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7月1日は沖縄タイムス創刊60周年記念日とのこと。
常日頃タイムスのことは悪口ばかり書きまくって、ブログのネタにさせてもらっているが、
創刊60周年はめでたい話なので四日遅れではあるが、ここに祝意を表したい。 おめでとうございます。
7月1日の社説に創刊号の「通貨切り替え」の話があるが、沖縄タイムスの創刊が米軍の軍票・B円から米ドルへの通貨切り替えに絡んでいたの話があり興味深い。⇒【本紙創刊60年】信頼を大事にしたい
ちなみにライバルの琉球新報は、設立 明治26年9月15日というから日本の新聞の中でも歴史のある方だろう。
沖縄タイムスの過去の記事に創業当時の詳細が記されているが、当時の沖縄は1945年(昭和20年)4月1日の米軍本当上陸前後に発令された「ニミッツ布告」の管理下にあり、新聞も米軍の管理下にあったことはわかるが、
米軍大尉の「すぐ(新聞発行)許可願いと計画書を出しなさい」との初代社長になる高嶺朝光氏らへ対する生々しい言葉が記録されており、興味は尽きない。
1948年、米軍政府のハウントン大尉の『すぐ(新聞発行)許可願いと計画書を出しなさい』との声に初代社長になる高嶺朝光氏、座安盛徳氏らの創業者たちは沖縄タイムス創刊の活動を始める。
結局、米軍に発刊許可願いを出したのが、その年の五月十五日、実際に許可が下りたのは六月二十八日だった。
<創刊号はその三日後の七月一日に出されるが、実はその二日前に「通貨切替断行さる」という見出しの号外が出される。創刊号より先に号外を出したことは日本の新聞史上でもユニークなスタートとして特筆されている。このことについて創刊当時の同人の一人、上間正諭が「別冊新聞研究聴きとりでつづる新聞史」(一九八二年十一月)で次のように振り返っている。
「米軍側が発刊許可証をくれるから来いというんで、座安のお伴で行った。ハウントン大尉が出てきて許可証をもらったが、その時、『ビッグニュースがあるけど、明日、すぐ新聞を発行できないか』といきなり言ってきたようだ。座安は即座に『よし、やります』と言って、英文で打った一枚のコピーをもらってドアから出てきた。これはB円(軍票)の通貨切り替えの発表だった。私はそれを持ち帰って、翻訳を依頼して民政府財務部長の当銘のコメントを取材、牧港と二人で新聞づくりを始めた」>(沖縄タイムス 1998年1月20日 朝刊 6面)
沖縄タイムスが米軍の広報新聞として発刊されたとはよく言われることだが、上記記事を読むと、さらにその感を深くする。
戦後の沖縄では、米軍軍票・B円が流通していたが、これを米本国と同じ米ドルに切り替えて本格的に占領政策を強化しようと計画したとき、
この重大な出来事を沖縄全地域に知らしめるために広報誌の必要性を感じた米軍政府ハウントン大尉の『すぐ(新聞発行)許可願いと計画書を出しなさい』という言葉に表れている。
沖縄タイムスの初仕事は米軍の沖縄占領政策中でも最も重要な政策である「米ドルへの通貨切り替え」の告知であったことは沖縄タイムスの創刊時の性格をよく表している。
一九四八(昭和二十三)年七月一日の沖縄タイムスに載った「創刊のことば」は次のようなものであった。
< 戦後四カ年今なお荒廃した沖縄には戦前の姿を見出すことは出来ない、吾々(われわれ)の生活はまことにみすぼらしいものではあるがしかし決して失望してはならぬ、
今吾々は建設に努力している、建設は新らしい文化の創造であり、吾々の生活を豊かにし更に子孫に傳(伝)える文化を築こうというのだ、そこに希望が輝き勇気が湧き起ってくる、吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に對(対)する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である。
吾々は今日からこのささやかなる新聞を同胞諸君に送る、誠にお粗末なものではあるが、沖縄の復興に歩調をあわせて、吾々の新聞もまた成長して行くであろう、新聞の使命は重大だ、これを十分はたしていくことを念願して努力を捧(ささ)げよう。(原文のまま、カッコ内は真久田による)
執筆したのは社長の高嶺朝光だが、周りの幹部と十分協議した後がうかがえる。>(沖縄タイムス1998年2月3日 人物列伝 沖縄 戦後新聞の足跡(5) )
こうして沖縄タイムスの記事から、沖縄タイムス創刊の当初の重大任務が「米軍票から米ドルへの通貨切り替え」の告知だったことがわかり大変興味深いが、60年後の7月の1日の創刊60周年記念日にあたり、社長挨拶や社説で60周年の決意を語っている。
同じ日のコラム「茶のみ話」にタイムス創刊にも関係のある「B円軍票の償却処分」と題する興味深い話があるので紹介したい。
筆者は、北中城村にお住まいの中地名常さんという75歳のお方。
戦後まもなく、中地さんのお父さんは泡瀬にある干潟で共同で塩つくりをはじめた。
ある日、腰にピストル、カービン銃で武装したMPが袋に詰まったB円軍票を持ち込んできて、塩たきかまどで焼却するようにお父さんたちに命じた。
さー、ここでお父さんの知恵がフル回転を始めるが、以下はご本人のコラムから引用。
<塩たきかまどは粘土で築かれ、火が燃えやすいようにロストル(火格子)が敷かれていた。・・・・B円を焼きにMPは定期的にやってきた。 そこで、父たちは20円の札束をくすねる仕掛けを作った。 かまどの奥に穴を深く掘り、空き缶を埋めて水を張った。 火かきを使って札束を落とした。 ・・・・・・・・B円を焼きにきたMPのジープが塩田から去ると、父たちは、素早くかまどの火を消した。 取り出したB円紙幣は水にぬれ、端が焦げて使用不能。 一攫千金の夢は真夏の空に消えていった。>
カービン銃で武装したMPに一泡吹かせようと策略するお父さんたちの姿が彷彿として愉快になるが、このMPたちもお父さんたちと同じ考えを持たなかったのだろうか。
空想は60年の時を越える。
MPたちは考えた。
毎日トラックで焼却に持ち込むB円・軍票は、そのままくすねて隠匿しても、そのうち使用できなくなる。
だが、これを一旦くすねて米ドルに交換し、その米ドルを防水したドラム缶に密封し、それをどこかに埋める。
焼却するB円・軍票の管理は粗雑のようなので、隠匿した米ドルのドラム缶の巨万の米ドルは我々のもの。
何しろ、軍票・B円などと違って米ドルは世界の通貨だ。
ほとぼりが冷めたころ発掘に戻るつもりで帰国したMPたちは、望みを果たさぬまま病没してしまう。
後に残されたのは隠匿場所を書いた一枚の地図。
MPの遺品の中からこの一枚の地図を見つけたMPの孫が、お祖父さんの隠した財宝を求めて沖縄にやってくる。
さー、これから始まる宝探しの大冒険!
血沸き肉踊る秘宝発掘の話は・・・、
バカバカしいので、このへんで止めます。
さて、7月1日・沖縄タイムス60周年記念日の社説の一節。
< 新聞は今、かつてない厳しい環境に立たされている。
ネット時代の到来によって若者の新聞離れが急速に進んだ。市民の自由と権利を守るはずの新聞が集団的過熱報道などの形で報道不信を招いている。
そのような時代だからこそあらためて、新聞ジャーナリズムが果たすべき役割は何なのかを問い直していきたい。>
【本紙創刊60年】信頼を大事にしたい
>市民の自由と権利を守るはずの新聞が集団的過熱報道などの形で報道不信を招いている。
え! これって60周年を機に、沖縄タイムスが懺悔したってこと?
まさかね。
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