鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

「大森貝塚(品川歴史館)」へ行った。【縄文を学ぶ-6】

2018-07-29 | 縄文を学ぶ
2018年7月24日(火)

 「大森貝塚は、東京横浜間の帝国鉄道の西側に位置し、東京から6マイル弱の距離にある。それは、東京行きの汽車が大森駅を発してすぐ車窓から見える。」(「大森貝塚」岩波文庫)

 1877 (明治10) 年6月17日、横浜港に入港したモースは翌々日、横浜から東京へと向かう汽車に乗り大森停車場を過ぎたころ、線路脇に貝殻が散らばっているのを車窓から発見した。

 東京で、モースは東京大学の動物学の教授に招請され、条件面を詰めて引き受ける。9月16日、モースは他の教授や学生たちと大森貝塚を初めて訪れ、最初の発掘をおこなった。

 明治10年は、国内最後の内戦、西南戦争が勃発した年。2月に薩摩の西郷軍と政府軍の戦闘が熊本城を中心に始まり、熊本、宮崎、鹿児島を中心に激しい戦いがあった。9月24日に鹿児島の城山で西郷隆盛が亡くなり、両軍合わせて13,000名余の死者をだして終焉を迎えた。その頃のことである。

 モース自身は3回の発掘を行った。大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、2年後に東京大学理学部紀要の第1巻第1号にその成果が発表された。

 この報告書の中で土器につけられた縄目模様を「cord marked pottery」と書かれ、幾つかの訳の中から「縄紋」が定着し、後に「縄文」と書かれるようになる。「縄文時代」という名は、大森貝塚から発掘された土器が由来となっている。

 私は、浜松町駅から電車に乗り大森駅で下りた。車窓から、ここが大森貝塚という場所はわからなかった。ホームには「日本考古学発祥の地」碑が建っている。


(大森駅「日本考古学発祥の地」碑)

 大森駅から歩いて3分程。NTTデータ大森山王ビル(大田区山王1丁目)の脇に、「史跡大森貝塚」という案内板がある。ビル敷地内の横道を通って、線路脇に出ると「大森貝墟」の石碑がある。


(NTTデータ大森山王ビル)


(「大森貝墟」の石碑)

 大森貝塚発掘100年を記念した碑もあり、「モース博士と大森貝塚」と書かれた説明には以下のことが書かれている。
 「アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877)6月横浜から新橋へ向う車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。
 モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績をのこしました。また独立心と独創性をもち、たえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。
 このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます。
                  1977年10月 東京都大森貝塚保存会 日本電信電話公社」

 大森貝墟の碑からさらに3分程歩くと「大森貝塚遺跡庭園」(品川区大井6丁目)に着く。品川区はモースが縁で、生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市と姉妹都市提携を結んでいる。提携を記念して、昭和60年に開園した。
 
 大森貝塚遺跡庭園には、縄文の広場、貝塚展示ブース、貝塚学習広場、モース広場などが設けられている。


(大森貝塚遺跡庭園)


(大森貝塚を学べる)


(大森貝塚を学べる)


(貝塚の展示。実際位置より上に設置してある。貝とかは出土したもの)


(縄文の広場)


(モースの銅像)


(遺跡庭園からJR京浜東北線の列車)

 遺跡庭園の線路際には、「大森貝塚」の石碑が建っている。大森貝塚には2つの石碑が別々な場所に建てられている。「?」の解答は「品川歴史館」にあった。


(「大森貝塚」の石碑)

 「品川歴史館」には、大森貝塚の碑から3分程歩いて着いた。


(品川歴史館)

 70歳以上は観覧料無料と書いてあったので、「区民が無料ですか?」と聞いたら、区民以外も対象ですとのこと。障害者も無料。小中学生は品川区立に通う生徒は無料のようだ。

 1Fは品川宿の宿並復元模型など品川の歴史が展示してある。モースのコーナーが2Fに設けているので階段を上る。

 「?」の解答は、モースの発掘から40年程後、記念碑の建設が計画されるようになったが、発掘に携わった人たちもその場所がどこかわからなくなっていて、「貝塚」碑は1929年(昭和4年)に、「貝墟」碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。その後、公文書の発見、それぞれの碑付近の発掘調査などから「大森貝塚遺跡庭園」の地点が「大森貝塚」の場所とされている。

 大森貝塚は、[草創期][早期][前期][中期]【後期】[晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約3,000年~2,500年前)の遺跡。

 モースコーナーには、当時発掘された土器の複製品が展示されている。1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などのため発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかり、それらの一部も展示されている。


(品川歴史館モースコーナー)


(品川歴史館モースコーナー)


(大森貝塚の説明)


(大森貝塚の説明)


(大森貝塚付近の模型)


(発掘された土器)


(発掘された土器)


(発掘された動物の骨)


(品川歴史館で買った絵葉書。発掘当時のスケッチ。)

 庭も散策し、大森貝塚を学んで、大森駅へ引きかえした。「日本考古学発祥の地」碑に再び会う。


(品川歴史館庭から)

 モースは、大森貝塚の発掘が先を越されないかいつも心配していた。そのライバルが幕末に長崎で西洋医学を教えたシーボルトの次男、ハイリッヒ・F・シーボルトであった。

 そのシーボルトが、著書「考古説略」の中で「考古学」という言葉を初めて使用したという。

 大森駅から次の目的地へ向かう。

[参考本]
 加藤緑著「日本考古学の原点・大森貝塚(シリーズ遺跡を学ぶ)」新泉社、2006年 第1版第1刷
 モース著、近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚(岩波文庫)」岩波書店、2015年第9刷
 山田康弘著「つくられた縄文時代(新潮選書)」新潮社、2015年

黄金駅(JR北海道)へ行った。

2018-07-14 | 
2018年6月27日(水)

 バスを待つ間、雨は小降りになってきた。北黄金貝塚公園前バス停から2つ目の「黄金」バス停で降りる。JR北海道室蘭本線の無人駅「黄金駅」は、バス停から歩いて1分もかからなかった。


(黄金駅)

 かわいい駅舎からホームに出ると、目の前は海。


(黄金駅舎内)


(駅舎側ホームから)


(駅舎側ホームから)


(海側ホームから)

 伊達市こども向けホームページ「だてキッズ」によると、「黄金」の語源はアイヌ語で「オ・コンプ・ウシ・ペ」で、「昆布(こんぶ)をとるところの」意味に、「黄金蘂」という字をあてて、オコンシベまたはオコンボシと表していた。後に「黄金」と変わったようだ。

 駅名も1925(大正14)年の開業当時は「黄金蘂駅」であった。

 縄文時代は、列車が走るあたりは海だったのではなかろうか。

 駅舎内で乗る列車を待っていると、列車が近づく合図があった。慌ててホームで写真を撮る。後で、JR北海道のホームページの列車ガイドを見たけど、その列車の写真は載っていない。新しく導入される列車の試運転だったかもしれない。駅舎内には通過する列車の時間も掲示してあるけど、時間帯が違っていた。


(通過する列車)


(駅舎内の案内。九州では見ることのない注意書きもある。)


(時刻表)

 駅にいる間、雨は降ったり止んだりだった。やがて、乗車する列車が近づいてくる合図があって、列車がくる。ふと、反対側を見たら、有珠山や昭和新山がようやく姿を見せた。列車はワンマン運転。


(10時32分発の列車)


(有珠山・昭和新山)

 列車に乗って2つ目の駅は、海が見える駅というより、ホームのすぐ下が海の駅。あらかじめ調べることはしてなかったので、写真撮るのも忘れ、ただ見惚れていた。駅は「北舟岡駅」。

 次の伊達紋別駅で下りる。黄金駅で取った「乗車整理券」とともに駅員さんに料金を払う。その乗車整理券には「黄金」と駅名が書かれているので記念にいただきたいと申し入れたが断られた。残念。


(札幌行きの「北斗」)


(旭川行きの「ライラック」)

「北黄金貝塚(北黄金貝塚情報センター)」へ行った。【縄文を学ぶ-5】

2018-07-10 | 縄文を学ぶ
2018年6月27日(水)

 洞爺湖温泉で目覚めた朝、本格的な雨が降っている。天気予報では午前中は強い風雨に見舞われそう。

 朝食を早めに済ませ、バスセンター7時50分発室蘭行に乗る。バスは洞爺湖の周囲を走り、昭和新山を眺めながら、伊達市内へ入り、1時間程して「北黄金貝塚公園前」バス停に着いた。

 バスを下りたら、傘を差していられないほどの横殴りの雨にあう。5分程だったろうか、立ち止まったりまた歩いたりして伊達市北黄金町の「北黄金貝塚公園」に着いた。

 丘の上に白いものを敷き詰めたものが見える。とにかくあそこまでは行こうと、雨水がたまった草むらを、傘が飛ばされそうになりながら歩いて上って行く。貝塚公園の高いところなので風をまともに受ける。


(北黄金貝塚公園)

 そこは「A´地点貝塚」と呼ばれるところで、貝塚の広さを実感できるように、現在の貝殻が敷き詰められている。それも後からわかったことで、説明板を読む余裕などない。カメラを雨から守りながら、ようやく撮る。


(A´地点貝塚。真ん中少し右の建物が北黄金貝塚情報センター)


(A´地点貝塚の説明)

 少し下がったところに、竪穴住居も復元されている。これまで見てきた復元住居とは少し違うようだが、近づいてみる見学する余裕はない。


(復元竪穴住居)

 「北黄金貝塚情報センター」へ急いで入る。センターの皆さんビックリされて、濡れた服を拭くタオルを持ってこられたり、濡れたリュックを乾かしていただいたり、展示の説明をしていただいたり、お世話になりました。有難うございました。


(情報センター内から貝塚公園)


(北黄金貝塚の図。下が欠けていて済みません。)

 北黄金貝塚は、[草創期][早期]【前期】[中期][後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期の(約6,000年~5,000年前)遺跡。前期でも気候の変動で周囲の環境は変化してくる。


(縄文前期でもこんなに違う)

 館内には、「A´地点貝塚」の剥ぎ取り展示がしてあり、ウニの層、カキの層、カキやウニが混じった層などが見れる。貝殻や動物の骨などが出土している。


(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)


(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)


(A´地点貝塚の剥ぎ取り展示)

 縄文人の墓が「A´地点貝塚」の中や下から見つかり、14体の人骨が発掘されている。墓は楕円形で、屈葬という仰向けで手足を折り曲げた姿勢の人骨が出土している。墓の上には石皿や土器が置かれていた。

 縄文人は、貝殻や動物の骨などもゴミではなく「貝塚はすべての生き物の墓地」と考えていたようだ。


(貝塚の墓の説明)


(ベンケイガイでできた貝輪をペンダントしてつけた男性の墓の復元)


(発掘途中のお墓の復元。墓の上には土器や石皿が伝えられている。)

 貝塚も住居より高い所に作られている。

 骨考古学という分野がある。発掘された古人骨を調べると、年齢、生別、妊娠や出産暦、病気や怪我など当時の人の様子が明らかになる。入江貝塚で出土した中にはポリオに罹っていた人骨もあった。北黄金貝塚で発見された人骨は、北海道で今まで見つかっている中で、最も古く、古人骨研究には欠かせない基本資料となっている。

 北海道は、稲作文化が入らなかったので、縄文文化から続縄文文化、擦文文化、そしてアイヌ文化へと移っていく。縄文人からアイヌ人まで人骨を調べると、各時代の人骨も縄文人の特徴をほとんど変えずに受け継がれていることがわかる。「貝塚はすべての生き物の墓地」という考えも、アイヌの文化から、推察されている。

 酸性の土壌では、人骨が残ることはほとんど無い。貝塚は貝がアルカリ性の土壌を維持するので人骨が残る。縄文の人たちは、「何千年後かに私たちのことを調べて。私たちを知って。」と本能的に感じて貝塚に埋葬したのではなかろうか。墓場の展示を見ているとそんな気がしてくる。

 貝塚は高い場所にあって、住居はその下にある。住居の近くには水が湧き出る場所があって、その付近で1,209点の礫石器が発見されている。握る部分に窪みをつけた磨り石、取って付きの磨り石、石皿、石器を作る道具などが壊された状態で出土している。

 使わなくなった道具をわざと水場で壊し、道具への感謝と再生を祈った場所、「水場の祭祀場」と考えられている。

 出土した石器が展示場の真ん中に積んであり、異彩を放っている。


(水場の祭祀場に捨てられた大量の礫石器)


(握る部分に窪みをつけた磨り石など)

 伊達高校郷土研究部の先生と生徒が中心になって、1950年代、北黄金貝塚の本格的発掘が始まった。「A地点貝塚」で三層にわかれて、一番上の層は筒状で、細かい縄文模様がついた土器、次の層は底が尖っている太い縄の模様がついた土器、一番下の層からは貝殻で模様をつけた、バケツ形の土器が出土した。

 当時、貝殻で模様をつけた土器は、先が尖っていたものしか発見されてなく、底が平らな土器は新発見の土器で、「上坂式土器」と名づけられた。


(上坂式土器)


(土器の説明)


(出土した土器)


(出土した土器)

 展示全体は子供たちにわかりやすいようにしてあると感じた。


(魚を獲る道具と獲った魚)


(動物を獲る道具。処理する道具)


(掘られた貝塚の写真と出土品)

 「噴火湾」はようやく場所のイメージがつかめた。「噴火湾」の中に、小さい湾がたくさんあるらしい。縄文の人たちは、その小さい湾にみんなで協力し合いながら大型の魚を追い込んで漁をしていたのだと思う。


(噴火湾とその周囲の貝塚の説明)

 縄文の人たちは、貝にしろ、魚にしろ、動物の肉にしろ、木の実にしろ、山野草にしろ、一番美味しい旬のものだけを、そのまま煮る、焼く、蒸すなどして食べていた。展示してある「縄文なべ」を見ながら、縄文時代の方が素材のおいしさを楽しめる豊かな食事だったのではないかと、昨晩の宿の食事と比べながら思った。


(縄文なべ)

 風雨が強い。結局、「水場の祭祀場」などには行かなかった。どうも根性が足りないな、と自分にいい聞かせながら、「北黄金貝塚」を後にする。


(情報センター内から水場の祭祀場?)

 風雨で、貝塚の高台から周囲の風景がどうなっているのか見えなかった。この場所が海に近いことは、「北黄金貝塚公園前」バス停から2つ目「黄金」バス停で降りて知ることになる。

 今日は、旭川に泊まる。

「入江貝塚(入江高砂貝塚館)」へ行った。【縄文を学ぶ-4】

2018-07-07 | 縄文を学ぶ
2018年6月26日(火)

 「縄文を学ぶ」に、北海道虻田郡洞爺湖町の「入江高砂貝塚館」へ。

 千歳空港から、南千歳駅乗換えで洞爺駅へ。


(南千歳駅から「北斗」に乗る)

 ホームページには、「入江高砂貝塚館」に行くには洞爺駅から徒歩約15分と書いてある。知らない土地を15分歩くと長く感じる。タクシーで行くと、「入江高砂貝塚館」から徒歩数分のところにある「入江貝塚公園」に着けてくれた。空はどんよりと曇って、今にも雨が降りそうな天気。


(入江貝塚公園)


(入江貝塚公園)

 入江貝塚は、[草創期][早期]【前期】[中期][後期][晩期]と区分されている縄文時代の、前期から後期(約5,000年前~約3,000年前)につくられた、貝塚を伴う集落跡で、三カ所の大きな貝塚と竪穴住居跡に作られた小さな貝塚がある。

 公園内のいたるところに貝塚に関する説明板が配置してあって、公園内を一周することで貝塚や入江貝塚のことが学べるようになっている。


(公園内の説明板)


(公園内の説明板)

 竪穴住居は前期が4軒、中期が19軒、後期が4軒の計27軒が見つかっている。一つの時期では10軒程度だろうと考えられている。住居内で火を焚いた跡もある。縄文時代早期の上野原遺跡(鹿児島県)では、火を焚いた跡は見られなかった。住居はやはり一つの時期では10軒程度だろうと考えられていた。

 発掘された住居跡は一部で、何百軒もの住居跡が埋もれていると思われている。

 縄文時代後期の竪穴住居が復元されている。一つは木で作られた骨組みだけ、一つは骨組みも無く炉だけ、一つは屋根も作られている。三つで、構造が分かるように工夫されている。


(復元された堅穴住居)


(復元された堅穴住居)


(復元された堅穴住居)

 竪穴住居は柱の位置などはわかるが、上屋がどのような作りだかはわかっていない。それぞれの縄文遺跡が独自に復元している。入江貝塚では、屋根に土をかぶせる「土ぶき」で復元されている。上野原遺跡(鹿児島県)の復元住居とはかなり違う。

 眼下に見える海は噴火湾。内浦湾ともいう。


(噴火湾が見える)

 公園の一角には、約20mの貝塚を剥ぎ取り展示した「貝塚トンネル」がある。断面には、土器や石器、イルカやエゾシカなどの骨が、土に刺さったように見ることができる。詳しい説明もしてあり貝塚を学べる。
上野原遺跡で見た火山灰による年代が分かる断層も迫力があったけど、貝塚の断層も迫力がある。


(貝塚トンネルの建物)


(貝塚トンネル内)


(貝塚トンネル内)


(貝塚トンネル内)


(貝塚トンネル内)


(貝塚トンネル内)


(貝塚トンネル内)


(貝塚トンネル内の説明板)


(貝塚トンネル内の説明板)

 イルカを一人で捕獲するのは困難だ。多くの人たちが協力し合って狭い湾の中に追い込んで捕獲していたであろう。定住が始まった時代が縄文時代とされているが、縄文時代は、協力し合しあって生活して行く時代ともいえよう。

 貝塚からは縄文人のグルメぶりも見える。前期から中期前半にかけて住んでいた縄文人たちはハマグリを食べていた。ハマグリが生息するほど温暖な時期であったようだ。中期後半以降に住んでいた縄文人はハマグリを食べていない。後期には、ホタテやイガイなどの寒流系の貝を多く食べていた。この地が、現在の気候と同じ気候になったことがわかる。

 洞爺湖町にある入江貝塚、高砂貝塚の出土品が展示してある「入江高砂貝塚館」は入江貝塚公園から、歩いて数分のところにある。縄文時代後期には、この地域に住んでいた人たちの主な生活の場が、入江貝塚から600mほど北にある高砂貝塚に移ったと考えられている。


(入江高砂貝塚館)


(噴火湾沿岸の先史文化編年表)

 前期の土器は口が平らになっている。中期になると、口が波打つようになってくる。実用性だけではなく、装飾を施すようになっていく。


(縄文時代前期の土器)


(縄文時代中期の土器)

 A「これは変わった土器だね。」
 B「食べ物はたくさんあって、採りに行かなくていいので、暇つぶしにいろいろと試しているんだよ。」
 A「この波打つような口は何の役に立つのかね?」
 B「面白いだろう、見た目がかっこよくないかい。」
 なんて、会話してたんでしょうかね。


(縄文時代晩期の土器)


(住居から出土した土器)

 入江式土器は、縄文時代後期の土器で木の棒で渦巻きや波型の文様がつけられている。北は札幌周辺、南は渡島半島にかけて分布している。青森県から秋田県にかけても同じような文様の土器が出土している。


(入江式土器)

 貝塚からは人骨も見つかっている。貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、神聖な場所だった。


(貝塚トンネル内の説明板)


(貝塚館内の展示)

 入江貝塚で出土している19体の中には、ポリオにかかった人骨も見つかっている。幼少期にポリオに感染し、手足を動かすことができず、周囲の人たちから今でいう介護を、少なくとも十数年間受けていたと考えられている。協力し合って生きて行く社会が見れる。

 縄文時代後期の高砂貝塚からは28基のお墓が見つかっている。難産で母子ともに亡くなったと思われる遺体もあった。


(高砂貝塚の説明)

 入江貝塚は、本州の貝塚と異なり、貝の含まれる割合が少なく、魚や動物の骨が多いのも特徴になっている。土器や石器も見つかっているが、骨で作られた道具類もたくさん見つかっている。それら骨角器は北海道の有形文化財に指定されている。


(北海道の有形文化財の説明)


(骨角器類)

 貝塚からは、①魚を獲る、貝を採る、漁撈の道具などの海とのつきあいの様子、②獣の骨、狩猟の道具類など狩りの生活の様子、③人骨などから体格や特徴、生活の様子、④装飾品や呪術の道具類などから精神的な生活の様子、などなど縄文時代の生活の様子を知ることができる。


(断層の剥ぎ取り展示)


(後期の顔にかぶせられたホタテと副葬された土器)


(ナイフ・石鏃)


(環状土製品など)

 見学の後は、洞爺湖へ。「トンネルを抜けるとそこは湖だった。」タクシーの運転手さんに言ったら笑われてしまった。洞爺湖遊覧船に乗って、洞爺湖温泉へ。茶色帯びた湯に浸る。湯の色も湯の香りも私は初めての経験。気温が九州とは10度程差がある。冷えた躰も芯から暖まり、部屋から花火も見られた。ぐっすりと寝る。


(洞爺湖)

JR最北端の駅「稚内駅」に下車。

2018-07-01 | 
2018年6月28日(木)

 65年前、5歳だった「子ども」の遊び場は「駅」だった。そのころはJRの「駅」では無い、国鉄の「駅」。

 「駅」が遊び場になったのは2歳の頃からか3歳の頃からだろうが記憶にない。「ばあちゃん」が子守で連れてきたのか、「じいちゃん」が汽車を見に連れてきたのか、「とうちゃん」が「駅」に用事があって連れてきたのか、最初のきっかけがなんだったかも記憶にない。そのうち家から一人で遊びに行くようになった。お昼ご飯や、夕飯の時間に帰らないと、「ばあちゃん」や「じいちゃん」や「とうちゃん」や「かあちゃん」が迎えにくる。

 「駅」は楽しい。

 「子ども」には「汽車」の到着が近づいてくるのがわかる。ポイントの切り替えをしたり、信号機を操作したり、「駅員さん」の動きが慌ただしくなる。「子ども」は改札口の外から、動く「駅員さん」たちを出来るだけ近くで見ようと移動する。毎日のように遊びに来ていても、改札口の中ホームへと入ると叱られる。危ないから叱られるのだと、「子ども」もなんとなくわかっている。

 「汽車」に乗る人たちは、「駅」の窓口で切符を買う。しばらくは待合室の椅子に坐って待っている。乗る「汽車」の時間が近くなると、改札が始まる。乗る人たちは改札口に並んで、「駅員さん」の手に切符を渡す。「駅員さん」はその切符を手に取り、改札鋏で切符の端を少し切って、乗る人に返す。改札口の中に入って、見送る人に手を振る人もいる。「子ども」の近くで手を振っている人もいる。

 煙を吐いて「汽車」がホームに着くと、大勢の人が降りてくる。改札口の「駅員さん」に切符を手渡しして、通り抜けていく。洋服の人も、和服の人も、通り抜けて行く。「駅」を出ると、バス停へ向かったり、市内電車の電停へ向かったり、菊池電車の駅へ向かったり、歩いて、京町の方へ、池田町の方へ、花園町の方へ行く人たちもいる。「駅」の横の交番で道を尋ねる人たちもいる。

 貨物列車が停まらずに通過することもある。1つ、2つ、3つ、と「子ども」は貨車の数を数える。「子ども」は数の数え方を、貨車を数えることで覚えた。50ぐらいまで数えたような気がする。

 その「駅」に停まらない特急が通過する時が凄い。走る「汽車」から、機関車に乗っている人が、これまでの区間のタブレットを「駅員さん」に渡す。その勢いで、次の区間のタブレットを別の「駅員さん」から直ぐに受け取る。渡して受け取る、その素早しさを「子ども」は眼を真ん丸にして眺めていた。

 「汽車」が出発すると、次の「汽車」まで時間がある。その間も「駅」は忙しい。「駅員さん」はこの仕事、あの仕事と動き回る。

 「駅」を利用する人たちは、「汽車」に乗る人たちだけでは無い。「電報」の受付もする。まだ家庭に電話など無かった時代、もちろん携帯電話など無い時代、手紙や葉書よりも早く伝えたいときは「電報」で伝えていた。

 荷物を「鉄道」で送る人も来る。「鉄道」で運ばれてきた荷物を受け取る人も来る。宅配便などは無かった。郵便小包で送れないような大きな物は鉄道便で送っていた。駅で遊んでいると「とうちゃん」が荷物の受け取りに来ることもあった。

 「子ども」はそんな様子も見てまわる。ホームとの柵を鉄棒代わりに遊ぶ、交番の中に入っても遊ぶ、駅の前の広場でも遊ぶ。2系統あった市内電車の電停でも遊ぶ。菊池電車の駅でも遊ぶ。「駅」の周りは「子ども」とって何でも遊び場になる。1日中飽きることは無い。

 「子ども」は小学生になると「駅」で遊ばなくなった。行動範囲が広がっていく。そして、中学生、高校生、社会人へとなっていく。

 いつの頃かは覚えてはないけど、国鉄の鉄道の行き着く駅が、南は「枕崎駅」、北は「稚内駅」だということを知る。南の終着駅は「枕崎駅」だが最も南に位置する駅が「西大山駅」だと知ったのはそれよりも後だった。

 会社員を辞めて、プチ「鉄道の旅」を始めた。「西大山駅」は、1度だけ通過した。ホームに降りて記念写真だけは撮れた。「稚内駅」は、利尻・礼文の旅に参加した時、観光バスで見学した。

 今年5月、縄文を学ぶ旅を始めようと指宿に出かけた。途中、喜入駅で降りた。指宿行を待つ間、待合室で時刻表を見ていたら、「西大山駅」へ行こうとよ、と呼びかける「誰か」がいた。

 急遽、指宿駅に下りる予定を変更して、乗り越してJR最南端の駅「西大山駅」で下車した。

 帰りの指宿駅方面への列車を待つ間、無人駅で駅舎も無い「西大山駅」の周りをブラブラしていると、「稚内駅」へは行かないの、とささやく「誰か」がいた。

 翌6月、JR最北端の駅「稚内駅」へ向かう。

 飛行機で北海道へ。幾つかの縄文を学ぶ見学を済ませ、旭川に泊まる。翌日、旭川駅9時発「宗谷」に乗る。札幌駅始発の列車は、ほぼ満席。旭川駅を出てしばらくは、田植えがすんだ田んぼの風景が広がる。その後は、単調な景色を眺めているだけ。北海道らしい広々とした大地と、牛がのんびりしている姿が見れるようになったのは、稚内が近づいてからだった。


(旭川駅9時発「宗谷」に乗る)


(旭川駅9時発「宗谷」)


(田植え後の田んぼ)


(名寄駅で)


(牛がのんびりと)

 旭川駅から3時間40分。ようやく「稚内駅」に着いた。


(稚内駅に着く)

 ガラス越しに、着いた「列車」を大勢の人たちが写真に収めている。ちょうど4年前、同じくらいの時間に、同じようにガラス越しに写真撮った。その時、「観光で来て、ホームの外から写真撮るのではなく、列車で来てホームで写真撮りたい。」と思ったことが甦る。ホームで写真を撮る。「枕崎駅」から何キロ、「西大山駅」から何キロなどの案内板が目につく。4年前はホームの外から撮ったけど、ホームの中で撮ると、やはり嬉しい。


(線路はここまで)


(JR最北端の駅)


(西大山駅からの距離)


(南の終着駅とは友好都市)

 改札口をでたところは、複合施設「キタカラ」で、JR稚内駅、バスターミナル、映画館、コンビニ、グループホーム、高齢者住宅、地域交流センターなどが一体となっている。「道の駅わっかない」でもある。賑やかではあるが、ホームを出るとJR最北端の駅「稚内駅」に着いたという感激は薄れだす。小さくてもいいから、駅舎だけ独立してあって欲しい。その「駅」とホームを眺めていたいと思う。


(窓越しに。4枚上の写真の車止めの裏側)


(旧稚内駅時代の終着地点。現在の終着地点の延長上にある。)


(複合施設「キタカラ」)


(道の駅の説明板)


(記念入場券。「来駅証明書」とセットで売ってある。乗って来なくても買えるのが残念。)

 「古希」になった今年、「誰か」の声に引き摺られ、JR最南端の駅「西大山駅」とJR最北端の駅「稚内駅」に初めて下車した。

 そうしたら、「子ども」の頃の「駅」のことが次から次へと思い出されてくる。