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12月14日(月)
2日間の癖が治らず、朝早く目が覚める。まだ夜明け前で暗い。早朝の散歩とホテルから出ると少し雨が降っていた。傘を取りに戻り、海岸へ向かって歩く。波上宮(なみのうえぐう)の横に出たら並木道があった。昔はここらあたりが海岸であったろう。海岸へ出ようと思ったが海岸沿いには自動車学校などがあって出られそうにないので引き返して波上宮にお参りすることに。
(波上宮と護国寺)
(波上宮横の並木)
(波上宮横の並木)
拝殿で海に向かってお参りする。宗像大社も宮地嶽神社も海には背中を向け参拝する。御由緒には「創始不詳なれども、往古この南西諸島に住んだ我々の祖先が、海の彼方に神の国の存在を信じ、日々この神に祈る拝所(御願所)としてこの波の上の岸端に祭りを営んだのに始まる。」とあった。航路安全守護神であるがもともとは海の彼方の神に祈っていたのだ。
(波上宮)
(波上宮)
(波上宮)
(波上宮)
(朝焼け雲)
(海岸)
御祭神はイザナミノミコトが主祭神と記されているがこのことに関しては「当宮御鎮座伝説に、昔、南風原村崎山の里主が海岸で霊石を得、熊野神より国家鎮護の神託を受け、王朝に奏して社殿を祀った」とある。いつごろから大和の神が祭られたのだろうか。
波上宮の隣には波上山三光院護国寺(はじょうざんさんこういんごこくじ)が建っている。高野山真言宗のお寺である。石碑には「頼重上人薩摩国坊之津一乗院より来琉開山」「1368年琉球国王察度鎮護国家の勅願寺として創建」と記してある。1368年は足利義満が室町幕府第3代将軍に就いた年で、中国では明が成立した年にあたる。
(護国寺)
(護国寺)
沖縄は稲作文化の弥生土器時代や古墳が造営された時代がない、稲作文化が定着するのは12世紀前後、平安時代の頃からである。その後、城砦や拝所などのグスクが登場しグスク時代と呼ばれる時代になる。グスクを支配するものが按司である。按司の中から強力な按司が生まれ、今帰仁グスクを拠点とした北山、浦添グスクを拠点とした中山、島尻大里グスク南山の三山時代となる。三山うちの中山を支配したのが察度で明国からの要請に応じて冊封(さくほう)を関係となる。
波上宮のホームページには「人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ」とあり、護国寺のホームページには「武寧王より最後の尚泰王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に参詣し、当寺本堂に於いて君臣の縁結びの盃を取り交わしたとされています。」とある。波上宮、護国寺それぞれの役割があったようだ。
波上宮と護国寺の入り口に立つと、お隣さんというよりは一体としてあるように感じられる。神仏習合の形をそのままのこしているのではなかろうか。
護国寺の境内なのか隣りの旭ヶ丘公園内なのかわからないようなところに、1871(明治4)年に宮古島の船が遭難して台湾に漂着した際、原住民によって殺害された乗組員54人を弔う「台湾遭害者之墓」がある。この事件を口実に明治政府は1874年に台湾に出兵し、中国との交渉で沖縄を日本領土として認めさせる。この間、1872年には琉球王国を琉球藩とし、琉球王を琉球藩主とする。1875年には琉球藩に清国との冊封関係を断つことを通告する。1879年には首里城の明け渡しと廃藩置県の布告で、沖縄県となった。琉球王国が琉球藩となり沖縄県となる一連を琉球処分といわれている。
(台湾遭害者之墓)
波上宮・護国寺のお隣り旭ヶ丘公園には「子桜の塔」がある。子桜の塔は「昭和19年8月22日夜半学童疎開船対馬丸は米潜水艦の魚雷攻撃を受けて悪石島沖で轟沈しいたいけな学童と付き添いの人1484人の尊い生命がひと時に奪われてしまいましたこれらのみたまを弔い慰め世界の恒久平和を念ずるために多くの人々の善意で小桜の塔は建立されました」。その対馬丸事件を後世に伝えるため公園の一角に対馬丸記念館が建てられている。まだ開館時間前だったため中の見学は出来なかったのは残念だった。
(子桜の塔)
(戦没新聞人の碑)
(対馬丸記念館)
公園内には「海鳴りの像」もあった。戦時中、沖縄県民が乗船して撃沈された船舶は26隻になるという。対馬丸を除く25隻の船舶で犠牲になった1927人の霊を祀ってある。
(海鳴りの像)
ホテルへの帰り道、松山公園に寄った。大きな公園のようであるが道路側を少しだけ見学した。公園内に「沖縄県立第二高等女学校跡 白梅の乙女たち」の像が建っている。沖縄戦では女学校や師範学校の女子学生が野戦病院などに動員され、多くの若き命が犠牲となった。第二高等女学校は動員された46名の生徒のうち22名が戦死した。学校は戦争の激化で自然廃校となる。戦後校章の白梅から「白梅学徒隊」などと呼ばれるようになった。
(孔子廟)
(若狭町大通り跡)
(松山公園)
(松山公園)
(白梅の乙女たち像)
(松山公園)
コンビニでパンを買って、8時頃にホテルに帰り朝食。
朝食後、チェックアウトして沖縄都市モノレール県庁前駅へ。
1日乗車券700円を購入。よく見ると「購入後24時間有効です。」と書いてある。「1日乗車券」というよりは「24時間乗車券」と名称変更した方が話題にもなるし、使い勝手も良くなる。昨日、那覇に着いたのは15時30分過ぎていた。今日は14時頃には那覇空港に着きたいと思っている。昨日1日乗車券を買って、今日も使えたのだ。もっとも昨日はモノレールに乗る予定はなく必要はなかったが。
(1日乗車券)
(モノレール)
(モノレール)
駅構内のコインロッカーにスーツケースを預けて首里駅へ向かう。首里駅に着いてから歩いて首里城へ。9時30分ころ着いたが修学旅行や団体の大勢の人だ、東アジアの人も多い。
(久慶門)
(園比屋武御嶽石門)
(歓会門)
(漏刻門)
首里城は、南山、中山、北山と支配が分かれていたのを第一尚氏の時代に武力統一し、王が住まい政治を行うグスクなった。第一尚氏の時代は1406年~1469年までのわずか64年で幕を閉じたが、それは第7代尚徳がクーデターによって殺害されたことによる。当時対外交易長官だった金丸が王位に即位し、明国に対して政権の継続性を主張するため尚円と名乗った。第二尚氏3代目尚真王の時代(1477年~1526年)、按司の首里集居、神女組織の確立などで中央集権を確立し、王国の基盤強化が図られた。第二尚氏時代は1470年(応仁の乱が1467年である。)から明治政府廃藩置県の1879年まで続くことになる。
首里城に来たのは2回目だが中を見学することにする。見学は南殿から入ることになっている。琉球王の肖像画が展示してあるが第二尚氏時代のものしかない。第一尚氏時代のものはない。漆塗りがふんだんに使われていることも知る。玉座の上の「中山世土(ちゅうざんせいど」の扁額は清の第4代皇帝康熙帝が贈ったものを復元している。
(正殿)
(2階御差床)
(正殿と南殿)
(教会門と久慶門)
正殿を出て、北殿の中に入ると首里城の全体図があった。正殿裏の美福門付近に「佐敷殿」が記されている。行きたい、と思ったが正殿の裏は入れなかった。
守礼門の写真を撮って円鑑池の方へまわる。途中第32軍司令部壕がある。12月11日放送のNHKBS「こころ旅」のオープニングで火野正平がお手紙を読んだ場所円鑑池に出る(今日、12月21日ビデオで放送を見て知ったのだが。)。弁財天堂の写真を撮って首里城を後にする。
(守礼の門)
(第32軍司令部壕)
(円鑑池。ここで火野正平はお手紙読んでいた。)
(弁財天堂)
(弁財天堂)
(円覚寺総門)
首里城を出たところには県立芸術大のキャンパスがあり、「沖縄県師範学校付属小学校跡碑」が建っている。沖縄以外の師範学校は戦後それぞれの地域の大学の教育学部や教育大学になり付属小学校はそれぞれの付属小学校として続いている。沖縄県はアメリカの統治下に置かれたので日本の学校制度を離れ、後続校を持たずに廃校となっている。校舎も戦争で失った。
(沖縄県師範学校付属小学校跡碑)
首里駅からモノレールに乗り、牧志駅で降りる。向かった先は「牧志第一公設市場」。沖縄の魚やお肉を見てまわって、まだお腹は空いていない時間だったが2階の食堂へ。お店はいくつもある。どこに入るか迷うけどとりあえず一軒のお店に座る。メニューを見て、ビールと「へちまの味噌煮定食」750円を注文する。これは美味しかった。というか今回の沖縄の旅では一番美味しかった。
(モノレールから)
(モノレールから)
(牧志第一公設市場)
(牧志第一公設市場)
(牧志第一公設市場)
(牧志第一公設市場)
(へちまの味噌煮定食)
(牧志第一公設市場)
市場を出て、国際通りにある「那覇市伝統工芸館」へ入る。琉球びんがた、首里織、琉球漆器、壺屋焼、琉球ガラスが展示してある。芸術的なことは私には分からないが、それぞれの作品に力強さを感じる。素晴らしいものを見せてもらったと思う。ここではそれぞれの体験教室もある。即売所で壺屋焼のビアカップを買う。
(那覇市伝統工芸館入居ビル)
(那覇大綱引き祭りの縄)
国際通りは素通りして、空港へ向かうべく牧志駅からスーツケースを預けてある県庁前駅へ。駅へ近づくと駅横のショッピングビルにLIBROの看板がある。本屋がある、とビルの7階へ。1日目に寄った本屋さんには置いてなかった本を探す。あったあった。「谷川健一・折口信夫著『琉球王国の源流』かじゅまるブックス3、榕樹書林」税別900円。民俗学者折口信夫はこの本の中で南北朝の時代(1336年~1392年)熊本の八代から水俣方面にかけてに居を構えた南朝方の名和一族に関係するものが琉球に渡ったのではないか推測をされている。八代から水俣の間には「佐敷」がある。第一尚氏創始の思紹・巴志親子は沖縄の「佐敷」から挙兵し、中山王を破り、北山、南山を滅ぼし統一王国を樹立した。折口信夫の説を補強しているのが水俣出身の谷川健一である。第一尚氏の部隊が南北朝時代に数々の戦を経験した人々であるならば、琉球の地で戦っても強かっただろうと思う。この本の存在を知って沖縄で手に入れたいと思っていたが、1日目の本屋に無くて諦めていた。それが最後に実現するとは。
県庁前駅に戻り、スーツケースをコインロッカーから取り出し、那覇空港へ。
(モノレール車内で)
4日間の沖縄の旅も終わった。最も印象に残ったのは1日目沖縄県立博物館へ行った時のことである。博物館は基本的に時代区分にしたがって展示がされている。その区分の仕方にそれぞれの博物館というかその地域の特色がある。展示の大きな項目として、(前の方は略する)「貝塚のムラから琉球王国へ」、「王国の繫栄」、「薩摩の琉球支配と王国」、「王国の滅亡」、「沖縄の近代」(これより後の方は略する)、とあって、「王国の繫栄」と「王国の滅亡」の間に「薩摩の琉球支配と王国」と書かれた展示の垂れ幕があった。「王国の繫栄」「王国の滅亡」という順であれば特に感じないが、「薩摩の琉球支配と王国」と書かれた幕は意外感があって最も大きな印象に残った。
薩摩軍の琉球侵攻は1609年春、徳川家康が江戸幕府を開いた6年後である。3千の軍が琉球に侵攻する。軍事力の差は大きく首里城は占拠され、琉球王国は奄美諸島を薩摩に割譲したほか、多額の納税義務を負うことになる。納税の負担を強いられるのは庶民である。その後の庶民の生活は一変したであろうことは容易に想像できる。薩摩は徳川家康の許可を得て侵攻した。琉球王国と徳川幕府は徳川将軍が代わるたびに「慶賀使」を、琉球国王が代わるたびに「謝恩使」を琉球から将軍のもとに派遣する関係が続くことになる。明治維新後は中国・日本とのこれまでの関係を維持しながら、独自の王国を存続する意思を主張したが叶わず、琉球処分による沖縄県が誕生した。
このブログは今回の旅で興味を持ったことを後から調べて書いたものが多い。それもまた旅の楽しみであると思う。
沖縄の歴史についてはあまり知らなかった。通史みたいな本も少ない。旅とその後で知ったことも少しのことでしかない。新たな疑問も生まれてくる。
沖縄を語るには沖縄の歴史を知らなくてはいけないと感じている。