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余談

最近、コンビ二に行ったら10年くらい前に読んだ「MASTERキートン」という漫画が完全版として販売されていた。懐かしいというより完全版というものが出たのだという驚きの方がどちらかという強く、妻に内緒で購入してしまった。

漫画の内容に感動したり、影響を受けたという話をブログで書くのはあまり誉められたことではないのかもしれないし、誤解されるかもしれないと正直恐れた。しかし、私がこの作品の「屋根の下の巴里」という話に大きな影響を受けたことは確かであり、それを恥ずかしいと思ったことはない。
むしろ、幸運だったと思っている。だから書こうと思う。

作中の詳しい内容については避けるが、「人間いつでもどこでも学ぶことができる」という言葉がある。
私はその言葉に勇気をもらった。

大学にいかなければ学ぶことができない、時間がなければ学ぶことができない、それらは多分いい訳だろう。人は誰であったもどこにあっても学ぶことはできる。考えてみれば、日本では学ぼうと思えばそれに答えてくれる施設がいくらでもある。
また、何も本やネットだけでなく、人からでも学ぶことができる。
学校、本、ネットだけが学ぶところではない。

実は親・友人から学ぶこともできる。

大切なのは、「人間いつでもどこでも学ぶことができる」の後に続く「学ぶ気さえあれば」という言葉だろう。

学ぶ気が無ければどこであっても学ぶことは決してない。

私は思う。

実は学ぶべき存在は、両親だったり私の信頼すべき友人たちにこそあったのではなかったのかと。そして、中卒だろうが高卒だろうが大卒だろうが、卒業後に学ぶ気さえあればどこでも学べる。

大事なのは、今この瞬間に私自身が学ぶ気があるのかという点。

当たり前の言葉ほど、よく忘れることが多いと身にしみる昨今。

私は、学ぶ気をいつまでも持ち続けたいと思った。
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無料診断申し込みが減少

焼津市役所に今年度の無料診断申込者数はどの程度なのかを聞いてみた。

予想以上に少ないらしい。

少なくなることは、正直に言えば耐震事業に詳しい人ならば薄々覚悟していたと思う。

地域によって差はあるだろうが、無料診断は焼津市に限定すれば徐々に減少傾向にあったのだが、地震や期間限定の上乗せ補助金などの制度があったおかげで、増加していただけに過ぎない。

なぜか、昔話題になった「チーズはどこに消えた?」という本を思い出してしまった。

毎年、黙っていてもチーズが現れていたから今年も現れると無意識に思っていた方が、診断者の中にはいたかもしれない。

おそらく、今後も無料の耐震診断を依頼する方は減少するだろう。

東日本大震災で多くの方が、防災について真剣に考える時代になった。

なるべく最良の選択をしたいと考えるし、その選択のために必要なアドバイスを的確に行える業者を求めるのは当然のこと。

今、私も含め業者が行うべきことは、あの東日本大震災の被害状況が国土交通省から発表されているのだから確認することだと思う。メディアから情報を入手することも間違いではないが、メディアが常に公平かつ客観的な情報を流していると素直に信じるのは少し怖いと思う。それをいったら国もだろうが、大切なのはどの情報を選択するかであり、私としてはメディアだけの情報であれこれ判断するのではなく、国からの報告にも目を通すべきではないだろうか。

当たり前だが、これをきちんとやろうと思ってもなかなかできない。
耐震補強の新しい新製品について情報収集することも大事だが、依頼者が震災被害についてどれだけ調べているか、という点についても業者を選ぶ理由のひとつになっていると思う。

しかし、そういった意見を述べても冷ややかな対応を同業者からされると容易に想像できる自分が悲しい。
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ファッション

私がファッションというものに関心をもったのは高校3年生あたりのことである。

周囲がジーンズに関心を求め、当時の高校生には高額なジーンズを穿くようになったため、自分も買わなくてはならないと焦ったのをよく覚えている。

つまり、周囲に合わせる為、関心を嫌々もったといった方が正確。

当時は、ジーンズの裾を切らないで折り曲げるといった珍妙なスタイルが人気だったが、私としては違和感があった。そのため、親にお願いしてなんとか購入してもらったリーバイスの1万円くらいするジーンズは店員にお願いして、自分の短い足に合わせて切ってもらったのだが、後日友人たちからもったいないと言われてしまったことをよく覚えている。

高校を卒業したときに親戚一同から大学進学のお祝いを頂き、はじめて10万円くらいのおかねを自由に使える身となった。

私は、服装というものに対して、こだわることへの抵抗と多少の関心から東京で服を買おうと決意し、単身新幹線に乗って、とにかく服を買いにでかけた。

そして、とにかく聞いたことがある店に脚を運んだのだが、おそらく店員からみれば田舎からやってきた男がわけもわからないで大金だけもってうろうろしているとだけしか思っていなかっただろう。

わざわざ白いペンキで柄をつけたジーンズを恵比寿で購入した際は、裾をきらないでほしいとお願いしたくらいだから徐々に私も当初おかしいと思ったファッションに毒されていたのかもしれない。

ちなみにその際に購入した服は、その後あまり着ないでどこかに消えた。

その後は、多少落ち着いて高いけど末永く着れる定番と呼ばれるものを購入して、着たきり雀のような生活だった。大学進学後に奮発して購入したジージャンは、未だに私の家にあったりするが、それを着ると妻があまりよい顔をしないので、いまでは私の古きよき思い出の象徴として残されている。

今は、作業着で過ごすことが大半であるため、私服というものがほとんどない。

しかし、だからといってファッションに対する考え方について、私は不用とは思わないのだ。

その考え方を決定的にしたのは、新婚旅行中に飛行機の中で観た「プラダを着た悪魔」という映画である。

この映画では、ファッションに偏見をもっている方に対して、明確なメッセージが込められている。私は、そのメッセージを素直に受け止め、その重要性と無関心であり関係がないと思い込んでいる人も実は気がつかないだけでデザイナーが苦心して考え出したファッションに身を包んでいることに気がついた。

つまり、私は、ファッションを楽しむ人、生み出す人に対して、尊敬を抱くようになった。

確かに時代の移り変わりによって、古臭くなりなぜそのような服を着ていたのかと思い出して赤面することもあるかもしれない。しかし、その時代に最新の流行に身を包み街を歩くというのは、その時代を楽しむことと同義となる。だから私は、ジーンズの裾を切ってしまったことに後悔している。なぜ、素直にあの時代を楽しめなかったのかと。

もちろん、絶対に受け入れられないものや作られた流行というものは存在する。

すべてを受け入れることも難しいし、もちろんできない。また、流行でも自分の体系や顔立ちには合わないものもある。しかし、そういった点を配慮した上で、今を楽しむということがいかに幸せなのか、私はようやく気がついた。

私は、服装に関心が高い女性が好きである。芸能人のように全てが完璧で何を着ても似合う人も世には存在するが、大抵が何かしらのコンプレックスをもっている。そして、それを逆に生かして、化粧したり服装に気をつけるということが、創意工夫であって、その姿勢に美しいと思う。

何も高い服を着ることがファッションとはいわない。
だが、すべての高い服装を否定するのは、正直もったいないと思う。

高いブランド品の中には、多くの才能あるデザイナーが苦心した知恵が込められていて、それを身に着ける女性に自信と美しさをもたらすだけの力をもっているものもある。

今まで自分に自信がもてなかった女性が、例えばエルメスのバックをもって歩くようになったら下を向かないで堂々と歩くようになれたのならそのバックには、大きな力があると私は思うだろう。
逆にバックに支配され、それを所有しているから自分はすばらしいと思うようなら危険だとも思う。

服装に関心がないという人がいるが、まったくないといいきれる人は存在しないと私は考えている。人は誰しも理想があり、その理想に近づけるために新しい服を求める。
なんでもよいといいつつもどこかで好みがあり、選択している。

とすれば、ファッションとはなんと夢のある仕事だろうと私は思うのだ。
だからこの仕事に従事している人を私は尊敬している。

対して建築業界はどうだろう。
衣食住という表現があるくらいだから人が生活するうえで「住」は「衣」と同様に重要であることは確か。
しかしながら「住」は、そこに住む人の生活、人生を豊かにしているのだろうか。

土地は、立地条件によって異なる。その立地条件の短所さえ生かして、設計している人がどれだけいるのだろうか。もしかしたらそんなものは無視して、作り手の都合に合わせたものをお客の意見に耳を傾けるフリをしながら押し付けてはいないだろうか。

ファッションではなく建築の場合はデザインと表現するだろうが、デザインというものは、とても難しい。そんなことは分かっていると指摘されそうだが、とにかく難しいと私は思うことが増えた。

テレビで奇抜なアイディアを元に個性的なデザインで設計する方をよくみかける。
私は、その方々を見習おうとは正直思わない。

書道で、わりと文字を崩したものを書く書道家もいるが、あれば基本をきちんと習得できるからこそ可能であり、いきなり書こうとしてもできないと聞く。デザインもそうではないだろうか。先人が残した定番と呼ばれるものをしっかり研究し、マスターした上で新しいデザインを考案し、それをお客に提示するのが、正しい道と思う。
つまり、奇抜なものをそのまま真似てもおかしくなるだけだと考えている。

また、お客の意見に耳を傾け、その希望をかなえる努力も必要だが、つくり手から提案し、それをみたお客が喜んで採用するという関係がもっとあってもよいと最近は思う。
私はまだまだ若いと思う。だから焦らないでしっかりと基本を勉強し、その基本から新しいものをお客様に提案できるようにしたい。
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真剣勝負

真剣勝負という意味は、そのものずばり真剣で戦うことを意味と、本気で勝ち負けを争うことを意味があるようです。

最近では、この真剣という言葉があまり使われなくなった気もします。泥臭く、必死に物事にあたり、何事も真剣勝負という考え方は古臭いのか、それとも私が気がつかないだけで多くの人の中に存在する考え方なのでしょうか。

自営業が、サラリーマンや公務員と決定的に違うのは、負けたら次がないという状況が多いという点ではないかと思うときがあります。そんなことはないと否定されるかもしれませんし、ことさら自営業がすごいということを論点にしたいわけでもありません。誤解されるのは本意ではないので、あえて書きます。

とても大きな仕事で、頂けるかどうかまだ分からないとき、私の体や心は震えます。ようするに怖いのです。しかし、その一方で生きていくためには、どうしてもその感情を押さえ込み、自分がこれまで培ってきたものを全て出して、チャンスをつかもうとするとき、自分が確かに今ここに生きているのだと思います。

それは誰しも経験することかもしれませんが、自営業はその回数が多いのではないでしょうか。

真剣勝負に二度目はないのは、誰でも知っていること。
しかし、心のどこかに二度目があると過信している自分に気がつきます。
実際には二度目なんて、真剣勝負ないのです。
なぜなら真剣勝負なのですから。

自分の甘えをどれだけ打ち消せるか。
結局のところ、最大の敵は自身にあり、他の原因より、敗北の場合は自身に問題がなかったのかを確認する必要があるのだと、あらためて思います。

私は、いつどんなときでも自分の鍛えることをやめてはいけないのだと思いました。
急な御相談があったとき、準備していなかったから十分な対応ができなかったと言い訳しないように、です。いつでもこの仕事で生活しているのだと自覚し、あらゆる関係することに関心を持ち、他社(者)との交流を持ち、備えなければならないと思います。

今の時代、お金をどう使うかは、誰でも真剣に悩みます。
その相談者の真剣さに自分も真剣に向かい合って、そのお金がよい使われ方をしたと思ってもらえるよう精進します。
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久しぶりに書きます。

しばらくブログを休んだままでした。
すいません。

かなり、精神的にも肉体的にも疲労する試験に挑戦していたものですからしばらく勉強に専念していたら10月になっていました。

終わった瞬間、椅子から滑り落ちて立てなくなるくらい燃え尽きましたが、ああいう全力で何かを取り組むということは、苦しい中にもやりがいがあります。

結果を待つばかりですが、いつもより、なんというか納得した気持ちで過ごしています。椅子から滑り落ちる(今気がついたら不吉な表現ですが)くらい集中できてよかったなと。

現在は、23日に予定している上棟の準備や御相談頂いている依頼への対応に追われています。
今年は、本当に内容の濃い1年です。

まだ、2ヶ月もあると思うと、まだまだ安心はできません。

また、私にとって新しい挑戦となるような話も頂いていて、期待して相談してくれる方へ少しでも応えられるよう今は無心になって仕事にとりくみたいと思います。
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