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ファッション

私がファッションというものに関心をもったのは高校3年生あたりのことである。

周囲がジーンズに関心を求め、当時の高校生には高額なジーンズを穿くようになったため、自分も買わなくてはならないと焦ったのをよく覚えている。

つまり、周囲に合わせる為、関心を嫌々もったといった方が正確。

当時は、ジーンズの裾を切らないで折り曲げるといった珍妙なスタイルが人気だったが、私としては違和感があった。そのため、親にお願いしてなんとか購入してもらったリーバイスの1万円くらいするジーンズは店員にお願いして、自分の短い足に合わせて切ってもらったのだが、後日友人たちからもったいないと言われてしまったことをよく覚えている。

高校を卒業したときに親戚一同から大学進学のお祝いを頂き、はじめて10万円くらいのおかねを自由に使える身となった。

私は、服装というものに対して、こだわることへの抵抗と多少の関心から東京で服を買おうと決意し、単身新幹線に乗って、とにかく服を買いにでかけた。

そして、とにかく聞いたことがある店に脚を運んだのだが、おそらく店員からみれば田舎からやってきた男がわけもわからないで大金だけもってうろうろしているとだけしか思っていなかっただろう。

わざわざ白いペンキで柄をつけたジーンズを恵比寿で購入した際は、裾をきらないでほしいとお願いしたくらいだから徐々に私も当初おかしいと思ったファッションに毒されていたのかもしれない。

ちなみにその際に購入した服は、その後あまり着ないでどこかに消えた。

その後は、多少落ち着いて高いけど末永く着れる定番と呼ばれるものを購入して、着たきり雀のような生活だった。大学進学後に奮発して購入したジージャンは、未だに私の家にあったりするが、それを着ると妻があまりよい顔をしないので、いまでは私の古きよき思い出の象徴として残されている。

今は、作業着で過ごすことが大半であるため、私服というものがほとんどない。

しかし、だからといってファッションに対する考え方について、私は不用とは思わないのだ。

その考え方を決定的にしたのは、新婚旅行中に飛行機の中で観た「プラダを着た悪魔」という映画である。

この映画では、ファッションに偏見をもっている方に対して、明確なメッセージが込められている。私は、そのメッセージを素直に受け止め、その重要性と無関心であり関係がないと思い込んでいる人も実は気がつかないだけでデザイナーが苦心して考え出したファッションに身を包んでいることに気がついた。

つまり、私は、ファッションを楽しむ人、生み出す人に対して、尊敬を抱くようになった。

確かに時代の移り変わりによって、古臭くなりなぜそのような服を着ていたのかと思い出して赤面することもあるかもしれない。しかし、その時代に最新の流行に身を包み街を歩くというのは、その時代を楽しむことと同義となる。だから私は、ジーンズの裾を切ってしまったことに後悔している。なぜ、素直にあの時代を楽しめなかったのかと。

もちろん、絶対に受け入れられないものや作られた流行というものは存在する。

すべてを受け入れることも難しいし、もちろんできない。また、流行でも自分の体系や顔立ちには合わないものもある。しかし、そういった点を配慮した上で、今を楽しむということがいかに幸せなのか、私はようやく気がついた。

私は、服装に関心が高い女性が好きである。芸能人のように全てが完璧で何を着ても似合う人も世には存在するが、大抵が何かしらのコンプレックスをもっている。そして、それを逆に生かして、化粧したり服装に気をつけるということが、創意工夫であって、その姿勢に美しいと思う。

何も高い服を着ることがファッションとはいわない。
だが、すべての高い服装を否定するのは、正直もったいないと思う。

高いブランド品の中には、多くの才能あるデザイナーが苦心した知恵が込められていて、それを身に着ける女性に自信と美しさをもたらすだけの力をもっているものもある。

今まで自分に自信がもてなかった女性が、例えばエルメスのバックをもって歩くようになったら下を向かないで堂々と歩くようになれたのならそのバックには、大きな力があると私は思うだろう。
逆にバックに支配され、それを所有しているから自分はすばらしいと思うようなら危険だとも思う。

服装に関心がないという人がいるが、まったくないといいきれる人は存在しないと私は考えている。人は誰しも理想があり、その理想に近づけるために新しい服を求める。
なんでもよいといいつつもどこかで好みがあり、選択している。

とすれば、ファッションとはなんと夢のある仕事だろうと私は思うのだ。
だからこの仕事に従事している人を私は尊敬している。

対して建築業界はどうだろう。
衣食住という表現があるくらいだから人が生活するうえで「住」は「衣」と同様に重要であることは確か。
しかしながら「住」は、そこに住む人の生活、人生を豊かにしているのだろうか。

土地は、立地条件によって異なる。その立地条件の短所さえ生かして、設計している人がどれだけいるのだろうか。もしかしたらそんなものは無視して、作り手の都合に合わせたものをお客の意見に耳を傾けるフリをしながら押し付けてはいないだろうか。

ファッションではなく建築の場合はデザインと表現するだろうが、デザインというものは、とても難しい。そんなことは分かっていると指摘されそうだが、とにかく難しいと私は思うことが増えた。

テレビで奇抜なアイディアを元に個性的なデザインで設計する方をよくみかける。
私は、その方々を見習おうとは正直思わない。

書道で、わりと文字を崩したものを書く書道家もいるが、あれば基本をきちんと習得できるからこそ可能であり、いきなり書こうとしてもできないと聞く。デザインもそうではないだろうか。先人が残した定番と呼ばれるものをしっかり研究し、マスターした上で新しいデザインを考案し、それをお客に提示するのが、正しい道と思う。
つまり、奇抜なものをそのまま真似てもおかしくなるだけだと考えている。

また、お客の意見に耳を傾け、その希望をかなえる努力も必要だが、つくり手から提案し、それをみたお客が喜んで採用するという関係がもっとあってもよいと最近は思う。
私はまだまだ若いと思う。だから焦らないでしっかりと基本を勉強し、その基本から新しいものをお客様に提案できるようにしたい。
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