(NTTデータ大森山王ビル)
(「大森貝墟」の石碑)
大森貝塚発掘100年を記念した碑もあり、「モース博士と大森貝塚」と書かれた説明には以下のことが書かれている。
「アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877)6月横浜から新橋へ向う車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。
モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績をのこしました。また独立心と独創性をもち、たえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。
このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます。
1977年10月 東京都大森貝塚保存会 日本電信電話公社」
大森貝墟の碑からさらに3分程歩くと「大森貝塚遺跡庭園」(品川区大井6丁目)に着く。品川区はモースが縁で、生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市と姉妹都市提携を結んでいる。提携を記念して、昭和60年に開園した。
大森貝塚遺跡庭園には、縄文の広場、貝塚展示ブース、貝塚学習広場、モース広場などが設けられている。
(大森貝塚遺跡庭園)
(大森貝塚を学べる)
(大森貝塚を学べる)
(貝塚の展示。実際位置より上に設置してある。貝とかは出土したもの)
(縄文の広場)
(モースの銅像)
(遺跡庭園からJR京浜東北線の列車)
遺跡庭園の線路際には、「大森貝塚」の石碑が建っている。大森貝塚には2つの石碑が別々な場所に建てられている。「?」の解答は「品川歴史館」にあった。
(「大森貝塚」の石碑)
「品川歴史館」には、大森貝塚の碑から3分程歩いて着いた。
(品川歴史館)
70歳以上は観覧料無料と書いてあったので、「区民が無料ですか?」と聞いたら、区民以外も対象ですとのこと。障害者も無料。小中学生は品川区立に通う生徒は無料のようだ。
1Fは品川宿の宿並復元模型など品川の歴史が展示してある。モースのコーナーが2Fに設けているので階段を上る。
「?」の解答は、モースの発掘から40年程後、記念碑の建設が計画されるようになったが、発掘に携わった人たちもその場所がどこかわからなくなっていて、「貝塚」碑は1929年(昭和4年)に、「貝墟」碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。その後、公文書の発見、それぞれの碑付近の発掘調査などから「大森貝塚遺跡庭園」の地点が「大森貝塚」の場所とされている。
大森貝塚は、[草創期][早期][前期][中期]【後期】[晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約3,000年~2,500年前)の遺跡。
モースコーナーには、当時発掘された土器の複製品が展示されている。1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などのため発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかり、それらの一部も展示されている。
(品川歴史館モースコーナー)
(品川歴史館モースコーナー)
(大森貝塚の説明)
(大森貝塚の説明)
(大森貝塚付近の模型)
(発掘された土器)
(発掘された土器)
(発掘された動物の骨)
(品川歴史館で買った絵葉書。発掘当時のスケッチ。)
庭も散策し、大森貝塚を学んで、大森駅へ引きかえした。「日本考古学発祥の地」碑に再び会う。
(品川歴史館庭から)
モースは、大森貝塚の発掘が先を越されないかいつも心配していた。そのライバルが幕末に長崎で西洋医学を教えたシーボルトの次男、ハイリッヒ・F・シーボルトであった。
そのシーボルトが、著書「考古説略」の中で「考古学」という言葉を初めて使用したという。
大森駅から次の目的地へ向かう。
[参考本]
加藤緑著「日本考古学の原点・大森貝塚(シリーズ遺跡を学ぶ)」新泉社、2006年 第1版第1刷
モース著、近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚(岩波文庫)」岩波書店、2015年第9刷
山田康弘著「つくられた縄文時代(新潮選書)」新潮社、2015年