狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

鰹と亡き師を肴に初夏の酒宴 ロストロポーヴィッチ追悼 その2

2007-05-03 07:17:28 | 音楽

◆鰹のたたきでで亡き師を偲ぶ

昨日友人N君宅で鰹のたたきで小宴を開いた。

同じく仲間のK君が釣りで鰹を大漁し、そのお裾分けにあずかった次第。

鮮やかな包丁捌きで鰹を捌いて素人離れの腕前を披露してくれたのはN君。

彼が先日物故した世界的チェロ奏者ロストロポーヴィッチさんを勝手に師匠と仰いでいた事を前稿で触れた。

◆参考:世界的チェロ奏者ロストロポービッチさん死去

話題は変ること止め処もないのは何時もの事。

旨い酒と肴で暫し時の経つのを忘れたが、結局は亡き「師匠」の話に及んだ。

実はN君、「師匠」についての当日記を見た後、友人間のプライベイト・サイトに次のような追悼文を配信していた。

≪○君、久しぶりです。<O:P></O:P>

師が無くなり意気消沈しているところです。師との付き合いは、かれこれ40年ぐらいになる。LP時代にハイドンのチェロ協奏曲1番、2番を買ったのが始まりである。勿論、ジャケットの写真でしか顔を見ていなかったので、どのように演奏しているのか皆目見当が付かなかった。<O:P></O:P>

今から25年前にレーザー・ディスクが出て、レーザー・ディスクの音楽盤第一弾としてロストロポーヴィッチとカルロ・マリア・ジュリーニ、ロンドン・フィル協演のドヴルザークとサン=サースのチェロ協奏曲集(1982録音、録画)が出た。ロストロポーヴィッチ55歳の映像と音楽である。ドボコンは、貴君が動画として貼り付けたものと同じである。勿論其のときLDCDプレーヤー(CDLDは、1981年にほぼ同時に発売されている)と件のディスクを購入したのは言うまでもない。<O:P></O:P>

以来、このディスクを視て、訊いていたが、25年前といえば、チェロから遠く離れ、チェロを弾こうなどとは夢想だにしなかった。貴君も承知のようにチェロの練習を再開したのは5年前である。以来何十回、何百回とディスクを再生し天才演奏家の技術を盗もうと日夜努力しているのはいうまでもない。もっともロストロポーヴィッチは、技術が盗まれていることを知る由もない。<O:P></O:P>

彼が、微に入り細に渡り映像と音を残してくれたことは、大家を師としてもてない素人には大変ありがたいことである。我々が高校生の頃ハイフェッツの映画を見てヴァイオリンとはああいう風に弾くものかと感動し、感激したのを覚えているだろうか。映画では、何回も繰り返し見ることは出来ず、只唖然としただけである。それに比べると、このLDは、師と呼べるほどに有り難いものである。<O:P></O:P>

話は替わるが、陛下ほどに教示を受けた師であれば、追悼演奏で安らかに眠ることも出来ようが、一度も見えなかった者の追悼演奏では、寝覚めも悪かろう。寝覚めは無いか。≫

 

◆毎日新聞が追悼記事

身に覚えのない「弟子」の追悼演奏で巨匠が寝苦しい思いをして寝覚めてくれるのが喜ばしい事かどうかはともかく 、遅くまで鰹と亡き師を肴に久しぶりに酒が進んだ。

奇しくも昨日の毎日新聞が巨匠を偲んで追悼のコラムを書いていた。

亡き師の人柄を表す<日本も愛し、音楽家の育成に貢献した。指揮者の小沢征爾さんと岐阜県などで無料演奏会も開いた。外国で村から村へ音楽をプレゼントして歩いた体験からといい「音楽はみなのもの」の思いがにじむ>という件は同じ感慨を持つ。

美智子皇后陛下の古希の祝いに、ご自身も心もチェロを弾かれる天皇陛下の前で巨匠はお祝いの演奏をした。

その一方巨匠自ら、日本の山村でクラシック音楽に縁のないお爺さんお婆さんのを集めお寺の講堂で無料演奏会をしたりもした。

その様子はNHKの番組で放映された。

彼の日本びいきを伝える毎日新聞の追悼記事で巨匠も今度は安らかに永眠できるだろう。

合掌。

毎日新聞 筆洗
2007年5月2日

 愛称を「スラーヴァ」と言った。先日、八十歳で死去したロシアの世界的なチェロ奏者で指揮者のムスチスラフ・ロストロポービッチ氏だ▼民主化運動に加わって迫害を受け海外に移ってから市民権を奪われた。ペレストロイカ(改革)で復権し、十六年ぶりに帰国したとき、人々が空港で掲げた看板は「ロストロポービッチに栄光(スラーヴァ)あれ」。愛称とロシア語で栄光を意味するスラーヴァとをかけた言葉だった▼かつてこう語った。「人間にとって困難や闘いは有益なことですよ」(ソフィア・ヘントヴァ『ロストロポーヴィチ』)。それも支えだったか。保守派クーデター未遂では市民とビルに立てこもってエリツィン氏を励ますなど、闘士と言うにふさわしい▼心の底にあるものは人間や芸術への深い愛情だったのだろう。日本も愛し、音楽家の育成に貢献した。指揮者の小沢征爾さんと岐阜県などで無料演奏会も開いた。外国で村から村へ音楽をプレゼントして歩いた体験からといい「音楽はみなのもの」の思いがにじむ▼「自分は世界市民でありたい」と語り、一方で「祖国は常に私の心の中にある」。それは両立する気持ちだったに違いない。死去はとりわけロシアの人に惜しまれようが、その生涯は魂の気高さや「栄光」というものを教え続けるはずだ▼「この組曲ほどかけがえのないものはありません。神がいろいろな色を与えてくれた。涙も笑いもすべての色が凝縮されています」。六十五歳で録音したバッハの無伴奏チェロ組曲を聴けば、氏の深い人生と重なり合うようでもある。

 

 【追記】17:35

ベルリンの壁の前でバッハを演奏するロストロポービッチの貴重な動画をアップしておきます。

http://www.youtube.com/v/zPRDU_KIuZI

 

 

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