鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
(本ブログに掲載している写真の無断使用・転載を禁じます。)

日本稲作発祥の地「菜畑遺跡(松蘆館)」へ行った。【縄文を学ぶ-14】

2020-11-07 | 縄文を学ぶ
2020年10月31日(土)

JR九州博多駅から福岡市営地下鉄線を走り、姪浜駅で地上に出る。
姪浜駅からはJR九州筑肥線。やがて、行く手右側に玄界灘が見えてくる。

奴国から出発した電車は、玄界灘を望みながら伊都国を通過していく。
虹の松原の松林が見えてきたら、もうすぐに松蘆国。
魏志倭人伝に記されている、邪馬台国までの道の逆を行き、佐賀県唐津市にある唐津駅に着く。

駅から近代図書館の方に出て、図書館の手前から右折。



ハローワーク唐津入口の信号をまっすぐ渡り、桜並木を進む。
15分ほど歩くと「日本稲作発祥の地」菜畑遺跡・松蘆館に着く。





菜畑遺跡は[草創期][早期][前期][中期][後期]【晩期】と区分される縄文時代の晩期を代表する遺跡である。

昭和55年から56年にかけての調査で、約2600年前、縄文時代晩期の土器とともに炭化米、石包丁、鍬、水田などが発見された。

当時、新聞に大きく報道された。
確か、「縄文時代に稲作が」みたいな報道だったように思う。
「弥生時代の始まりが早くなったのではないの」と思ったことがある。

縄文時代終わりと弥生時代を始まりを定義する学説はいろいろあって、そう単純なことではないようだ。

「松蘆館」は高床倉庫をイメージして建てられ、菜畑遺跡で出土した縄文時代晩期、弥生時代早期の資料が展示されている。



出土品を元に当時の様子を想像して再現されている。水田があるのが、これまで見てきた縄文時代を想像し再現したものとは違う。



炭化米。





パネルでは、出土品を元に当時の生活の様子を知ることもできる。





畑作では、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウ、ナスビ、メロン、キュウリなど、現在の農家で栽培されているもののほとんどの品種が作られていた。



狩猟や漁労、農具や食事・食器などのパネルもあった。菜畑遺跡への稲作の伝搬を説明したパネルもあった。

豚の下あごは豊作を祈る儀式で使われていたと思われている。



屋外は遺跡公園「出あいふれあいの広場」として整備されている。

竪穴式住居。



発見された最古の水田跡は、小規模(10~20㎡)のもので、海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画されていた。







縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての水田跡が何層か発見されているようなので、水田の移り変わりの説明があればもっと良かったのにと思う。

松蘆館を後に、唐津城へと向かう。

ハローワーク唐津入口の信号を左折し、すぐに目に入ったお店「だし遊膳 新」で昼食。
佐賀の海の幸、山の幸を刺身、天婦羅、牛のたたきなどでいただいた。美味しかった。

途中、青木繁の作品が多く展示されている河村美術館に寄り道。。



美術館からすぐに唐津城に着く。階段を上るとふじ棚が迎えるが花が奇麗なのは5月の連休の頃。天守閣へ。



天守閣の展望台より海を眺める。稲はこの海の彼方から運ばれてきたのだろう。そう思って眺める海は格別だ。



唐津の観光名所「虹の松原」も見える。



旧唐津銀行の建物などを眺めながら20分弱歩くと曳山像のある唐津駅前に着く。
唐津神社や曳山展示場には寄らなかった。



ウォーキングでは春は田植え、秋は稲刈りの田んぼを眺めながら歩くことも多い。
今秋も稲刈りの前や終わった田んぼを眺めながら歩いている。

お米を食べる生活を送ってきて今がある。
日本稲作発祥の地を訪ね、稲作の伝搬、2600年前の炭化米、復元された水田、渡ってきたであろう海を眺めた。
感慨深いものがある。

帰りは、唐津駅から佐賀駅へと唐津線に乗る。山あいをのんびりとローカル線の旅。
佐賀駅から長崎本線で鳥栖へと向かう、途中、弥生時代の大規模集落を再現した吉野ヶ里公園への最寄り駅、吉野ヶ里公園駅を通過し、帰路へ。

九州の縄文遺跡を学んだのは5つ目である。
【縄文を学ぶ-1】で鹿児島県の「掃除山古墳」が、1万2800年前、草創期の代表的遺跡であることを学んだ。
【縄文を学ぶ-2】で鹿児島県の「橋牟礼川遺跡」では、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かったことを学んだ。
【縄文を学ぶ-3】で鹿児島県の「上野原遺跡」が、早期の代表的な遺跡で、約9,500年前に「ムラ」がつくられていたことを学んだ。
【縄文を学ぶ-13】で熊本県の「曽畑貝塚」では、約5500年前、前期に使われていた土器に「曽畑式土器」の名がつけられていて、曽畑式土器が奄美から沖縄まで広く発見されていることを学んだ。
そして【縄文を学ぶ-14】で佐賀県の「菜畑遺跡」が、約2600年前、晩期の代表的遺跡で日本稲作発祥地であることを学んだ。

九州でもまだまだ縄文時代を学べそうだ。

大関・正代関のふるさと宇土市「曽畑貝塚」へ行った。【縄文を学ぶ-13】

2020-10-07 | 縄文を学ぶ
2020年9月29日(火)

大相撲秋場所で優勝し、大関に昇進した正代関の出身地は熊本県宇土市。

熊本市の南に天草へ向かって宇土半島が突き出ている。半島の北側は有明海で南側は八代海が広がる。宇土市は半島の付け根から有明海側にあり、熊本市に隣接している。

織田信長の死後、豊臣秀吉は九州全域に影響力を広げていた島津勢と戦い、勝利し、肥後の北半分を加藤清正、南半分を小西行長に支配させた。小西行長は宇土に城を築き拠点とした。

宇土市には、縄文時代の「曽畑貝塚(そばたかいづか)」がある。



曽畑貝塚は[草創期][早期]【前期】[中期][後期][晩期]と区分される縄文時代の前期から後期への遺跡で、約5500年前に使われていたと思われる土器には「曽畑式土器」の名がつけられている。

縄文土器は、地域、年代、地域、作り方、デザインなどで一くくりできるものを「〇〇土器」と称される。それらを纏めて編年表がつくられる。「〇〇土器」という名前は、最初に見つかった遺跡の名前が付けられることが多い。その遺跡は「標識遺跡」よばれている。曽畑貝塚はそのような標識遺跡の一つである。

『縄文土器ガイドブック』(井口直司著、新泉社、2013年)には、縄文土器の、地域による違い、時代による違い、などについて詳しく記されている。
冒頭の口絵ではカラーで草創期から晩期まで各地で出土した代表的な32の縄文土器が紹介してあり、目を奪われる。その中で口絵3「曽畑式土器」(縄文前期)、口絵4「阿高系式土器」(縄文中期)は、熊本の縄文遺跡の名がつけられた土器である。

JR九州宇土駅東口から国道3号線に出て、右、八代方面へ。すぐに左折、3号線松橋バイパスを歩く。
駅から30分程、左手にレストラン「洋食亭」の看板が見える。看板の手前から「洋食亭」の駐車場の方へ。


(洋食亭の手前から左へ入る)


(曽畑貝塚への矢印がある)


(あ、あそこだとわかる)

50m程のところに「曽畑貝塚」の標柱が建っている。


(標柱)


(説明板)


(貝塚のすぐそば木原山)


(熊本市西部にある金峰山の山並み)


(有明海の先、雲仙の山並み)

曽畑式土器は、棒のようなもので整然と規則的に線を引き、配列された構図が基本で、線が土器全体につけられている。粘土の中に多量の滑石を含んでいる。
「櫛目文式土器」とよばれる中国や朝鮮半島の土器と類似されているのが注目されている。

1923(大正12)年の発掘調査では、カキ、ハマグリ、サルボウ、アカガイなどの貝層が見つかった。
五体分の人骨、磨製石器、打製石斧、敲石、石皿、などの石器。曽畑式土器のほか轟式土器、阿高式土器などの土器も出土した。

1974(昭和49)年、国道3号線松橋バイパスの建設にあたり、貝塚周辺の調査が行われた。縄文前期、後期の層からドングリの貯蔵穴62基やカゴが発見された。今は、この場所の上に松橋バイパスが建設され盛んに車が往来している。

曽畑式土器は、有明海はもちろん、八代海沿い、玄界灘沿い、長崎県、佐賀県、鹿児島県、熊本県など九州山脈の西側を中心に分布している。鹿児島より南は奄美・沖縄まで広がっている。

宇土市には、曽畑貝塚の西、より有明海に近いところに轟貝塚がある。『縄文土器ガイドブック』本文の中にある「表2 縄文土器編年表概略図」では、九州の前期欄には「曽畑式土器」とともに「轟式土器」が記されている。

轟貝塚も前期から続いている遺跡である。近くには轟水源がある。轟水源は,現在まで使用されている上水道として300年以上続く日本最古の轟泉水道の水源である。


(轟貝塚 2020.2.1 JR九州ウォーキングにて)


(轟貝塚 2020.2.1 JR九州ウォーキングにて)


(轟貝塚 2020.2.1 JR九州ウォーキングにて)


(轟水源 2020.2.1 JR九州ウォーキングにて)

轟式土器は、貝殻で引っ掻いたような文様が特徴で、時代の移り変りと共に変化し、轟A式・B式・C式・D式と区別されている。轟式土器も曽畑式土器とほぼ同じ分布をしていて、約6千年前から九州の西側、奄美・沖縄に住む人々が交流していたことがわかる。

私たちの祖先は、アフリカから東南アジアを経て、3万8千年程前に中国の陸地から朝鮮半島へ、そして対馬を経て九州へ、3万5千年程前に台湾から沖縄へそして南の島々を伝って九州へと渡ってきた。

3万年以上前に南の島々を渡ってきた人たちがいるということは、6千年前に九州に住む人たちと沖縄の人たちとの交流があっても驚きではない。

「〇〇土器」と名付けられても、〇〇は発見された遺跡名で、最初に作られたのは他の遺跡かもしれないし、標識遺跡である〇〇遺跡かもしれない。
どこの遺跡かわからないけど、例えば、曽畑式土器は東南アジアから陸路を伝って来た人を祖先に持つ人たちの集団、轟式土器は島々を渡ってきた人を祖先に持つ人たちの集団が作り始めたかも知れない。

定住生活が始まり、土器を作ることが始まり、交流も始まり、それぞれの土器を前にして、先祖から伝わる話をしているうちにお互いに先祖は同じようなところに住んでいたことが分かって、ハグをしたかも知れない。

などなど、素人考えで一人居酒屋談義をするのも縄文を旅で知る楽しみだ。

この日は、お昼前から暑くなった。曽畑貝塚の標柱と貯蔵穴の上にある松橋バイパスとに挟まれた洋食亭でお昼。いただいた黒毛和牛ステーキ御膳で行きの疲れも飛び、次への元気をもらう。

曽畑貝塚から歩いて宇土市立図書館へ。途中、寄り道したので所要時間はわからないけど、JR宇土駅からだと20分程歩いたところにある。
宇土市立図書館の郷土資料室に曽畑式土器は展示してあった。轟式土器は見かけなかった。


(宇土市立図書館)


(郷土資料室)


(曽畑式土器)

1966(昭和41)年、轟貝塚で発掘された石笛が展示してある。


(轟貝塚から出土の石笛)

図書館の近くには宇土市役所があり、正代関の優勝で盛り上がっていた。30日には大関昇進も決まったので、もっと盛り上がっているだろう。


(宇土市役所仮設庁舎 4年前の熊本地震で使えなくなり仮設庁舎で業務されている)

宇土市で開催されたJR九州ウォーキングに参加した時のブログはこちら。宇土のあちこち歩きました。宇土いいところです。

2017年4月15日(土)「蒼土窯」に会う【JR九州網田駅 鉄卓のフォト・ウォーク2017-3】
2020年2月1日(土)「轟水源・貝塚」に会う【JR九州宇土駅 鉄卓のフォト・ウォーク2020-1】

参考本
『縄文土器ガイドブック』(井口直司著、新泉社、2013年)
『豊饒の海の縄文文化・曽畑貝塚』(木崎康弘著、新泉社、2004年)
『新・熊本の歴史1』(「新・熊本の歴史」編集委員会編、熊本日日新聞社、1978年)
『サピエンス日本上陸』(海部陽介著、講談社、2020年)
『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著、昭和堂、2008年)

「御所野遺跡(御所野縄文公園)」へ行った。【縄文を学ぶ-12】

2018-10-22 | 縄文を学ぶ
 2018年9月13日(木)

 朝、八戸駅の青い森鉄道のホームへ行くと、IRG岩手銀河鉄道の車両が待っている。今日は青い森鉄道の「八戸駅(青森県)」からIRG岩手銀河鉄道の「一戸駅(岩手県)」へと向かう。今は別々な県になっているが、「八戸」、「一戸」という地名からすると同じ地域であった時代があるのではなかろうか。


(青い森鉄道「八戸駅」でIRGいわて銀河鉄道の車両)

 列車は間もなく出発。ゆっくり座れた。旅人にとってはゆっくり座れるのはありがたいが、鉄道会社にとってはありがたいことではない。

 青森県の目時(めとき)駅(青森県三戸郡三戸町)が青い森鉄道とIRG岩手銀河鉄道の境になっている。目時駅からIRG岩手銀河鉄道の路線を走る。一戸駅は直ぐに着いた。


(IRGいわて銀河鉄道の路線図)


(IRGいわて銀河鉄道「一戸駅」)


(一戸駅ホームから階段を下りると「御所野縄文公園」)

 一戸駅から「御所野縄文公園」(岩手県二戸郡一戸町)へタクシーで向かう。タクシーを降りる時、運転手さんが領収書を渡しながら「これを見せれば助成金が出ます。帰りも出ます。」と教えてくれた。


(一戸駅タクシー乗り場案内)

 「きききのつりはし」を渡って、「御所野縄文博物館」へ入り、受付へ。入館料は300円。それよりもタクシー助成金の方が多かった。


(御所野縄文公園案内板)


(御所野縄文公園入口)


(「きききのつりはし」を渡る)


(御所野縄文博物館入口)

 御所野遺跡は[草創期][早期][前期]【中期】[後期][晩期]と区分される縄文時代の中期後半の大規模なムラの跡で、76,000㎡のほぼ全面に800棟以上の竪穴建物跡が見つかっている。

 1996年、西側の調査区で焼けた竪穴建物の調査が行われた。大型竪穴建物跡には、壁に沿って立ち並んだ割板、多量の炭化材や焼土、あるいは土が残っており、その埋まり方から土屋根であったことが明らかになっている。

 博物館の展示室に入ると、すぐに「焼けた住居の発見」コーナーになっていて、発掘された床面が足元のガラス面の下に復原されている。足を踏み入れていいかどうか迷ったが、ガラスの上に載っても大丈夫、安心して見れる。

 土屋根の竪穴建物を復元し、消失実験も行われている。実験の結果、土屋根は密閉性が高く、内部が酸欠状態となり、燃えにくいことから、意図的に火をつけて燃やした可能性があると考えられている。


(焼失竪穴建物発見のコーナー)


(焼失竪穴建物発見の説明パネル)


(ガラスの下に焼失竪穴建物発見の復原されている)

 縄文時代に使われていた道具を復原して竪穴建物の復原作業も行われている。その復原の手順、使われた道具などが展示してある。このような展示は初めて見るような気がする。

 復原に要した木は、14.44㎡(約9畳)の住居で40本近くが必要であった。組み立てて行くのに縄は1,400mの縄が使用された。材木としてはクリの木が中心であるが、縄として使えそうな木はシナの木が考えられている。それらの木が大量に必要である。1棟の竪穴建物を建てると周囲の風景も変わっていたかもしれない。木を伐り出した後には、植林も行われたであろう。


(堅穴住居の作り方の説明パネル)


(堅穴住居の作る材料の説明パネル)


(「くわ」や「すき」などの道具)


(樹皮をはぐ道具など)


(復原された道具や縄)

 「焼けた住居の発見」コーナーの次はプロジェクションマッピングで御所野むらの四季をスクリーンで上映し、縄文人の生活を紹介したり、出土した土器や石器が展示されている「御所野縄文ワールド」へ。


(御所野むらの四季の上映)

 縄文時代中期の東北北部から北海道南部にかけては「円筒式土器」が作られていたのは、2日前の行った「三内丸山遺跡」で学んだ。その頃、東北の南部では大木(だいぎ)式土器が作られている。御所野遺跡は東北地方の北と南の土器文化の接点にあたる。


(北の「円筒土器」(左側)、南の大木式土器(南側))


(大木式土器)


(円筒土器)

順番通りには回らなかったようで、写真の整理が上手くいってなくてすみません。


(石斧の復原)


(配石遺構で発券された石)


(穴にひもを通して壊れた土器の修復をしたと考えられている。)


(何なんだろう?)


(いろいろな土製品)


(トックリ型土器)


(石棒)

 スロープを上って2階への途中に展望所がある。


(博物館内展望所から公園)

 2階の展示室には、同じ一戸町の縄文時代晩期の蒔前(まくまえ)遺跡、山井遺跡などの出土品が展示してある。
 
 蒔前遺跡の鼻曲り土面(重要文化財)はパリへ出張中でレプリカが展示されていた。このような土面は縄文時代後期後半から晩期前半にかけて東北北部の太平洋側に分布している。


(鼻曲り土面-蒔前遺跡)


(鉢型土器-蒔前遺跡)


(皿型土器-蒔前遺跡)


(土偶-山井遺跡)


(浅鉢-山井遺跡)


(土偶「縄文ぼいん」-椛の木遺跡)

 階段を下りて、御所野遺跡公園内を散策に博物館から外へ。公園内は無料で誰でも散策できる。丁度、栗の季節で、熱心に栗拾いしている人たちもいる。


(御所野遺跡公園で実ったクリ)


(クリと掘立柱建物)

 石を一定の形で並べた配石遺構がむらの中央にある。配石遺構の周辺では人を葬った墓穴が見つかっており、むら全体の墓地と考えられている。掘立柱建物は配石遺構に対応するように建てられていることから墓に関連する施設と考えられている。


(配石遺構と掘立柱建物)


(掘立柱建物)


(配石遺構、盛り土遺構、掘立柱建物)


(配石遺構、盛り土遺構、掘立柱建物)


(掘立柱建物)

 竪穴建物は東むら、中央むら、西むらが復元されている。西むらで発見された焼失した竪穴建物は、調査で土屋根であったことが判明しているが、復原された竪穴建物を眺めていると土屋根が周囲の景観とはもっとも合っているように見える。


(竪穴建物-東むら)


(竪穴建物-中央むら)


(竪穴建物-中央むら)


(竪穴建物-西むら)

 竪穴建物のなかでは炭火が焚かれていたが、蒸し暑い。


(竪穴建物内)


(竪穴建物内)


(公園で)


(公園で)


(公園で)


(公園で)

 公園内には、案内板とかがほとんど無かった。写真と説明があっているか自信は無い。博物館に戻ってトイレに入ったら。張り紙が・・・。御所野遺跡を訪れる際は活用されることをお勧めする。


(平日は予約をしましょう)

 公園内を見学していたら、障害者就労継続支援B型事業所で働く皆さんが、竪穴建物などの清掃をされていた。縄文時代は、人びとが協力し合って働き始めた時代だと思う。竪穴建物に住み定住生活をするにも、人びとの協力で竪穴建物を建てることから始まる。人それぞれの力にあった「仕事の分かち合い」で建っていただろう。

 中央省庁の障害者雇用で雇用数の水増しがあった問題の調査結果の発表があったのは、この旅行の少し前で、呆れてしまった。1万数千年の間に、いつの間にか「障害者」という言葉を作りだし、雇用の差別化が進んできた。雇用率はその差別を無くして行くスタートでしかない。入口でつまずいているとは。

 御所野遺跡公園の取組みが、全国の縄文施設に拡がればと思う。それから一歩進んで、障害者と障害者とされていない人びとが共に働く場へと進んで行ってもらいたい。

 博物館でタクシーを呼んでもらい、タクシー代の補助券をいただいた。一戸駅でタクシーを降りる時に補助券の金額を差し引いて料金を払う。嬉しいシステムだ。

 IRG岩手銀河鉄道で一戸駅から二戸駅へ戻る。青い森鉄道、IRG岩手銀河鉄道は「Suica」などの交通系電子マネーは使えない。


(青い森鉄道、IRG岩手銀河鉄道ともに「きっぷ」を買った)

 JR二戸駅からJR東北新幹線で25分、盛岡駅へ。盛岡城址は駅から近かったけどタクシーに乗った。運転手さんは桜が綺麗だと熱心に自慢話をされた。熊本城の桜も綺麗ですよ、とは言いずらかった。桜山神社で烏帽子岩(兜岩)を見物。もりおか歴史文化館の歴史展示室には黒田官兵衛の兜が展示してある。東北で官兵衛さんに会うとは。


(盛岡城址の石垣と桜の木)


(桜山神社の兜岩)


(もりおか歴史文化館で黒田官兵衛の兜に会う)

 盛岡駅へ戻り、今度はJR東北本線で1時間25分程かけて平泉駅へ着いた。

 今日の宿泊は平泉温泉。「福香ビール」と「純米酒関山」で夕食。私より年配と思われる方々も働いておられる。元気をもらえる。関山は口に含んだとたん「辛口!」とつぶやいてしまった。

 3日間の東北縄文の旅を終わり、明日は平安から鎌倉にかけての平泉をまわる。温泉で温まりルートを頭に描きながら就寝。 

[参考本]
高田和徳著『縄文のイエとムラの風景・御所野遺跡(シリーズ「縄文を学ぶ」)』新泉社、2005年
『御所野縄文博物館 常設展示図録』一戸町教育委員会/御所野縄文博物館発行 2015年

「是川縄文館」へ行った。【縄文を学ぶ-11】

2018-10-07 | 縄文を学ぶ
2018年9月12日(水)

 新幹線が新たに開通すると、並行する在来線は地元自治体が中心の第三セクターに移管される。九州新幹線では、熊本県八代駅と鹿児島県川内駅間が、熊本県、鹿児島県及びそれぞれの沿線自治体が中心となって「肥薩おれんじ鉄道」一社を発足させ受け皿となった。東北新幹線では、東北本線の岩手県盛岡駅と青森県青森駅間が、岩手県側は岩手県、青森県側は青森県のそれぞれの県と沿線自治体が中心となって別々の会社「青い森鉄道」、「IGRいわて銀河鉄道」を発足させ受け皿となった。

 第三セクター鉄道は、税金による支援がされるので乗客の利用推移が話題となることが多いが、環境に配慮することや最近の人手不足に対応するものとして注目を集める鉄道貨物にとって重要な路線であることに関心を向ける人は少ない。第三セクター鉄道は、沿線の住民の足であるとともに、鉄道貨物の輸送を担うことが重要な役割になっっている。

 東北縄文の旅2日目は、青森県の第三セクター鉄道「青い森鉄道」にて浅虫温泉から八戸(青森県)へ向かう。陸奥湾が見えたり見えなくなったりする。海が見えなくなったと思い反対側を見ていると、実ったリンゴ木が。鉄道に乗って、美味しいリンゴが食べられる季節を実感するのは九州では経験無い。キョロキョロしているうちに八戸駅に着いた。


(浅虫温泉駅ホーム)


(浅虫温泉駅でモーリーが見送り)

 八戸市内のJRとバス(市営バス・南部バス)が1日乗り放題のフリーパス「八戸えんじょいカード」を買った。発売箇所はJRの「みどりの窓口」と「びゅうプラザ」のみ。市内のバスも乗り放題だけど販売がJRの窓口のみというのも珍しいと思う。切符がJRの発券機のものというのは旅行者からすると味気ない。


(八戸えんじょいカード)

 観光案内所で道順を尋ねて、駅からバスで20分程の市内中心部へ。丁寧に教えていただいた乗換場所から「是川縄文館」(青森県八戸市)を経由するバスに乗る。20分弱で着いた。本数は少ない。


(是川縄文館)

 2階の受付で利用料250円。高齢者割引(65歳以上)は八戸市内在住者のみとのこと。「ボランティアのガイドを受けられますか?」と聞かれたので「え、今から一人でも。」聞いたら「はい。」ということなのでお願いした。

 最初に、ボランティアの方から「案内の時間は約1時間です。」「是川縄文館の周囲にある4つの縄文遺跡のうち是川中居遺跡と風張1遺跡を中心に展示してあります。」との説明を受けた。

 縄文時代は、[草創期][早期][前期][中期]【後期】【晩期】と区分されている。風張1遺跡は後期(約3,500年前)、是川中居遺跡は晩期(約3,000年前)の遺跡になる。

 館内に入る。縄文の紋様を浴びる「縄文への道」は、違う世界の体験を予感させる演出がされている。「縄文くらしシアター」で縄文の暮らしを体感して、「縄文の美」室へ。

 入って直ぐは「漆の美」。眼にいきなり飛び込んでくるのは漆の作品の数々。眼をまん丸にして見入るばかり。縄文時代晩期には、こんな作品があったのかとビックリの連続。これらの作品は是川中井遺跡から出土している。

 縄文土器は写真で見る機会があるので、それほどの驚きはないけど、漆の作品は写真でも見る機会はあまり無いので、ただただ感心して見入る。縄文と漆にはこれまであまり関心を持って来なかった。というか、そこまでの余裕が無かった。興味津々。


(漆塗りの飾り太刀)


(木胎漆器)


(籃胎漆器)


(漆塗り台付土器)


(漆塗りの櫛や腕輪など)

 後日、四柳嘉章著『漆の文化史』(岩波新書)を読んだ。
 漆塗りは、縄文時代は赤色で弥生時代になると黒色が主になる。漆の工芸技術は縄文時代に揃っていた。などなど縄文時代の漆について興味深いことを学ぶことができる。

 隣りのコーナーは「是川の美」。是川中井遺跡から出土したものを中心に展示してある。「是川の美は、均整のとれた形と、精緻な装飾・文様が織りなす優美なデザインにあり、当時の人々の洗練された感性が表現されています。」(『図録』より)


(土器の数々)


(壺型土器)


(石皿や深鉢型土器)


(香炉型土器)


(装身具の数々)


(土偶)


(土偶)


(イモガイ状土製品)


(きのこ形土製品)


(箆型木製品)

 その隣は「風張の美」。「風張の美は、発想豊かな造形と制作技術にあり、この技術力が是川の美へ、一層洗練された形で受け継がれていきます。」(『図録』より)


(土偶)


(土偶)


(深鉢型土器)


(深鉢型土器)


(注口土器)


(土製品)


(装身具)


(玉)

 縄文時代は中期が最も盛んな時代といわれている。後期・晩期は遺跡数も減って停滞した時代ともいわれたりする。しかし、後期の風張1遺跡、晩期是川中居遺跡の出土品を目の前にすると、人口の減少はあったかもしれないけど、当時の人々は生き生きとした生活を送り、技術は洗練されてきていることを感じる。

 「縄文の謎」という室では、中井遺跡の調査から明らかになったことがテーマ別に展示してある。漆器の復元もされている。


(トチの実の貯蔵穴)


(ヤス軸家柄、握り棒、弓)


(鉢型土器。ペンガラ、漆の貯蔵用)


(漆器などの複製)

 「国宝展示室」には「合掌土偶」が大事に展示してある。といっても、本物はパリへ出張中。本物には国立東京博物館の「縄文展」でお目にかかっている。

 座った状態で腕を膝の上に置き、正面で手を合わせている形から「合掌土偶」と名づけられた。土偶は、竪穴住居の出入り口と反対側の窓際から、左足部分が欠けた状態で発見された。左足部分は同じ竪穴住居の2.5m離れた西側の床面から出土している。土偶が住居内から出土するのは珍しい。

 両足の付け根と膝、腕の部が割れており、アスファルトでついている。縄文の人たちが修復しながら使っていたと考えられている。頭部などには赤く塗られた痕跡があり、全身が赤く彩色されていたと考えられている。


(合掌土偶のレプリカ)


(合掌土偶のレプリカ)


(発掘された説明)

最後に、また、漆器が展示してあった。ほれぼれする。素晴らしい。


(漆塗り壺型土器)

 「合掌土偶」の複製が1Fアトリウムに置いてあって自由に扱うことができる。持って驚き。実に持ち易い形に作られている。持つことを意識しながら、この形に作られていることがわかる。


(誰でもさわれる)

 約1時間熱心な説明していただいた。ありがとうございました。「是川縄文館」はLED照明で、暗めの照明の中に作品が浮かび上がってくるような展示をしてあり、「美」を前面に押し出している。これまで観てきた博物館とは趣が違う感がする。


(展示室内)

 お昼は館内で縄文カレーとせんべい汁のセット。


(縄文カレーとせんべい汁のセット)

 歩いて数分の、是川縄文館分館「縄文学習館」には縄文時代の竪穴住居の復元もされているが、時間の都合で行かなかった。

 バスで八戸市内中心部へ戻りJR本八戸駅へ。JR八戸線で鮫駅まで。駅前から種差遊覧バス「うみねこ号」で三陸復興国立公園「種差海岸」へ行く。ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている「蕪島」はバスの中から眺める。種差海岸では太平洋の強い風と海の波。ブラブラ歩きながら熊本では経験できない体感を味わう。


(JR八戸線の列車-鮫駅で)


(種差海岸)


(種差海岸)

 帰りは、JR種差海岸駅から本八戸駅まで列車の旅。朝、八戸駅に下りてから今日一日の交通機関は「八戸えんじょいカード」を利用して済ませた。

 八戸市中心部のホテルに宿泊。「八戸えんじょいカード」のガイドブックで飲食店の協賛店を見たら、さば料理のお店があった。で、夕食はさばのコース料理(刺身は無かった)と地元のお酒。東北でこんなに美味しいさば料理を食べれるなんて、満足満足。帰りに「八戸えんじょいカード」を呈示してサービスのさばせんべいをいただいた。

 明日は「IGRいわて銀河鉄道」に乗る予定。よし就寝。

参考本
『是川縄文館 常設展示図録』(八戸市埋蔵文化センター是川縄文館編集・発行、2016年改定)

「三内丸山遺跡(縄文時遊館)」へ行った。【縄文を学ぶ-10】

2018-09-25 | 縄文を学ぶ
2018年9月11日(火)

 「縄文を学ぶ」の10回目は青森県青森市の三内丸山遺跡。縄文時代最大の遺跡で、[草創期][早期]【前期】【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期から中期にかけての約5,500年前から約4,000年前まで続いた集落。

 訪れるのは2回目。2015年8月「縄文の杜あおもりツーデーマーチ三内丸山コース」に参加した時以来となる。あの時はウォーキングの途中寄ったので慌ただしく見学して回った。その時、「さんまるミュジアム」は見学していない。

 青森駅前12時10分発三内丸山行のバスに乗った。お昼どきだったが、高齢の女性を中心に乗客は多い。三内丸山まで10ヶ所程あったバス停のすべてに停まって、降りる人、乗る人がいた。「青森の高齢女性は元気だ。」と思いながら乗っていたら30分程で三内丸山遺跡に着いた。終点まで乗っていたのは2人だった。

 昼食は「縄文時遊館」内のレストランでと思い青森駅で食事せずにお腹を空かしてきたのだが、団体客でいっぱい。かなり前から待っている人たちがいて、いつ席が空くか分からない雰囲気だった。朝は空港でおにぎり1個だったと思いながらも昼食は諦める。

 「縄文時遊館」入口すぐのボランティアガイド集合場所に行き、13時からの案内で遺跡内を見てまわる。


(縄文時遊館に入って。写真右手の角の所にボランティアガイド集合場所。)


(三内丸山遺跡の全景)


(三内丸山遺跡の説明板)

 竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の土やゴミ、焼けた土や灰、石器や壊れた土器、土偶やヒスイなどが同じ場所に長期間継続して棄てられ小山のように盛りあがった「盛土(もりど)」が三カ所確認されており、南盛土は断面が公開されている。北盛土は埋もれている多量の土器の出土状態を、実物で見学することができる。


(南盛土の断面)


(北盛土に埋もれていた土器)

 「竪穴住居」は茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元されている。


(竪穴住居の復元)


(右から茅葺き、樹皮葺き、土葺き)


(中に入る。入口が狭いので頭ゴッン。)


(竪穴住居の中)

 三内丸山遺跡が縄文時代最大の遺跡といわれているのには、竪穴住居以外に大きな建物跡が多数見つかっていることがあげられる。

 高床式建物として復元されているのが「掘立柱建物」。地面に柱穴はあるが、炉や床などの跡が無いため、高床の建物と推測され、用途としては食料の備蓄などに使われたと考えられている。柱は約35cmの倍数で配置されている。


(掘立柱建物)

 「大型竪穴住居跡」が11軒見つかっている。それぞれの建物の時代はずれていて、各時期に1軒くらいの割合で建てられていた。長さ約32m、幅約9.8m、床面積約250㎡のものが復元されている。集会場や共同作業場などに使われていたのではないかと考えられている。


(大型竪穴住居)


(大型竪穴住居の内部。コンサートとかも開かれているとか。)

 三内丸山遺跡を象徴する建物はこれ。六本柱で作られている巨大な「大型掘立柱建物」がそびえ立っている。発掘調査で大型の柱穴が3個ずつ2列に並んで6基発見された。柱穴からは直径約1mのクリの巨木を利用した木柱の一部が残存していた。柱の間隔は約4.2m。建物の大きさは長さ約8.4m、幅約4.2mの長方形。柱穴は約1.2m~2.2m、深さは1.4mから2mある。遠くから見ても、近くによって見ても、見上げてしまう。でかい。


(「大型掘立柱建物」と「大型竪穴住居」)


(大型掘立柱建物。柱右下の方には草刈り機に乗って清掃する人)


(実際の発掘地点はドームの中に保存されている。)


(柱穴の中からはクリの木柱の一部が見つかった。)


(「大型掘立柱建物」の下から「掘立柱建物」)

 大林組と共同で、どれくらいの重さが加わっていたのかなど分析した結果、14m~23mの木柱が建っていたと推定された。その他の分析も加え、高さ14.7mの建物として復元されている。神殿、物見やぐら、モニュメントなどの説がある。

 私は、「大型掘立柱建物」は目印が一番大きな役割ではなかったかと思う。後述になるが、三内丸山には各地から様々なものが運ばれている。近くのムラムラからも人々が集まってきている。他の地域との交流が盛んであった。「大型掘立柱建物」を目印に人々がやって来た。

 これだけのものを建てるには、多くの労力が必要だ。近隣のムラの人たちも含めて多くの人たちが共同作業に加わった。一人あるいは数人程度ではできないものが出来て行く。「ヒト」の協力し合う力を実感しただろう。自分たちのムラあるいはグループの力を確認したであろう。一番大きな目的は、そのムラあるいはグループの団結を作って行くことだったのではなかろうか。出来上がる「もの」よりも作って行く過程の方が大事だったのではなかろうか。そして、それは楽しい時間だったと思う。

 共同作業では新たな言葉も生まれたかも知れない。

 他の地域の人たちは、協力し合って建てた巨大な建物を尊敬の眼差しで見ただろう。噂を聞いて観光に訪れた人もいたのではなかろうか。そうして、ムラはますます発展して行く。

 大人を埋葬した墓(土坑墓)は、長さ約2mの細長い墓穴で、道路を挟んで列状に並んでいた。


(大人の墓の説明板)


(この道路わきに墓は並んでいた。)

 子どもの遺体は土器の中に入れで埋葬されていた。棺に使われた土器は丸に穴が開いていたり口や底が壊されていて煮炊き用の土器とは区別されていた。


(子どもの墓)

 50分程かけて遺跡内を案内してもらった。広い園内からすると少し慌ただしい感じもした。(文章は案内の順序とは一致していません。下記のさんまるミュジアムの文章も展示の順序とは一致していません。)

 遺跡のガイドが終わって、三内丸山遺跡で発掘されたものが展示してある「さんまるミュジアム」へ。

 細長い展示室の真ん中には「円筒土器」が時代区分されて展示されている。「円筒土器」は三内丸山遺跡が存続した前期から中期にかけて北海道南西部から東北北部を中心に作られた。土器につけられている名前は「土器形式」といわれ、最初に見つかった遺跡の名前がつけられることが多いが「円筒土器」は土器の形からつけられている稀なケースである。

 展示では円筒下層式前半、円筒下層式後半、円筒上層式前半、円筒上層式後半、円筒上層式以降と分けられ展示してあったが、私の頭の中にはその区分も説明も入る余裕は無かった。「円筒土器」だけが刷り込まれた。


(円筒土器の数々)


(円筒土器の説明)


(円筒土器の説明)


(重要文化財の土器(①約4,200年前))


(重要文化財の土器(左②約5,500年前、右③約5,000年前))


(重要文化財の土器①の文様)


(重要文化財の土器②の文様)


(重要文化財の土器③の文様)


(煮炊きをした跡)


(重要文化財の台付浅鉢型土器(約5,000年~4,500年前))

 三内丸山遺跡では土偶が2,000点以上出土している。これまで出土している土偶が1万数千点といわれているので、圧倒的に多い。約2,000点の土偶のうち15%程度は他の地域から持ち込まれたと分析されている。

 土偶の展示は、これまで訪れたところでは覗き込むようにして見たが、ここでは壁に立てて展示してあるので見比べやすい。形、表情も様々で楽しい。ニヤニヤしながら見ているのにハット気付く。


(土偶の数々)


(その中から気になったものの一つ)


(その中から気になったものの一つ)


(その中から気になったものの一つ)


(重要文化財の大型板状土偶(レプリカ)(約4,500年前))

 土偶は女性を模したものではないかと見れることから、安産や子育てを祈願したものではないかと考えられるとの意見が多い。私は、もっと幅広く祈願されたのではないかと思う。現代、私たちは神社に様々なお願いごとをする。「交通安全」「商売繁昌」「合格祈願」「健康回復」「開運招福」「必勝祈願」などなど。縄文時代には縄文時代ならではのいろんなお願い事がされたであろう。土偶は現代でいえば「お守り」的なものではなかったろうかと思う。

 土偶はほとんどが「壊れ」て出土している。現代の私たちから見て「壊す」という行為は、何かを「祈願」する時の行為ではなく、「祈願」が成就したときあるいは役目を終えたときの「感謝」の気持ちを表している行為ではないかと思う。

 縄文時代には「壊す」「捨てる」という考えが無かったのではなかろうか。これまで見てきた貝塚や三内丸山遺跡の盛土は「感謝」の場だと思う。死者を葬るのも、その人に対する「感謝」を表しているのだと思う。

 北黄金貝塚(縄文を学ぶ-5)では、住居の近くの水が湧き出る場所付近で1,209点の礫石器が発見されている。握る部分に窪みをつけた磨り石、取って付きの磨り石、石皿、石器を作る道具などが壊された状態で出土していた。何らかの事情でムラを捨てて別な場所に移動しなければならなかった時に、それまでお世話になったものを「壊し」て「感謝」の気持ちを表してムラを去って行ったのではなかろうかと思う。水が湧き出る場所にも何らかの「壊す」行為をしていたかも知れない。

 土器や土偶の他にも動物や魚の骨、生活の道具や装飾品などの発掘されたさまざまなものが展示してあって、当時の生活を想像することが出来る。

 哺乳類では、ノウサギ、ムササビ、リス、モグラ、ネズミ、キツネ、タヌキ、ツキノワグマ、イタチなどが出土している。他の縄文遺跡で出土するシカとイノシシは少ない。鳥では、ワシ、ガン、カモなどが出土している。

 魚では、マグロ、マダイ、ヒラメ、ブリ、サバ、ニシン、カレイ、アナゴ、サケ、サヨリ、オニオコゼ、ホッケなどが出土している。


(マダイの骨。背骨が繋がっている状態から三枚におろされたと考えられている。)


(黒曜石製石槍)


(石鏃と針)


(木柱)


(ミニチュア土器)


(棒状土製品)


(水晶製石鏃)


(ヒスイ製大珠)


(ヒスイ製大珠)


(装身具)

 展示されているものの中には遠い地から運ばれたものも多い。

 ヒスイは、約500km離れた新潟県糸魚川市周辺から運ばれ、大珠などの完成品のほかに原石、加工途中のものも出土しており、遺跡内で加工が行なわれたと考えられている。黒曜石は、約400km離れた北海道遠軽町や約580km離れた長野県産など各地の産地のものが持ち込まれている。アスファルトは秋田県から、コハクは岩手県北三陸からなど各地との交流が盛んだった。


(交流の説明)

 遠くは北は400km、南は580km離れた各地から人々が、六本柱の「大型掘立柱建物」を目印に三内丸山遺跡へやって来た。三内丸山の人たちとだけでなく、違うムラムラの人たちが一度に集う事もあっただろう。お互いのムラの自慢話の花が咲く。言葉にも違いがある。手振り身振りで話しながらうなずく。新たな共通の言葉も出来てくる。「大型竪穴住居跡」は各地から集まってくる人々の交流の場にもなったし、宿泊施設にもなったのではなかろうか。

 三内丸山の人々にとってクリは重要だった。食料としても、堅穴住居、大型掘立柱建物や大型竪穴住居などの建築材料としても。集落ができる前はナラ類やブナの林が拡がっていた。居住が開始されてから急激にクルミ属、さらにはクリ林にとってかわったことから、人の手によってクリ林が作られたと考えられている。
 
 見学を終えて、お昼どきに満席だったレストランで「ソフト栗夢」。ほのかにクリの香りと甘さが。


(ソフト栗夢)

 縄文の人々がいかにスケールの大きい生活を送っていたかを実感させられる、三内丸山遺跡見学だった。

 青森駅に戻って、「青い森鉄道」で浅虫温泉駅へ。


(青森駅直ぐ近くの岸壁に浮かぶ青函連絡船「八甲田丸」)


(青い森鉄道)

 棟方志功ゆかりの宿に泊まり、棟方志功が愛飲した日本酒「遊天」で夕食。湯に浸かりぐっすり寝るはずだったが、夜中に目をさまし、いろんなことが頭の中を駆けめぐる。特にあの六本柱と土偶のことが。再び寝る。

[参考本]
岡田康博著『三内丸山遺跡』(同成社、2014年)
『改訂版 特別史跡 三内丸山遺跡』(東奥日報社、2015年)

モースが下車した「旧新橋停車場」へ行った-【縄文を学ぶ-番外編(1)】

2018-08-23 | 縄文を学ぶ
2018年7月26日(木)

 大森貝塚の発見者モースは、横浜港に入港した翌々日の1877 (明治10) 年6月19日、横浜から東京へと向かう汽車に乗って、大森停車場を過ぎたころ、線路脇に貝殻が散らばっているのを車窓から発見した。その後、東京大学の教授となったモースは9月に日本で最初の学術的発掘をおこなう(縄文を学ぶ-6)。

 モースが乗った鉄道は、1872(明治5)年に日本最初の鉄道として新橋と横浜間に開通した。開業時からの駅舎は1923年(大正12)年の関東大震災により焼失している。

 2003(平成15)年、「旧新橋停車場」の駅舎が開業時の外観で復元された。現新橋駅から歩いて5分程のゆりかもめ新橋駅近くにある。駅舎内の大部分はレストランになっているが東日本鉄道文化財団の「鉄道歴史展示室」も開設されていて、旧新橋停車場を中心に鉄道の歴史が学べる。


(復元された旧新橋停車場)

 1階展示室の床の一部はガラス張りで、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来る。正面玄関階段とプラットホームの先端部分でも、史跡の一部をじかに見ることができるようになっている。


(駅舎玄関遺構。正面玄関階段の最下段として使われていた切石)


(復元されたホーム)


(復元された線路。創業当時は枕木やレールの台座は土を被らせレールの頭だけが見えていた(写真奥)。)


(復元された0哩標識)

 鉄道歴史展示室には「映像の記憶」というビデオのコーナーもあり、開業当時の新橋駅や横浜・新橋間の映像、写真などが楽しめ、モースが乗車したころの駅や鉄道の雰囲気が味わえる。大森貝塚を見学した後に訪れると、モースもこんな雰囲気の汽車に乗って、大森貝塚を発見し発掘していたんだと、と映像に引きつけられていく。


(鉄道歴史展示室で買った絵葉書)
 
 大森貝塚-中里貝塚-縄文展-縄文の村(多摩ニュータウンNo.57遺跡)とまわった2泊3日の東京縄文の旅も、モースに始まってモースに終える。浜松町駅へ移動し、モノレールで羽田空港へ。

 年とったからだろうが考えることもあった。JRの電車に乗った時、ベビーカーのエリアが確保されている。さすが東京と思った。でも、そこに立っている人はベビーカーが乗って来ても全く動こうとしない。まだスペースはあったが・・・。別な電車に乗った時、子供二人連れのお母さんが乗ってきた。子供一人を抱っこして、もう一人は手をつないで。でも、誰も席を譲る人はいない。

 1万数千年前~2千数百年前の縄文時代、人びとは土偶を作って、安産や子の成長を願ったという。個人ではなく、ムラ全体で願ったであろう。

 「進歩」「発展」とは何なんだろう?

 空港で「COEDOビール」を飲んで、帰路に就いた。

「縄文の村(東京都立埋蔵文化財調査センター)」へ行った。【縄文を学ぶ-9】

2018-08-20 | 縄文を学ぶ
2018年7月26日(木)

 朝食を済ませ、多摩ニュータウン駅周辺をブラブラしたら、夏休みに入ったこともあって「サンリオピューロランド」の前には開館を待つ親子連れが長い行列を作っていた。

 「東京都立埋蔵文化財調査センター・縄文の村」(東京都多摩市落合)は、サンリオピューロランドの直ぐ近くにあった。入館料は誰でも無料。


(東京都立埋蔵文化財調査センター)

 常設展の入口では、「丘陵人(おかびと)の肖像」(縄文時代中期の作品)が迎えてくれる。


(丘陵人の肖像)

 多摩ニュータウンには964ヶ所遺跡があり、旧石器時代から近世まで、各時代の遺構や遺物が発見されている。発見された出土品の数々が常設展示してある。その一角に縄文時代のコーナーがある。


(展示ホール)

 すぐに目に入ったのは、「落とし穴」の模型。多摩ニュータウン地区では1万5千基以上の落とし穴が見つかっている。落とし穴は長さ1.5m、幅1m、深さ2m程で、底には篠竹などがうめこまれ、足がからまって逃げられないようになっている。


(落とし穴)


(縄文前期の土器)


(縄文中期の土器)


(土偶たち)


(石器道具の説明)


(石器など)

 平成30年度企画展示「蒼海(うみ)わたる人々-考古学から見たとうきょうの島々」(平成30年3月21日~平成31年3月10日)は、常設展と同じ会場に展示してある。


(「蒼海(うみ)わたる人々」の解説冊子から)

 興味を引かれたのは、「黒曜石」とイノシシの骨。

 「黒曜石」は、神津島(下田から約55km)が産地として知られている。多摩ニュータウンの縄文遺跡を始め、関東各地の縄文遺跡から出土している。特に恩馳産の黒曜石は不純物が少なく良質であったため人気があった。


(黒曜石の解説パネル)

 大島(伊東から36km)の下高洞遺跡(縄文時代後期~晩期)からは動物や魚の骨、貝殻などが見つかり、イノシシの骨も出土している。イノシシは本来伊豆諸島には生息していないとされている。縄文時代に人々は、海を渡って陸地から何十キロも離れた伊豆諸島の島々に住んだ。イノシシも連れて行った。


(イノシシの解説パネル)

 2日前に行った「北区飛鳥山博物館」には、縄文時代の丸木舟が展示してあった(縄文を学ぶ-7)。あのような丸木舟に乗って海を航海して黒曜石など運んだのだろうか。イノシシはどうやって運んだのだろう。
 

(八丈島の縄文時代等の出土品と北硫黄島石野遺跡の弥生時代(約1900年前)の出土品)

 展示室を出ると、体験コーナーでは磨石で木の実をすりつぶす体験などが出来る。


(体験コーナー)

 その奥に行くと凄かった。棚にびっしりと並べられ保管されている土器が見られるようになっている。昨日、「縄文展」で見た土器たちは現代人から見た美のエリートたち。ここに並んでいる土器たちはそこには選ばれなかった。エリートたちは「私を見て。」と叫んでいるように見えたけど、ここの土器たちは「私たちを知って。私たちが生活した頃を知って。」と叫んでいる、そんな気迫を感じる。「少しずつ学んでいくからね。」そう応えるしかなかった。


(壮観 縄文土器)


(棚の中から出てきた?縄文土器)


(棚の中から出てきた?縄文土器)

 土器たちの横には粘土を採掘している模型が展示してある。説明には「No.248遺跡で、縄文時代中期に粘土を採掘した大規模な土坑群が発見されました。地表から3メートルも掘り下げてようやく粘土層に到達し、手が届く範囲の粘土を採掘しています。縄文人がこれほど苦労してまで粘土を採掘したのは、壊れにくい縄文土器を作るための、質の良い粘土を求めたからでしょう。」と書かれている。


(粘土を求めて)

 館内を見てまわってから、併設されている遺跡庭園「縄文の村」へ。[草創期][早期]【前期】【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の前期から中期にかけての「多摩ニュータウンNo.57遺跡」に盛土をし、トチノキ・クルミ・クリをはじめ50種類以上の樹木やゼンマイ・ワラビ等を植栽して当時の多摩丘陵の景観が復元されている。


(縄文の村入口)


(縄文の村案内板)


(多摩ニュータウンNo.57遺跡の説明)


(縄文の村)

 村には、住居が3棟復元されている。入ってすぐにあるのは、関東地方を中心に縄文時代中期末(約4500年前)に流行した、住居の床に平らな石を敷きつめる「敷石住宅」。No.57遺跡でも3棟発見されているが、復元されているのは八王子市堀之内のNo.796遺跡から移築したもの。面積は約7㎡。


(敷石住宅。煙が出ていた。)

 この日は火焚きも行われていた。中はそれほど広くは無い。煙がもうもうとしてそんなに長くは居れない。外に出ると気持ちがいい。縄文の人たちは火を焚いて、長い時間住居の中で過ごしたのだろうか。外で生活した時間の方が長かったのではなかろうか。住居の中で火を焚くのは、他の動物たちが入って来ない効果があったのではないかと感じる。寝る時に火を焚いていると安心して寝れたのではなかろうか。


(敷石住宅入口)


(敷石住宅内部。石が敷いてある。)


(煙もうもう)

 前期の竪穴住宅(約6500年前)は、発掘当時の位置に復元されている。面積は約30㎡。「中央に火を焚いた炉があり、外敵の侵入を防ぐため入口は狭くなっています。家の中には4~5人が住んでいたようです。」との説明が書いてある。


(前期の竪穴住宅)


(竪穴住宅の内部)


(竪穴住宅の内部)

 3つ目は中期の竪穴住宅(約5000年前)。楕円形で面積は約15㎡でその頃の標準的な大きさ。「縄文の村」の直ぐそばに鉄塔が建っているがその東側で発見された住居をモデルに復元されている。


(中期の竪穴住宅)


(竪穴住宅の内部)

 縄文時代から使われていたのではないかと考えられている「湧水」の場所もある。昭和の後期まで湧き出ていたが周辺の開発で水は枯れている。すぐそばには線路があって、時折、電車が通過する音が聞こえる。


(湧水の場所)

 縄文時代前期から中期にかけての代表的な形の住居と当時の景観の雰囲気を感じながら見てまわった。センター内の体験コーナーには縄文服の着用も出来たが、その服を着て「縄文の村」を散策したらもっと楽しかっただろうと思う。

 「縄文の村」から歩いて5分の多摩センター駅へ。昨日、京王線で来たので、今日は小田急線に乗る。代々木上原駅で東京メトロ千代田線に乗換えて3つ目の表参道駅へ。駅から歩いて10分弱。「岡本太郎記念館」へ行く。

 見てまわると、岡本太郎に「ようこそ」と、来館を歓迎してくれているような感じがする作品と空間が拡がる。「縄文を楽しませてもらっています。」と感謝の気持ちを伝えて退館をする。(縄文に学ぶ-8))


(岡本太郎記念館)


(岡本太郎記念館で)


(岡本太郎記念館で)

 表参道駅に戻って、東京メトロ銀座線で新橋に向かう。

「縄文展(東京国立博物館)」へ行った。【縄文を学ぶ-8】

2018-08-14 | 縄文を学ぶ
2018年7月25日(水)

 朝から上野の森へ行くも、蒸し暑い。東京国立博物館近くのベンチでコンビニのお握りの朝食。しばらく木陰で休んでから、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」の開場を待つ列に並ぶ。通りかかる外人さんも何ごとかと看板を除いて行く。なかには、展示を見るために並ぶ外人さんもいる。


(東京国立博物館前の看板)


(入口付近の立て看板)

 9時半前に会場の「平成館」に係りの人の誘導で移動。杏さんの案内(音声ガイド)で、「縄文の美」「縄文の造形」に焦点を当てた展示を見てまわる。

 写真で見たことがあるような土器や土偶が次から次へと目の前に現われる。大胆な隆起、繊細な線などで紋様が作られている。「縄文土器」は煮炊き料理に使われたという。特に中期の土器は、これでもかこれでもかという隆起や文様がある。縄文の人たちは、煮炊きの実用には向かないような土器を作り続けた。それも、時代が進むごとに実用性とかけ離れて行くような紋様の土器が出現している。現代の私たちには理解できない「衝き動かす」何かがあったのだろう。

 縄文時代の前、旧石器時代の人々は、獲物をとったり、捌いたりする道具を、石を削って作った。出来上がりは素材に影響される。土器は、粘土から創造したものを作る。いろんな形、文様をつけて行く「創造する楽しさ」もあっただろうと思う。

 煮炊きしている間、食べている間、土器の文様を皆で眺めながら、「物語」が語られたのではなかろうか。今日一日の出来事もあったろう。ムラの歴史や先祖のことが語られたこともあったろう。視覚に訴えると「物語」の効果も高まる。「物語」には満天の星も登場するであろう。暗闇に沈む森とその中で生きる動物たち、ムラの廻りに拡がる山野草や木の実も登場するだろう。「物語」が語られみんなが共有することで、家族の一体感、ムラの一体感、地域の一体感が作られていく。そんなこともあったのではなかろうか。

 男の人が作ったのだろうか、女の人がつくったのだろうか。時代によっても、地域によっても違うかもしれない。一人で作ることもあったろうし、複数で作ることもあったろう。オーダーする人と作る人が別なこともあったろう。地面に棒で、「こんなのを作って欲しい。」と依頼すると、オーダーする人の思い以上の土器ができ上がったりする。

 いろんなことを思いながら見てまわる。

 土偶をこんなにいろいろ見ることも初めてのことだ。土偶は女性を形にしたもので、安産や子孫繁栄、豊穣を願って作られてといわれている。

 土偶も時代や地域によって変化する。現代、「土偶」という分野が作られているけど、当時の人たちは、同じようなものとして意識していたのだろうかと思ったりする。土偶の世界も奥が深そうだ。これまで土器に関心を持って見てきたが、これからは土偶の世界も学んでいこう。

 展示の中で、最も印象に残ったのは、土器では「微隆起線文土器」。最初に見たということもあるが、約一万二千年前に、集中して細かい線を描いている姿が目の前に浮かんでくる。鼓動も聞こえそうだ。

 土偶では「縄文の女神」。立ち姿に惚れ惚れする。モデルがいたのだろうか。ムラでシャーマンのような特別な存在の人だったのだろうか、それとも単にムラ一番の美人だといわれていた人だろうか。国宝に対して不謹慎だが「隣のムラに美しい人がいてね。その人をイメージして作ったんだよ。」と製作者の声が聞こえてきそうな気がする。

 縄文土器や土偶は長い間、土の中に眠っていた。私たちの目に触れるようになっても、元の姿には復元できないものの方が圧倒的に多い。ここに展示されているものは元の姿のまま出土したものや、元の姿に復元され、現代の人たちが「美」を感じるエリートたちの集り。2時間弱、1万数千年前から2千数百年前までの作品を作成している人の集中した姿が目に浮かんでは次の作品へと。写真で見るのとはとは違う、縄文の人たちの気迫に圧倒されながら見てまわった。異次元の世界に浸った。


(岡本太郎が撮影した東京国立博物館所蔵の縄文中期の土器)

 展示会場の出口のところに写真撮影可の作品が並べられている。縄文時代の土器や土偶が「美」として認められるようになったのは、1952(昭和27)年発行の「みづゑ」誌で、岡本太郎が縄文土器の「美」を評価したことに始まる。
 岡本太郎は、「荒々しい不協和音がうなりをたてるような形態、紋様。そのすさまじさに圧倒される。はげしく追いかぶさり、重なりあって、突きあげ、下降し、旋回する隆線紋(粘土を紐のようにして土器の外がわにはりつけ、紋様をえがいたもの)。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経のするどさ。」(岡本太郎「日本の伝統『縄文土器』」より)など縄文土器への強い思いを語っている。
 三点は岡本太郎が写真に収めた縄文中期の土器。「とくに爛熟したこの文化の中期の美観のすさまじさは、息がつまるようです。」(同上)と語る。


(図録と土偶パペットタオル)

 縄文時代の出土品が国宝に初めて指定されたのは1995(平成7)年。長野県茅野市棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」で、現在は6件指定されている。「縄文展」では6件すべてを見ることが出来る。私が鑑賞した7月25日は2件が未到着だった。

 「縄文展」は平成館2階で開催されているが、1階の「日本の考古」という常設展示も縄文時代を中心に見てまわった。東洋館地下1階のミュージアムシアターで上映されている「DOGU美のはじまり」を鑑賞。土偶の学びをはじめる。


(東洋館地下1階のミュージアムシアターの案内)

 東京国立博物館を出て、お隣の国立科学博物館へ。常設展示は65歳以上無料。常設展2F「日本人と自然」のコーナーに「巧みに生きる縄文人」という展示があり、縄文時代が概観できる。骨に関する展示が興味深かった。「早・前期の人骨は全体的に華奢であるが、中・後・晩期になるとがっしりと筋骨たくましくなる。」と説明されていた。入江貝塚で説明にあった、「ポリオにかかった人骨」のレプリカも展示してある。(縄文を学ぶ-4)


(国立科学博物館近くの野口英世の胴像)


(国立科学博物館内の展示)

 上野の森には何度か来たけど、「西郷さん」に初めて会いに行った。西郷隆盛が亡くなったのは明治10年9月。モースが大森貝塚を初めて発掘したのも明治10年9月のことで、その報告書の翻訳から「縄文土器」の名がついた。(縄文を学ぶ-6)


(上野の西郷さん)

 上野の森を後にして、新宿へ。新宿から京王線で多摩ニュータウン駅へ。今日の宿泊は多摩ニュータウン駅前のホテル。新宿から多摩ニュータウン駅へは京王線と小田急線の2つの路線がある。京王線で行くことにしたが、空いている席に素早く座る術を持たない田舎の年寄りは、縄文展の図録で重くなったリュックを背負い立ったまま多摩ニュータウン駅へ。疲れた一日をビールが癒してくれた。

参考文献
 図録『特別展 縄文―1万年の美の鼓動』(2018年)
 岡本太郎著『縄文土器』(「日本の伝統」光文社知恵の森文庫、2010年第6刷)
    昭和27年2月『みづゑ』で発表された。書籍『日本の伝統』は昭和31年に刊行されている。

 「微隆起線文土器」(青森県六ケ所村表舘遺跡・縄文時代草創期約12,000年前)の写真は 「六ヶ所村立郷土館」のホームページで見れます。
 「土偶縄文の女神」(山形県舟形町西ノ前遺跡・縄文時代中期 約4,500年前)の写真は「山形県舟形町ホームページ」で見れます。

「中里貝塚(飛鳥山博物館)」へ行った。【縄文を学ぶ-7】

2018-08-08 | 縄文を学ぶ
2018年7月24日(火)

 大森駅から電車に乗って王子駅で下りる。駅から階段を上った飛鳥山公園の広場には、「D51」の機関車、「都電」の電車も保存されていた。下の段にある水場からは子供たちの歓声が聞こえてくる。


(飛鳥山公園への階段)


(飛鳥山公園の「D51」)


(飛鳥山公園の「都電」)

 D51のすぐそばに3階建ての「北区飛鳥山博物館」がある。1階が北区の歴史や自然、文化を紹介する常設展示場で、1階のみ有料で65歳以上は150円。無料ではなかった。


(北区飛鳥山博物館)

 「縄文人のくらし」のコーナーに、北区の縄文時代遺跡の出土品が展示してあり、縄文時代の環境、人びとの生活の様子がわかるように説明されている。


(「縄文人のくらし」のコーナー)


(北区で出土した縄文前期の土器)


(北区で出土した縄文中期の土器)


(北区で出土した縄文後期の土器)


(北区で出土した石器)

 土器や石器が展示してあるなかで、「中里貝塚階層剥ぎ取り標本」が直ぐ目に入る。


(中里貝塚階層剥ぎ取り標本)

 中里貝塚(東京都北区上中里2丁目)は、[草創期][早期][前期]【中期】[後期][晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約4,600年~3,900年前)の貝塚。

 貝塚の規模は、長さ500m前後、幅100m以上の範囲に広がっていると考えられている。厚さも最大で4.5mもあり、これまで訪ねてきた貝塚と比べると、とても大きい。

 最も違うのは、生活臭が無いことだろう。

 貝塚には、貝、魚や動物の骨、土器、石器そしてお墓もあった。近くには住居跡がある。

 中里貝塚から出土したのは、ほとんどが、カキとハマグリで、土器、石器などの道具類、魚や動物の骨類などはほとんど出土していない。住居跡も無い。人々が生活した痕跡が見えない。

 出土した貝も、粒ぞろいの大型のものが揃っている。貝塚から発見された「木枠付き土坑」から、焼いた石を敷き、その上に貝を置き、水をかけ草木などでフタをして蒸気で蒸し上げる「蒸し焼き」や水を張ったところに焼いた石を投げ入れて沸騰させ、ゆであげる「ゆであげ」で貝をむき身にしていたと考えられている。


(中里貝塚のパネル説明)

 人が生活した痕跡が無く、大量の貝の加工を専門に行っていた中里貝塚は「水産加工場」ともいわれる。

 中里貝塚付近には同時期の遺跡や貝塚が存在している。それらのムラが、ここで貝を採集・加工して、それを交易品として内陸部のムラに供給していたのだと考えられている。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 縄文時代の生活の様子は想像するしかない。学問的には想像するにもそれなりの根拠がいるだろうが、素人は根拠なしでも想像できるのがいい。以下、根拠のない想像です。

 中里貝塚には、ある時期になると、海辺のいくつかのムラからも、内陸部のいくつかのムラからも人々が集まってきた。

 それぞれのムラは、集まる時期の目印を決めていた。あるムラでは〇〇の花の咲く頃、別な村では△△の芽の出る頃、また海辺の村では□□の魚の群れが現われる頃など。その時期なると中里貝塚へ行く準備をし、出かけて行く。海辺のムラからは舟に乗って来る人たちもいる。

 ムラムラから集まった中里貝塚では、ムラ単位で、あるいは、いくつかのムラの人たちが共同で、貝を拾い、「蒸し焼き」や「ゆであげ」していく。小さな貝を拾ったら、「海に戻しなさい。」と注意される。「これだけの大きさの貝だけにしなさい。」と見本を示したりもする。

 海辺のムラが日々経験すること、内陸部のムラが日々経験することは違うものも多い。作業しながらも、また休息のひと時にも、それぞれのムラでの体験が楽しく語られる。中には自慢話も出てくる。「このまえ獲ったイノシシはこんなに大きかったよ。」、他のムラの人「ええ、そんなに。」、自慢した男の妻「あんた、それは大げさだよ。これくらいでもっと小さかったよ。」などと。

 経験を伝えようと話す工夫も楽しい。経験したことのない話を聞きながら、想像を巡らすのも楽しい。

 違うムラの人たちと話をすると言葉が通じないこともある。手振り身振りで話すうちに、新しい言葉も生まれる。「もっと、きれいな縄文語にしなさい。」と説教する人はいなかっただろうな。

 ムラムラから人が集まると、集団お見合いの場にもなる。中には世話焼きお婆さんもいて、貝のことはそっちのけにして、あのムラの青年とこのムラ娘、こっちのムラの青年と別なムラノの娘を、と世話して廻る。カップルが出来ると皆でお祝いをする。

 何日か過ごすと、「もう、必要なだけ採ったから。」と三々五々ムラへ帰っていく。「楽しかったよ、〇〇の花の咲く頃また来るね。」「楽しかったね。△△の芽の出る頃また来るね。」と。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 縄文の展示は続く。北区の遺跡の出土品の展示、縄文時代の気候や生活を説明してある。東谷戸遺跡からバラバラの状態で発掘された土偶は、ほぼ完全な形に復原され展示されている。


(東谷戸遺跡から出土した土偶)

 1983(昭和58)年、東北新幹線上野乗り入れ工事に伴って、中里貝塚に隣接する中里遺跡(縄文時代中期から後期)の発掘調査が行われ、縄文時代中期初頭(約4,700年前)の丸木舟が出土した。全長は約5.8m、最大幅約70cm、最大の深さ約40cmの大きさで、ニレ科ムクノキの一木を最も厚い舟底で5cmになるまで、石斧を使って削って作ってある。展示室の真ん中にデンと構えている。大きい。魚を獲るための舟だろうか。あるいはどこかへ何かを積んで出かけたのだろうか。何人かの人たちが協力して作っている姿がうかんでくる。


(中里遺跡から出土した丸木舟)

 縄文時代の展示を見終えて、さあ、「中里貝塚」まで行こう。博物館の外はむし暑い。土地勘のないところを歩くには不安があるけどスマホのナビをたよりに歩いた。上中里駅までは狭い道をナビの導くまま。上中里駅からはほぼ一直線。曲がるべき角には何らかの目印があるだろうと、ナビを見ずに歩くが、「中里貝塚」への目印は無い。と、「上中里つつじ荘」の案内があった。ここかなと思って曲がったら、すぐに公園があって「史跡中里貝塚」の標柱が建っていた。


(中里貝塚のパンフレット)


(国指定史跡中里貝塚)

 道を挟んで、小さい公園が2つある。公園には「上中里2丁目広場」と名付けられているようだ。「中里貝塚」の説明板も立てられている。公園付近の現在の地図に中里貝塚が占める図があれば、貝塚の巨大さをもっとリアルに実感できたのでは、と思った。


(中里貝塚の説明)

 「中里貝塚」を後にして、尾久車両センターをちょっとだけ覗いて、田端駅へと歩く。


(尾久車両センター)

 田端ふれあい橋から線路を眺めるが、多くの電車が行きかうのには会わなかった。


(田端ふれあい橋から)

 田端駅から山手線で上野駅へ。上野駅構内で飲んだハイボールが疲れを吹き飛ばしてくれる。今日は上野駅前に泊まる。

 上野駅を眺めていると、集団就職列車を思いだす。集団就職で九州から東京に行く列車の終着駅は東京駅だが、集団就職といえば歌も映像も上野駅が流れていた。

 55年程前になる。中学校を卒業し集団就職列車で東京へ向かうクラスメイトをクラスの仲間たちと駅まで見送りに行った。駅のホームは同じ列車に乗る集団就職の中学生を見送る家族、友人たちで大混雑している。今から考えると、みんなよく連絡取り合い集まって見送ったと思う。まだ、家庭に電話があるところが珍しい時代で、もちろん携帯電話などなかった。その友とは数年間は連絡が取れていたが、今はどうしているかわからない。この東京の空のもとで元気に暮らしているのだろうか。

 集団就職が始まったのが、高度経済成長の始まりでもあった。コンピューターが出現し、やがて個人個人がパソコンを使うようになる。今、電話とコンピューターが一体となったスマートフォンが手元にある。家族や仲間とすぐにでも連絡を取り合うことが出来る。

 暮れ行く上野の森を眺めながら、縄文1万年に比べればたかだか数十年だが、これまでの変化をしみじみと感じながらビールを飲む。


(上野駅)

「大森貝塚(品川歴史館)」へ行った。【縄文を学ぶ-6】

2018-07-29 | 縄文を学ぶ
2018年7月24日(火)

 「大森貝塚は、東京横浜間の帝国鉄道の西側に位置し、東京から6マイル弱の距離にある。それは、東京行きの汽車が大森駅を発してすぐ車窓から見える。」(「大森貝塚」岩波文庫)

 1877 (明治10) 年6月17日、横浜港に入港したモースは翌々日、横浜から東京へと向かう汽車に乗り大森停車場を過ぎたころ、線路脇に貝殻が散らばっているのを車窓から発見した。

 東京で、モースは東京大学の動物学の教授に招請され、条件面を詰めて引き受ける。9月16日、モースは他の教授や学生たちと大森貝塚を初めて訪れ、最初の発掘をおこなった。

 明治10年は、国内最後の内戦、西南戦争が勃発した年。2月に薩摩の西郷軍と政府軍の戦闘が熊本城を中心に始まり、熊本、宮崎、鹿児島を中心に激しい戦いがあった。9月24日に鹿児島の城山で西郷隆盛が亡くなり、両軍合わせて13,000名余の死者をだして終焉を迎えた。その頃のことである。

 モース自身は3回の発掘を行った。大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、2年後に東京大学理学部紀要の第1巻第1号にその成果が発表された。

 この報告書の中で土器につけられた縄目模様を「cord marked pottery」と書かれ、幾つかの訳の中から「縄紋」が定着し、後に「縄文」と書かれるようになる。「縄文時代」という名は、大森貝塚から発掘された土器が由来となっている。

 私は、浜松町駅から電車に乗り大森駅で下りた。車窓から、ここが大森貝塚という場所はわからなかった。ホームには「日本考古学発祥の地」碑が建っている。


(大森駅「日本考古学発祥の地」碑)

 大森駅から歩いて3分程。NTTデータ大森山王ビル(大田区山王1丁目)の脇に、「史跡大森貝塚」という案内板がある。ビル敷地内の横道を通って、線路脇に出ると「大森貝墟」の石碑がある。


(NTTデータ大森山王ビル)


(「大森貝墟」の石碑)

 大森貝塚発掘100年を記念した碑もあり、「モース博士と大森貝塚」と書かれた説明には以下のことが書かれている。
 「アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877)6月横浜から新橋へ向う車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。
 モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績をのこしました。また独立心と独創性をもち、たえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。
 このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます。
                  1977年10月 東京都大森貝塚保存会 日本電信電話公社」

 大森貝墟の碑からさらに3分程歩くと「大森貝塚遺跡庭園」(品川区大井6丁目)に着く。品川区はモースが縁で、生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市と姉妹都市提携を結んでいる。提携を記念して、昭和60年に開園した。
 
 大森貝塚遺跡庭園には、縄文の広場、貝塚展示ブース、貝塚学習広場、モース広場などが設けられている。


(大森貝塚遺跡庭園)


(大森貝塚を学べる)


(大森貝塚を学べる)


(貝塚の展示。実際位置より上に設置してある。貝とかは出土したもの)


(縄文の広場)


(モースの銅像)


(遺跡庭園からJR京浜東北線の列車)

 遺跡庭園の線路際には、「大森貝塚」の石碑が建っている。大森貝塚には2つの石碑が別々な場所に建てられている。「?」の解答は「品川歴史館」にあった。


(「大森貝塚」の石碑)

 「品川歴史館」には、大森貝塚の碑から3分程歩いて着いた。


(品川歴史館)

 70歳以上は観覧料無料と書いてあったので、「区民が無料ですか?」と聞いたら、区民以外も対象ですとのこと。障害者も無料。小中学生は品川区立に通う生徒は無料のようだ。

 1Fは品川宿の宿並復元模型など品川の歴史が展示してある。モースのコーナーが2Fに設けているので階段を上る。

 「?」の解答は、モースの発掘から40年程後、記念碑の建設が計画されるようになったが、発掘に携わった人たちもその場所がどこかわからなくなっていて、「貝塚」碑は1929年(昭和4年)に、「貝墟」碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。その後、公文書の発見、それぞれの碑付近の発掘調査などから「大森貝塚遺跡庭園」の地点が「大森貝塚」の場所とされている。

 大森貝塚は、[草創期][早期][前期][中期]【後期】[晩期]と区分されている縄文時代の後期から晩期(約3,000年~2,500年前)の遺跡。

 モースコーナーには、当時発掘された土器の複製品が展示されている。1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などのため発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかり、それらの一部も展示されている。


(品川歴史館モースコーナー)


(品川歴史館モースコーナー)


(大森貝塚の説明)


(大森貝塚の説明)


(大森貝塚付近の模型)


(発掘された土器)


(発掘された土器)


(発掘された動物の骨)


(品川歴史館で買った絵葉書。発掘当時のスケッチ。)

 庭も散策し、大森貝塚を学んで、大森駅へ引きかえした。「日本考古学発祥の地」碑に再び会う。


(品川歴史館庭から)

 モースは、大森貝塚の発掘が先を越されないかいつも心配していた。そのライバルが幕末に長崎で西洋医学を教えたシーボルトの次男、ハイリッヒ・F・シーボルトであった。

 そのシーボルトが、著書「考古説略」の中で「考古学」という言葉を初めて使用したという。

 大森駅から次の目的地へ向かう。

[参考本]
 加藤緑著「日本考古学の原点・大森貝塚(シリーズ遺跡を学ぶ)」新泉社、2006年 第1版第1刷
 モース著、近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚(岩波文庫)」岩波書店、2015年第9刷
 山田康弘著「つくられた縄文時代(新潮選書)」新潮社、2015年