鉄卓のブログ「きままに」

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熊本城マラソン「城下町4キロ」を走った【熊本の話題】

2016-02-26 | 熊本の話題
2016年2月21日(日)

 熊本城マラソン1、2回目は申し込み先着順で参加できたが、3回目からは抽選になって、この2年間は抽選に外れ3年ぶりに3回目の参加となった。


(スタート地点通町筋電停)

 「城下町4キロ」は、通町筋電停をスタートし、上通りアーケードを北へ走り、広町に出て左折して、坪井川沿いに出て南へ。市役所から左折し通町筋電停へ戻り、今度は下通りアーケードを南へ走って右折し、新市街アーケードへ。電車通りへ出たところで右折し、電車通りを北へ。みずほ銀行のところで左折して御幸坂へ。御幸坂を上ったら熊本城宇土櫓、加藤神社を左に見て、監物台樹木園に出たところで左折し、まっすぐ走って二の丸広場ゴールへ。


(上通りアーケード入口・別途撮影)


(下通りアーケード・別途撮影)


(新市街アーケード・別途撮影)


(御幸坂・別途撮影)


(熊本城宇土櫓・別途撮影)


(ゴールはフルマラソンと同じ地点)


 フルマラソンのスタートが終わって、4キロ参加者1511名がスタート。前2回はスタートが前の方で、上通りアーケードを入ってすぐに後ろから追い立てられるように走った。今回は後ろの方からで、上通りアーケードに入っても走るというより歩くという感じでスタート。長崎書店を過ぎたあたりからようやく走り出した。その後は自分のペースでゆっくりと走る。
熊本市の繁華街は、上通り、下通り、新市街と三つのアーケード街が中心となっている。アーケードの長さ、広さ、高さは日本でも有数である。そのアーケード街を走り抜けるマラソンコースも珍しいのではなかろうか。
いつもは歩くだけのアーケードを駆け抜け、御幸坂を立ち止まることなく上ると宇土櫓の勇壮な姿が目に飛び込んでくる。休まず上れたとホットして、ゴールへ。ゴール後は、熊本市の水道水、パン、バナナ、お菓子をいただく。

 手荷物を受けとり、着替えを済ませて、金栗記念熊日30キロロードレースのゴール地点、鶴屋デパート前へ移動。大勢の人がゴールする選手を待ち構えている。少し隙間があるところに入ろうとしたら、「割りこんだらダメ」と叱られる。何歩か歩いたら、また少し空いているところがあって、そこでは気持ちよく入れて貰えた。感謝感謝。
 しばらくしたら、トップの選手の姿が。先に場所を取っていた人が写真撮るのに邪魔にならないようにとシャッターを押す。譲ってくれた人も撮れたようで安心した。しばらくゴールしてくる選手を撮って、今度はフルマラソンを撮るべく移動。


(30キロロードレースのゴール前)

 新町の「おく村」のあたりがフルマラソンの41キロ地点。そこに着いた時間には応援の人はほとんどいなかった。しばらく腰を下ろして待つことにした。30分程待っただろうか、先導者に続いてトップの選手が来た、と思ったら、1、2位の選手がデッドヒート。大会5回目で初めて競り合いの優勝争い。頑張れ頑張れ、二人揃ってゴールへ駈け込め、と心で叫びながらシャッターを押す。


(40キロ付近の優勝争い)

 何人かの選手を撮って、直ぐ傍の子ども文化会館の方へ移動。ここはいつも熱の入った応援の人たちが多い。新町の獅子舞も応援している。長く応援していたかったけど、疲れたのとお腹が空いたので、引き上げることにした。


(獅子舞も応援)


(フルマラソン41キロ付近の坂を上る選手)

 30キロロードレースは箱根でも活躍した東洋大学出身コニカミノルタの設楽啓太選手が優勝。フルマラソンは杉枝真二(人吉下球磨消防組合)が優勝。共に初優勝だった。

 金栗記念熊日30キロは今年で60回目を迎え、マラソンの登竜門としてこれまで多くのオリンピックや世界陸上のマラソンの選手を生み出してきた。藤田敦史、川内優輝、古くは寺沢徹、君原健二、などなど。設楽啓太選手もオリンピックをめざし、活躍して欲しいと思う。


(梅も見ごろになって応援)

「浮かぶ高崎山」に会う【JR九州暘谷駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-4】

2016-02-18 | JR九州ウォーキング
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2016年2月13日(土)

ウォーキングMAP(PDF)

 大分県日出町暘谷(ようこく)駅へ、九州新幹線博多駅で乗換て小倉経由のソニックで杵築駅へ。普通列車に乗り換え4つ目でようやく到着。雨の中、コンパクトデジカメをポケットに入れ、10時20分頃スタート。


(暘谷駅)

 瀧廉太郎の墓がある龍泉寺へ。瀧家は江戸時代、日出藩の家老職もつとめた家柄で、龍泉寺が菩提寺。廉太郎は大分市内で亡くなり、市内の万寿寺に葬られていたがこちらへ移されたようだ。


(龍泉寺)


(龍泉寺)

 龍泉寺の隣、日出藩主木下家の廟所がある松屋寺に行く。松屋寺の前身は西明寺で、慶長7年日出藩主木下延俊が祖母にあたる朝日局(秀吉の奥方北政所の母)の菩提を弔う為、寺を修堂し之を禅寺に改め朝日局の法名から「康徳山松屋寺」と改称している。寺の本堂前には国の天然記念物、日本一の大蘇鉄がでんと坐っている。樹齢は約700年といわれ、高さ6.1m、株元の周囲6.4mには圧倒される。宝物殿には、涅槃図や秀吉から延俊に贈られた虎の頭骨や古い仏像などが展示してある。雪舟が造ったといわれる庭もあった。入場料300円いったが敷地も広く見応えのあるお寺だ。天気が良ければもう少しゆっくり見てまわりたいお寺だ。


(松屋寺)


(松屋寺)


(松屋寺)


(松屋寺)


(松屋寺)

 松屋寺を後にし歩いていると、別府湾が見えた。「うおー。」100キロウォークで感動して眺めた光景だ。約90キロ地点。「別府だ、別府だ、もうすぐゴールだ。」と思ったが、これからの10キロがきつい。ここからの1キロ1キロがこれまでの1キロの数倍もあるような気がして歩いた。今は、その感動ときつさと辛さが甦り、懐かしく歩く。


(道沿いで)


(別府湾)

 高崎山は雲に浮かんでいる。こんな姿を見れるなんて、雨の日はるばる来たかいいがあった。カメラがいつも持って歩くのではなくコンパクトデジカメなのは残念だが、雨空に感謝。傘をさしてうきうきして歩く。


(高崎山)


(日出の海岸)


(100Kウォークのゴールは約126キロ地点)

 海岸へ下りて日出の町へ岸を歩く。日出城址の石垣が見えたところに「人柱祠」があった。城の正南端より木棺が発掘され、棺の中には老武士の遺骨があって、築城当時の人柱であろうと推定されている。そこに祠が建てられている。


(海岸沿いを歩く)


(高崎山)


(日出の海岸)


(城下鰈供養塔)


(人柱祠)


(高崎山)

 城の階段を上って行った。一番上は小学校の校庭の端に出た。遠目につり鐘が見える。元禄8年(1695)に三代藩主木下俊長が鋳造させた釣鐘で、明治7年(1874)、外大手門より現在地に移され、元禄の時鐘として有名らしい。


(日出城址)


(日出小学校、釣鐘は小さく映っている)


(日出城址から)

 日出港から蓮華寺、若宮八幡宮、的山荘と廻る。的山荘には皇族の方々が植えられた木があった。その的山荘の道向かいに瀧家の屋敷跡。


(日出港)


(蓮華寺)


(若宮八幡宮)


(若宮八幡宮より海)


(的山荘)


(的山荘)


(瀧家の屋敷跡)

 日出町役場から物産館にもなっている二の丸館へ。海岸からは城の裏手だったが日出城、別名暘谷城址の表に。瀧廉太郎、帆足萬里の像がある。帆足萬里は江戸後期に三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われ、日出藩の藩校の教授、日出藩家老を務めた人。


(お店の窓に)


(二の丸館)


(瀧廉太郎像)


(帆足萬里像)


(暘谷城址碑)


(日出小学校門)


(日出小学校門)

 藩校致道館はお城の直ぐ横にあった。2階もあって天井は低かった。2階は生徒が寝泊まりする部屋だという。


(致道館)


(致道館2階)


(致道館より)

 後はゴールへ向かうのみだが、お腹も空いた。「ひじカレー」の幟が目につくが、日出に来たからには「城下カレイ」だよな、と思いつつ歩いていたら、城下カレイの看板が。迷わずお店「能良玄家」に入る。城下カレイは、日出城下の真清水の湧く海域で獲れるマコガレイ。メニューを見るとちょっと高いお値段だが折角なので注文する。コースでは1番安い「城下かれいミニセット」3,500円+税。刺身、煮付、唐揚が一品一品出てきた。最後は吸物・香の物・御飯。ビールも飲んで、これまでのJRウォーキングで最高の贅沢な昼食だなぁ。


(能良玄家)


(城下カレイ)


(城下カレイ)


(城下カレイ)

 13時55分頃、帰りの予定の時間に間に合ってゴール。


(お店の窓に)


(西教寺)


(陸橋より)

 暘谷駅から別府駅へ。駅でビールを買って九州横断特急で阿蘇を経由し熊本へと、北部九州をぐるりと一周する鉄旅の一日でもあった。


(暘谷駅)


(別府駅で)


(阿蘇山)

「五庄屋」に会う【JR九州筑後吉井駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-3】

2016-02-14 | JR九州ウォーキング
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 2016年2月11日(休)

 コース地図(PDF)

 博多駅で娘、孫娘と待ち合わせ。二人は初めてのJR九州ウォーキング参加。鹿児島本線久留米駅で久大線に乗換て筑後吉井駅へ。11時前にスタート。今日は三世代で歩く。


(筑後吉井駅)
 
 吉井の町は「筑後吉井伝統的建造物群保存地区」として「伝統的建造物は街道沿いに建つ町屋や土蔵を主体として、川沿いの屋敷地内に建つ主屋や土蔵・付属屋、要所に建つ社寺建築、川沿いの石積護岸や石段及び石橋等の石造物で構成されている。保存地区では、これら約250件の伝統的建造物と屋敷庭園及び川沿いの樹木について、保存の処置が取られている。」(うきは市ホームページより)


(蔵しっく通り)

 2月11日から4月3日まで、「おひなさまめぐり」が開催されている。今年で24回目を迎える。蔵しっく通りから白壁通りへと、お店に飾ってあるお雛様を見てまわる。日本一大きいお雛様、組木のお雛様、「おきあげ」、「箱雛」など豪華だったり特徴があったり、違うお雛様を飾ってある。


(ショーウインドーのお雛様)


(日本一大きいお雛様)


(??お雛様)


(ガラス窓にもお雛様)


(組み木お雛様)


(おきあげ)


(雛飾り)


(梅迺家醸造場)


(水路)


(階段にも雛飾り)


(ステンドグラスお雛様)

 家では豪華な雛飾りは出来ないので、娘と孫娘はそれぞれのお雛様を楽しそうに嬉しそうに見ている。

 観光会館「土蔵」についた時、おせんべいのプレゼントは早々と終わっていた。


(白壁の家)


(土蔵)


(箱雛)


(土蔵の裏で)


(水路)

 明治末期に建てられ、大正初期に改築された「居蔵の館」ではお雛様の他に獅子のお面がいっぱい飾ってある。


(居蔵の館)


(居蔵の館)

 「祇園さま」の名前で親しまれている「素盞嗚(すさのお)神社」にお参り。元は東光寺といっていたが明治初期に現在の社名になったようだ。境内には巨石に直接彫られた恵比須様も。


(素盞嗚神社)


(恵比須様)

 幕末から明治初期に建てられた「鏡田屋敷」へ。2階にも上がってお雛様を見てまわる。孫は部屋がいくつもあって迷路のような部屋を行ったり来たりするのも楽しいようだ。子供はいろんなことを面白がる。


(通りで)


(鏡田屋敷)


(鏡田屋敷)


(鏡田屋敷)

 「おひなさまめぐり」もここまで、これからは子供にとっては退屈な行程になる。お腹も空いてくる。孫は「ひた屋ふく富」で「一つだけ買っていいよ。」といって買ったお菓子を食べながら歩く。


(通りで)


(水路)


(?)

 「若宮神社」に着く。仁平3年(1153)に源為朝が鎌倉市にある鶴岡八幡宮を分霊し、創建されたと伝えられている。神社の右手(東側)には日岡古墳、左手(西側)には月岡古墳がある。2つの古墳の間に神社があるので、この場所には創建時よりも古くから何らかの祠があったのではなかろうか、そんな思いがする。


(若宮神社)


(若宮神社)


(若宮神社)

 日岡古墳、月岡古墳の他に近くには塚堂古墳があるようだ。3基とも前方後円墳で、古墳時代中期から後期にかけてこの辺りを統治した首長の墓と考えられている。
 西暦では400年~600年位のころになるが、西暦527年、翌528年にかけて筑紫君磐井の乱が日本書紀に記されている。大和王権と筑紫地方の豪族との戦は528年筑紫国御井郡で最終決戦となり、大和王権の勝利で終結した。筑後吉井駅に下車する4つ前に御井駅があて通過してきた。この辺りを統治した首長も磐井とともに戦い、このあたりでも戦があったかも知れない。敗れた磐井の墓はお隣、八女市にある岩戸山古墳とされている。


(月岡古墳)

 暫くは退屈な道が続く。孫と母親はしりとり遊びをしながら歩いている。


(村田英雄生誕地碑)


(通りで)


(猫によく会った)


(通りで)


(通りで)


(通りで)

 長野水神社に着いたところで、ぜんざいのおふるまいがあった。孫は喜んで食べ、もう一杯欲しかったようだ。


(ぜんざいのおふるまい)

 神社の祭神には5人の庄屋の名前が書いてあった。5人の庄屋は、江戸時代の干ばつを経験し、筑後川の水を田畑に引くことを計画した。藩にお伺いを立てたが反対され、命を懸けることでようやく許可を得、私費で工事を行い、筑後川からの水路を開き、実り豊かな地域となっていった。その5人の庄屋の功績に感謝を捧げる神社である。


(長野水神社)


(長野水神社)


(長野水神社)

 これまで歩いてきた道には水路が張り巡らされていたが、この五庄屋の功績だった。

 道を急ぎ「いそのさわ蔵開き」会場へ。新酒コップ一杯200円。娘は「一杯は飲めない、少しでいい。」ということだったので、「余ったら飲むから。」といって二杯買って一杯を渡して飲んでいたら、「美味しい。」と言って飲んでしまった。
 孫は無料の綿菓子に並んで、嬉しそうに食べている。子供はいつもは食べる時には手を洗いなさいと小言を言われ、手洗いをしてから食べなければならない。今も、母親は「手も洗わないで。」と叱っていたが、お構いなしに食べている。この開放感も含めて美味しいのだと思う。小言を言われても満面の笑みで食べている顔を見ると、嬉しくなる。連れてきて良かった。


(春はもうすぐ)


(いそのさわ蔵開き会場)


(いそのさわ蔵開き会場)

 後の時間も気になるので、ゴールのイベント「うきはマルシェ」会場へ。スタンプ9個貯まっていたのでクロちゃんバッチに交換して孫に渡した。阿蘇駅のクロちゃんの舎にも入って遊んだこともあるので嬉しそうだ。
会場から近くのうきは駅へ行き、14時27分の臨時列車で帰路。久留米駅で乗換、博多駅へ。「また行こうね。」と約束し別れる。ビールを買って新幹線で熊本駅へ。


(うきはマルシェ)


(うきは駅)


(うきは駅)


(久留米駅で「ゆふいんの森号」)

 娘は自宅へ帰ってから疲れ果てたようだが、孫は元気だった、と後からメールが来た。

「彦一どん」に会う【JR九州新八代駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-2】

2016-02-09 | JR九州ウォーキング
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2016年2月7日(日)

 木下順二の戯曲に『彦市ばなし』がある。


(木下順二の本)
 
 彦市は天狗の子をだましてかくれ蓑を手に入れる。天狗の子は泣きながら親天狗に言いつけると帰っていく。
親天狗が来たら怖いと心配になった彦市の前に天狗が。
 天狗は、毎晩、城から出て庶民の暮らしを歩いて見てまわっている殿様だった。今日は仮面を被って現われたのだ。彦市は親天狗と思いびっくりするが、殿様とわかり一安心。
 殿様から何をしているか聞かれて、カッパを釣っているがえさのクジラ肉が無いから釣れないとうそを言う。次の日、殿様はクジラ肉を持って現れた・・・・・。
 彦市、天狗、カッパ、殿様がからみあって物語は続く。 戯曲なので台詞しかも熊本弁で。
 八代の昔話「彦一話」の物語が組み合わされて「彦市ばなし」は構成されている。


(家を出るころ)

 さて、今日はその八代のウォーキング。新八代駅を9時頃にスタート。新八代駅の西側に出るのは初めて。
 歩き始めると公民館、学校の名前に「太田郷」という地名が目につく。古い地名だろうなと思い歩いていたら、小学校の校庭に「明治7年創立」の碑があった。


(新八代駅西口)


(新八代駅)


(鹿児島本線)


(太田郷小学校)


(太田郷小学校)

 日本製紙工場を通り、緑の回廊線へ。八代駅から工場への引き込み線跡で自転車歩行者専用道路になっている。「くまもと景観賞」も受賞している。


(日本製紙工場)


(緑の回廊線)


(緑の回廊線)


(緑の回廊線から)


(緑の回廊線で)

 途中で少し寄り道。コースを外れて出町の光徳寺へ。
 彦一のモデルは実在しこのお寺の檀家であったともいわれており、境内には八代民話会が昭和26年に建立した「彦一塚」がある。
 この「彦一塚建立趣意書」がいい。
 『出町の彦一、その生日、命日をしらず。
  さり乍ら八代の民話は彦一話をいでず
  傳ふらく彦一は奇才縦横頓智自在
  狐狸をたぶらかし天狗を友とし、庶民
  等しく之を親愛しその朝夕の話題に供し
  天智を明朗にす。
  自来八代の名物は不知火の如く彦一の
  歴史も溟濛の間に迷う野上のガワッパ
  高島狐、一切は五里霧中に在りて
  不可思議の舞台に活躍す
  日月は矢の如く已に彦一を見す 龍ヶ峰の
  天狗はその衰号慟哭を〇〇に□して吊ふ。
  彦一は現代日本民話の総元締めにしてその
  名已に高し。
  八代民話会は出町の光徳寺にその石碑
  を建立して市民と後人に贈る。
            昭和二十六年十月
             八代民話同人会』
 民話・昔話は庶民が創り、語り、変化もし、発展もしながら伝えられてきた。
 気持ちが伝わってくる。
 〇〇は「松籟」とも思うけど解らない。□は手偏に宅でタ。その他も間違いがあるかもしれない。


(光徳寺)


(彦一塚)


(彦一塚建立趣意書)

 緑の回廊線に戻って松浜軒へ着くところでまたコースを離脱。
 八代城北側、松井神社の臥龍梅を見に行く。この臥龍梅は細川忠興が植えたと伝えられている。まだ梅の花は咲いていない。残念だが戻って松浜軒へ。


(光徳寺すぐそばで)


(緑の回廊線)


(緑の回廊線で)


(緑の回廊線で)


(松井神社の臥龍梅)


(松浜軒)

 松浜軒は元禄元年(1688)に八代城主松井直之が母崇芳院尼のために建てた御茶屋。江戸時代始め一国一城令がだされたが、肥後細川藩は八代城を持ち一国二城体制を維持した。対薩摩の思惑があったのだろう。


(松浜軒)


(松浜軒)


(松浜軒)


(松浜軒)

 八代市立博物館未来の森ミュージアムで買い物をし、澤井家長屋門から本町アーケードを通り、アーケードから川沿いへ出る。
 暑くもなく寒くもなく、心地よい風に当たりながら歩く。空の雲にも和む。
 前川の白鷺橋を渡ったところで絵を描いている人がいた。川と雲を描いておられた。川沿いに出て真っ先に私の印象に残ったのは雲だった。描かれているのは今日の雲とは違う雲だったが、河口付近で雲もいろんな変化を起こす。川と雲の光景が絵心を刺激する場所なんだろう。


(未来の森ミュージアム)


(本町アーケード街)


(本町アーケード街)


(前川沿い)


(前川沿い)


(白鷺橋から)


(この方角を描かれていた)

 球磨川の夕葉橋を渡り、川沿いに歩き、TOMATOフェスタ会場の八代球磨川河川緑地へ。5月ゴールデンウィーク翌週ここは九州国際スリーデーマーチのメイン会場になる。昨年1日目40Kを歩いて疲れて果ててゴールした時の事を思い出しながら会場に入る。


(夕葉橋から)


(夕葉橋から)


(球磨川沿い)


(球磨川沿い)

 トマトを買ったり、ショーを見たりして楽しむ。ゆるキャラも沢山いる。ゆるキャラの頭を脱いで歩いていた人がいたけど写真出すのは止めよう。食事は八代飯店が出している「トマピーエン」。タイピーエンのトマト味で、うーんトマト、という感じの汁が美味しかった。


(TOMATOフェスタ会場)


(TOMATOフェスタ会場)


(TOMATOフェスタ会場)


(TOMATOフェスタ会場)


(TOMATOフェスタ会場)


(TOMATOフェスタ会場)


(TOMATOフェスタ会場)


(トマピーエン)

 会場を後にし、新萩原橋を渡ってゴールの八代駅をめざす。


(TOMATOフェスタ会場)


(右側前川、左川球磨川)

 駅近くの彦一本舗に寄って「とんち彦一もなか」とコーヒー。


(彦一本舗で)


(八代駅)

 ゴールして駅のコンビニでサッポロビール。
 13時46分の列車で帰路。車内で一人乾杯。


(八代駅)


(八代駅)

 熊本駅前の市立図書館で「夕鶴・彦市ばなし」を借りる。たまたまこの図書館には偕成社文庫の児童書しかなかった。大人用には岩波文庫、新潮社文庫も出ている。
 借りた本には夕鶴、彦市ばなしの他に三年寝太郎なども編集されている。中学1年生の時「三年寝太郎」、2年生の時「夕鶴」を文化祭で上演した。3年生の時は文化祭が計画されなかった。私は裏方だったが懐かしい。遅くまで練習していて親が心配して来たこと、台本の読み合わせをまかされて終わった後、先生に報告に行っていた時のことなど思い出す。ラーメンを初めて食べたのは、練習の時先生からご馳走になった時だった。

 ウォーキングを楽しみに出かけ、中学時代を懐かしみ帰宅した。
 彦一どんに感謝。

*「どん」・・・殿、様の意味。