瀬長亀次郎氏が出て来た時もこうだったのだろうか。18日、那覇拘置支所前の群衆の中で、1956年の光景を想像した。

山城博治議長

 瀬長氏は復帰前、絶対権力だった米軍と闘い、微罪で1年半投獄された。当時の沖縄刑務所は今の拘置支所のすぐ近く。出所した時、門の外にはやはり多くの市民がいた。笑顔で右手を高く挙げ、応える写真が残っている。

 山城博治議長の場合はどうか。市民が歌い出した。山城議長はカチャーシーを舞い始め、輪が広がった。

 それは辺野古や高江で山城議長が育ててきた運動の形だった。機動隊と激しく衝突する一方、歌や踊りを取り入れ、なるべく幅広い層が来られるように心掛けてきた。

 形は、山城議長が不在の5カ月間も引き継がれた。政府はリーダーを現場から引きはがして打撃を与えることには成功したが、市民はしぶとく抵抗を続けた。

 18日歌われた「今こそ立ち上がろう」は山城議長の作詞。「沖縄の未来(みち)は沖縄が拓(ひら)く」と始まる。歌も闘いも、県民の最低限の願いを代弁している。

 瀬長氏は「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」という言葉を残した。その通り、瀬長氏の投獄は逆に市民の怒りに火を付け、米軍はついに沖縄占領を続けることを断念した。

(北部報道部・阿部岳)

勾留ありきの検察立証 森川恭剛教授琉球大(刑法)

 保釈は当然だ。人質に取られたままでは弁護人も裁判を争うこと自体が難しく、無罪を主張するほど勾留が長期化しないか不安だった。検察官の有罪立証に対する防御権がやっと保証された形だ。遅きに失したが、勾留の必要がないことを、裁判官が初公判でやっと理解できたということだ。勾留理由の「罪証隠滅の恐れ」は、単なる言い掛かりで職権乱用と言える。

 しかし、被告人であることから解放されたわけではない。行動の自由が制約され、キャンプ・シュワブのゲート前に立つことも禁じられているだろう。関連する集会参加などにも影響が及ぶかは不明だが、共犯とされる男性など、会える人物にも制限があるだろう。

 初公判を傍聴したが、検察の立証は勾留ありきで、時間稼ぎの人権侵害裁判だ。証拠のビデオ映像は公訴事実前のシーンに終始した。本気で有罪にしたいのか、とあきれる展開だった。検察官は直ちに起訴を取り消し、裁判所は訴訟手続きを打ち切るべきだ。(談)

                 ☆

>瀬長氏は「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」という言葉を残した。その通り、

 まるで、沖縄のガンジーを髣髴させる瀬長賛歌だ

だが瀬長氏は当時非合法であった共産党員であることを隠し、那覇市長に当選した。 また犯人隠避の罪状で投獄されている。

結局、瀬長氏は米軍の財政援助なくしては市の公共事業が成り立たないのを承知で米軍に反抗し、米軍が株主の琉球銀行からの融資を凍結され、辞任に追い込まれることになる。 現在の那覇市の泉崎橋が工事途中のまま長期間放置され、那覇中学や上ノ山中学に通学する生徒が大迷惑したことを昨日のことのように思い出す。

沖縄の歴史は沖縄の歪曲した新聞記事が創作するといわれる。

一旦活字化された記事は、記事が一次資料として看做される。

そして沖縄の歴史として刻まれる。

>瀬長氏の投獄は逆に市民の怒りに火を付け、米軍はついに沖縄占領を続けることを断念した。

この文言を見ると、米軍が沖縄占領を断念した理由が瀬長氏の「米軍への抵抗」であるかのような錯覚を与える。

デタラメな記事で沖縄の歴史を改竄するのは止めにしてほしい。

【追記】

 以下過去記事の引用である。

瀬長亀次郎と稲嶺進 2011-01-21

稲嶺名護市長の「反米軍基地」のかっこいい訓示を聞いて、米軍統治下で那覇市長を務めた瀬長亀次郎氏のことを連想する。

瀬長は、共産党が禁止されていた米軍統治下の沖縄で、日本共産党やコミンテルンの支援を受けていることを隠して、地域政党の沖縄人民党の所属で1956年、那覇市長選に出馬し当選を果たす。 だが瀬長市が事実上の共産党員であり、沖縄人民党が米軍の目を欺く仮の姿であることは支配者の米軍は勿論当時の沖縄住民の「知る人ぞ知る事実」であった。 では瀬長市を市長に選んだ那覇市民のほとんどが共産党にかぶれていたかというと、勿論そうではなかった。 瀬長氏の演説が巧みなのは他を圧しており、方言交じりの「ウチナー大和口」は、小難しい政治の話には縁遠いおじー、おばーでも何かひきつけるものがあった。 特に方言で訴える「アメリカの悪口」を聞いた那覇市民が日ごろの米軍への鬱憤晴らしをし、米軍に睨まれている瀬長氏に判官びいきで投票したものと考えられた。 筆者の父などは「下手な沖縄芝居を見るよりカメジローの演説を聴いたほうがよっぽど風刺が効いて面白い」といってよく演説を聞きにいったものである。  

瀬長氏を隠れ共産党と看做し蛇蝎のように嫌っていた米軍側は、瀬長氏が那覇市長に当選して穏やかに済ますわけには行かない。 当時、米本国から沖縄視察に来沖した米高官を空港に迎えにいった琉球政府の副主席が、タラップを降りた米高官に歓迎の握手を求めた。 ところがその高官、「おー!セナガ?」と驚愕の色を浮かべて握手を拒否したという。 当時の副主席は瀬長浩氏で、瀬長は瀬長でも瀬長違いだと後でわかって大笑いしたという逸話が残っているくらい瀬長氏は米軍に嫌われていた。

瀬長市長に対する米軍側の対抗処置は露骨であった。 米軍出資比率が51%の琉球銀行による那覇市への補助金と融資を打ち切ったのだ。 そのため瀬長市政は運営の危機に見舞われるが、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとした。瀬長氏が当選する前の納税率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼった。そのおかげで一時の急場はなんとかしのいだが、全てを米軍の援助でまかなってきた市政が自主財源で運営できるはずも無く、継続中の道路工事や架橋工事がそのまま放置された状況に陥り、瀬長市長は一年足らずの短命で辞任に追い込まれることになる。 瀬長氏は以後、反米軍のシンボルとして、左右を問わず沖縄政界の人気者になり、沖縄初の国政参加選挙でn衆議院議員に当選する。 そして1972年の沖縄返還後は「隠れ共産党」の仮面を剥いで日本共産党に所属し、共産党副委員長などを歴任する。 ちなみに保守論客の小林よしのり氏は、著書『沖縄論』の中で「隠れ共産党員」である極左政治家・瀬長氏のことを極端に英雄化した「亀次郎の戦い」を掲載している。  筆者の感想としては小林氏の過剰な沖縄への思い入れが、瀬長氏を偶像化し過ぎてしまったきらいがある。

脱線が長びいたが、瀬長氏の経験した米軍統治下の那覇市政と現在の稲嶺氏の名護市政を同じ視点で論じるわけには行かないが、「米軍関連の補助金」を拒否して、市民の納税に頼って自立を試みる市政は良く似ていると思う。

そうそう、瀬長市政の頓挫で想いだすのは、現在の那覇市役所から国道58号に抜ける道と国道に架かる泉崎橋が工事途中で長い間放置され、交通の障害になっていたことが当時中学生だった筆者の記憶に「露骨な米軍の圧力」として鮮明にに残っている。

今も昔も政治に理想は不可欠である。 だが、理想だけで現実を見誤るとそのツケは大きな負担となって有権者に降りかかってくる。

現在の民主党政治の体たらくが生きた見本であるが、果たして稲嶺名護市長の理想はどうなるのか。 瀬長市政とは時代が違うとはいえ、米軍関連の援助を拒否して自立市政を目指すのは理想としては同じもの。 くれぐれも名護市が、瀬長市政の轍を踏まないことを望みたいものである

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