2004年の大江・岩波「集団自決」訴訟の被告として沖縄でも馴染みの深い大江健三郎氏が神経症を患い、文筆活動が出来ないという。
大江氏は、集団自決の現場である座間味島・渡嘉敷島には一度も足を踏み入れることも無いままに、「デタラメの暴風」と揶揄されるほど間違いだらけの『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)を鵜呑みにし、その著書『沖縄ノート』(岩波書店)で梅澤裕氏ら元戦隊長らに「罪の巨魁」などと罵詈雑言を浴びせ、梅澤氏らにより名誉毀損で提訴された。
原告側は「集団自決に軍命は無かった」を争点に論陣を張ったが、判決は、例え「沖縄ノート」に事実誤認があっても、タネ本の『鉄の暴風』は、当時沖縄戦研究の決定版として知られており、大江氏が間違いを「事実として信用しても仕方が無かった」(真実相当性)として、原告の訴えを退け、名誉毀損は成立しなかった。
結局、原告敗訴が確定したが、判決はあくまで名誉毀損請求の不成立であり、原告が意図した「軍命の有無」については明確な判断を避けた。だが被告の「軍命はあった」との主張は事実上否定された。
つまり挙証責任のある原告が軍命を立証できなかったので、事実上軍命が無かったことが裁判で証明されたことになり、裁判上は梅澤・赤松両隊長の「集団自決を命令した」という汚名は雪がれたことになる。
その大江健三郎氏が酒浸りの神経症で病院通いだという。
まさか英霊のタタリではないと思うが・・・。
大江健三郎氏 長編執筆から4年…「神経症療法」病院通いの今
投稿日: 2017年08月10日 06:00 JST
7月下旬の朝、都内にある大江健三郎氏(82)の自宅前には一台のタクシーが止まっていた。妻・ゆかりさん(81)と同伴女性に連れられて、車の中へと乗り込んだ大江氏。そのまま15分ほどタクシーを走らせた。向かった先は、都内の大学附属病院だった――。
57年に作家デビューすると、58年に23歳で芥川賞を受賞した大江氏。以降も数々の賞に輝き、94年にノーベル文学賞を受賞。後年は幾度となく小説の世界から遠ざかろうとしてきたが、13年10月に長編小説『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』を上梓。だが以降約4年、新しい小説は発表されていない。そんななか“心配の声”が囁かれているという。
「大江さんは『晩年の仕事をどう完結させるのか』と葛藤を抱え続けており、近年は『もう書けないかもしれない』と悩んでいたそうです。大江さんはもともと外に出てストレスを発散させるようなタイプではありません。最近は自宅で好きな日本酒やビールを1人で飲む時間が多くなり、奥様も大江さんの身体を心配しているみたいです」(大江氏の知人)
7月下旬、玄関先には資源ごみとして大量のビールの空き缶や日本酒の空き瓶が置かれていた。翌日、冒頭のように都内の大学附属病院を訪れていた大江氏。彼らが迷うことなく向かったのは、院内にある精神神経科施設。そこには「森田療法」と書かれていた。
森田療法とは、19年に精神科医・森田正馬氏(享年64)が確立した神経症に対する精神療法。対人恐怖や広場恐怖などの恐怖症、強迫神経症、不安神経症、心気症などが主な治療対象。近年では慢性化するうつ病や、がん患者のメンタルケアなどでも用いられるという。
本誌が目撃したこの日、約1時間後に施設から出てきた大江氏たちは会計窓口へ。同伴女性が対応している間、大江氏はゆかり夫人とあまり会話もせず座ったままうつむいている。そして再びタクシーに乗り込むと、自宅へと戻っていった――。
ノーベル賞作家・大江氏はもう小説を書かないのだろうか。本誌はその真相を聞くべく、自宅へ向かった。7月下旬のお昼ごろ、自宅から出てきた大江氏に声をかけた。
――大江先生、突然申し訳ありません。
記者の問いかけに、「はい」と言って足を止める大江氏。女性自身の記者であると明かした上で、囁かれている“心配の声”をぶつけた。
――先生が小説を書けないと悩んでいらっしゃるとお聞きしました。
「いえ、悩んでおりません」
――お酒の量が増えていて、奥様もご心配されているとお聞きしましたが……。
「お酒もあまり飲みません。(妻も)心配しておりません。私たちは健全です」
その後も質問を続けようとしたが、名刺を受け取ると足早に去っていく。大江氏の声は終始力強く、治療への不安は感じさせなかった。
☆
【おまけ】
梅澤裕隊長永眠す
沖縄発のコラム:美ら風(ちゅらかじ)
沖縄戦時、座間味島で米軍と戦った元陸軍海上挺進第一戦隊長の梅澤裕(うめざわ・ゆたか)氏が6日、兵庫県の自宅で逝去した。97歳だった。ドキュメンタリー作家、上原正稔さんによると、6日午前中に病院から退院して自宅に戻った後、午後3時30分、「苦しい姿を見せず、安らかに旅立った」(梅澤夫人の美奈子さんの話)という。
梅澤氏は、昭和19年、27歳で挺進隊長として座間味島に着任。同20年3月25日、住民の宮里盛秀氏らの自決用弾薬要求を断り、「最後まで生き残って闘おう」と諭した。翌26日、米軍が座間味島に上陸、住民多数が自決した。同6月上旬、梅澤氏は戦闘で負傷し、米軍の捕虜となり、同21年1月、日本に復員した。
同32年、座間味島で援護法適用調査があった時、戦時中婦人部長だった宮城初枝氏が長老の指示で隊長命令の偽証をした。自決が軍命なら援護法が適用されやすかったからだ。これがもとで、梅澤氏は「集団自決の軍命を出した」との濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた。宮城初枝氏と再会した際、「命令したのは梅澤さんではありません」と告白された。
しかし、大江健三郎氏の『沖縄ノート』などで「極悪人」と称されていたため、平成17年8月、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長(故人)の弟とともに大江氏と岩波書店を提訴。一審、二審で軍命について「断定できない」としながらも、名誉毀損の不法行為責任はないとして敗訴。
その後、上原さんが梅澤氏の無実を記載しようとした連載を一方的に中断した琉球新報社を相手に提訴、昨年7月、控訴審で原告側が逆転勝訴。上告を断念した琉球新報社が、「軍命がなかった」ことを認める結果に。
「梅澤さんは決して人を憎まなかった真の英雄」と上原さんは語った。(H)