狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

『震える舌』(ふるえるした)は、三木卓

2024-07-13 14:04:46 | 政治

震える舌』(ふるえるした)は、三木卓1975年に発表した小説河出書房新社より刊行され、後に新潮文庫および講談社文芸文庫として刊行された。また、これを原作とした1980年公開の日本映画である。

破傷風菌テタノスパスミン)に侵された少女と、その両親を題材にした作品。三木が自分の娘が破傷風菌に感染した時のことをモチーフとして描いている。

あらすじ[編集]

ある日、マンションの近くで泥んこ遊びをしていた女の子・三好昌子が、落ちていた小さなで手にケガをした。よくあるケガだと思い自宅で一般的な消毒などをしたが、数日後に歩き方がおかしいことに気づいた父の昭と母の邦江が聞いてみると、昌子は「歩けるけど、歩きたくないの」と言い、話し方もどこかいつもと違う。昭と邦江は昌子を病院に連れていくが、「大したことはない」と診断され、取り合ってもらえない。やがて昌子は痙攣を起こし、自身のを噛み切って悶え始めた。大学病院での専門医による検査の結果、昌子は破傷風にかかっていることが判明し、隔離された病室に入院することになった。

数億年前から生き延びてきた破傷風菌は人間の中枢神経を毒素で侵し、潜伏期を経て発症した患者の生還率は極めて低い難病をもたらす。昭は有史以前の微生物が昌子に及ぼす理不尽な災厄に慟哭し、邦江は自責の念に錯乱状態となっていく。ちょっとした光や入院患者たちの笑い声などでも痙攣などの発作が起こってしまうため、防音されて真っ暗な部屋で昌子を献身的に世話をする昭と邦江は看病疲れにより精神的に追い込まれるが、昌子は主治医・能勢らの必死の治療や、昭と邦江の献身的な看護により助かる。

意識が戻った昌子に何が欲しいかと尋ねると「チョコパンが食べたい」と答え、身体は闘病で弱っているので、能勢が消化の良い別のものを告げるも、なお昌子は、「チョコパンだよー!」と叫ぶ。その声に、ようやく病室には笑い声が響くのだった。

コメント (1)

★★❷ゲンショウ、沖縄を歪めた戦後史の大ウソ

2024-07-13 13:35:38 | 政治
 

 

筆者は中学時代を米軍統治下の沖縄で過ごした。

当時、大東亜戦争の敵国アメリカを学校ではどのように教わっていたか。

アメリカを総大将とするGHQは、敗戦と同時に日本に乗り込んできて、自由と民主主義を、日本に指導するのがその目的の大半であった。

つまりGHQは自由と民主主義の本家・正義の連合国の一員であり、一方枢軸国の一員日本は、悪の独裁国の典型という構図だ。

■【戦果】をあげる

そこでもう一つ、学校で教わったアメリカ礼賛の言葉がある。フランクリン・ルーズベルト米大統領のニューディール政策である。

学校で教わったF・ルーズベルトの政策は、1929年以降世界を襲った世界大恐慌を、フランクリン・ルーズベルトがニューディール政策でアメリカを救ったというものだ。

 ニューディール とは、「新規まき直し」の意味で、救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform)の3Rを政策の理念として、アメリカ合衆国の経済を再建し、ドイツ・日本などのファシズム国家の台頭という危機への対応や社会主義国ソ連との関係の修復などの外交課題にあたろうとするものであった。

1939年の第二次世界大戦勃発後は、戦時体制へと転換していく。

ニューディール政策は多岐にわたるが、関連する国内主要法令は次の6項目に要約される。とは、「新規まき直し」の意味で、救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform)の3Rを政策の理念として、アメリカ合衆国の経済を再建し、ドイツ・日本などのファシズム国家の台頭という危機への対応や社会主義国ソ連との関係の修復などの外交課題にあたろうとするものであった。

■ニューディール政策の要点

銀行および通貨の統制:閉鎖された銀行の再開と通貨の管理。すべての銀行はきびしく連邦政府の監督を受け、健全な再建ができるところには貸し付けが行われ、救済不能な銀行は整理された(グラス=スティーガル法)。

また1933年4月19日には金本位制は停止され、金銀貨や硬貨は回収され政府に委託。合衆国政府当局の発行し管理する紙幣に切り替え、従来の紙幣と金銀貨を交換する権利は廃止された。

これで巨額の金銀をもつ銀行が持っていた合衆国の通貨発行への支配力はなくなった。


財政救済策:

財政難となった財産所有者および法人に対する連邦政府の貸付け。
農民の救済:小麦、とうもろこし、綿花、食肉などの膨大な余剰を従来のように外国に売りさばくと言うのではなく、また国内市場の拡大をはかるのではなく、生産を削減し、それによって生じた減収は補助金で償う、という農業調整法(AAA)の制定。個人の自由な経営に任され、国家はそれを統制してはいけないという従来の慣例を打破し、政府が農民の生産をコントロールしようとしたことが画期的である。


私企業の規制と奨励:

膨大な在庫と失業者に苦しむ産業界に対し、全国産業復興法(NIRA)を制定。建設活動に活気を与え労働者に購買力をつくりだす目的で、テネシー川流域開発公社(TVA)など公共土木事業に対して数十億ドルの支出を認め、また就業と生産と国内販路を増加促進するため商工企業を組織化し、需要に対する供給の調整、価格の協定を認めた。一方で、株式市場における投機の行き過ぎや大会社への融資の行き過ぎを抑える目的から証券取引委員会を設置した。
労働者の保護:全国産業復興法は雇主と被雇用者の団体協約権を規定したが1935年最高裁が同法の大部分を憲法違反と宣告、そこで議会は全国労働関係法=ワグナー法を可決し、団体協約の尊重を規定、その施行のために全国労働関係委員会が設立された。
社会保障の充実:要扶養や失業や貧困や老齢という特定国民層への社会保障を充実させようとして、数十億ドルの予算を立て、就業促進対策本部の設立し、1935年には社会保障法を制定した。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史 』 P.444-447 などによる>
ニューディール政策の経済学上の理論的裏付けとなったとされるのがイギリスの経済学者ケインズの理論であった。しかし、1933年段階ではF=ルーズヴェルトは直接ケインズと話し合っているわけではなく、またケインズの主著であり、その理論を体系的に述べた『雇用・利子および貨幣の一般的理論』が発表されたのは1936年である。

              ★

 

■親川元帥とマッカーサー元帥

私が中学時代の頃、同じクラスに親川ゲンショウ(漢字の名前は忘れた)という友人がいた。

親川君は、あだ名は「元帥」と呼ばれていたが、どちらかというと目立たない少年で、あだ名をつけられても特に嫌な顔をする様子はなかった。

あだ名の理由は彼の名がゲンショウと発音するので、当時戦勝国の英雄として著名なマッカーサー元帥の語呂合わせでゲンスイ呼ばれていた。

親川君は口数も控えめで、少なくとも彼の言動が英雄とは縁遠いものであった。

 

■沖縄戦後史を歪めて集団自決の歪曲報道は『鉄の暴風』に始まる。 『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダ本として米軍の厳しい検閲の結果だということを示す比較的最近の沖縄タイムスの記事がある。

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

<翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

現在のスーパーイオンライカム店は、米軍民政府のあったライカムの跡地に設立されている。上記記事の意味するところは、『鉄の暴風』の発刊にも米国の許可が必要であったことを示している。

                   ◇

これに加えて沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている。

こんな記述は珍しい。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう。

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも公表だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らかである。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

<1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)

■「鉄の暴風」は沖縄版「真相はこうだ」

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。

<苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

大江岩波集団自決訴訟で、「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であった。このような歴史の真実を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる。

大江・岩波訴訟で判決のあった3月28日以降も、大江健三郎著『沖縄ノート』増刷されていることについて、原告代理人の徳永信一弁護士「大阪地裁判決を無視した行為であり、大阪高裁で行為の違法性が証明されるだろう」と語った。

■1月18日

マッカーサーの置土産

『鉄の暴風』は、後に沖縄タイムス社長になり豊平良顕氏の監修で、戦前からのベテラン記者牧港篤三、そして米軍民政府に勤務していた太田良博の3人で執筆することになった。それまで一読者に過ぎない太田は『鉄の暴風』の執筆を機タイムス社に入社した。
 
同書の執筆開始以来、取材三カ月、執筆三カ月の予定で、春から夏にかけて突貫工事で脱稿した。
当時、タイムス社は那覇市崇元寺の向かいにあって、社屋はカマボコ型トタン屋根だった。編集局と隣り合わせた総務局のかたすみで、ひとつの机をはさんで、牧港と太田が向き合って、取材した資料を整理した。勿論現在のようなクーラーや扇風機さえない当時、夏の炎熱がトタン屋根にあたるため、部屋の中は、むし風呂のようであった。
 
当時トタン屋根の校舎で授業を受けた、沖縄の中学生は皆むし風呂地獄を味わっている。
年長者の豊平と牧港は、沖縄戦の体験者で、戦記編纂に対する熱意も体験から出たものだったが、体験者でもなければ記者としては素人の太田は、一度も現地に取材することも無く、なかば両氏の熱意に引きずられたような形であった。
執筆が終わると、原稿は全部アルバイトに清書させていた。
 
また、英文の全訳をアメリカ軍政府に提出する必要があったので、琉球大学の翁長俊郎に依頼して翻訳させた。当時、あのていどの本を出版する設備が沖縄にはなかったからで、結局、朝日新聞(東京)の刊行となった。
それには「現代人による沖縄戦記」というサブ・タイトルがついていた。
 
それから、ちょうど二十年を経た一九七〇年、沖縄タイムス社から『鉄の暴風』第二版が出ている。第二版では、初版の副題はとりのぞかれて、単に「沖縄戦記」としてある。第二版は同社で印刷製本したようだが、東京の朝日新聞で刊行された初版とくらべると、紙質といい印刷、製本といい、はるかによく、時代の流れを感じさせる。
 
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が沖縄戦を描いた最初の出版物と言われるが、
『鉄の暴風』がでる前に、すでに不戦兵士・市民の会の古川成美著の『沖縄の最後』がでていて、これが沖縄戦に関する最初の戦記だった。

そして古川 成美著『沖縄の最後』こそが『鉄の暴風』のネタ本であった。

本職の牧港記者は執筆前に「戦記もの」に目を通していたが、記者としては素人の太田が執筆前に目を通していたのはトルストイの「戦争と平和」などの文学作品や、吉川成美著『沖縄の最後』を読んでおり、特に『沖縄の最後』については「文章が美しく、映画のシーンを見るような鮮やかな印象を与えられた場面がいくつかあった」などと文学青年の心情を告白していた。

つまり戦前からのベテラン記者牧港篤三をさしおいて、それまで米軍民政府の職員だった文学青年・太田良博に執筆を委ねた真意を、後に『集団自決の真実』を著した本職の作家曽野綾子は、「戦記というより文学作品」などと褒め殺しで、すでに見破っていた。さらに曽野は太田の対談で『鉄の暴風』の表現を「戦記というより講談の類とこき下ろした。

英雄的であったのではない。元帥と呼ばれたら何のためらいもなく返事をしていたほどだ。

その当時のアメリカの大統領はアイゼンハワーだったが、戦後わずか十数年しかた経っていない米軍統治下の沖縄ではあったが、かつての敵国アメリカの大統領アイゼンハワーの名は知らなくても、マッカーサー元帥の名を知らぬ者は居なかった。それ程マッカーサーの勇名は沖縄の少年たちの心をとらえていた。

マッカーサーが沖縄の少年にカッコよく映っていたのは、彼がGHQの最高司令官として軍用機バターン号で厚木飛行場に降り立った時の映像が、沖縄の少年の脳裏に英雄のように刷り込まれていたのだろう。

■マッカーサーと覇を競った従軍記者

想い出ついでに、当時の沖縄の中学生が英雄として尊敬した人物を挙げてみよう。沖縄戦で米海兵隊に従軍したアーニーパイル記者のことだ。

アーニーパイルは、沖縄に上陸して後、進軍の途中で見た沖縄の村の様子についてはこう書いている。
 「実際に見た沖縄は、アメリカの大抵の土地とさして変わりなかった。海兵隊にとってはここ三年見てきたどこよりもアメリカに似ていた。気候も熱帯というよりも温帯的で、植物もそうだった。海岸にはたぶんパンダナスの茂みと思われる熱帯植物もあるにはあるが、枝を水平に張っている樅の類が豊富に生えている。私のいた隊が最初の2日間に通過した村はきれいに耕されていた。海岸から小さな段々畠がなだらかに延びているところなどインディアナ州の、ものみなが乾燥しはじめて褐色を帯びる晩夏のころをまざまざと思わせた。」
 

4月16日、アーニーパイルは沖縄での最後の取材をするために、米海兵隊第77師団とともに伊江島に上陸した。

2日後の18日、アーニーパイルは連隊の指揮官とジープに乗って前線に向かった。
村はずれにさしかかったとき、道路脇の丘に隠れていた日本兵から機関銃の狙撃を受けた。ふたりはジープから転がり出て、傍らの溝にうつぶせになった。

やがて、辺りが静かになったので、様子を見ようとパイルが頭をあげたとき、再び銃弾を受けた。銃弾は鉄かぶとの縁の下から、アーニーパイルの左こめかみを撃ちぬいた。
従軍記者アーニーパイルは、こうして戦場で命を失った。44歳だった。

「同僚ならびに兵隊からも将軍からもひとしく愛された従軍記者アーニーパイルは、今朝日本軍の機関銃弾に左こめかみを貫かれ、ついに戦死した。アフリカから沖縄にいたるまでのあらゆる戦線から報道を書き送った有名な寄稿家の死は午前10時15分、司令部から約一哩前方であった。(琉球諸島、伊江島司令部にて)」(「ウルマ新報」4月18日発のAP電)


アーニーパイルが犠牲になった3日後、伊江島は完全に米軍の手に落ちた。

その後、彼が戦死した場所に墓標が建てられ、沖縄戦終了後の7月1日、米軍によって除幕式が行われた。

碑には、こう記されている。

「第77歩兵師団はこの地で、戦友アーニーパイルを1945年4月18日に失う」

 

今では沖縄県人でさえアーニーパイルの名を記憶している人は少ない。

ただ、内外の観光客で賑う現在の国際通りの真ん中に位置するテンブス館に辛うじてその名を留めている。

現在の那覇市テンブス館界隈に、「アーニーパイル国際劇場」という映画館あった。 そこから、国際通りの名前がついた。

当時は何もなかった国際通り周辺に、戦後の人々に娯楽を楽しんでほしいとの事から米軍政府と琉球政府の協力で民間会社がこの劇場を建設し、アメリカの従軍記者で第二次世界大戦中に沖縄地上戦で亡くなったアーニーパイルの名前を付け、「アーニーパイル国際劇場がある通り」から「国際通り」と呼ばれるようになった。

国際通り(向かって右方向が現在の県庁方面)アーニーパイル国際劇場

日本は戦争中は鬼畜米英と言ってた敵国の総大将マッカーサーが復讐の年に燃えて日本占領を開始したが、マッカーサーの巧妙な占領政策では世界に類を見ないほど成功を収めた。

日本国民はマッカ―サーを、戦前の軍国主義日本から日本を解放しに来た自由と民主主義の伝道師として敬意の眼差しで仰ぎ見た。 

そして、マッカーサーがトルーマン米大統領により解任され日本を去る時は日本国民がその占領政策に謝意を示した。

「マッカーサー様、ありがとう」と約40万通の 感謝の手紙を送り、マッカーサーに日本の首相に成って欲しいと懇願する国民もいたくらいだ。

さて沖縄の中学校で親川君が親川元帥と呼ばれていたころ、学校の授業では日米戦争の事をどのように教えていたか。

米軍は『鉄の暴風』を出版する前に、米軍の出版許可を必要とし、手始めにラジオ放送による川平アナウンサーの朗読で、一般県民の洗脳に取り掛かった。

マッカーサー率いるGHQの占領政策は、公職追放に絡む日本の「非軍事化」であった。だが切り札はもう一つあった。

それは民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。

これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。

言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、占領軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。

GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。

 
そう、GHQの公職追放は、沖縄の中学生にまで「マッカーサーは正義の味方」という情報を刷り込まれていた。

20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。

■「真相はこうだ」の沖縄版が「鉄の暴風」だった。

12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形式で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。

CIE(戦後設立、CIAの前身)の手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。

放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。

■逆コース

ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。

こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。

文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。

■沖縄の公職追放

GHQ司令長官マッカーサーは、日本で行った「公職追放」は沖縄では実施しなかった。ところが後でわかったことだが、実は沖縄でも「公職追放」の影響を受けていたが、次の理由で「公職追放」の実施を免れた。

マッカーサーは沖縄を永久占領し、米国の領土にする予定であった。

マッカーサーは沖縄を永久占領するため、これまで米軍統治下にのみ流通していたB軍票を米国本土と同じドルに切り替えた。

■「コーンパイプの煙幕」が半世紀後の中学生の精神に食い込んでいった。

マッカ―サのコーンパイプの催眠効果は沖縄の中学生に持続していた。
「コーンパイプの魔のけむり」が、ボディブローのように効いててきた時--アメリカという名の巨大な生き物が、日本の精神文化の隅々にまで浸透し、この島国の社会全体を被いつくしてしまった時でもあったのだ。

コメント (7)

続・米兵中学生暴行事件  似て非なるものだよ 

2024-07-13 04:59:29 | 政治

 

続・米兵中学生暴行事件  似て非なるものだよ 2008-02-13 10

 

「米兵女子中学生暴行事件」

 

娘を持つ親の身としては不愉快な事件だし、容疑者が「米兵」というだけで左翼マスコミが大騒ぎすることを考えても不愉快なので、

 

スルーしようかと思ったが、昨日は記録保存の意味で一応エントリーしておいた。

 

今日は琉球新報に連載中の佐藤優氏のコラム「ウチナー評論」についてイチャモンを付けてみようかと過去記事を読み返していたのだが・・・。

 

だが、想定内だったとはいえ、地元紙のこの事件に関する異常な報道振りに、急遽予定変更で「米兵の中学生暴行」の続編を書いてみたい。 

 

今朝はエントリーが遅れる~!

 

何しろ当初は単なる「ナンパ」と思われた事件が、日本全国、いや、世界中を駆け巡っているというから開いた口もふさがらず涎も垂れ流しの有様。(涎はウソです)

 

<琉球新報によると、米兵女子中学生暴行事件を受け11日、米ニューヨークタイムズ紙、ワシントンポスト紙、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙、タイム誌、報道チャンネルのCNNなど米主要メディアや、アラビア語衛星テレビ局アルジャジーラ等が、インターネットで事件を報じた。AP通信、ロイター、AFP通信など記事を配信した。(琉球新報2月12日夕刊)>

 

 

 

朝日新聞:天声人語 2008年2月13日

小さなかごに、あまりに多くの卵を入れている」。何年か前に沖縄を訪れた米国防総省の元高官は言い表した。「かご」は沖縄の本島、「卵」とは米軍基地のことだ▼国土の1%にも満たない土地に、国内の米軍専用施設の75%を抱え込む。「基地の中に沖縄がある」と言われるさまは、米国高官にも異様に映ったらしい。実際に、那覇市から車で北へ走ると、フェンス囲いの「卵」が次から次へと姿を現す▼小さなかごの中で、幾度となく繰り返されてきた米兵による性犯罪が、また起きた。38歳の海兵隊員が女子中学生に暴行した疑いで逮捕された。家まで送ると言って誘い、車内で乱暴したという。少女は泣きながら携帯で助けを求めた▼島の怒りの源流は、1955年にさかのぼる。海岸で女の子の遺体が見つかった。雨に打たれ、手を固く握りしめていた。沖縄を怒りで震わせた「由美子ちゃん事件」である。6歳の子は米兵に暴行され、殺された▼あまりのむごさに、島ではしばらく、生まれた子に「由美子」と名づける親はなかったと聞く。以来、米軍は事件のたびに「良き隣人になる」と誓いをたてた。だが、そのつど裏切る。沖縄には怒りのマグマが蓄えられていった▼そのマグマは、95年の少女暴行事件で爆発する。米軍は綱紀粛正を約束した。だが、嵐の日の約束は晴れれば忘れられるのか、その後も犯罪はいっこうに絶えない。そして「またか」の涙である。五十年一日のように事件を繰り返されては、「汝(なんじ)の隣人を愛」せるわけがない

                       ◇

朝日新聞は何とかして「無抵抗な少女を凶悪な米兵が拉致して強姦した」という印象操作をしたいようだ。

昨日の沖縄タイムスの「号外」に始まり、今朝の地元紙の異常とも思える過熱振り、更には朝日の巧妙な印象操作。

これらのマスコミコミ報道に、ささやかなブログで立ち向かうことは、逆巻く怒涛に泥舟で乗り出す愚者の誹り、いや、蟷螂の斧の誹りを受けるだろう。

だが、己の非力も省みず記録保存の意味でもあえて再度書いておきたい。

琉球新報夕刊の一面に「人工衛星」というショート・コラムがある。

 

昨日(12日)は次のような記事があった。

<米兵におびえる生活はもう嫌。 女性徒が訴えて12年余。 再び襲った悲劇。 

                    ◇

少女の心の痛み。 察するに余りあり。 人権を平気で踏みにじる罪重く

                    ◇

綱紀粛正」はもう聞き飽きた。 平和な島を返して。 それが県民の願い(以下略)>

 

                    ◆

 

■似て非なる三つの「米兵少女暴行事件」

思い入れたっぷりの上記名文?に水を差すようだが、今回の「事件」と12年前の「事件」は当事者が米兵と未成年者という共通項だけで、事件の本質は根本的に異なる。

上記コラムの女生徒が訴えるように米兵におびえる生活であったなら、夜の繁華街で安易に見知らぬ米兵の誘いに応じてバイクの相乗りなんてするがずはない。

 

同じように冒頭に引用の「天声人語」も三つの似て非なる事件を意識的に同じレベルで取り扱っている。

>沖縄には怒りのマグマが蓄えられていった▼そのマグマは、95年の少女暴行事件で爆発する。米軍は綱紀粛正を約束した。だが、嵐の日の約束は晴れれば忘れられるのか、その後も犯罪はいっこうに絶えない。

12年前の事件とは、毎日新聞「社説:沖縄米兵事件 凶行を二度と起こさせるな」が正直に吐露するように「小学生の幼い女児を米海兵隊員3人が車で拉致して」暴行した「由美子ちゃ」である。

これは100%罪のない小学生を米兵三人がかりで殴りレンタカーで誘拐、テープで縛って暴行を加えるという100%米兵に罪のある事件である。 

言うまでもないが被害者の少女には責められるべき一点の非もない。

県民による怒りの抗議デモが各地に広がったとしても当然のことである。

同じく「天声人語」は55年前の「由美子ちゃん事件」と今回の「事件」を無理やり同列に扱おうとする。↓

 >島の怒りの源流は、1955年にさかのぼる。海岸で女の子の遺体が見つかった。雨に打たれ、手を固く握りしめていた。沖縄を怒りで震わせた「由美子ちゃん事件」である。6歳の子は米兵に暴行され、殺された

惨殺された由美子ちゃんの遺体は無残にもゴミ置場に投げ込まれ近所の人に発見されたという。 

1955年、・・・「人道的な米兵」を沖縄タイムスが賛美した『鉄の暴風』発刊の5年後の事件である。

しつこいようだがこの事件も犯人(ハート軍曹)に100%の罪があり、被害者の由美子ちゃんに一点の責められるべき非もない。

ぼろぎれののようにゴミ置き場に遺棄された由美子ちゃんと、米兵の誘いにのこのこ付いて行った女子学生を同列に扱われたら、天国の由美子ちゃんも浮かばれないだろう。

(【追記】 ちなみに加害者の米兵は軍法会議で死刑に処されている。

翻って今回の「事件」も上記二つの事件と同じように「加害者」とい「被害者」とを「100%か0%」と罪を白黒で分けられるのか。

マスコミの必死の印象操作にも関わらず報道記事を詳細に読めば「事件」の曖昧さや「灰色部分」が炙り出されてくる。

 

この手の事件の報道は通常記者クラブの警察発表に始まる。

事実地元紙の警察発表への反応がこの事件の曖昧さを象徴している。

沖縄タイムスは「よくある米兵のナンパ」とでも思ったのか11日の朝刊ではこれをスルーした。(ウェブ記事)

琉球新報も記事内容は「米兵のナンパ」だが、オーバーな見出しで「拉致」としなければボツになる程度の事件だった。↓

 

女子中学生、車で拉致 外国人の男逃走  (琉球新報 2/11 10:54)

 < 沖縄署の調べによると女子生徒は、午後8時半ごろ沖縄市上地のミュージックタウン音市場前で、大型バイクの男に誘われて後部座席に乗り、その後、車に乗り換えたという。女子生徒は友人7、8人と遊びに来て、1人だけ行ったという。>

<午後10時50分ごろ、女子生徒は北谷町北谷の安良波公園付近で車から降ろされていたところを警察に保護された。>

ところが一夜明けて被害者の女子中学生が「強姦された」と前日の証言を翻す。

沖縄タイムスがスルーしたロスを取り返すように「号外」を出したことは昨日触れた。

結局、焦点は「ナンパのトラブル」か「強姦」に絞られる。

朝日新聞は必死で「凶暴な米兵の毒牙にかかった罪もない少女」と印象操作に励む。

以下はその代表的記事。 

 

「また米兵か」憤る沖縄 少女、携帯でSOS(02/12)

<その時間帯、少女が連れ込まれた容疑者宅は、北中城村(きたなかぐすくそん)の高台にある一軒家。周囲の住宅街には街灯もほとんどない。少女は歩いて逃げ出したが、すぐに容疑者に追いつかれ、ワゴン車に乗せられた。

 移動中も車から降りようとしたが、逃げられなかった。北谷町(ちゃたんちょう)にさしかかった時、少女は逃げるために「ここで友達と待ち合わせしている」とうそをついた。

 沖縄本島を南北に貫く国道58号を挟んで、米軍基地の反対側。近くには米兵が集まる店もあるが、容疑者は薄暗く、人通りも少ない住宅街の裏通りに車を止めたという。 >

 

まるで「街灯もない高台の一軒家」に少女が暴力で引きずり込まれたかの印象を与える名文?だが、地元紙は容疑者の自宅近辺の様子を次のように報じている。

 

現場は住宅街

住民ショック 言葉失う

容疑者宅を捜索  <日本人女性複数出入り

近所の住人によると、ハドナット容疑者は笑顔で挨拶を交わすなど気さくな人柄。 しかし、自宅には複数の若い日本人女性出入りし、トラブルになったこともたびたびあったという。 近所の外国人女性は「犯行当日の夜、ハドナット容疑者の自宅から『ゴーホーム(帰る)』という女性の声を聞いた。 喧嘩をしている様子で、その後すぐに『プリーズ』(お願い)という声が聞こえ、車が出て行った。 こんなひどい事件になるとは思わなかった」とまゆをひそめた。 別の日本人女性は「気さくな人だったが、何時も違う女性が出入りしていておかしいと思っていた。怖いので、もうここにはもどってこないでほしい」と憤った。(琉新報 2月13日朝刊)

容疑者の自宅は「高台の一軒家」という印象とは逆の「隣の痴話げんか(「帰る」「お願い」)が聞こえる程住宅の密集した場所。

何よりも被害者は「天声人語」が言うように、他の二事件と同じように「暴力的に」自宅へ連れ込まれたのではなくオートバイの後部座席で運転手に抱きついてきたのだ

マスコミは揃って建前論しか報じないが、この事件を「不良外人と不良中学生のトラブル」と断じるブログもあるが、問題は容疑者の自宅に付いて行った経緯と「やった」か「やらなかった」かで様相が異なる。

この手の事件は「犯行直後」に証拠物件が残存するわけで、当日は「トラブル」だったのが一夜明けて「強姦」を主張しても証拠が残存するのかどうか。

専門家ではないが素人考えでも不可解だ。

この種の事件で問題になるのは「犯人」の身柄引き渡しについて立ちふさがる「日米地位協定」の壁だが、95年の事件を受けて、米国側は殺人や強姦などの凶悪犯罪の場合に限って日本側に「好意的な考慮を払う」ことに同意している。

今回は米軍側の素早い対応から言って日本側での裁判が予想されるが、くれぐれも「民意」で判決を下すような愚を犯して欲しくない。

ヒル米国務次官補 沖縄米兵暴行事件で遺憾の意 加藤駐米大使に2.13 08:57

例え世間的には「不良米兵と不良女子中学生の事件」ではあっても、日本の刑法で言えば加害者と被害者だ。 厳正に法律に照らして罰するところは厳重に罰して欲しい。

歴史の書き換えを「民意」で迫ったのと同じ手法で、「民意」で判決を迫ったらこれは人民裁判になる。

だから身柄引き渡しは駄目なのだといわれないような厳正な裁判にして欲しい。

世界が注目しているのだ。 

100%米兵が悪い、米軍基地が悪いと一方的論調で大合唱するマスコミの中で、夜の繁華街を徘徊して見知らぬ米兵の誘いに安易に応じた女子中学生の非をも突くような次の発言はGJ

渡海文科相が不快感、学校に注意喚起へ2.12 10:10

「教育の徹底を」 新岩国市長の福田氏2.11 21:42

 

【おまけ】

在沖米軍トップのリチャード・ジルマー四軍調整官(中将)が謝罪して大丈夫だろうか・・・。

米兵が犯した犯行だから直接の「命令や強制」が無くとも「ジルマー中将の命令で事件が起きたことは明白だ」なんて左翼マスコミが騒ぎ出したらどうするのだろう。

現に「米軍基地があるから犯罪が起きる」と言っていますよ、ジルマーさん。

 知事、再発防止訴え/米兵暴行事件

四軍調整官に抗議
 米兵による女子中学生暴行事件で、在沖米軍トップのリチャード・ジルマー四軍調整官(中将)とケビン・メア在沖米国総領事らが十二日、県庁に仲井真弘多知事を訪ね、事件について「心より遺憾に思う」と謝罪した上で、沖縄署の捜査に全面的に協力する考えを示した。仲井真知事は「こういう事件が続くと、県民の怒りが頂点に達し、今後の基地問題に深刻な影響を与えかねない」と指摘。再発防止に全力を挙げるよう求めた。一方、シーファー駐日米大使と在日米軍トップのライト司令官が十三日急きょ来県、県庁に仲井真弘多知事を訪ね、謝罪する。

 昨年12月、沖縄本島中部で16歳未満の少女を車で誘拐して自宅に連れ去り、性的暴行を加えたとして、わいせつ目的誘拐と不同意性交の罪に問われた嘉手納基地所属の空軍兵長の男(25)の初公判が12日午後、那覇地裁で開かれ、男は「私は無実です。誘拐もしていなければレイプもしていない」と起訴内容を全面的に否認した。

 起訴状によると、被告の男は昨年12月24日、本島中部の公園で少女に「寒いから、車の中で話さない(か)」などと声をかけ、車で自宅に連れ去り、室内で性的暴行を加えたとされる。

[代表質問] 島袋大 令和6年第2回沖縄県議会6月定例会

 

辺野古「座り込み」開始から10年 「オール沖縄」が集会

 

不法抗議容認し続ける玉城氏

抗議集会に集まった「オール沖縄」の人々=7月6日、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ前

米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブへの移設工事に反対する「オール沖縄」勢力の座り込み抗議活動開始から7日で10年となるのに合わせ、6日、ゲート前で抗議集会が開かれた。抗議活動ではこれまで、公道に違法テントを設置したり、資材の搬入車両の通行を妨害するなど、不法行為が横行しており、先日警備員の死亡事故まで起こっているが、玉城デニー知事はこれらを取り締まることはせず、容認し続けている。
(沖縄支局・川瀬裕也)

ダンプ事故で警備員死亡

市民団体「暗黙の了解」主張

「第43回県民大行動」(主催=辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)が開かれた6日、キャンプ・シュワブのゲート前には1200人(主催者発表)が集まり、フェンスの前で一列に並び、「新基地建設を今すぐやめろ」と声を上げた。

基地反対派らは、2014年7月、沖縄防衛局が移設工事に着手したのに合わせ、同7日からゲート前での座り込みを開始。米軍基地のフェンスに無許可で横断幕を設置したり、公道に違法テントを立てるなど、不法行為が横行していた。

これらの活動には地元住民からの苦情が相次ぎ、基地に隣接する名護市久辺3区(辺野古区、豊原区、久志区)が、これらの抗議活動に対して、違法駐車の取り締まりやテントの撤去などを県警や関係機関に要請していたが、不法な抗議は常態化し、改善はみられぬまま10年が経過した。

座り込み抗議の日数を記録した看板=2023年、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ前

本来、不法行為を取り締まる立場にあるはずの玉城氏は、これらの抗議活動を容認し続けているどころか、たびたび応援メッセージを送っている。6日に開かれた集会でも「皆さまの辺野古新基地建設反対運動に対する強い思いと奮闘に心からお礼申し上げる」と激励している。

そのような中で6月28日、名護市の安和港付近で移設工事に使用する土砂運搬用のダンプを交通誘導していた警備員の男性と抗議活動を行っていた女性がダンプカーに轢(ひ)かれ、男性が死亡する事故が発生した。現場では、女性含め3人が車両の通行を妨害するための「牛歩」を行っていたという。

地元紙などによると、現場で抗議活動を行っていた市民団体のメンバーは、これまで、抗議者1人が牛歩で道路を渡り終えると、警備員が車両を1台送り出すことが、現場の「暗黙の了解」だったとして、「6月に入ってから、警備員が強引に車両を2台続けて出すようになった」などと主張し、警備側の責任を追及している。しかし、この「暗黙の了解」には法的根拠があったわけではない。

7日には、関係者立ち合いの下、警察が現場検証を行い、現場付近に設置された防犯カメラの映像などと照らし合わせながら、抗議活動中に違法行為がなかったかも含め、慎重に捜査を進めている。

長年抗議活動を主導してきた山城博治氏は、6日の集会で事故の件について、「反対派が悪いからこうなるんだという言い訳がインターネットで蔓延(まんえん)しているのが悔しくてならない」などと語ったが、不法行為が横行する抗議活動を続けてきた以上、批判は免れないだろう。

 
 
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
コメント (7)