鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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熊本城の長塀が復旧、そして桜【熊本の話題】

2021-03-23 | 熊本城
2021年3月22日(月)

5年前、2016年4月の熊本地震で一部倒壊した熊本城の長塀(国指定重要文化財)の復旧工事が今年1月末に完了した。

そして、初めての桜の季節。



長塀は全長242メートル高さ約2メートル木造本瓦葺の土塀。
上部は白漆喰仕上げ、下部は下見板張りの重厚で堅固な構造をなしている。



前を流れるのは坪井川。
熊本城の内堀の役割を果たしている。
坪井川の対岸沿いも桜並木。



遠くに見えるのは花岡山の仏舎利塔。



長塀と桜。









長塀から二の丸広場へと。

未申櫓。



戌亥櫓。



大天守と小天守。



宇土櫓。
宇土櫓は解体復旧されることが決まっている。この姿が見れるのもあと少し。




そして、戻る。

「また、きてはいよ」と清正公さん。



2017年の春には、復旧工事のため、長塀がすべて取り払われていました。
その時、2017年4月の桜。
今では貴重な写真かと思います。
こちらも見ていただければ幸いです。

長塀が無い熊本城の桜【熊本の話題】(2017年4月9日投稿)

県庁へ、ルフィ像へ、図書館では学び【熊本城から歩く-3】

2020-11-11 | 熊本城
2020年11月8日(日)

熊本城から歩く3回目はルフィ像が建っている「熊本県庁」へ行こう。

お城は江戸時代の「県庁」。スタートはお城の二の丸広場。



二の丸広場の秋。



城彩苑の銀杏も色づいてきた。



お城からすぐ。旧交通センターの「サクラマチクマモト」へ。
「県庁」は、昭和25(1945)年から昭和42(1967)年までこの地に建っていて、現在地に移転したのち交通センターになった。
交通センターは、令和元(2019)年に桜町バスターミナルに変わって、建物も近代的になり「サクラマチクマモト」と呼ぶ。





「サクラマチクマモト」の4階テラスへ。





眼下に見える「花畑公園」は工事中。
花畑公園から長塀にかけては藩主の邸宅「花畑屋敷」があった。



「サクラマチクマモト」を出て、工事中の花畑公園を横目に長塀へと行く。

清正公さんも秋に包まれて。



4年前の熊本地震で損傷した長塀の復旧は近そうだ。



この日は「まち・はなパビリオン」という催しがあっていて、熊本市の街中は花でいっぱい。

長塀の通りも花の展示で華やかだ。長塀の復旧を祝うかのように飾ってある。





熊本市役所に出る。



上通を歩いて、肥後銀行のところで右折。白川公園へ。
「県庁」は白川公園に建っていた時期があると聞いている。





白川公園の紅葉を眺めながら、上通りの蜂楽饅頭をいただく。「黒一つ白一つ」と言って買った。



白川沿いを歩いて。



白川に架かる「明午橋」を渡る。



新屋敷を流れる大井出川を渡る。



中央消防署の信号を渡って、すぐに右へ。またすぐに左へ行くと、「徳富記念園」がある。
徳富蘇峰、蘆花兄弟が幼少時代を過ごした徳富旧邸は、熊本地震で損傷を受け、修復工事中。



信号のところに戻って右折。堂免公園へ。



公園の紅葉を眺めながら行徳パンで買ったパンでお昼。



公園から東へ。熊本学園大学の正門入り口へ。大学の銀杏並木は紅葉が始まったころ。
コロナ対策のため校内は関係者以外は立ち入り禁止になっている。



熊本学園大学産業資料館。明治27(1894)年に建てられた熊本紡績の赤レンガ工場の一部を熊本駅近くから移転してある。



学園大学14号館の海老原喜之助の壁画「蝶」。



学園大学から南へ歩く。隣は、熊本県立劇場。現在、改修工事中。



豊肥線の踏切を渡る。左に水前寺駅。



右に新水前寺駅。両駅間は踏切から目視で見えるが、両駅とも特急の停車駅。線路の上を歩けば1kmは無いのではないか?



さらに、まっすぐ歩いていくと、電車通りに出る。出たところにバス停がある。停留所の名は「国府」。



少し離れた電停の名も「国府」。



電車通りの横断歩道を渡ったところの住居表示も「国府」。



この辺りは、律令制が始まったころ、今でいえば「県庁」にあたる「国府」が置かれていた。
熊本大学、熊本学園大学の構内を通って国府までほぼ一直線に太宰府からの官道が通っていたようだ。

肥後国の国府は2回移転している。
最初は、ここ熊本市中央区国府、次に熊本市南区城南町陣内、3番目が熊本市西区二本木に置かれていた、という説。
城南町陣内が最初で、国府に移り、二本木に移ったという説があるようだ。

水前寺公園前の電停があるところの信号を右折。熊野座神社がある。



境内に大きな石が置いてある。七重の塔の心礎。
国府の東には、国分寺と国分尼寺が建てられた。この礎石は国分寺の七重の塔の心柱のもの。元位置より移動したとみられている。



最初の信号を左折して歩く。江津湖へと清流が流れている川を渡る。



そこには、「熊本県立図書館 くまもと文学・歴史館」がある。
くまもと文学・歴史館の企画展「絵図が語るくまもと」は見学済みなので今日は入らない。



熊本県立図書館3階の郷土コーナーへ。



図書館の係の方に「熊本県庁の移り変わりを知りたい」と伝え、資料を探してもらう。
資料を調べて分かったこと。少し長くなる。

[明治2(1869)年6月] 
 版籍奉還
 肥後藩は熊本藩となり、藩庁は花畑邸に。花畑邸とは花畑屋敷のことであろう。
[明治4(1871)年7月] 
 廃藩置県
 旧熊本藩は熊本県となる。花畑邸の藩庁は熊本県庁に。
 旧人吉藩は人吉県。
 天草郡は長崎県に。
[明治4(1871)年10月]
 県庁は花畑邸から二の丸へ移転。
[明治4(1871)年11月]
 熊本県は熊本県と八代県に分けられる。
 人吉と天草は八代県に併合。
[明治5(1872)年6月]
 県庁は二の丸から飽田郡二本木村に移転。
 熊本県は白川県と名称変更。県庁が白川沿いに移ったためと思われる。
[明治6(1873)年1月]
 八代県が白川県に併合。
 この時に、ほぼ現在の熊本県の同じ領域になる。
[明治8(1875)年11月]
 白川県庁が熊本城内古城の古城病院跡に移転。
[明治9(1876)年2月]
 白川県が熊本県に再び呼称変更。
[明治20(1887)年1月]
 熊本県庁が南千反畑町に移転(現在の白川公園の地)。
[昭和20(1945)年7月]
 戦災で焼失
 熊本市公会堂を仮庁舎
[昭和25(1950)年4月]
 桜町に新庁舎完成。
[昭和42(1967)年3月]
 水前寺に移転する。
 桜町の跡地は交通センター(現桜町バスセンター)となる。
だいたい、このような変遷があったようだ。

参考にした資料は主に
『熊本県史 近代編第一』昭和36年3月31日発行
『新熊本市史 通史編第5巻近代Ⅰ』平成13年3月30日発行
その他数冊がある。
(メモしましたが間違いがあればすみません)  

係の方には大変親切にしてもらった。
調べたいことがあったら、図書館へ行って聞いてみよう。

最初の「県庁」は、「サクラマチクマモト」の4階から見た「花畑屋敷」にあった。
「県庁」は白川公園にあったのではなく、「県庁」の跡地が白川公園になっている。
「白川県」となったのは二本木に移転した時で、白川沿いにあったことなどかららしい。
二本木から引っ越した時には「熊本県」に戻っている。
今の白川公園の地も白川沿いだが、そこに「県庁」を建てた時は「熊本県」という呼称が定着していたのだろう。
などなど調べながら思った。
県立図書館を後にする。

県立図書館の隣は「熊本市体育館・青年会館」。ここの前庭は大きな木でおおわれている。
秋は紅葉、春は新緑が楽しめる。好きな場所だ。
円形に8つのベンチが置かれていて、季節や時間で日当たりのいいベンチ、日差しを和らげるベンチを選んで坐る。





砂津小学校の信号を渡り、県庁へ。
銀杏並木は色づき始め。



熊本県は、漫画『ONE PIECE』と連携し『ONE PIECE 熊本復興プロジェクト』を立ち上げている。



尾田栄一郎氏には熊本県民栄誉賞が贈られ、受賞を記念して県庁プロムナードに平成30(2018)年11月に「ルフィ像」が設置された。
プロジェクトとして、この後、熊本地震で被害が大きかった8市町村に、麦わらの一味の仲間の像を設置が進められている。
ウォーキングで行った場所では、阿蘇駅前に「ウソップ像」が設置されていた。



ルフィ像のまわりには若者たちが大勢来ている。年寄は早々に退散しよう。
今日の「歩く」はここまで。

立田自然公園へ【熊本城から歩く-2】

2020-10-16 | 熊本城
2020年10月11日(日)

熊本城から歩く2回目は細川家の菩提寺泰勝寺(たいしょうじ)跡「立田自然公園」へ行こう。

スタートは二の丸広場。



二の丸御門跡から百間石垣のところを通り、「新堀橋」を渡る。





新堀橋際にあるお地蔵さん。子供のころは橋からの自殺者の新聞報道が時々あった。



新堀橋からまっすぐ行って、すぐに右へ。信号を直進。「観音坂」を下る。
観音坂は急な坂で、子供のころは舗装はしてなく、石がごろごろしている坂だった。
この坂でもよく転んだ。
坂の上下途中に観音様はいない。昔はあったのだろう。



坂を下りて、少し寄り道しよう。右へ曲がる。すぐに左へ曲がり、中央高校(旧中央女子高)と壺溪塾の間の道へ。

「佐々友房生誕の地」の説明板がある。佐々友房は1854(安政元)年生まれ。西南戦争で薩摩軍に加わった。



何歩か歩くと、中央高校の敷地のところに「横井小楠生誕地と清正公井」の説明板がある。
横井小楠は1809(文化6)年生まれ。勝海舟、坂本龍馬など幕末に活躍した人たちに影響を与えた思想家。明治新政府に参与として招かれた。
清正公井は小楠が産湯を使ったと思われる井戸。その時代下級武士の家で使われていたと井戸の形式で復元されている。



通りへ出て左折すると、宮部鼎蔵邸跡の碑がある。
宮部鼎蔵は1820(文政3)年、現在の御船町生まれ。藩の兵法指南役の頃の住居跡。勤王等の重鎮で吉田松陰も訪ねてきている。



宮部鼎蔵邸跡碑に行く前に、通りへ出て右折。夏目漱石旧居跡へ行ってみた。熊本地震で損傷した建物の修復工事中であった。



夏目漱石旧居跡を背に宮部鼎蔵邸跡碑からまっすぐ進んで行くと壷川小学校が見える。右へ曲がる。壷川小学校は熊本市内で最も古い小学校の一つ。
幼稚園の運動会があっている。



熊本城長塀前を流れる坪井川に架かる橋を渡る。



まっすぐ歩いて、突き当りを左へ、すぐに右へと曲がる。バスもそのように進むが、広い道ではないので運転手さんは大変である。
熊本電鉄の踏切を渡る。



浄行寺の交差点をまっすぐに進み、子飼の商店街を横目に、子飼交差点もまっすぐに進むと熊本大学に着く。

赤門は旧制五高時代の正門で国指定重要文化財。



赤門を入って直ぐの右手に、熊本大学永青文庫研究センターがある。永青文庫から寄託された文書類を研究する機関。



五高記念館は、熊本地震で損傷を受け、修復作業中。
五高記念館は、1887(明治20)年に開校した第五高等中学校の校舎として、1889(明治22)年に建てらる。
第五高等中学校は、1894(明治27)年に高等学校令により第五高等学校に改称、1950(昭和25)年に閉校、熊本大学となる。

五高記念館は、国の重要文化財に指定され、記念館として五高の歴史の展示や、昔の教室で市民向けの講座などが開かれている。
講座に何回か参加したことがある。それらも、熊本地震で中止になっている。



上の写真の中門の近くにはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のレリーフが建てられている。
小泉八雲は1891(明治24)年~1894(明治27)年、英語の教師であった。
当時は講道館の創始者・加納治五郎が第3代の校長を務めている。



夏目漱石像の建っているところはわかりにくい。
熊大に行くたびにキョロキョロするが見当たらない。
何度目かに学生さんに聞いた。
「あちらに、座っています。」と教えてもらった。
小泉八雲のレリーフよりも東の方、そこは何度か通ったことのある通路の横だった。
通路と銅像の間には植え込みがあり、座像なので目立つこともなく、わからなかった。
左手で頭をなでてもらうと頭がよくなるそうだ。



夏目漱石は1896(明治29)年~1903(明治36)年まで、五高の英語の教師だった。
1897(明治30)年、第10回開校記念日に教員総代として読んだ祝辞の一節「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ、師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」が碑に刻まれている。



漱石の五高を詠んだ俳句の中から「秋はふみ 吾に天下の 志」の句碑もある。
漱石の俳句は約2400句あるそうでそのうち約1000句は熊本で詠んでいるといわれている。
熊本では、小説家漱石ではなく俳人漱石だった。



夏目漱石旧居から熊大まで来た道は、漱石も通勤に利用しただろうな、などと思いながら、熊大の中を東北の方の出入り口に抜けて、立田山の方へ向かう。

道沿いに「引導石」がある。
宮本武蔵は1645(正保2)年に62歳で生涯を閉じるまでの5年間を熊本で過ごした。泰勝寺の二代目春山和尚が、石の上に置かれた棺に成仏するよう引導を渡すと、にわかに雷鳴が鳴り渡ったと伝えられている。



歩きながら、先に「立田山」に登るか、「立田自然公園」へ行くか、決めかねていたら「森の展示館」の案内板がある。
ここに寄ってみよう。



国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所森林総合研究所とは、「我が国の森林の多面的機能の高度発揮、林業の成長産業化の推進、次世代に向けた森林の充実と持続に貢献する」研究を行っている機関のようだ。

こじんまりとした展示館であるが、九州の森林の様子を知ることができる。



入ってすぐに迫力ある屋久杉が。



立田山の大半はこの研究所が管轄し、研究林になっているようだ。研究所からも立田山に登るルートがある。知らなかった。
山の案内図も用意してある。



立田山に登るのが先になった。











豊国台公園へ。



ここは、国指定天然記念物「立田山ヤエクチナシ」の自生地として指定されている。



公園の一角に、加藤清正が1599(慶長4)年豊国大明神宮(豊臣秀吉の霊)を祀った豊国廟跡がある。廟は徳川家の圧迫によりとり壊されている。
 


頂上へ向かう。学びながら山の散策ができる。



頂上の周囲は木が生い茂り、展望は開けていない。





下りは豊国台公園の横を通り、配水池の方へ。
立田山には登った記憶はあまりない。
3年前、行橋~別府100キロウォークに参加するため、坂の上り下りのトレーニングで登った。このとき久しぶりに登った。
下りは、100キロウォークの難所七曲峠の下り坂に少し似ている。
きつかった3年前を思い出しながら下り終える。

立田自然公園へ向かおうとしたら、明治32年生まれ熊本市出身のプロレタリア作家・徳永直の碑が目に入った。
「私たちはもっと労働について語らなければならない。労働のもつ内容は、現在語られている多くの恋愛よりも、インテリゲンチャのある種の悩みよりも、ないしは消費生活の絢爛さよりも、はるかに豊富で、人類を益するものである」と書いてある。

コロナ禍の自粛生活の中で、看護師、保育士、日常生活の品々を運送する人たち、お店のレジ係の人たちなどなどなど、休むことなく働いている人たちに感謝の言葉があふれていた。



ようやく、「立田自然公園(泰勝寺跡)」へ。
泰勝寺は細川家の菩提寺。明治維新の神仏分離で廃寺となった。
今では、自然公園として整備されている。



園内には初代細川藤孝夫妻、二代細川忠興夫妻の墓「四つ御廟」がある。



初代細川藤孝の墓



初代細川藤孝夫人の墓



二代細川忠興の墓



二代細川忠興夫人(ガラシャ夫人)の墓



「四つ御廟」から奥へと進む



と、宮本武蔵供養の塔と伝えられている塔がある。



戻って、10代細川斉茲の墓などを巡り、園内を一周して池を眺めながら休憩。



熊本大学前バス停へ戻り、今日の「歩く」を終える。

芸術の秋巡り―【熊本城から歩く-1】

2020-10-13 | 熊本城
2020年10月9日(金)

熊本城へ行ったら、お城から歩くのも良いと思い、いくつか自分なりにコースを考えて歩くことにしょうと思う。

スタートは二の丸広場。



1回目は芸術の秋巡り。

二の丸広場の西側には熊本県立美術館があり、別棟として「細川コレクション 永青文庫展示室」がある。

永青文庫は、細川家に伝わる美術工芸品や歴史資料等を保存・研究するため、1950(昭和25)年、細川家16代護立氏によって設立された公益財団法人で、東京都文京区目白台にある。江戸時代には細川家の広大な下屋敷があった。細川家の家政所(事務所)として使用されていた昭和初期の建物を改装し、年に数回企画展が催され、所有する作品の数々が特別公開されている。

熊本県立美術館の「細川コレクション 永青文庫展示室」は、2008(平成20)年4月に新設され、永青文庫から熊本県立美術館に寄託されている近世の屏風や近代日本画などはもとより、東京の永青文庫が所蔵する様々な美術工芸品を、熊本にいながらにして鑑賞できるスペースとなっている。

今日は、「新発見!大名・細川家の日々のお道具」展が開催され、江戸から熊本に移り住んだお姫さまが使用した調度、皇室から拝領した盃、お膳やお椀といった飲食器などが展示してある。







永青文庫展示室の休憩スペースからお庭を眺める。



本館2階では、「歴史をこえて 細川家の名宝」展が開催されている。
細川家に伝わる茶道具や趣向を凝らした大名調度、御用絵師による近世絵画とともに横山大観、小林古径はじめ護立氏蒐集の国宝・重要文化財の東洋美術品、近代日本画、宮本武蔵の絵画などが展示されている。

会場に入ってすぐに「細川ミラー」の名で世界に知られている国宝の「金銀錯狩猟文鏡」(中国の戦国時代(前4~前3世紀)の鏡)が期間限定で公開されていた。

県立美術館が昨年度新たに収集した作品から「新収蔵品展 ~新しいくまもとの宝もの~」展も同階で開催されている。



本館1階文化交流室では、「生(き)の芸術 ArtBrut展覧会」(主催:アール・ブリュット(生の芸術)パートナーズ熊本)が開催されている。

アール・ブリュット(ArtBrut)とは、フランスの画家ジャン・デビュッフェが提唱した概念で、正規の美術教育を受けていない人が生み出した、既存の芸術に受けていない絵画や造形のこと(ArtBrut展覧会のチラシより)。

障害のある人たちの自由で創造性あふれる作品が展示されている。
県立美術館では4年目だそうだ。この時期、毎年のようにきている。



美術館には喫茶店もあり、緑に囲まれ、二の丸広場の木々を眺めてテラスで食事やお茶を楽しめる。
今日はパスして二の丸広場を後にする。



石垣が復旧し、置き場から無くなるのはいつのことか。まだまだ遠い先。



監物台樹木園(九州森林管理局)は休園日。



棒庵坂を下る。坂の下、KKRホテル熊本が建っているところに加藤清正の家臣・下津棒庵の屋敷があったことから坂の名がついている。
急な坂で、恐々と下る。小さいときに急な坂ではよく転んだ思い出がある。



KKRホテル熊本沿いに歩くと「熊本県伝統工芸館」がある。道路を挟んだ反対側が熊本城不開門なので、目はそちらに向き見逃されることもあるようだ。

館では伝統工芸品の展示や販売、体験イベントなどが開催される。





企画展は「戸田東蔭茶道具コレクション 茶の湯の道具展」が開催されている。



工芸ショップ匠では熊本県内の伝統工芸品などが販売されている。
私は何年も前に肥後象がんの家紋入りタイピンを作ってもらった。



熊本県伝統工芸館からすぐのところに「熊本県立美術館分館」がある。
残念ながら、老朽化に伴う改修工事のため2020年11月末まで全館休館となっている。

この建物は、私が中学生、高校生の頃は県立図書館だった。当時は熊本市内にはほとんどなかった演劇ホールがあった。
中学の文化祭で演劇部が「夕鶴」を演じた。裏方で参加した。
県立図書館は水前寺に移り、演劇ホールは大江に県立劇場が出来ている。

分館は、貸会場が主で、いつも絵画、書道、写真、生け花などの団体の展示があっている。
毎年、分館での展示を楽しみに制作に励んでいる人も多いと思う。また、鑑賞するのも楽しみだ。今年の秋は残念。





美術館分館の裏一帯は千葉城とよばれている。NHK熊本放送局が建っていたが花畑公園横に移転し、撤去工事があっている。
跡地を「史跡熊本城跡」としてどう利用するか検討がされている。観光資源としての考えと文化財としての考えがあるようだ。



宮本武蔵が住んでいたところでもある。



千葉城橋を渡り、まっすぐ進み右折するとオークス通り。名は大きな楠並木からきている。熊本市内に楠並木はあっちこちあるが、市中心部にこれだけ大きな楠並木は珍しい。



オークス通りから左折すると上通アーケードに出る。長崎書店を右折。上通りアーケードを通る。
アーケードが終わって電車通りに出る左角に「熊本市現代美術館」(びぷれす熊日会館3階)がある。



ギャラリーⅠ・Ⅱでは、「第32回熊本市民美術展 熊本アートパレード」展が開催されている。
15歳以上(中学生は除く)の熊本市在住・在学・在勤者または熊本市出身者なら誰でも無審査で出品することができるアンデパンダン形式の公募展で、「ポスト投函サイズ」であること。折りたたんで広げた作品、立体的な作品など、ユニークな作品も多かった。作者には「ポスト投函サイズ」に工夫をする楽しみがある。それを見てほほ笑む。



ギャラリーⅢの開催は、「コーダ・ヨーコ原画展 どうぶつえんのどうぶつたち」。
コーダ・ヨーコさんは熊本市動植物園のどうぶつ案内看板のイラストを描いた熊本出身・在住のイラストレーター。



愛らしい動物の絵を眺めながら芸術の秋の一日を終える。

歩くだけだと20分ほどの距離だと思うけど、3時間20分ほどかかった。けっこう疲れた。
美術館を出ると、電車・バスがひっきりなしに発着し、大勢の人が行き交う、熊本市で最も賑やかなところだ。
でも、飲みに行くにはまだ早い。帰ろう。

企画展の期日、休館日、入館料などは、それぞれの館のホームページ等でご確認ください。

熊本城の「今」を「特別見学通路」から見に行った【熊本の話題】

2020-06-12 | 熊本城
2020年6月12日(金)

熊本地震で被災した熊本城の「今」が見れる「特別見学通路」が出来、熊本城特別公開第2弾に行ってきました。
ゴールデンウィークから開始の予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のためで中断していました。
6月1日より始まっています。ただし、6月18日までは県内在住者が対象です。

自粛慣れした体は重たいですが、暑い日を避け、梅雨に入り曇り空の今日「よいしょ」と腰を上げました。





城彩苑にある「わくわく座」で自己申告と検温をして入園券を購入します。
ただし、熊本市内65歳以上は無料です。熊本城城主も無料になります。
入園者数に制限を設け、整理券も発行されます。



見学通路です。



数寄屋丸をこの方角から見れるのは見学通路のおかげです。(下の地図で「A」)



熊本城大天守。



大天守の右は本丸御殿。



二様の石垣。(下の地図で「B」)
緩やかな角度が加藤時代、急勾配の石垣が細川時代に築かれたといわれています。



見学通路。



重要文化財の櫓群。(下の地図で「D」)



熊本城には120余の井戸があったと伝えられています。



本丸御殿の下を通ります。



上の図で色が付けられている闇り通路の下から上へと。(下の地図で「E」)



頬当御門側から入ってくる闇り通路。上の図では色が付けられている左側。



通路を抜けると熊本城のシンボル銀杏の木が迎えます。加藤清正お手植えと伝えられ、「銀杏城」の名の由来の木といわれています。
西南戦争で焼けましたが、焼け残った根元から芽が出て今の姿になっています。



銀杏の木と天守閣。



熊本城大天守と小天守。



天守閣前広場を後にし、戻ります。木々の間から市電も見えます。



熊本市の西にそびえる金峰山は雲に隠れています。



櫨方門から入って天守閣へ向かう階段。(下の地図で「C」)
天守閣へ行くときは、この階段を上っていくことが多いので、この光景を見るとショックです。



入園料の案内。



特別見学通路は南ルートですが、土日は北ルートも通れるようです。北ルートは平日は工事用車両の出入り口です。



坪井川と工事中の長塀。上の図の下。



清正公。熊本人は「せいしょこさん」と呼びます。



せいしょこさんは「また、来てはいよ」と言ってます。

皆さま、熊本城の「今」しか見れない状況、「今」しか見れない角度を見にお越しください。

桜満開の熊本城を歩く【熊本の話題】

2019-04-02 | 熊本城
2019年4月2日(火)

桜咲く熊本城を散策しました。

清正公さんは桜の花に包まれても表情は変わりません。
国の重要文化財「長塀」(約240メートル)は復旧工事で足場が組まれました。
まだまだ、崩れた石垣がそのままの所もあります。
安全のため、仮の復旧がされた石垣もあります。
危険だったり、工事のためだったりで通行止めのところもあります。
石垣などの置き場になっているところもあります。
今秋には、大天守・小天守の外観が見学できるように工事が進んでいます。

春の風を感じながら歩きました。

写真1枚1枚に説明は付けませんでしたが、ご覧いただければ幸いです。

























































ご覧いただきありがとうございました。

熊本城の「御衣黄」と「クスノキ」【熊本の話題】

2018-04-09 | 熊本城
2018年4月9日(月)

 ソメイヨシノの花が散り、若葉が繁るころ、広大な熊本城のいたるところで、クスノキの若葉へ衣替えが始まります。
 同じ頃、城内にある熊本市博物館西側の公園では御衣黄の花が咲き乱れます。
 私は、この時期の熊本城が好きです。


(桜の若葉が出るころ、クスノキも衣替え)

 熊本市博物館西側の公園の御衣黄。枝と花は風にゆらゆら揺れて焦点はあっていないと思います。御衣黄さんご容赦を。


(公園は石垣の置き場にもなっていて、真下では鑑賞できない御衣黄もあります。)


(御衣黄)


(御衣黄)


(御衣黄)


(御衣黄)


(御衣黄)


(御衣黄)


(城内にある藤崎台県営野球場の北側になります。)


(石垣が保存されています。)

 藤崎台県営野球場のセンターの後ろには、国指定天然記念物「藤崎台のクスノキ群」があります。
 案内板には、クスノキは7本。樹齢は約1,000年。最大樹高27mあります。

 藤崎台県営野球場が建ったのは小学生の時です。外野観覧席センター後ろはクスノキを保護するために削られています。
 スコアボードもセンターの真後ろには設置されていません。


(藤崎台のクスノキ群とスコアボード)


(このクスノキを保護するため観客席が削られています。)


(藤崎台のクスノキ群)


(藤崎台のクスノキ群)


(藤崎台のクスノキ群)

 クスノキは「熊本県の木」です。
 道路の街路樹、公共施設などにたくさん植えられています。
 古い葉は落ち葉となります。清掃が大変です。


(藤崎台のクスノキ群)

 熊本城内もクスノキ、クスノキです。
 でも、近づけないところが多く、地震前ほどはクスノキを楽しめません。
 銀杏の古木は本丸にある1本以外、見当たりません。


(熊本城のクスノキ)


(城内にある熊本県立美術館のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)


(熊本城のクスノキ)

 クスノキの若葉と若葉が発する気を躰いっぱい感じながら歩く熊本城は素敵です。

長塀が無い熊本城の桜【熊本の話題】

2017-04-09 | 熊本城
2017年4月9日(日)

 熊本城の長塀(国指定重要文化財)は修復のために取り払われています。
   
 例年だと、長塀の向こうで、これらの桜の木の下で花見をしています。

 今年は、坪井川を挟んで遠くから眺めるだけです。

 長塀の無い満開の桜を見れる機会は今年だけでしょう。

 震災後の長塀の写真はこちらを見てください。
 熊本城長塀(国指定重要文化財)は一部が倒壊【熊本の話題】2016年4月27日(水)


















 

暑い中、西南戦争の熊本城を歩く。【熊本の話題】

2016-09-07 | 熊本城
2016年9月5日(月)

この夏、熊本は猛暑続きで運動不足になった。
台風が通過したので、少しは涼しくなるかなと、歩いて体を動かそうと出かけた。

熊本市電熊本駅前から一つ目の電停「祗園橋」からスタート。
「祗園橋」は熊本城の南にあたり、細工町を北へ向かって進む。

城下町は路が複雑に作られるのが普通だが、ここ一帯は加藤清正によって呉服町、米屋町、魚屋町、紺屋町など商人の街として碁盤の目の町割りがされている。一つの区画の真ん中にはお寺があり非常時にはお寺に武士が集まり、路地から攻撃できるようになっている。NHK「ブラタモリ」の「熊本城編」でも紹介されたのでご存知の方も多いと思う。


(1.五福小学校前の案内板)


(2.この建物の中に消防車は待機している)


(3.紺屋町にあるお店)


(4.西唐人町にある路地)


(5.路地の中はお寺)


(6.寺は被災して)

熊本市は古い町並みを積極的には残してこなかったが、地元の人たちの熱意で残ってきた建物がここ一帯にある。それらの建物は4月の熊本地震で大きな被害を受けた。再建には莫大な費用がかかるが文化財に指定されてはいないので公的な資金は望み薄である。再建を諦めるところもあるかも知れない。

(7.西唐人町にある古民家)


(8.紺屋町にある古民家)


(9.西唐人町にある古民家)

薩摩街道である唐人町の通りから坪井川に架かっている「明八橋」を渡ると「新町」に出る。「明八橋」は、矢部の「通潤橋」を造った橋本勘五郎が、東京の「日本橋」や「江戸橋」、皇居の「二重橋」を架設したのち、帰郷して手がけた石橋のうちの一つで、明治8年に架けられた。「明八橋」も薩摩街道の橋である。明治10年の西南戦争では、薩摩の兵士がこの橋を渡って熊本城へ進撃した。
平成2年までは、バスもこの橋を通っていたが、西側に新たな道が出来て歩行者専用になっている。バスでこの橋を何度も通ったことがある。昔のバスは重かったし、ぎゅうぎゅう詰めで走ることも多かったのに、よく耐えたものだと思う。
江戸時代、橋の袂には「新三丁目御門」が設けられ、厳しい取り調べが行われていた。

(10.明八橋)


(11.明八橋)

橋を渡って少し歩いたところに「森からし蓮根」のお店がある。からし蓮根は肥後細川の初代藩主忠利が体が弱く滋養強壮の蓮根をたべさせるために工夫されたもので、名字帯刀を許された先祖が藩のお料理番として代々仕え、製造法は口伝されてきた。明治10年、西南戦争後に創業して一般の人も食べられるようになった。正真正銘の「元祖」である。


(12.森からし蓮根)


(13.森からし蓮根)

「新町」の交差点に出ると、熊本市電B系統上熊本線が走っている。写真左手の古い建物は明治7年創業の「長崎次郎書店」である。一時閉まっていたようだが、再開されている。再開と同時に2階は喫茶室として営業している。
この夏は暑くてコーヒーチェーン店で読書することも多かったが、こういうお店でゆっくりと静かに読書してみたいと思う。窓の下には路面電車も走っている。


(14.新町交差点。左の建物は長崎次郎書店。)


(15.長崎次郎書店喫茶室)


(16.長崎次郎書店喫茶室)


(17.長崎次郎書店喫茶室)


(18.長崎次郎書店喫茶室)

電車の線路を渡って少し歩いて、明治6年創業の蕎麦屋「政木屋」でお昼。
「政木屋」と電車軌道の反対側にある諸毒消丸の「吉田松花堂」がある。吉田松花堂の初代はシーボルトに弟子入りし、シーボルトが追放された後、熊本で町医者になり、腹痛に効く薬「諸毒消丸」を創り、今日も販売されている。西南戦争で焼けた後に建てられた塀は無事のようである。


(19.政木屋)


(20.政木屋)


(21.吉田松花堂)

「長崎次郎書店」も「政木屋」も、おそらく西南戦争では焼けてしまったでしょうね。

「政木屋」の角を曲がると、一新地域コミュニテイセンターと一新幼稚園がある。ここには「御客屋・会輔堂」があった。「御客屋」は熊本藩の迎賓館で幕末には勝海舟・坂本龍馬も滞在した。明治4年には学校「会輔堂」となったが、明治5年に明治天皇・西郷隆盛が滞在した。


(22.御客屋・会輔堂があった一新幼稚園)

ここから北へ進むとYMCAの建物があり、右へ曲がると「清爽園」がある。
明治11年、熊本鎮台の侍兵は、明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、明治9年の神風連の乱、明治10年の西南戦争という四戦役の戦没者を祭る記念碑をこの地に建立し、明治12年に記念碑周辺の敷地を広げて庭園となった。さらに明治19年には、乃木希典細川藩主の旧花畑屋敷の庭石の払い下げを受けて庭園を完成させた。その後、次第に荒廃したが、昭和4年地元の青年壮年団の奉仕により美観が取り戻され、「清爽園」と命名され今日に至っている。


(23.清爽園。石橋は花畑屋敷から移築した。)


(24.四戦役の戦没者を祭る記念碑)

熊本城は西向きが正面にあたり、ここが正面登城口で、「新一丁目御門跡」が設けられていた。その門の前は藩から種々の通知を掲示する「札の辻」と呼ばれる広場になっていた。
また、「里程元標跡」で、この場所を起点として、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が測られていた。唐人町からここまで歩いてきた薩摩街道の終点にあたる。薩摩へ向かうときは始点となる。豊前・豊後への街道の始点でもある。


(25.新一丁目御門・札の辻碑)


(26.里程元標跡碑)

江戸時代は、ここ「清爽園」の場所が最も重要な地点であった。

熊本城は文化庁から「特別史跡熊本城址」の指定を受けているが、ここからはその範囲で、公園へ一歩入れば、熊本城へ一歩入ったことになる。
「新一丁目御門」を無事に通過して、「清爽園」の横の法華坂を少し上り左に曲がると二の丸公園のへと続く道がある。里程元標から出発した「豊前街道」であるが、地震の影響で通行止めになっている。この道は高級武家屋敷の間を通る道で、庶民が通るには息苦しい。


(27.二の丸公園への豊前街道)

「豊前街道」は「新一丁目御門」を通過しないもう一本の道があった。里程元標へ戻り、曲がったYMCAの所へ戻って右へ曲がって進む。「西南の役激戦地跡」の碑がある。西南戦争は熊本城の西側で最も激しい戦いがあった。


(28.西南の役激戦地跡の碑)

電車通りを西に進むと右手に「薬研坂」がある。左手、電車の軌道向かい側には肥後象眼の「光助」が見える。里程元標から出発して、この薬研坂を上っていくのがもう一つの「豊前街道」になる。この道は保育園があって通れない。少し外れて藤崎台球場へ上って球場沿いを歩いて行けるが、地震の影響で通行止めになっている。


(29.もう一つの豊前街道、薬研坂)


(30.道は行き止まりで、藤崎台球場へ上る坂は通行禁止)

道を戻って、「西南の役激戦地跡」碑を通り、「熊本市子ども文化会館」の所に出て、藤崎台球場へと上る。ここも熊本城内である。


(31.左の坂を上る)


(32.推定年齢1000年~400年のクスノキ群。西南戦争でも生き延びた。)

藤崎台球場の北側に三の丸広場がある。江戸時代には三の丸という呼称は無かったようで、後に呼ばれるようになったようだ。
「薬研坂」を上ったところに保育園が無かったとして歩いて行けば、この広場のところに出る。この広場に来れば「豊前街道」へ出たことになる。
春、4月、熊本城内ソメイヨシノの桜が満開になった一週間後、公園は「御衣黄」の花が咲き乱れる。


(33.三の丸広場)


(34.三の丸広場に保存してある石垣)

広場の北側にはテニスコートがあって、その奥は「森本儀太夫預り櫓跡」。熊本城の北西地で、加藤清正の重臣森本儀太夫が三階櫓を自ら築き防備にあたったといわれている。火事で焼失し、再建はされなかった。森本儀太夫は熊本城おもてなし武将隊の一員なので若い女性の人たち方が名前を知っているかもしれない。


(35.森本儀太夫預り櫓跡)

こここからはJR九州の在来線、新幹線が見れるが、しばらく待っていたけど新幹線が来ないので、石垣を見るべく下へおりて行ったら、九州新幹線のつばめ車両が通過して行った。


(36.九州新幹線)

熊本城の石垣はほとんど直線で築かれているが、森本櫓の石垣は地形に合わせて築かれているので少し丸みがある。


(37.森本櫓付近石垣)

三の丸広場を下りて、お城沿いに段山の電停の所まで歩いた。写真の上の方が通れなくなっている「豊前街道」になる。
西南戦争ではこのあたり一帯でもっとも熾烈な戦いがあった。
眺めていると、熊本城の戦いは「豊前街道」という当時の幹線道路を巡る戦いであったことが実感できる。


(38.段山方面からの入口)


(39.土手の上が豊前街道。ここも熊本城内)

藤崎台球場の北側の広場に戻り、三の丸駐車場の方へ向かう。熊本市子ども文化会館の所から左の坂を藤崎台球場へ上ったが、ここは右の坂を上ったところ。駐車場は閉鎖されていて石垣が保存されている。


(40.三の丸駐車場)

旧細川刑部邸も立ち入り禁止になっている。
細川刑部邸は東子飼町で下屋敷として使用していたものを平成2年から4ヶ年かけて移築したもので、熊本県の重要文化財指定されている。


(41.旧細川刑部邸の塀)

東へ進むと、右手には「二の丸御門跡」がある。ここの石垣は無残な状態になっている。「新一丁目御門」を通過した「豊前街道」は二の丸の高級武家屋敷の間を通って、この「二の丸御門」に出る。「新一丁目御門」を通過せずに回り道をした「豊前街道」とここで合流する。


(42.二の丸御門跡)

これまで「豊前街道」としてきたが、正確には「豊前街道・豊後街道」である。道は百間石垣のところを通り、新堀橋を渡って、県教育会館のところで京町の方を行く「豊前街道」と坪井の方へ行く「豊後街道」に分かれる。

西南戦争の熊本城の攻防は、豊前街道を薩摩軍本隊が通過するのを阻止する闘いであった。その時政府軍の作戦が豊前街道に接する熊本城籠城だった。

薩摩軍の本隊は戦いに敗れ、ここ百間石垣から京町方面へと向かい北上する事を諦め、後退して行った。
そのことを想いながらこの道を歩くと、感慨深いものがある。


(43.百間石垣。道は豊前街道・豊後街道)


(44.新堀橋を渡って京町方面へ豊前街道・豊後街道。)

百閒石垣のところから右に曲がって二の丸広場の方へ行くことにする。左手には城壁の石垣の間に埋め込むようにして造られている「埋門」がある。熊本城北側の家臣の出入り口であった。


(45.埋門)

今、熊本城の撮影スポットとして人気があるのが、戌亥櫓とその後ろに熊本城天守閣、宇土櫓がそびえる風景だそうだ。


(46.戌亥櫓。右は宇土櫓、左は天守閣)


(47.西南戦争時家族の避難場所碑)


(48.二の丸公園には藩校時習館もあった。)

加藤神社でお決まりの写真を撮る。


(49.加藤神社入口のところから宇土櫓)


(50.加藤神社境内から天守閣)

棒庵坂を下りたところにも石垣が保存展示してある。棒庵坂の名は下津棒庵の屋敷が坂の下、今のKKRホテル熊本あたりにあったことからつけられている。

(51.石垣置き場と棒庵坂)

石垣沿いを歩いて、地震で神殿が崩壊した「熊本大神宮」へ。復旧工事が始まっていた。「熊本大神宮」の道を挟んだところが旧専売公社で、その横が「高橋公園」になる。ここも「特別史跡熊本城」である。
「高橋公園」は、第7代熊本市長高橋守雄の業績を記念して作られ、旧熊本市庁舎の玄関と高橋守雄の銅像がある。また、西南戦争時の政府軍の指揮者熊本鎮代司令長官谷干城の銅像、横井小楠と明治維新の偉人達像がある。


(52.崩れた石垣)


(53.熊本大神宮)


(54.旧熊本市庁舎と高橋守雄像)


(55.谷干城の銅像)


(56.横井小楠と明治維新の偉人達像 後方は熊本大神宮の社殿を崩した石垣
上段、写真左から 坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久
下段、写真左から 竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)

厩橋を渡って、坪井川沿いを歩く。長塀の倒れたところには白いビニールシートが張られていた。


(57.坪井川沿いの長塀。奥に見えるのは花岡山。薩摩軍はここから熊本城へ大砲を撃った。)

市民会館の所から少しだけ見える飯田丸五階櫓は一本の足で支えられるようになっていたが、鉄骨で支えるように工事がされ、その鉄骨も少しだけ見える。


(58.加藤清正銅像。後方右は天守閣、左は飯田丸五階櫓)

さて、今日の熊本城歩きの最後は花畑公園になる。
花畑公園は細川藩主の花畑屋敷の一部が公園として残ったもので、広大な屋敷の南西の一部である。
この屋敷の庭にあった石橋(絵図では中央少し下)などが、「清爽園」に移され、今も現存している。(写真23)


(59.花畑公園にある花畑屋敷絵図)


(60.花畑公園。絵図の左下にある木がこのクスノキと思われる。)

暑かった。コーヒーチェーン店で涼む。

地図は歩いた道と写真を撮った場所。この地域が熊本の中心地の時代があった。


熊本城長塀(国指定重要文化財)は一部が倒壊【熊本の話題】

2016-04-27 | 熊本城
2016年4月27日(水)

 今日、用事が出来て熊本市の街中へ。
 長さ約242m、国指定重要文化財の熊本城長塀を見に行ったら、一部市役所側が壊れていた。
 御幸橋側は倒れていなかった。
 石垣は無事だった。
 長塀の石垣について熊本市文化財専門相談員宮田紘一さんのお話では、「長塀は白川の旧流路にあり、下は砂地なので弱いと考えていたが、力を分散してよく耐えた。」(4月23日熊本日日新聞朝刊より)という。



(熊本城長塀:市役所側から)


(熊本城長塀:市役所側から)


(熊本城長塀:市役所側から)

 2016年1月1日の写真。
 長塀は昨年8月末の台風で倒れそうになり、内側から支えてあった。
 坪井川沿いは歩行禁止になっていた。


(熊本城長塀の内側)


(熊本城長塀:御幸橋側から)