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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「お祖父ちゃんの秘宝」 祝!沖縄タイムス創刊60周年

2008-07-04 07:30:14 | 未分類

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7月1日は沖縄タイムス創刊60周年記念日とのこと。

常日頃タイムスのことは悪口ばかり書きまくって、ブログのネタにさせてもらっているが、

創刊60周年はめでたい話なので四日遅れではあるが、ここに祝意を表したい。 おめでとうございます。

7月1日の社説に創刊号の「通貨切り替え」の話があるが、沖縄タイムスの創刊が米軍の軍票・B円から米ドルへの通貨切り替えに絡んでいたの話があり興味深い。⇒【本紙創刊60年】信頼を大事にしたい

ちなみにライバルの琉球新報は、設立 明治26年9月15日というから日本の新聞の中でも歴史のある方だろう。

沖縄タイムスの過去の記事に創業当時の詳細が記されているが、当時の沖縄は1945年(昭和20年)4月1日の米軍本当上陸前後に発令された「ニミッツ布告」の管理下にあり、新聞も米軍の管理下にあったことはわかるが、

米軍大尉の「すぐ(新聞発行)許可願いと計画書を出しなさい」との初代社長になる高嶺朝光氏らへ対する生々しい言葉が記録されており、興味は尽きない。

 

1948年、米軍政府のハウントン大尉の『すぐ(新聞発行)許可願いと計画書を出しなさい』との声に初代社長になる高嶺朝光氏、座安盛徳氏らの創業者たちは沖縄タイムス創刊の活動を始める。

結局、米軍に発刊許可願いを出したのが、その年の五月十五日、実際に許可が下りたのは六月二十八日だった。

 <創刊号はその三日後の七月一日に出されるが、実はその二日前に「通貨切替断行さる」という見出しの号外が出される。創刊号より先に号外を出したことは日本の新聞史上でもユニークなスタートとして特筆されている。このことについて創刊当時の同人の一人、上間正諭が「別冊新聞研究聴きとりでつづる新聞史」(一九八二年十一月)で次のように振り返っている。

 「米軍側が発刊許可証をくれるから来いというんで、座安のお伴で行った。ハウントン大尉が出てきて許可証をもらったが、その時、『ビッグニュースがあるけど、明日、すぐ新聞を発行できないか』といきなり言ってきたようだ。座安は即座に『よし、やります』と言って、英文で打った一枚のコピーをもらってドアから出てきた。これはB円(軍票)の通貨切り替えの発表だった。私はそれを持ち帰って、翻訳を依頼して民政府財務部長の当銘のコメントを取材、牧港と二人で新聞づくりを始めた」>(沖縄タイムス 1998年1月20日 朝刊 6面)

沖縄タイムスが米軍の広報新聞として発刊されたとはよく言われることだが、上記記事を読むと、さらにその感を深くする。

戦後の沖縄では、米軍軍票・B円が流通していたが、これを米本国と同じ米ドルに切り替えて本格的に占領政策を強化しようと計画したとき、

この重大な出来事を沖縄全地域に知らしめるために広報誌の必要性を感じた米軍政府ハウントン大尉の『すぐ(新聞発行)許可願いと計画書を出しなさい』という言葉に表れている。

沖縄タイムスの初仕事は米軍の沖縄占領政策中でも最も重要な政策である「米ドルへの通貨切り替え」の告知であったことは沖縄タイムスの創刊時の性格をよく表している。

一九四八(昭和二十三)年七月一日の沖縄タイムスに載った「創刊のことば」は次のようなものであった。

 < 戦後四カ年今なお荒廃した沖縄には戦前の姿を見出すことは出来ない、吾々(われわれ)の生活はまことにみすぼらしいものではあるがしかし決して失望してはならぬ、
 今吾々は建設に努力している、建設は新らしい文化の創造であり、吾々の生活を豊かにし更に子孫に傳(伝)える文化を築こうというのだ、そこに希望が輝き勇気が湧き起ってくる、吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に對(対)する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である。

 吾々は今日からこのささやかなる新聞を同胞諸君に送る、誠にお粗末なものではあるが、沖縄の復興に歩調をあわせて、吾々の新聞もまた成長して行くであろう、新聞の使命は重大だ、これを十分はたしていくことを念願して努力を捧(ささ)げよう。(原文のまま、カッコ内は真久田による)

執筆したのは社長の高嶺朝光だが、周りの幹部と十分協議した後がうかがえる。>(沖縄タイムス1998年2月3日 人物列伝 沖縄 戦後新聞の足跡(5) )

 

こうして沖縄タイムスの記事から、沖縄タイムス創刊の当初の重大任務が「米軍票から米ドルへの通貨切り替え」の告知だったことがわかり大変興味深いが、60年後の7月の1日の創刊60周年記念日にあたり、社長挨拶や社説で60周年の決意を語っている。

同じ日のコラム「茶のみ話」にタイムス創刊にも関係のある「B円軍票の償却処分」と題する興味深い話があるので紹介したい。

筆者は、北中城村にお住まいの中地名常さんという75歳のお方。

戦後まもなく、中地さんのお父さんは泡瀬にある干潟で共同で塩つくりをはじめた。 

ある日、腰にピストル、カービン銃で武装したMPが袋に詰まったB円軍票を持ち込んできて、塩たきかまどで焼却するようにお父さんたちに命じた。

さー、ここでお父さんの知恵がフル回転を始めるが、以下はご本人のコラムから引用。

塩たきかまどは粘土で築かれ、火が燃えやすいようにロストル(火格子)が敷かれていた。・・・・B円を焼きにMPは定期的にやってきた。 そこで、父たちは20円の札束をくすねる仕掛けを作った。 かまどの奥に穴を深く掘り、空き缶を埋めて水を張った。 火かきを使って札束を落とした。 ・・・・・・・・B円を焼きにきたMPのジープが塩田から去ると、父たちは、素早くかまどの火を消した。 取り出したB円紙幣は水にぬれ、端が焦げて使用不能。 一攫千金の夢は真夏の空に消えていった。

カービン銃で武装したMPに一泡吹かせようと策略するお父さんたちの姿が彷彿として愉快になるが、このMPたちもお父さんたちと同じ考えを持たなかったのだろうか。

空想は60年の時を越える。

MPたちは考えた。 

毎日トラックで焼却に持ち込むB円・軍票は、そのままくすねて隠匿しても、そのうち使用できなくなる。

だが、これを一旦くすねて米ドルに交換し、その米ドルを防水したドラム缶に密封し、それをどこかに埋める。

焼却するB円・軍票の管理は粗雑のようなので、隠匿した米ドルのドラム缶の巨万の米ドルは我々のもの。

何しろ、軍票・B円などと違って米ドルは世界の通貨だ。

ほとぼりが冷めたころ発掘に戻るつもりで帰国したMPたちは、望みを果たさぬまま病没してしまう。 

後に残されたのは隠匿場所を書いた一枚の地図。

MPの遺品の中からこの一枚の地図を見つけたMPの孫が、お祖父さんの隠した財宝を求めて沖縄にやってくる。

さー、これから始まる宝探しの大冒険!

血沸き肉踊る秘宝発掘の話は・・・、

バカバカしいので、このへんで止めます。

 

さて、7月1日・沖縄タイムス60周年記念日の社説の一節。

<  新聞は今、かつてない厳しい環境に立たされている。

 ネット時代の到来によって若者の新聞離れが急速に進んだ。市民の自由と権利を守るはずの新聞が集団的過熱報道などの形で報道不信を招いている。

 そのような時代だからこそあらためて、新聞ジャーナリズムが果たすべき役割は何なのかを問い直していきたい。
【本紙創刊60年】信頼を大事にしたい

 

>市民の自由と権利を守るはずの新聞が集団的過熱報道などの形で報道不信を招いている。

え! これって60周年を機に、沖縄タイムスが懺悔したってこと?

まさかね。


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落書きもみんなで書けば怖くない?

2008-07-03 08:37:10 | 県知事選

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落書き:伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分に

「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」--。
イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、
日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、
イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。

 イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。
メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』は
あまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。

 フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、
アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。
同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、
日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。
コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。

 一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は
日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。

(毎日新聞 2008年7月1日 22時11分)

                                             ◇

昨日あたりのテレビワイドショーは「イタリアの世界遺産」に落書きした新婚夫婦の話題で持ちきり。

では、これまで落書きはなかったのかといえばそうではない。

マスコミが取り上げなかっただけの話。

発端はここらあたりのようだ。⇒岐阜市立女子短大生6人、フィレンツェの大聖堂壁に落書き(6月24日読売報道)

冒頭に引用記事の見出しの、<伊紙「あり得ない」>に、ついつられて、「落書きはイタリアではあり得ない」のかと思ったが、

落書きした野球部監督への処罰が厳しすぎてあり得ないのだというのだ。

「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」

落書きされた大聖堂の技術責任者がこんなことを言うくらいだから、イタリア人の落書きは日本人の比ではないのだろう。

日本の厳しい処分の是非はともかく、公共物への落書きは許されてよいわけはない。

落書きの心理は割れ窓理論で説明されるが、沖縄ではあまり見ない「  放置自転車」や空き地のごみ捨て場化 なども、同じ心理が働くのだろう。⇒「落書きもみんなで書けば怖くない」

落書きがエスカレートして他人のシャッターや壁に落書きをして芸術だと公言するヤツらはもはや確信犯的犯罪者というべきだ。

それが「進化」したのか、こんなのもある。⇒路地裏美術館「Web餓鬼の眼」

落書きが落書に進化したのどうかはともかく、

日本史の教科書に出てきた落書は今でもそらんじている。

「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」。

ペリーが浦賀に蒸気船を率いて来航したのは1853年(嘉永6年)のこと。

そのときの日本人の右往左往振りを見事にあらわした落書の傑作だが、以後司馬遼太郎の『翔ぶが如く』の世界が展開されることになる。

一時代さかのぼると、これも教科書で覚えた傑作中の傑作がこれだ!

「白川の清き流れに魚棲まず、濁れる田沼いまは恋いしき」

何やら、、エコ、エコを連発してCО2を目の敵にしている現代社会を象徴しているような気もする。
 
蛇足をあえて書かしてもらうと、

「白川」は奥州白河の藩主だった松平定信の通称「白河公」のこと。

「清き流れ」は田沼意次時代の賄賂政治を刷新しようとした松平定信の「寛政の改革」のこと。

だが、行き過ぎた倹約令で清貧を求め、世は一挙に不況に陥る。

コンビニの夜間営業禁止を含む行き過ぎたCО2排除令は、世を更に不況に陥れることになる。

 

落書きといえばトイレの落書きをはずしては語れない。

これについては過去にウンチクを傾けているので、興味のある方は覗いてください。 

読んでバカバカしいと思っても責任は取れません。

トイレの哲人 (続・哀しきオヤジギャグ)

 

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負傷した日本兵と沖縄女性

2008-07-02 07:56:10 | ★集団自決

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琉球新報の「慰霊の日特集」で、「住民虐殺―“銃”を向けた日本軍」という連載記事があった。

そのタイトルが示すとおり、日本軍は沖縄住民を殺して回るのに忙しく、とても米軍と戦う暇などなかった、といった印象を読者に植え付けるのに必死の模様。

思いつくまま、にその「見出し」を列挙すると、

次のような凄まじさである。

「銃声、崩れ落ちた少女」
「日本兵、無言で引き金」(
6月13日)

「母きょうだいをつぎつぎ」
「逃げる子追い刀で
」(6月14日)

「幼子いる壕に手榴弾」
「敵より友軍憎い」(
6月16日)

「一時米保護の夫婦銃剣で」
「軍への忠誠心失う
」(6月17日)

まだまだあるが、もうよそう。

ここには住民と日本軍の剥き出しの憎悪しか読み取ることは出来ない。

だが実際にはどうだったのか。 

激戦の中にもいろんなドラマがあったはずだ。

百の出逢いがあれば百のドラマがあってもおかしくない。

平成20年7月1日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 <15>

重傷の兵士を背負い、救出

重傷の兵士を背負い、救出

picture 戦後34年ぶりに再会を果たした金城芳子さんと山本義中氏=昭和54年3月21日、成田空港ロビーで(『沖縄戦に生きて』より)
 歩兵小隊長として沖縄戦を戦った山本義中氏がつづった手記『沖縄戦に生きて』(ぎょうせい、昭和六十二年)は、圧倒的な迫力をもって読み手に迫る。いかなる読者も涙なしでこの本を読み終えることは不可能だろう。氏の頭脳には、優れたビデオカメラとテープレコーダーが内蔵されていたのであろう――そう錯覚させるほどの抜群の記憶力が、この優れた戦記を誕生させたのだが、併せて自分の命を助けてくれた多くの戦友の人間愛を書き残したいという強い衝動があったことも間違いない。

 大正十年生まれの山本氏が沖縄入りしたのは昭和十九年八月中旬。陣地構築、初年兵教育などに汗を流した。二十年四月。米軍の“鉄の暴風”にさらされた友軍は果敢に攻撃を仕掛けるも連日、戦死者は増えた。山本氏もわずか八人で敵の戦車五両、敵兵数百人と相まみえた。部下の肉弾攻撃で戦車一両を爆破炎上させた。だが、山本氏も左手首に戦車砲弾の破片を受け、左手を自ら切断。右大腿(だいたい)部や頭にも傷を負った。四月二十九日のことである。

 女子挺身隊員、金城芳子さん(当時20歳)や防衛隊員が、山本氏を担架に乗せて野戦病院壕(ごう)に運び込み、手術が行われた。左手の切断部は治療が旋された後、包帯を巻く。右大腿部の後ろは大きく肉がえぐられていたためガーゼを入れて縛る。破片や弾片をえぐり取ること十五カ所。五時間の手術の末、一命を取り留めた。

 その後、運ばれた南風原陸軍病院二十四番壕にも敵は迫り、南に下がるよう命令が下される。金城芳子さんは、看護婦から「山本氏は重傷で助からない」と宣告される。しかし、「私は部隊から山本少尉に付き添って行けと命令されたのです。山本少尉が生きている限り離れる訳にはいきません」。「私は少尉を背負って(南へ)下がります」と告げる。

 そんな彼女に、山本少尉は語り掛けた。「金城芳子、貴女は私に十分尽くしてくれた。責任もこれで果たしたから女学生達と一緒に南にさがりなさい。(中略)金城芳子ありがとう。私もこれから頑張って自分のことを考える」

 だが――。

 〈金城芳子はそうは受け取らなかったようだ。また姿が見えなくなった。今度は乾パンの袋を持って帰って来た。袋の中のコンペイ糖を私の口に入れ、自分も口の中に一粒入れてニコッと笑った。その顔が観音菩薩に見えた〉(『沖縄戦に生きて』より)

 金城さんは少尉を背負って行くと言い張り、聞かない。山本氏は泣いて説得した。

 〈自分一人が助かりたいと逃げまどう敗戦の戦場、まして軍司令部までが主陣地をすてて後退し、陸軍病院が数千人の重傷の患者を壕の中に残したまま後退する。この敗戦の修羅場で、私のような重傷を受け、生ける屍となった患者を、おぶってでも南へさがるという彼女の言葉に、感きわまった私は、「その気持ちだけで沢山。その気持ちだけで十分。芳子さん。ありがとう。私はここで十分だ」と泣きながら礼を言って、「どうか貴女は南へさがってくれ」と説得した。しかし、金城芳子は頑としてそれを聞き入れない〉(同著より)

 そこに砂山という上等兵が手伝いを申し入れると、金城さんは自分の体に山本少尉の体を巻ききゃはんで背負ってしまう。少尉は驚く。「この女性は何と大きな女性だ」

 山本氏は手記の中で、金城さんのことを何度も「観音菩薩」と呼ぶ。この明るく気丈でスケールの大きな沖縄の女性と数人の戦友の力を借りて、山本少尉は六月十三日、部隊に合流し、奇跡の生還を果たす。

 氏の手記には、壕に避難した住民と遭遇する場面も出てくるが、兵士が住民を追い出すような場面は一度もない。住民は兵士に極めて親切であり、激励を忘れない。

 山本氏は戦場で誓った、「もし、生きて帰れるならば、死ぬまで戦死者の慰霊をつづける」と。その気持ちを失わず、昭和二十三年に沖縄入り。地元の人々と、名前の判明した遺体千体、不明の遺体一万二千体を収集した。これが、国が予算をつけて遺骨収集を始める契機となった。山本氏は四十八年三月から六十二年まで沖縄への慰霊の旅を続け、その数は八十五回にも及んだ。彼は『沖縄戦に生きて』でこう書き記している。

 〈戦場の具体的な事例をあげて、真実を伝え、決して人に後ろ指をさされるような非人間的なことはなかったことを伝えたい。戦場では沖縄県民が示した人間愛の素晴らしさ、そして、私が沢山の人びとの情けで生き残ったことも知らせておきたかった〉

(編集委員・鴨野 守)

(世界日報 平成20年7月1日)

                     ◇

戦争体験者が語る体験談にはそれぞれのドラマがあるだろうし、そのドラマには光の部分もあれば影の部分もあるだろう。

影の部分のみに焦点をあて、針小棒大に「悪逆非道の日本軍」のキャンペーンを張る沖縄紙には辟易する。

「日本軍は住民を守らなかった」というイデオロギーまみれのスローガンが、いかに歴史を歪めているかは上記記事を読めば自ずとわかる。

記事は、皮肉にも「軍は住民を守らなかった」ではなく、

「住民が軍人を守った」ドラマを伝えているが、

そもそも「鬼のような日本軍」だったら、金城さんのように自分の身の危険も顧みず、山本少尉を助けたりはしなかっただろう。

そこに見えるのは自分の身の安全より、相手のことを気使う人間の心の尊さが描かれているではないうか。

このようなドラマは沖縄の新聞では、最近ではほとんど報じられることはない。

そんな中、「慰霊の日」の翌日24日の琉球新報社会面のトップを飾ったのは次の「見出し」であった。

「祈り 命を尊ぶ世界に」

「せめて子供たちへ・・・」 佐藤安枝さん 地獄の体験切々と

 この記事で紹介されている佐藤安枝さんとは、あの佐藤優氏の母上のことである。

記事は次のように始まる。

<戦前、那覇市にあった昭和高等女学校の元生徒で、埼玉県在住の佐藤(旧姓上江州)安枝さん(77)が、戦後60年以上を経て、沖縄戦体験を語り始めている。>

安枝さんら三姉妹は、浦添市の意思部隊の軍医部部に勤めるが、石部隊の師団が首里へ移動すると、同市に入ってきた旅団に就くが、直ぐに首里へ移動を開始する。

金城さんたちは、米軍の激しい攻撃の中、浦添から首里へ逃避行を続ける。

<旧真壁村の壕から、左脚が付け根から切れた軍曹を肩で支えて逃げようとしたが歩けなかった。 先に逃げろという軍曹に従えずにいると、軍曹に怒鳴られ、一人先へと走った。 「置いていったことを今でも思い出す」。つらい記憶を語る。>

佐藤さんは助けられずに置いていった日本兵のことを思い出して、今でも胸を痛めている様子が伺える。 

当時、わずか14歳の少女が、左脚が付け根から切れた軍曹を肩で支えて逃げることが出来ず、やむなく置いて逃げたことを、誰がとがめることが出来よう。 

あの状況では不可抗力だったのだ。 あの軍曹のことを思い出すことはあっても、もうこれ以上贖罪意識にさいなまれる必要はないと佐藤さんに伝えたい。

 

奇しくも二組の「沖縄女性と負傷した日本兵」のドラマを紹介したが、彼らの間には、冒頭に羅列した見出しのような「憎悪に満ちた住民と日本軍」の関係は読み取ることは出来ない。

そこに見えるのは、自分のことより相手のことを慮るいたわりの精神である。 

このように究極の場所で人間の尊厳を表すような証言は、「戦争賛美につながる」とのイデオロギーの下、沖縄の新聞からは姿を消してて久しい。

「軍は住民を守らない」をスローガンにを掲げ、日本軍糾弾のキャンペーンを張る報道姿勢に怒りを覚える、

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タイムス、新報はサヨクの機関紙だ!

2008-07-01 07:12:36 | ★集団自決

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沖縄の新聞は、左翼の機関紙だといわれて久しいが、昨年の「教科書検定意見公表」以来、特にその偏向度合いが顕著になってきた。

今年になって、「集団自決訴訟」が地裁から高裁へと戦いの舞台を移して、裁判が長期戦の様相を呈してくると、沖縄タイムス、琉球新報の紙面は、被告側応援団の「場外バトル」の場と化してくる。

以下の記事の「集会」はその典型である。

 

「軍事力なくし」暴力被害阻止へ 北谷で憲法9条シンポ

6月30日

教科書問題などの視点から論議する(左から)安里共同代表、石原教授新川さん高里さん=29日、北谷町のちゃたんニライセンター

 「沖縄の米軍基地と憲法9条6・29シンポジウム」(沖縄9条連主催)が29日、北谷町のちゃたんニライセンターで開かれた。大学教授らが安里英子沖縄9条連共同代表の司会で、憲法9条を教科書問題、本土復帰、性暴力などの視点から議論した。

 
石原昌家沖国大教授は国防族や歴史修正主義者らの動き、援護法の狙いなどについて説明。「援護法によって(沖縄戦体験が)捏造(ねつぞう)されているにもかかわらず、これが常識になってしまった」と指摘した。
 ジャーナリストの新川明さんは援護法について「国に戦争責任を問うた上で補償要求すべき問題だったと思う。なぜそれができなかったのか。なぜうちなーんちゅは自ら進んで(日本政府へ)すり寄っていくのか。沖縄人の精神構造のゆがみを取り除かない限り、将来展望は開けないのではないか」と指摘した。
 高里鈴代基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表は、本土復帰によって米軍基地が減り、完全になくなることを期待したが「平和憲法があるのに、基地は拡大されむしろ強化されている」と述べ、現実は憲法が適用されていないとした。「起こり続けている暴力をなくすには軍事力をなくし、見直すことしかない」と強調した。

                                           ◇

 

 >石原昌家沖国大教授は国防族や歴史修正主義者らの動き、援護法の狙いなどについて説明。「援護法によって(沖縄戦体験が)捏造(ねつぞう)されているにもかかわらず、これが常識になってしまった」と指摘した。

石原教授は「集団自決」問題では、「軍命あり派」の論客の一人だが、「援護法」と国との関係を研究する学者でもある。

だが、学究としての立場で、調べれば調べるほど、「軍命は厚生省援護課、琉球政府援護課そして村の援護業務担当者の共謀による捏造」という「不都合な事実」が浮かびあがってくる。

学者としての良心とイデオロギーの狭間に立たされて困惑しているのではないか、と当日記は勝手にご同情申し上げるのだが・・・。

最近、「集団自決」の呼称が不適切であるとして、「集団強制死」を使うべきとする論文を書いておられると聞く。

「軍命あるいは強制」の有無を論争しているのに、最初から「強制死」とレッテル貼りを主張するようでは、石原教授もやはり学者としてより、イデオロギストとしての立場で「集団自決」を見ているのがわかる。

「集団自決」を言いかえるのなら、「集団強制死」よりむしろ、

集団無理心中」と表現した方が、問題の本質をよく言い表していると思うのだが。

ジャーナリストの新川明さんは援護法について「国に戦争責任を問うた上で補償要求すべき問題だったと思う。なぜそれができなかったのか。なぜうちなーんちゅは自ら進んで(日本政府へ)すり寄っていくのか。

このお方は沖縄タイムス記者から同社社長、そして会長にまでまでなった方だが、

新聞記者時代には本土復帰前の初の国政選挙に際し、

「国政参加選挙拒否」の署名記事を連載し、

波紋を広げたこともある極左思想の持ち主である。

島ぐるみで勝ち取った「祖国復帰」にも、そっぽを向く「反復帰論者」である。

1972年5月15日の「祖国復帰」の日。

那覇市の与儀公園にある那覇市民会館では、国旗を掲げて君が代斉唱で「復帰祝典」が粛々と行われた。

その同じ時、同じ場所の与儀公園で、

日本復帰に反対する「県民大会」が行われていたが、

雨の中その大会に参加した市民たちが心の支えとしたのが、

新川明氏が唱える「反復帰論」だと言われている。

だが何よりも、保守派とみられる琉球大学の三人の教授によって発表された「沖縄イニシアティブ論」に先頭を切って噛み付いた人物で、

その後沖縄タイムス紙上で行われた、左翼学者総動員による「袋叩き」の仕掛け人といった方がわかりやすい。

以後、沖縄の保守系学者は沖縄の新聞の論壇から放逐されるようになる。 

つまり沖縄の二紙を左翼学者が独占するような現状のきっかけを作った人物でもあるのだ。

結局、上記記事のような左翼集会も「集団自決訴訟」控訴審の応援運動、

つまり「場外乱闘」と考えると新聞の意図が読み取れる。

沖縄タイムス、琉球新報は「プロ市民」の機関紙である、

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