狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・昭和天皇と沖縄、空手の普及

2013-07-24 07:16:53 | ★パンドラの箱訴訟

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 参院選は、自民党県連と自民党本部との政策の捩れのため、糸数慶子氏の「反戦平和」に惜敗した。

「八重山教科書問題」を報じる、八重山毎日や沖縄2大紙を見る限り、八重山地区は反日サヨクの島の印象を全国に撒き散らした。

ところが実際は、八重山地区では安里候補が圧勝していた。

新聞が報じる民意がいかにデタラメかがわかる、参院選の結果だった。

■八重山日報 2013年7月22日

八重山攻防は安里氏 1万票超、自公底堅く

 参院選の八重山攻防では安里政晃氏が1万632票を獲得し圧勝。安里氏の議席奪取は実現しなかったが、八重山で自公選挙協力体制の底堅さを改めて見せつけ、8月の与那国町長選、来春の石垣市長選に向けて弾みをつけた。

 安里氏は福祉の現場で働いてきた実績や、母親が石垣市出身であることをアピールし、アベノミクスを活用した景気回復を第一に訴えて浸透を図った。比例区で公明が擁立した河野義博氏(35)とのセット戦術で、自公の組織票を生かした選挙戦を展開した。▼全文は「新聞オンライン.com」で
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

参院選では革新系現職の糸数慶子氏が…

 参院選では革新系現職の糸数慶子氏が当選したが、八重山では自公の安里政晃氏が勝利。衆参の「ねじれ」は解消されたが、選挙結果では沖縄本島と八重山の「ねじれ」が出現した◆理由はいろいろと考えられるが、第一に、八重山の現状は革新に対して自公が優位という選挙力学が挙げられる。昔から「八重山は保守と革新が半々で、公明がついたほうが勝つ」という俗説があった。当たらずといえども遠からず、というところか◆選挙戦終盤に安倍首相が石垣入りした効果も大きかった。首相が本島を訪問するのは珍しくないが、八重山には復帰後初だ。離島住民の中には、首相を直接見る機会は一生に一度だという人もいる。投票率は5割を切る低迷ぶりだったが、何とか前回参院選を上回ったのは、首相の来島効果かも知れない◆いずれにせよ糸数氏が勝利者になった。米軍基地に対し、より徹底して「ノー」を突きつける姿勢が本島の有権者に評価されたようだ◆安里氏は自民公認にもかかわらず、党本部の意向にさからって普天間飛行場の県外移設を掲げたが、有権者の信頼を得られなかった。そればかりか、普天間移設が選挙戦で争点にならないという弊害も生んだそもそもの選挙戦略にボタンの掛け違いがあったのではないか。

 
            ☆

 昨日のエントリーで、説明不足の点があったので補足する。

>政府は主権が日本にあることを根拠に、着々と援護法の沖縄住民への適用の布石を開始する。

>講和発効の1952年6月、政府は総理府内に南方連絡事務所が設置し、同時に沖縄には那覇日本政府南方連絡事務所(南連)が設置された。

 那覇日本政府南方連絡事務所(南連)が設置される前に、「援護法」制定の動きが沖縄に伝わるや、それに呼応したかたちで年2月 、「琉球遺家族会」(沖縄遺族連合会に改称)を結成し、ただちに日本政府へ「沖縄の遺家族にも援護金を支給されたし」という陳情を行った。

 ところが、当時沖縄は米軍の統治下にあり、「援護法」の沖縄住民への適用には米軍の協力が不可欠だった。

■「南援」と「南連」

厚生省側と沖縄側の要請を受け、連合国軍司令部は、沖縄と奄美に日本政府南方連絡事務所の設置を、日本政府に要請しており 、そ
れをうけて7月1日には「総理府南方連絡事務局」が設置され、これを「南援」と略称された。、

一方、現地付属機関として那覇日本政府南方連絡事務所が設置され、「南連」と略称された。

そして8月には初代南連援護係として斉藤元之事務官が赴任して、月には市町村職員に援護事務講習を実施している。(沖縄県生活福祉部援護課編『沖縄の援護のあゆみ』)

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■昭和天皇と空手

昭和天皇と沖縄に関するエピソードをもう一つ紹介する。

沖縄の空手は裕仁親王が1921年、沖縄を訪問した頃は、秘伝とされ本土ではその存在はほとんど知られることはなかった。

裕仁親王は沖縄滞在中、空手の演武を見学され、実演をした富名腰義珍(後の船越義珍)が、後に空手の本土普及の先駆者となるわけだから、その時の演武が、空手の全国普及には昭和天皇が大きく関わったいたことは間違いのない事実である。

 その辺の経緯を富名腰義珍と「空手二十箇條」について(1)から抜粋引用する。

大正10年(1921)3月、時の皇太子殿下(後の昭和天皇)が巡洋艦「香取」に乗船されヨーロッパ外遊に向かう途上、沖縄那覇港に寄港された。この時、首里城正殿において沖縄第一中学校、沖縄師範学校の生徒による空手演武をご覧になり、この演武の指揮を船越が取った。「香取」の艦長は沖縄県出身の漢那憲和少将で、漢那艦長の発案した行事だったとしても、皇太子殿下へのご供覧は、政府と軍上層部の許可なくして実現不可能な時代である。その時の海軍大臣八代六郎大将は、既に空手に対する識見があり理解をもっていたことが後日知られているから、海軍大臣の後押しがあって実現したのかもしれない。演武後、漢那艦長は『本土は極めて武道の盛んなところだから、本土への紹介をするようにしてはどうか』と、船越にアドバイスしたと言われている。 (富名腰義珍師(1868~1957)、後に船越と改姓)

本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)らが本土へ渡った大正以降である。1922年(大正11年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った。この展示がきっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、講道館で嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった.

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1929年(昭和4年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。

本土で活躍する空手の大家が一堂に会した写真。左から、遠山寛賢(修道館)、大塚博紀和道流)、下田武(船越高弟)、船越義珍松濤館流)、本部朝基本部流)、摩文仁賢和糸東流)、仲宗根源和(空手研究社)、平信賢(保存振興会)。東京、1930年代。

 

■「切りは離さない」努力をした日本政府

沖縄メディアは講和条約により、沖縄を米国に、意図的に「切り離した」と政府を批判し、その根拠を「天皇メッセージ」にもとめる論調である。

ところが吉田茂率いる日本政府は沖縄を本土から「切り離さない」ように最大の努力をしたことは日本外交史上の歴史的事実となっている。

雑誌『WILL』(2013年8月号)に、坂元一也大阪大学大学院教授が寄稿した「日本の主権回復と沖縄」と題する論文を書いている。

それによると、日本が主権回復をしたサンフランシスコ講和条約の締結交渉の際に、沖縄を本土から「切り離さない」努力をした人物は吉田茂首相であり、昭和天皇であった指摘しているので、該当部分を引用する。

<(沖縄の)本土からの「切り離し」についていえば、吉田茂率いる日本政府が、主権回復に際して最も努力したことの一つは、まさに沖縄を日本から「切り離さない」ことだった。 ここで少し、政府の努力について見ておきたい。 その努力は沖縄の「潜在主権」が日本に残るという形で実を結んだが、これは決して容易にいられた成果ではないし、小さな成果でもなかった。

主権回復の三年前の1948年3月、マッカーサーは、イギリスの新聞社の取材に応え、講和後、アメリカは日本を同盟国として利用する考えはない。 戦争が起こったら場合に日本に望むのは、日本が「中立を維持すること」だけだ。 日本の役割は「太平洋のスイス」になることだ、と述べたという。 

マッカーサーの発言は、当時の日本国民は「アルプスの少女ハイジ」のイメージから、スイスを非武装中立の国と錯覚し、多くの非武装中立論者を感激させた。

だが、スイスがハリネズミのように武装した武装中立国だったため「太平洋のスイス」という話はいつしか消え去って行った。

マッカーサーが日本が「太平洋のスイス」になることを望んだ根拠を、坂元教授はこう説明している。

マッカーサーは、アメリカがその沖縄を領有して要塞化し、そこに強力な空軍力を置けば、日本の安全を守るために、わざわざ日本の国土に軍事力を置く必要はない。だから日本は中立でも構わない、と考えたのである。
私はかつての非武装中立が沖縄の将来を詳(つまび)
らかにしない。 だが、もし日本が講和時に日米安保でなく非武装中立を選択していたら、沖縄の主権は確実に放棄させられていたはずである。

私は、沖縄の戦略的価値を重視するマッカーサーのような考え方と、沖縄の主権を日本に残すということが矛盾しないこと、それをアピールして、沖縄の主権喪失をなんとか防ごうとする意図が、吉田と同様、天皇にもあったと見てよい。>

 昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、(1)沖縄住民の主権の確保、(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)、(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。

これは紛れもない歴史の事実だ。

そもそも「天皇メッセージ」とは、1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したもの。 

同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。

「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」

沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄を延命のためアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。 

だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。

寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」の重要ポイントである「潜在主権」、つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任することを、親子の場合に例えると、子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

当時世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。 その名残の一つがランチョンミート文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。

 ■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプ

米軍統治下の沖縄で1952年の講和発効の日を経験した者は、「潜在主権」という言葉を一度は耳にした経験があるだろう。だがその意味を身を以って体験した者は少ない。 沖縄出身の筆者がまだ10代の頃体験したエピソードを披露する。

少年(筆者)が進学のため沖縄を後にし祖国日本の「出入国・通関」に足を踏み入れたときのことだ。携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。 

「進学のため?」

「はい、そうです」

審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、署名しながらこう言った。

「しっかり勉強しなさいよ」

「はい」

口下手の少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。

後で、パスポートに押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。

 「そうだったのだ」。 「これが潜在主権の意味だったのだ」。

スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され審査官の署名がされていた。

少年は、「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。 

まだ復帰していない祖国は「帰国を証明する」という形で少年を迎えてくれたのだ。

それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないという疑念さえ持っていた。

ところが学校では「沖縄の潜在主権は日本にある」と聞かされていた。

そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。

少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」の意味を身を以って実感したのであった。

だが、その「潜在主権」という文言が、昭和天皇の「天皇親政」で生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを、少年はその時知る由もなかった。 半世紀以上前の日本の税関での記憶である。

 大田実海軍少将が沖縄県民に残した「善意」は昭和天皇、吉田首相そして厚生省へと 「善意のバトン」として受け継がれたのである。

【おまけ】

学徒が兵士と認められるまでに語られた国会答弁です。 

昭和30年07月04日衆議院「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」でも山下(春)委員から次のように言及されている。

沖縄の鉄血勤皇隊あるいはその通信隊等の、沖縄の学徒を召集いたしまして軍隊に使いましたその多くの者が死没いたしております。そこで、援護局といたしましては、これの援護の手は差し伸べておられることは了承しておるのでありますが、考えてみますると、この人たちは、兵隊であったという――私非常にまだたくさん持っておりますが、兵隊であったという実績がたくさん残っておるのであります。これがなぜ恩給法に行かなかったかというと、十七才未満であるからでありますが、その十七才未満でも、これはりっぱに軍服を着せまして、特にその当時の記事を見ますると、知念弘という人はこれは十五才であります。十六才はここに六、七名書いてありますが、死没後二階級特進して上等兵に進級しておるのであります。そういう点から考えますと、これはどうしてもただ援護だけでこれを処理いたしますことはどうもむずかしいように考えられるのでありますが、今日終戦後これらの人々は靖国神社に祭られることもなく、あるいはまた沖縄は日本に帰属したいと島民全体がこいねがっておるにもかかわらず、このこともかなわないというような気の毒な状態にあります。これらの人々を特にできれば現在の恩給法の中に認めていただきたいのであります。これが恩給法に認められない理由は、今は死滅したものでありますが、兵役法の中に十七才以上となっておるからだそうであります。(…)

 

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 『パンドラ訴訟』の高裁判決は、7月29日に下されます。

 ※訴訟の性格上、原告、被告どちらが勝訴しても上告が予測されます。

■カンパ協力のお願い■
琉球新報の言論封殺に戦いを挑んでいる上原正稔さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。
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【名  義】サンゼンカイ.
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