鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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駅から始まるいつでも散策④-三里木駅

2017-01-30 | ウォーキング
2017年1月28日(土)

JR九州が開催する「駅から始まるいつでも散策」4回目は三里木駅へ。


(今日のマップ)

三里木駅前の道は、熊本から阿蘇を経由して大分と繋がる「豊後街道」だが、熊本人で豊後街道と呼ぶ人は少ない。「大津街道」あるいは「参勤交代の道」という。三里木あたりは当時の面影を残す杉並木が有名だけど、学校でも大津街道杉並木と習った。


(三里木駅)

駅を背に左へ、大津街道を少しだけ歩く。最初の信号を右折。直進する。左手には大型ショッピングセンターが見える。「営業中」とあるが、工事中でもあるようだ。昨年の熊本地震では大型ショッピングセンターはどこも大きな被害を受けた。


(大津街道)


(大型ショッピングセンター)

直進し、阿蘇方面へ向かう現代の幹線道路の信号を渡る。そのまま直進すると道は左にカーブし、竹林や木立の中を下って行く。この時期、ヒンヤリとした空間は寒い。


(木立の中を歩く)

下った所の四つ角を右に曲がり、少し歩くと「下津久礼六地蔵」に会う。


(下った所の四つ角)


(下津久礼六地蔵)

六地蔵のところから左に延びる農道が見える。その農道を真直ぐに進む。途中の四つ角のところに花が添えられていた。死亡事故があったのではないかと思う。


(農道を歩く)


(四つ角に花が)

さらに歩いていくと、白川に突き当たる。白川は阿蘇から熊本市内を流れる。突き当たって左に白川沿いを歩く。川が曲がったところには高い土嚢が築かれている。


(白川)


(土嚢が築かれた白川)

しばらく歩くと、橋が見えてくる。橋を渡る。

(白川に架かる橋)

少し大きな道へ出たら右へ。すぐに、井口眼鏡橋に着く。地震での損傷は見当たらなかった。特徴は、輪石の接する部分に、すべて石楔(くさび)が使用され、さらに二重輪石を有する県内でも極めて貴重な石橋の一つ、と説明されている。


(井口眼鏡橋)

引き返し、その道を2Km程進むと、NHKの「ブラタモリ」で全国的に有名になった「鼻ぐり井出公園」に着く。

加藤清正が熊本に入ってから、氾濫を繰り返す白川をいかに制御するかが課題となった。清正は白川に堰と井出を築き、流量を調節し、その水を利用し、周囲に田や畑を開拓していった。

その一つで約13kmの長さがある馬場楠井手の一部が「鼻ぐり」。この地帯は硬い岩盤で、水を通すトンネル状の溝穴を堀り、その穴の形が牛の鼻輪を通す穴に似ているところから「鼻ぐり」と呼ばれている。

トンネル状にしたのは、掘る岩の量を減らすことで、費用と工期を短くすることができること、水流が穴の壁にぶつかった際に、渦を巻き上げ土砂と一緒にはき出されることにより、川底に阿蘇から流れてくる火山灰などの土砂を溜めない仕組みとした。

1600年程前にこのような技術を持った人たちがいた。清正の子忠広時代には、全国各地からこの工法を見学に訪れた人々すべてが感嘆して帰ったことを伝える文書も残っている。。


(鼻ぐり井出公園)


(鼻ぐり井出)


(鼻ぐり井出)


(鼻ぐり井出)


(鼻ぐり井出の説明板)

鼻ぐり井出公園と道を挟んだ反対側も広い公園になっていて、天気も良く気温も上がったお昼前、小さい子たちが両親やじじばばと楽しく遊んでいた。焼き芋を販売する車も来ていた。子供たちの遊ぶ姿を見ながら青空の下食べた焼き芋は美味しかった。

公園を後にして、「鼻ぐり井出」の上に架かっている鼻ぐり大橋を渡る。


(鼻ぐり大橋より)

橋を渡って最初の信号を左折。菊陽の特産物「にんじん」畑の真ん中を歩く。


(にんじん畑)


(にんじん畑)

しばらく進むと、左手の畑の中に石橋が見えてきた。道を外れて近づくと、「上津久礼眼鏡橋」がビニールハウスの並びに鎮座している。

1989(平成元)年の圃場整備事業で川の流れも変わるので、撤去されようとしたが文化遺産として残されることになって、畑の中にある。

塀があるように見えるが、高さの違う二つの井出を結んでいたので、このような作りになっている。


(上津久礼眼鏡橋)


(上津久礼眼鏡橋)

コースに戻り、歩く。この道で「死亡事故多発路線」の案内板がいくつか目に入った。この道を真っ直ぐ行くと、花が添えられていた四つ角に行くはずだ。

コースは、先に見える「上津久礼共同墓地」から右折する。


(先に見える「上津久礼共同墓地」から右折)

右折して、信号を直進すると「ヘアハウスヒラノ」を過ぎて道は右にカーブしている。少し上って左に曲がって木立の中を上る。


(直進する)

上りきって直進すると、大きな通りの四つ角に出る。「K’sデンキ」が角にある。信号を左折。ハンズマンを右手に最初の信号を右折。マップの道は分かりにくいし、大きな道の歩道を歩いたが安全だと思う。

ここで信号を渡ってから右折すればよかったが、赤信号だったので渡らずら右折した。


(ハンズマンを右手に)

大津街道とJR豊肥線を跨ぐ歩道橋を渡ると「菊陽杉並木公園さんさん」に着く。マップを見ると、先ほどの信号を渡ったところにパン屋さんがあると書かれている。しまった、パンを買って公園で食べればよかった、と少し後悔。


(菊陽杉並木公園さんさん横の杉並木道)


(菊陽杉並木公園さんさん)

公園の中を通って、昨年11月のJR九州ウォーキングでも寄った「菊陽町総合交流センターさんふれあ」へ。食堂でかつ丼を食べる。何を食べるか迷ったが、身体が「かつ」と。疲れると「かつ」を食べたがる。


(菊陽町総合交流センターさんふれあ)

物産販売所で菊陽町の人参を買った。100円。


(菊陽町特産にんじん)

コースは杉並木公園さんさんの横の道に戻ってを通ることになっていたが、さんふれあから昨年11月のJR九州ウォーキングのコース、フジフイルム北側の道を歩いて駅へ向かった。


(フジフイルム工場)

四つ角に出て、右手に行くと味噌・醤油の「山内本店」があるので行こうかと思ったが、山内の「まぼろしの味噌」をスーパーで買ったばかりなので止めて、左に曲がって三里木駅へ。

ゴールして、すぐに、熊本駅行きが来た。4回目を終える。


(三里木駅)

駅から始まるいつでも散策③-玉名駅

2017-01-28 | ウォーキング
2017年1月25日(水)

朝から寒い。少し気温が上がったころで自宅を出て、JR九州が開催する「駅から始まるいつでも散策」3回目は玉名駅へ。


(今日のマップ)

玉名駅に着いたのは12時半過ぎ。


(玉名駅)

先ずは、玉名駅からすぐの繁根木(はねぎ)八幡宮へ。いつも、玉名駅のウォーキングは繁根木八幡宮でのお参りから始まる。


(繁根木八幡宮)

楼門の扁額は細川重賢(肥後熊本藩6代藩主)の筆によるもの。


(繁根木八幡宮)


(繁根木八幡宮)

肥後銀行の角を左に曲がり、少しして左に路地を入ったところにあるラーメン店「千龍」は午後の1時頃まだ行列が。並ぶのはあきらめて、お腹も空いたがなんとかなるだろう、と先へ進む。

高瀬の商店街を歩く。


(荒木直平商店)


(下川酒店)

歩いて行くと本町商店街から魚屋町商店街に表示がかわっている。町名の境がこの辺にあるのだろう。


(高瀬の商店街)

はなしょうぶ祭りにあわせて開催されるJR九州玉名駅ウォーキングでは、毎年、「柳屋茶舗」に寄って抹茶ソフトクリームを食べるのを楽しみにしている。昨年は雨でそれほど暑くはなかったがいただいた。抹茶の濃厚な味がいい。

しかし、それははなしょうぶ祭りの日限定のようだ。


(柳屋茶舗)

「高瀬蔵」は明治の町屋と蔵を体感できる多目的ホール。ここの2階に食事ができるところがあったので階段を上る。


(高瀬蔵)

お店に入ると町屋とは少し雰囲気が違う。なんとインド料理のお店だ。インドの男性と、日本の女性できりもりされている。和印折衷というか。


(高瀬蔵2階)

男性の方がメニューを持ってきたので、お勧めを聞いてナンとカレーのセットを頼んだ。ナンもカレーもいくつかの中から選べるようになっていた。後から女性の方がお冷を持ってこられて、「わかりましたか。」と聞かれたので、「お勧めを聞いて頼みました。」とお答えした。

ナンを食べるのは、なんと初めての経験になる。ナンを手でちぎってカレーに漬けて食べるがナンが熱くて食べにくい。少し冷めたら食べやすくなった。でも、手に持って食べるのはなんか落ち着かない。

それで、「ここは日本だ。」とは叫ばなかったが、ナンを手でちぎって箸で持ってカレーに漬けて食べたら、気持ちが落ち着いて食べれるようになった。ナンの量は年寄りには多すぎた。

味は?と聞かれてもナンは初めてなのでなんとも言いようが無い。


(ナンとカレー)

高瀬蔵を出て、真っ直ぐ歩き、ミエ美容院角の三叉路を左側に歩くと少し大きな通りに出る。


(ミエ美容院の角)

左に曲がり少し歩いたところが、JR九州ウォーキングで、雁行寺から、高瀬官軍墓地合祀碑を通り出たところになる。


(高瀬官軍墓地合祀碑案内板)

後は、いつものコース。信号から右に曲がり、「歴史博物館こころピア」へ。


(歴史博物館こころピア)

「同田貫とその時代展」があっていたが、刀のことはわからない。肥後の国には刀鍛冶はいなかったが14世紀頃菊池氏のお抱え刀工として山城の国からきた国村が始祖となる。清正の肥後入国後にお抱え刀工として菊池から玉名に移っている。


(同田貫とその時代展の展示刀)

九州新幹線新玉名駅を右手遠くに見て歩き、橋を渡って玉名温泉街へ。


(九州新幹線新玉名駅)


(橋を渡る。遠方は玉名市役所)

市営の「玉の湯」はお休み。しらさぎの足湯には足を浸している人も多かったので、写真は撮らなかった。

昨年4月の熊本地震後に熊本市のボランティアセンターの活動に参加している時、遠くから長期に参加されておられる方から「明後日は雨の予報なのでボランティアを休んで何処かへ行きたいのですが。」と話しかけてこられた。その方は崇城大学の駐車場に設置されたボランティアビレッジに宿泊されていた。

JR九州鹿児島本線の崇城大学前駅が近くなので、「JRで玉名駅に行かれて、玉名温泉はどうですか。濃厚豚骨ラーメンも有名ですよ。駅員さんに聞いたらいろい教えてもらえると思います。」とお答えし、豚骨ラーメンの発祥は久留米で玉名、熊本と南下してきた、などウンチクを語らせてもらった。「濃厚豚骨ラーメンいいですね。行きます。」とのことだった。

その方とは、その後お会いすることがなかったので感想は聞けていない。

ボーリング場を左折し、右手に「つかさの湯」を見、進む。


(つかさの湯)

少し歩くと、長者伝説の疋野神社がある。拝殿までは行かずに鳥居の写真だけ撮る。昨年5月29日のはなしょうぶ祭りウォーキングの時は地震でヒビが入っていた鳥居の貫が新しくなっていた。


(疋野神社鳥居)


(疋野神社鳥居。2016.5.29撮影)

玉名ファミリー温泉の角を左に曲がり、大きな道を、道なりに進むと玉名駅に着く。途中にある信用金庫の駐車場は、はなしょうぶ祭り時にあるJR九州ウォーキングで地元の皆さんが貝汁などのおもてなしをされる場所。


(信用金庫の駐車場)

玉名駅にゴールしたらタイミング良く下りの列車来た。3つ目を無事に終える。と思ったが・・・。


(玉名駅)

このブログを書くのにマップを見直していたら、なんと、一部コースを外していた。ラーメン店「千龍」に左に入るあたりから、右に曲がって高瀬眼鏡橋へ行ってから高瀬商店街へ戻らないといけないところを直進して商店街へ進んでしまった。なんともお恥ずかしいことで。

頭の上の方から声がした。
「なんばしよっとか。」
「すみません。」

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昨年のはなしょうぶまつりの時のウォーキングブログはこちらです。
「西郷小兵衛戦死の地碑」に会う【JR九州玉名駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-10】

「池辺寺跡」に会う【JR九州熊本駅 鉄卓のフォト・ウォーク2017-1】

2017-01-26 | JR九州ウォーキング
2017年1月21日(土)

今年最初のJR九州ウォーキングは昨年と同じく熊本駅コースに参加。


(今日のマップ)

8時40分頃に新幹線口をスタート。


(熊本駅新幹線口のおてもやん像)

熊本駅の西側、駅に近いところは新幹線が開通して町並みが整備されているけど、万日山に近い方は以前のままの町並みなので古い家も多い。

昨年4月の熊本地震で、ダメージの大きい家屋も少なくない。ボランティアで家の片づけに行ったお宅もある。今頃、どのようにされているであろうか。

そんなことを考えながら、西南戦争で薩軍が陣地を構え、熊本城を大砲で攻撃した花岡山の仏舎利塔を眺め左折、花岡山に隣接する万日山のトンネルを通過。


(花岡山)


(万日山トンネル)


(トンネルを出て金峰山)


(道沿い)


(寒い!)

西廻りバイパスを渡ると、独鈷山の麓にある池上(いけのうえ)小学校に着く。万日山トンネルを出たところ辺りから目につくが、校舎の壁面には赤龍・青龍がとり付けられている。龍はこれから訪れる「味生池(あじうのいけ)」・「池辺寺(じへんじ)」とつながりを持つ。


(池上小学校の龍)

池上小学校から大きな通りに出たところの空き地には、500分の1のスケールで池上町周辺の地形を復元されていて、池辺寺が栄えた平安時代頃の味生池や有明海の範囲、池辺寺や高橋東神社など各施設の位置、山々の形や大きさを地形など古くからの地域の姿が理解することができるようになっている。

小学校の龍や復元地形は校区まちづくり委員会が中心になっているようで、地元の歴史を核にした地域活動が盛り上がっていることを感じる。


(道路沿いに作られた地域の地形)

井芹川の第一池上橋を渡ると、上り道が続く。少し上ったところにあるのが池上日吉神社。池辺寺の住職の墓碑などがあるが地震で倒れていた。

明治維新後、廃仏毀釈の運動が起こり、仏教寺院は廃寺に追い込まれたところも。池辺寺もその一つのようだ。独鈷山にあった山王社(日吉神社)の仏教色を一掃し、この地に場所を移し池上日吉神社となった。しかし、池辺寺に由緒あるものを地元の人たちが残し移したのであろう。


(池上日吉神社)


(池上日吉神社)


(池上日吉神社。倒れた住職の墓碑など)


(池上日吉神社。廃仏毀釈の名残り)

少し急な上りを歩いて行くと、見晴らしがよくなってきて、味生池展望所へ。みかんをいただいた。
写真左の山の上に突き出たものが見えるのが花岡山の仏舎利塔の上の方。右の山がトンネルを通ってきた万日山。万日山の手前に拡がる平地に味生池があったと推定されている。

味生池は713(和銅6)年~718(養老2)年、肥後の国司として在任した道君首名(みちきみのおびとな)が築いた灌漑用の溜池。道君首名は大宝律令の選定に加わり、新羅に使節として派遣されたりもしている。各地で灌漑用の溜池を作っている。

道君首名を調べていたら生年が663年、天智天皇2年とあって元号はなかった。没年は718年、養老2年。元号が制定されたり、しなかったりした時代から、定着するようになるころである。「日本」という国名が使用されるようになったのは700年前後のことで、古事記の完成が712年、日本書紀の完成が720年。1300年も前の時代にタイムスリップする。


(味生池推定地。右は万日山、左は花岡山。仏舎利塔の先が見えている。) 

さらに上っていくと、百塚地区の池辺寺跡に着く。横の池辺寺歴史公園では、地元の人たちが沢山参加されて、お茶、のっぺ汁、しし肉のおふるまいをいただく。焼き芋とだごまめを買う。


(上りの道沿いで)


(上りの道沿いで)


(上りの道沿いで)


(上りの道沿いで)


(上りの道沿いで)


(上りの道沿いで。みかん畑)


(池辺寺歴史公園)


(のっぺ汁)


(いのしし肉)


(だごまめは夕食時に)

知人にあったので、椅子に坐り、しし肉を何度かお代わりしながら談笑。話題は3月の川尻駅瑞鷹の酒蔵祭りになる。 瑞鷹は熊本地震では大きな被害を受けた。地震後の復旧はどこまですすんでいるだろうか。

公園の一角には金子塔の模型がある。金子塔は公園から約500メートル北西、山の斜面に建てられた石碑。和銅年間に建立され、貞元元年に消失し、僧らが泣き悲しんだ、ことなど池辺寺の由緒が記されている。発掘からは焼失した形跡は無いという。貞元元年は976年。塔の建立は建武4(1334)年と記されている。


(金子塔の模型。池辺寺歴史公園)

公園から階段を上ると、山の斜面一帯に石がごろごろしている。ここには復元されているような石塔が10×10、百の塔が斜面に沿って建っていた。

池辺寺の創建は、説話によると、味生池には龍が住み、人びとに害を与えていた。時の国司が観音様に参ると、池の辺に寺を建て日夜大乗経を唱えるように告げられ、710(和銅3)年に伽藍を建立した、とされている。

しかし、この地の発掘からは、9世紀(801年~900年)の初めに建てられ、9世紀の終わりには消滅しているという。建立も消失も伝えられる説とは100年程の違いがある。

百基の石塔とその配置にどのような意味があるのかも謎で、いくつかの説があるようだが、わかっていない。


(池辺寺跡へ)


(石塔跡)


(石塔の復元)


(このようになっていたと思われる。)

百基の石塔の下段には本堂が建てられていた跡が発掘されている。どのような建物であったかはわかっていないが、建築学の観点から復元したものが展示してある。


(本堂跡)


(本堂の復元)


(本堂跡と石塔跡)


(庭園風の池も発掘された。)

復元された本堂や石塔から、当時の姿を想像すると、これまでどこででも見たことのない世界が広がる。

謎の百基の石塔、不思議な空間。後ろを振り向けば花岡山と万日山が見える。その麓では人々が暮らしている。ここで、百基の石塔に何を祈願したであろうか。


(池辺寺跡)


(遠くの右には万日山、左には花岡山。仏舎利塔の先が見える。)


(池辺寺跡)

下界へ降りよう。

竹林の道を歩く。ぬかるんでいるところもある。水溜りはまだ凍っている。


(竹林を歩く)


(昨日の雨で)


(水溜りの氷)

途中、ワクド石がある。ワクドは蛙のことで、ここは池辺寺領とこれから訪れる聖徳寺(しょうとくじ)領の境界シンボルとなっている。


(ワクド石)


(ワクド石に刻まれている。)

癒しの坂道と名づけられた山道を下りていと、独鈷山(どっこさん)が見えてくる。

空海は、遣唐使として804(延暦23)年から806年(元和元)年、唐に留学する。唐から三つの密教の法器を日本に投げた。三鈷杵は高野山、五鈷杵は京の東寺、独鈷杵は妙観山に落ちた。それから妙観山は独鈷山と呼ばれるようになったと伝えられている。


(癒しの坂道へ)


(癒しの坂道)


(独鈷山)


(歩きやすいように)


(下りきったあたりで)

山道を下ったところに、高橋西神社があり、そこから右に曲がって聖徳寺へ。 ここでも地元の人たちのおもてなしでコーヒーをいただく。
「いのししは食べました?」
「食べたですよ。」
「いのししは初めてでしたか?」
「食べたことありますよ。いのししやしかは。」
「この辺の山ではいのししは見るけど、しかは見らんですね。」
などとお話。
聖徳寺は通称高橋の風天さんと呼ばれている。

風天尊の由来は、いただいた説明書に「開山の良快が観堂の前に落ちかかった雷神を真言秘密の法で封じ込めると、雷神は罪を許されるならば以後この地に落雷しないと誓ったので許したところ昇天としたといい、良快は雷神の姿を写し、木に刻んで守護神として勧請し、依頼今日まで当地には落雷がないという。」と記されている。


(聖徳寺)

聖徳寺を後にして、少しコースを外れる。高橋西神社を左に見て、橋を渡り、信号を右に曲がって、高橋東神社へ行く。小さい社だが橋から直ぐわかる。「天社宮大楠の不思議な力・・・」の文字が見える。大楠に両手を当てたのでいいことを期待しよう。


(高橋西神社)


(高橋東神社)

高橋東神社は、味生池を築いた道君首名を祭ってある。古事記や日本書紀には出てこない人で最初に祭られた人ではないかと思うがどうなんだろう。天満宮に祭られている菅原道真(845年~903年)よりも180年程前の時代の人である。


(高橋東神社)

味生池があった井芹川は、神社が建っている地で熊本城長塀のところを流れている坪井川と合流し、有明海へと注いでいる。


(右の井芹川、左の坪井川が合流し、有明海へ)

コースへ戻り、井芹川沿いを歩いて、第一池上橋に着く。橋の上から上流を眺めると、その先には国の史跡に指定され、装飾古墳で有名な釜尾古墳(かまおこふん)がある。 6世紀(500年代)後半頃の築造と推定され、井芹川の上流にも多くの人々が住んでいたことがうかがえる。


(独鈷山と井芹川)


(井芹川沿いの畑)


(井芹川沿いの田)

その人々は、井芹川から有明海に出て、魚を獲ったり、他の地域と交流したり、壱岐や対馬を経由して朝鮮半島との交流もあったかもしれない。豊かな生活を営んで、古墳も築いた。その井芹川下流に溜池が出来たとき、どのような反応をしただろうか。龍の正体はそのような人たちだったのではなかろうかとも思う。


(井芹川第一池上橋から上流)

ここからは朝方来た時のコースを逆に歩く。橋を渡ったところで係りの人に二王堂の板碑を案内された。地蔵の立像が刻まれているようだがよく見えない。


(二王堂の板碑)

池上小学校横の焼き立て工房Asaiでパイシューを買って歩きながら食べる。ウォーキングコースで地元のお店で買い食いするのは楽しい。その地域に溶け込んだ感じがする。


(池上小学校で)


(焼き立て工房Asai)

万日山トンネルを再び歩いて、熊本駅にゴール。池辺寺歴史公園で買った焼き芋を食べる。それに地下水が水源の熊本市の水道水。ホッとする。公園で買ったもうひとつだごまめは夕食時にまわす。


(万日山トンネル)


(ゴール熊本駅新幹線口)


(熊本市の水道水)

コーヒーサービス券を池辺寺跡でいただいたので、シアトルズベストコーヒーでゆっくりとコーヒー。ウォーカーがいっぱい。ビール抜きで今年最初のJR九州ウォーキングを終える。

坂本龍馬暗殺5日前の書簡と『経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材』

2017-01-15 | 横井小楠
2017年1月15日(日)

 正月早々、坂本龍馬が暗殺される5日前の書簡が発見された、という新聞報道があった。

 1867年10月の大政奉還・江戸幕府滅亡の翌月、11月15日坂本龍馬が暗殺される。その5日前11月10付になっている。

 「新国家」ということばが使われているのは、龍馬の手紙では初めてらしい。書簡は福井藩の中根雪江に宛てたもので、大政奉還後の財政担当に福井藩の三岡八郎を早く出してほしい、というようなことが書かれている。

 坂本龍馬と三岡八郎(後の由利公正)の出会いは、尾崎護著『経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材』(文春文庫、1998年)に、次のように書かれている。
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 八郎は立ち上がって、戸外をのぞいて見ると、深夜だというのに確かに川の方角で人声がする。太刀を片手に足羽川の見える庭先に出た。月明かりのなかを小舟が岸に着こうとしていた。
 一人が、
「おおい、みついし、おるか」
 と叫んだ。今でも三石と呼ぶのは小楠に決まっている。酔っているようだった。
「この夜更けに舟とは危ないではないですか、先生」
 走り寄った八郎に小楠が言った。
「いや、土佐の坂本龍馬が来てな。飲んでいるうちにお前に会いたいというから、川をへだてて向こう側が三岡八郎の家だ といって、連れてきてやった」
 ご機嫌である。
「いや心配なさるな。わしは土佐の荒海で舟にはなれておる。軍艦でも動かせる」
 連れの大男が笑って、
「坂本龍馬でござる。勝先生の使いで参った」
 と会釈した。
 小楠は自分が先に立ってさっさと八郎の家に向かった。
 八郎の家で即席の宴会が始まった。
 (中略)
 三人は時局を論じてとどまるところがなかった。朝廷も幕府も、今のようなことなら国を滅ぼしてしまう。三人はこもごもに憂いた。
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 幕末の頃日本列島の海には多くの外国船が姿を現すようになる。米国ペリーの黒船は日本に開国を迫り、幕府も日米修好通商条約を結び鎖国から開国へと流れが変わっていく。

 勝海舟は、海防には海軍の増強が必要と幕府に働きかけ、神戸に海軍の操練所を建設することになったが、資金が乏しく、資金援助を福井藩に頼った。その時、勝海舟の使いで福井に赴いたのが坂本龍馬だった。

 福井藩では、藩に招かれていた横井小楠の助言などもあり、生糸を中心に外国と貿易を推進する物産総会所がつくられ、膨大な利益を得ていた。三岡八郎は、その物産総会所運営の中心にいた。

 福井に着いた坂本龍馬は、当地に滞在していた熊本藩の横井小楠と再会、小楠の紹介で三岡八郎に会い、三人で大いに飲み、将来の日本を論じた。1863年、坂本龍馬が暗殺される4年前のことである。

 龍馬が暗殺された頃、三岡八郎は福井で藩の主流と対立し蟄居・謹慎、横井小楠は熊本で士籍剥奪の処分を受けていた。二人が新政府の要職に就くには、福井・熊本の両藩でさまざまな葛藤があった。

 しかし、三岡八郎と横井小楠は両藩が処分を解除し、幕府打倒に活躍した小松帯刀、木戸孝允、後藤象二郎、大久保利通らと共に新政府に参与として迎えられる。

 新政府に出仕した三岡八郎と横井小楠は京都で再会した時、坂本龍馬について何を語り合ったであろうか。

 来年は、1868年の明治改元から150年になる。この機会に明治維新について勉強したいと思う。『経綸のとき』の再読もその一つにしたい。横井小楠に関しては『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(徳永洋著、新潮新書、2005年)がある。

 横井小楠の「国是七条」、坂本龍馬の「船中八策」、三岡八郎が草案した「五箇条の御誓文」は、三人の関係をよく現している。

 このことについては、ブログ2016.4.24『「四時軒」と坂本龍馬【熊本の話題】』を見ていただきたい。

震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」-4【熊本の話題】

2017-01-14 | 横井小楠
2017年1月14日(土)

震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」の今です。

四時軒の裏を流れる秋津川沿いから表入口へと歩きました。

横井小楠に関しては
横井小楠ホームページ」を見てください。

過去のブログより
■震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」【熊本の話題】(2016.4.22)
■震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」-2【熊本の話題】(2016-07-07)
■震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」-3【熊本の話題】(2016-09-07)
■「四時軒」と坂本龍馬【熊本の話題】(2016.4.24)


(秋津川沿いより横井小楠記念館)


(秋津川沿いより横井小楠記念館)


(秋津川沿いより四時軒)


(秋津川沿いより四時軒)


(秋津川沿いより四時軒)


(秋津川沿いより四時軒)


(横井小楠記念館)


(四時軒・横井小楠記念館表入口より)


(四時軒表・横井小楠記念館入口より)

豊肥線のスイッチバック【熊本の話題】

2017-01-05 | 熊本の話題
2017年1月5日(木)

 JR九州熊本駅-大分駅間の「豊肥線」、愛称「阿蘇高原線」は熊本地震で肥後大津駅-阿蘇駅間で運休している。JR九州のホームページには「豊肥本線の立野から赤水間は、線路災害(土砂流入)が発生しているため、運転再開にはかなりの期間を要する見込みです。」とあり、復旧時期の目途は立っていない。

 運休は通勤・通学の日常生活にも支障が出ている。

 立野駅と赤水駅間は距離は約8kmだが標高差が約190mあるのでスイッチバックが設けられている。熊本駅方面から立野駅に着いた列車は、駅にしばらく停車し、これまで後方だった車両が前方車両になって反対方向に動き出し、傾斜を上って行く。

 しばらく上ると、列車は停車し、スイッチバックの折り返し点に着いて止まる。今度は立野駅から前方だった列車が後方に、後方だった列車が前方になる。熊本駅方面から来た時と同じ方向になって列車は動きだし、赤水駅へと上って行く。

 熊本駅方面から進行方向に向かって座って景色を楽しんでいたら、立野駅からは座った後ろの方向へ進む。しかし、スイッチバックの折り返し点で、また、前方へ進む。

 このスイッチバックのあたりは熊本地震で山肌が崩れた。安全な走行が出来るのはいつになるのだろうか。

 写真は2年前の2015年1月5日、阿蘇神社に初詣に行ったときに撮ったスイッチバック折り返し点の線路の写真。

 上の写真が立野駅からスイッチバックの折り返し点に到着し止まったところ。右側の線路の先が立野駅。

 下の写真がこれから赤水駅へ上って行こうとするところ。左側の線路の先が赤水駅。

 線路の状態をよく見ると違いが分かる。





 地震前、豊肥線には「九州横断特急」が走っていた。阿蘇を楽しむ外国人の個人旅行客も多かった。それも年ごとに多くなって行く感じがしていた。

 復旧は国際的にも注目されていると思う。


(2015年1月5日阿蘇神社楼門)

2017年正月2日は益城町三社参りウォーク

2017-01-02 | 熊本の話題
2017年1月2日(月)

今日も一人で三社参りウォークは熊本地震で最も被害の大きかった益城町へ。これまで益城町のどこの神社にも行ったことが無い。

益城町へ入る前に、隣接する熊本市の沼山津神社へ。


沼山津神社の鳥居も上の方がなくなっている。


奥の2車線から益城町。手前の4車線は熊本市。熊本市は右手が沼山津、左手は桜木が町名。


沼山津にある小楠公園は復旧工事中。横井小楠像は倒れている。


益城町に入る。


バスは高速道路の下「古閑入口」までしか運行されていない。ここから先「木山産交」までは小型の無料シャトルバスが運行されている。それも明日までで4日からは通常運転になる。


熊本県は益城町の2車線の道路を4車線に広げる計画案を提示した。しかし、地元では反対の声もある。歩いていたら道路沿いには病院も多い。地元の医師会も地域医療に影響が大きいとして反対をしている。


このように更地になっている所はいいが、現に営業している所は駐車場のスペースが削られると影響が大きい。4車線にするには今こそがチャンスであることも事実だが、余程皆で知恵を出さないと頓挫するのではなかろうか。


そんなことを考えながら歩いていると、「惣領木神神社」に着いた。以前の姿は知らないが、テントを張ってある所に拝殿があったのではなかろうか。


倒れた灯篭など。


「惣領木神神社」から20分程歩いて、「安永神社」に着いた。大きな道から入ったところで少し道に迷った。鳥居はこんな姿になっているが大丈夫なのだろうか。


安永神社の由緒には「安永集落の氏神」とある。益城町は明治22年以前は20ほどの町村があって、2度の合併で今の益城町になっている。「惣領木神神社」は惣領村、「安永神社」は安永村の氏神であっただろう。


歩いていて見かけた。


益城町木山の信号を右に曲がって「木山神宮」に着く。安永神社からは十数分。鳥居はない。狛犬は片方だけ。


これが鳥居かな。


元の姿はどうだったのだろう。


例大祭で灯りが点灯されたようだ。


崩壊した神殿。更地になっている所に拝殿があったのではなかろうか。


おみくじを買っている人も多かった。


一番大きな避難所になっていた益城町総合体育館。1日だけボランティアで訪れた。斉藤工さんがこられていて女性陣が大興奮だった。


平和な1年になりますように。


木山城址は入れないようだ。木山城については知識がない。


少し歩いて再び熊本市から歩いてきた大きな道に出て右に。歩道の修復もまだ手についてないところもある。


「津森神宮」までも少し。


益城町総合体育館から40分ほど歩いて「津森神宮」に着いた。


地震の被害を説明してある。これはNO.5。


拝殿。


樹齢500年の銀杏の木。


銀杏の木にはこんな説明がある。


楼門の横。


鳥居は新しいようだが、以前の鳥居は平成3年9月の台風で、大木が倒れ鳥居を直撃、壊れた。その時の土台と額石。


まだまだ、屋根にはブルーシートが。眺めながら、出るときにコンビニで買ったおにぎりで昼食。


寺迫の橋のたもと。


木山上町から無料シャトルバスに乗る。古閑入口で路線バスに乗り換て帰る。


益城町の復興支援には大したことは出来ない。気持ちだけでもと思い立って出かけた。

益城町三社参りのつもりが四社参りになった。

2017年も元日は三社参りウォーク

2017-01-01 | 熊本の話題
2017年1月1日(日)

今年も元日は一人で三社参りウォーク。いつもより1時間半ほど遅れてスタート。

健軍神社は境内にはいりきれないほどの列。申し訳ないが遠くからお参りし、干支のお守りを買って次へ向かう。


健軍神社楼門


健軍神社干支のお守りも8個に。十二干支が揃うまで後4年。


西南戦争では薩軍に呼応して熊本隊が結成され、健軍神社に集結、出陣した。神社前に熊本隊記念碑がある。


参道にある加藤清正像。


道沿いで。毎年実っているのだろうが気が付いたのは初めて。


地元の人たちに大事にされている。


ここの公園で雪だるまを見たのは何年前の元日だったろうか。


熊本を歩いていると、突如として更地になっている所が方々にある。ここは病院があったはずだが。


市立図書館は当然ながら休館日。


ここも気付かなかった。花の色と青空が綺麗だった。


是法神社(ぜほうじんじや)にお参り。


白川に架かる建替え工事中の明午橋仮橋から立田山。


藤崎八旛宮も長蛇の列。ここも遠くからお参り。




熊本西年金事務所あたりから熊本城。


棒庵坂の下広場には崩壊した石垣が保管してある。


復旧の手順の案内板も。


石には記号が元の姿に戻せるように書いてある。


加藤神社入口から熊本城宇土櫓と大小の天守閣。私もだが、後から建ったコンクリートの天守閣のことより小さい時から眺めていた宇土櫓が倒れなかったのに感激する人は多い。


加藤神社鳥居。


加藤神社も長い列。遠くからお参りする。


二の丸広場から大小天守閣と宇土櫓。写真ではよく分からないが、葉の落ちた木々の中に見える痛々しい天守閣。今まではこの時期に撮ることはあまりなかった。


未申櫓と傷んだ石垣。


飯田丸五階櫓。


備前堀の石垣。木の向こうに飯田丸五階櫓が少しだけ見える。


長塀には修理の足場が組まれていた。


バスの発着所から天守閣と飯田丸五階櫓。帰りはバスに乗った。


交通センターの取り壊しが終えて更地になった。2019年に再開発ビルが建つ予定。


更地になった交通センター。


年末から体調不良で、8キロ強の行程を今年はなんとか終えた。来年のことを言うと鬼が笑うので止めておこう。

今年もよろしくお願いします。