沖縄への誤解に冷静な対応を
まず自らが襟を正そう
主体的に「復帰」選んだ県民
今年も5月15日の日本復帰記念日がやってきた。沖縄の主要2紙も例年通り特集を組んでいた。
「復帰特集」の今年の特徴は、沖縄ヘイトが増えたことを強調したところにあるだろう。沖縄県民と本土との溝は深まるばかりで嘆かわしい。沖縄はもっと自己主張をして本土の人たちの沖縄への誤解を解くべく努力しなければならないという趣旨だ。
沖縄タイムス社からは、『これってホント!? 誤解だらけの沖縄基地』という書籍が出版され、沖縄県も米軍基地問題に関するQ&A形式のパンフレットを作成した。いずれも、本土において、沖縄に対する誤った情報や根拠のない中傷が広がっており、基地問題の解決を遠ざけているという認識からのものである。
ネットを見ると、確かに明らかに誤解に基づいた沖縄ヘイト、沖縄バッシングが最近増加しているように思える。「事実に基づいて議論する」ということは基本中の基本であるから、事実関係をひとつひとつ丁寧に明示していこうとする沖縄県や新聞社の行為は評価されるべきであろう。
しかし、なぜこのような状況を招いたのであろうか。これまでの沖縄県の広報の在り方や新聞報道の内容や方法にも要因があったのではないか、という反省的な視点はほとんど見られない。このような状況になることは、既に私が10年も前から指摘し憂えていたことであるが、残念なことにいわゆる「沖縄側」の主張は相も変わらず、「沖縄が歴史上そして現在もいかに苦難を強いられてきたのか」の一点張りである。
「理解してもらう」ためには自らが信じる「事実」や「正義」を振りかざすだけではなく、工夫が必要だろう。そしてその前に、事実認識に対する態度をより厳格にしていく努力が求められる。
今年の新聞記事で気になったのは、相変わらず、「識者」が沖縄の本土復帰を否定的に解釈しようとしていることだ。
ある大学教授は、「沖縄が望んだから『復帰』できたと思う人が多いが、そうではない。日本政府が復帰は必要だと判断したから実現した」(琉球新報5月14日)とコメントしている。確かに、沖縄の日本復帰が実現できたのは、日米両政府のさまざまな思惑と駆け引きの中で、それぞれの政府の判断があったからである。しかし、それは国家間の問題として当然のことであって、今さら指摘する必要もないことである。あえてこのような表現をするところに、「復帰はさせられたものである」という「識者」の意図が表れている。
日米の政府に「復帰は必要だと判断」させたのは沖縄県民である。もし「復帰運動」があれほどに強烈に盛り上がらなければ両政府は「現状維持」を選択したであろう。生命の安全を保障された下での現在の基地反対運動とは異なり、当時の運動はまさに命懸けであった。米兵に拳銃を突き付けられた中での当時のデモの映像を見るとわれわれの先輩たちがどれだけ必死であったのかがよく理解できる。
「識者」はさらに、「沖縄の将来を決める権限を日本政府に持たせてしまった。復帰ではなく『沖縄返還』と位置付け、どこに返還するのか、日本か、琉球か、交渉権は誰が持つのかなどの議論が当時は不足していた。これからも考え続けるべきだ」と主張しているが、私にはこの主張がほとんど理解できない。当時の沖縄県民あるいは琉球政府にそれを実現させる可能性があったとは到底考えられないからである。ちなみに、復帰直前の1968年に行われた初の行政主席選挙では、復帰に反対し琉球独立を唱えた候補の得票率は1%にも満たなかった。
沖縄県民は「日本復帰運動」によって、自らの意思で「日本国民」であることを主体的に選択したのである。だからこそ、その運動を自ら「復帰」と呼んだのだ。
もう一人の「識者」は復帰に関する県民意識調査結果に対して、「復帰して良かったことで『米軍基地被害が減った』が4%にとどまり、悪かったことで『米軍基地の被害が増えた』43・7%と他の項目に比べて突出している。(略)『被害が増えた』の回答はこの10年で18ポイント増えて」いると解説している。(琉球新報5月9日)
すでに多くの人が指摘しているように、米兵による犯罪(米軍構成員等事件)の件数も人数も復帰直後に比べて激減している。「事実」として被害は減っているのに、感情的に「増えた」と思っている人が多いのはなぜなのか? そのことを分析し解説することこそが「識者」の役割だと思われるが、まるで事実として「増えた」と印象付けようとする沖縄の「識者」は、新聞にお墨付きを与えるのが仕事だと言われても仕方ないであろう。
確かに沖縄に対する誹謗(ひぼう)中傷は増えたと私も思う。事実に基づかない誹謗中傷に沖縄県民として腹を立てることも少なくない。しかし、沖縄問題や沖縄県民の感情を本土の人に理解してもらうためには、より冷静で是々非々の態度が求められる。まず自らが襟を正すべきなのだ。このままでは「どっちもどっち」と呟(つぶや)かれておしまいである。
(みやぎ・よしひこ)