狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

連載3、「軍命自決」記述を手引き

2013-07-10 12:29:52 | ★パンドラの箱訴訟

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■7月10日付世界日報記事

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(3)
戦闘参加者概況表/「軍命自決」記述を手引き

 当時、援護法の申請に関わった関係者の証言によると、当初は厳しかった申請書の受理条件が、関係者の熱心な折衝の結果徐々に緩和され、ついには「裏の手引書」とも言える冊子「戦闘参加者概況表」によって、一般住民に対する援護法の適用が容易になった。 この冊子は、昭和32年7月頃、琉球政府が作成したとみられる門外不出の援護法適用申請の記載マニュアル。20項目を示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」の発表に合わせて発行された。取材陣が入手したものは、昭和55年に沖縄県が再版したもの。沖縄県公文書館に保管され、表紙にはカク秘の印が押されている。
 「概況表」は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」に該当する20項目について、地域と場所、そしてサンプル文が書かれており、援護法適用を申請する際に実際にマニュアルとして使用されたものだ。

<⑥「食糧供出」 概況 戦闘開始後においても軍は食糧、馬糧の供出を要請していたため、各市町村長は区長に割当て、区長は壕長(部落の避難壕毎に指名された区長の分身者)に命じ砲爆撃、機銃掃射の危険を冒して食糧を収集(芋掘り、野菜取り、豚、牛、山羊の集荷等)して軍の戦力維持に協力した。>。対象期間は昭和20年4月上旬と指定、対象地域(協力市町村)は、「西原、浦添以南の地域各市町村、北部は本部、今帰仁、羽地、国頭、大宜味」となっている。

 <⑧「壕の提供」 部隊の配備変更による壕の不足或は前線から後退した部隊のため、或は患者収容所等を新設又は拡張するため、或は作戦上の必要から部隊の壕を交換するため艦砲砲爆撃又は機銃掃射、火焔放射、ガソリンによる焼払いに晒されて死亡した者が相当多かった。>。この項目の期間と地域について、北部は昭和20年中旬から終戦まで、中部は同年4月初旬から終戦まで、南部は同年5月下旬から終戦と指定している。

 そして、日本軍のイメージを決定的に悪いものに仕立てたのが集団自決をめぐる記述だ。なお、この部分は、渡嘉敷村がホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」で引用している。

 <⑮「集団自決」 狭小なる沖縄周辺において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と行動を共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し癒々と言うときにはいさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。>。「集団自決の地域」は座間味村、渡嘉敷村、伊江村に限定し、日付はそれぞれ昭和20年3月26日、同年3月28日、同年4月21日と定めている。

 この記述により「集団自決」した者は乳幼児までも「戦闘協力者」と認定する根拠となった。当時の厚生省が琉球政府による戦闘協力者の拡大解釈を黙認したため、後世の大きな悲劇を生んでいく。「集団自決」「壕の提供」「食糧提供」の事実は後に、左翼学者やマスコミによって「軍の自決命令」「食糧強奪」「壕からの追い出し」という言葉に変わり、極悪な日本軍のイメージを作り上げていったのである。

(「沖縄戦の真実」取材班)

                                    ☆

 

■富村順一氏の独白(2)

座間味との出会い

 私が座間味島に行ったのは
座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。

1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。
当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩してましたが、
駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、
「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。
幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。

ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。
その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために
日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、
その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。

 私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。

 役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。
私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。
あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、
解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。
中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。
だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。

そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」
と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。

『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、
「この四冊の本は嘘なんだ。
梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、
自決は我々村の有志が決めたものなんだ。
このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決して
いった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。

何とか真実を公表できないものか。
座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。
それが大きな問題だ。
君に頼みたいことがある。
賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。
君は学校へも行ってない。が、失うものもない。
何でも云うことを云ってきた。書いてきた。
是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。
そうでなければ死んだ人は浮かばれない。

梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した
梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。
ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには
訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。
そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。

 あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。

〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)



『梅沢隊長は健在だ』

 その中の一人、埼玉県大宮の関根清さんという衛生兵に出会うことが
出来ました。
関根さんは「家には妻や子もいるし、ここではそんな悲しい話は出来ない。
外で話そうじゃないか」と仰有ったので大宮の駅の前のお寿司屋さんに
入りました。お寿司が出ても席ねさんは二、三分、うつむいた儘
何も話そうとはしませんでした。溜め息をつきながら、

「実は富村さん、自決命令はなかったのだ。
梅沢隊長は自決命令を出して朝鮮人慰安婦と爆死したと沖縄戦記には
書いてあるが、梅沢さんはお元気である。自決命令は出てない」
と云ってまた溜息をつきながら、

「実は自決に関係しているのはこの私なんだ。
村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に
自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、
そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、
その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に
梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。
その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が
取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。
その衛生兵が私です。
もしそのことが世間様に知られると、私の妻や子がどのような悲しい思いを
するかと思えば公表も出来ない」と云って涙を浮かべてました。

〔註〕宮城初枝や梅沢裕元隊長の手記によれば、隊長を訪ねた村の代表は
村役場助役兼兵事主任兼防衛隊長・宮里盛秀、同収入役・宮平正次郎、
国民学校校長・玉城政助、村役場吏員・宮平忠達、女子青年団長・
宮平(のち宮城)初枝の五人。
盛秀が隊長に要求したのは宮城初枝によれば弾薬。
梅沢元隊長によれば爆雷で殺して欲しい。
それが駄目なら手榴弾か小銃弾を頂きたいということであった。(中村)


宮城初枝さんの驚き

 梅沢隊長は生きていると聞かされた私は、
「では手榴弾を関根さんが渡したことは公表しないから、
梅沢さんの家を教えてくれ」
とお願いしても、
「すぐには出来ない。梅沢さんに断ってから教える」
と約束しました。

何日か後に電話で梅沢さんの住所を教えてくれました。
私は梅沢隊長に連絡し、関根さんと共に大阪に行き、食事をしながら
様々なことを話し合いました。

 死んだ筈の梅沢さんが生きていることを先ず最初に伝えるべき人は、
座間味島で是非正しい戦記を伝えて欲しいと私に頼んだ宮平のお爺ちゃん
であると思い、座間味島にお爺ちゃんを訪ね、梅沢隊長のお元気なことを
話したところ、お爺さんは「その話を一番知りたがってる人がいる。
一寸待ってくれ」と立って行かれ、宮城初枝さんを連れて来ました。

 宮城初枝さんは入って来るなり
「富村さん、梅沢隊長は本当にお元気ですか。それは本当ですか」
と云うので「間違いありません」と話したところ、
しゃがみ込んで泣いてました。

 「富村さん。私一人で勝手に文章を書いて『家の光』に投稿した訳では
ありません。
村の有志の方々に頼まれて仕方なく私は(隊長が自決を命じたと)書いたのです。
本当に梅沢隊長には申し訳ない。済みませんです。
今度会ったら、私がお詫びしていたとお伝えして下さい。そして島に来て下さい」
と話してました。

 このように謝る女性に話す言葉もなく、翌日、母の住む宜野湾市に
帰ったところ、宮城初枝さんの娘さんの晴美さんが、沖縄でたった一つの
月刊誌『青い海』の編集長をしていました。
お母さんから電話があったそうで、「梅沢さん、本当に生きていますか」
と私に訊くので「生きています」といったところ、確かめたいから
住所を教えてくれというので、私は晴美さんに梅沢さんの住所を教えました。

 この話がどのように伝ったのか、三日後に『沖縄県史』の編集長島力
(しまつよし)さんがまた私の家に来て、
「富村、梅沢さんは本当に生きているのか」と訊くので
「生きてます」と答えた。

 「もし梅沢さんが健在であれば確認したいし、自決命令も出てないとなれば、
『沖縄県史』も直さなければいけない。是非梅沢さんの住所を教えて欲しい」
という風に話がありましたので、私は『沖縄県史』の編集長である島力さんに
梅沢さんの住所を教えたので、梅沢さんと連絡が取れ、『沖縄県史』に
梅沢さんの手記が載るようになりました。


嘘の平和運動と訣別

 その何ヶ月か後、沖縄でアジアの平和集会という集会があり、
それを新聞で知って参加いたしました。
主催者は、中村先生も御存知の渡嘉敷島出身の方です。
大江訴訟の沖縄出張裁判で証人に立たれた金城重明さんです。
沖縄キリスト教短大の学長をなさって、現在は那覇の聖教会の牧師を
なさっている方です。
その方々が平和集会を主催したのです。
私も参加して、手を挙げて座間味戦記の話をいたしました。
そこには教職員組合、社会党、共産党といった錚々たるメンバーがいて、
多くの新聞記者もいました。

 私が沖縄タイムスの『鉄の暴風』や他の沖縄戦記の捏造した部分を
声張り上げて訴えたところ、ある知人に呼ばれました。
「お前みたいに本当のことを云っていたら平和運動は出来ない。
平和のためには多少の嘘は云ってもいいんじゃないか」
と云ったので私は「嘘を云って平和運動するなら、あんたなんかと共に
行動する必要はない。あんた達と平和運動するより犬をパートナーに一
人でいいから全国行脚をして沖縄の真実を訴える」と大衆の面前で叫び、
二匹のシェパードを連れてフェリーで沖縄を出発し、
鹿児島に着き、そこから歩いて全国を一周いたしました。

 私が沖縄戦記を訴える以前は、殆どの知人友人は左翼関係でした。
座間味戦記を捏造だと訴えはじめてからは、今までの仲間であった
運動家達は全部私の前から遠ざかり、私は一人孤立することになりました。

つづく

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琉球新報の言論封殺戦いを挑んでいる上原さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (2)

68年ぶり「父、帰る」、沖縄戦の日本兵

2013-07-10 07:28:00 | 県知事選

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【告知】

本日も午後2時~3時の間に2回目の更新をして、世界日報「連載」の『貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実』を紹介します。

                 ☆

沖縄防衛のため戦死した日本兵の出身地は、地元沖縄は結うまでもなく、北は北海道から南は鹿児島まで日本全国に及ぶ。 

日本兵が、沖縄防衛のため奮闘し戦死したにもかかわらず、地元沖縄では日本兵は沖縄住民を虐殺するためやってきた悪鬼のように報道されている。 

しかし彼らは故郷では妻や子が待つよき父であり、兄弟姉妹にはよき兄であり又両親にとっては愛すべき息子であった。

沖縄メディアが連日報ずるような「残虐非道非道な日本兵」ではなかった。

当時人口約60万人の沖縄に約10万人もの日本軍が駐屯したら、中には悪さをした日本兵がいたとしても不思議ではない。石川五右衛門も「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の数ぞ尽きまじ」と詠っているくらいで、いつの時代にも少数の悪さをするものはいるもの。

だが彼ら日本兵のほとんどは故郷に残した家族のため、祖国防衛に命をかける覚悟の生真面目な若者たちだった。

連日日本兵を貶めている沖縄2紙は、彼らの遺品が68年ぶりに故郷に帰ったというニュースも平然と黙殺する。 「沖縄住民を虐殺」するため沖縄に来た憎むべき日本兵の遺品など報道に値しない、とでも考えているのだろう。

地元紙が新聞としての矜持と使命を投げ捨てた現状では、沖縄戦関連の記事を本土紙で知るのは日常茶飯事である。

■7月7日付世界日報の記事

68年ぶり「父、帰る」
沖縄戦日本兵の遺品、米で発見
警察官ら尽力、遺族の元に・東京

 太平洋戦争の沖縄戦で亡くなった日本兵の遺品の日章旗が米国で見つかり、6日、遺族の手に返された。「いつか家族に返したい」と旗を持ち帰った米兵の思いに応えた米国在住の日本人女性や警視庁の警察官の尽力で遺族が見つかり、「68年ぶりの帰還」が実現した。

 日章旗の持ち主だったのは警視庁千住署の巡査だった星藤二さん。1945年6月に28歳で沖縄で戦死し、遺骨も見つかっていない。

 日章旗は米陸軍工兵として沖縄戦に従軍したハーバート・インガルス・マクドゥガルさん(87)が戦時中、首里城近くの洞窟で見つけ「戦火で焼ければ家族に渡せなくなる」と米国に持ち帰った。返せないまま自宅にしまい込んでいたが体を壊し、今年3月、施設に入る前に孫娘(24)に「持ち主を見つけてほしい」と託した。

 孫娘は日本領事館などに尋ねたが手掛かりはなく、米大学の日本語教師鈴木亜希さん(39)に相談。旗は出征する星さんに当時の署長や署員が寄せ書きして贈ったもので、鈴木さんは「千住署」の文字を頼りに米国から同署に連絡した。

 応対した千住署の小暮展也警部補(55)は、署に資料が全くない状況から「何とかしたいの一念」で、警視庁の古い人事記録をたどり、一人息子の忠孝さん(71)を見つけ出した。

 千住署で一時帰国した鈴木さんから日章旗を手渡された忠孝さんは「父が戦死したときは3歳で抱っこされたおぼろげな記憶しかない。写真も数枚しかなく、父の痕跡が見つかったことに感激という言葉しか出ない」と感無量の様子。「父の『帰りたい』という思いと関わってくれた方々の真心が奇跡につながった」と、言葉を詰まらせた。

                   ☆

今回の日本兵は当時28歳で沖縄で戦死した元警察官の星藤二さんだったがまだ遺骨は発見されていないという。

星さんには故郷に3歳だった息子の忠孝さんが感激に胸を詰まらせた気持ちがよく理解できる。

戦後68年が経過している。

沖縄2紙も、沖縄防衛のため戦死した日本兵を貶めることを、止める時期に来ているのではないか。


沖縄で貶められている典型的な日本兵像

 

 

 ■7月9日付世界日報記事

【ビューポイント】

祖国のため戦った沖縄県民
献身的思いも忘れるな
マ元帥は「自衛戦争」と証言  

前沖縄県文化協会会長 星雅彦


 沖縄県では先の大戦末期の沖縄戦の終結した日として、犠牲となった約20万人の戦没者の冥福と世界平和を願う日として、6月23日を「慰霊の日」と定め、先月も安倍晋三首相はじめ政府要人や仲井真弘多知事らが参列して、糸満市摩文仁の平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が行われた。毎年、先の大戦、沖縄戦とは何であったか問い質す日でもある。

 1941年12月8日未明、日本海軍機動部隊は太平洋を東方へ進みハワイの真珠湾に集結した米艦隊めがけて奇襲攻撃をかけた。その時から3年8カ月に及ぶ長期の日米戦争の火ぶたが切られた。開戦前の日本は、米国と苦渋の交渉を続けていた。日本側は二つの妥協案を捻出した(甲案、乙案)。この中に、経済封鎖を解除してもらえば、友好国としての役目を務めたいという希望的な創案を日本が持っていたと認められる。

 しかし、これを米国は微塵も受け入れず、非情な最後通牒を突きつけた。ハル国務長官による、いわゆる「ハル・ノート」だ。「日本は、明治維新前の状態に戻るべきで、隣国の文化や物資などを欲しがらずに、全ての権益は放棄すべきだ」と要求したのだ。

 日本にとって先の大戦は大東亜戦争であって、「太平洋戦争」とは戦後途中から、米国によって名づけられたものである。アジアの植民地をめぐる列強との戦争への道、その準備態勢が感じとれるなかで、窮地に追い込まれていた日本は先手を打った。戦況は当初、日本軍は善戦した。そして、怒涛の勢いで進軍してくる日本軍に圧倒されて、フィリピンで追い詰められたマッカーサー米軍司令官はマニラを放棄して、バターン半島とコレヒドール島に籠城する作戦に出た。しかし、間もなくマッカーサーはコレヒドール島からも「必ずや私は戻って来るだろう」(I shallreturn.)と言い残して脱出した。その後、米軍は戦況を逆転させ、マッカーサーは予言した通りに戻ってきた。

 1945年4月1日、米軍は沖縄本島西海岸に上陸した。その後2カ月半にわたって、日本軍と沖縄県民は「軍民一体」となって「皇国日本」の防衛のために死力を尽くして戦った。しかし、このことはあまり話題になっていないが、その様子は、太田実海軍司令官が本土に宛てた「沖縄県民かく戦えり」の電文に込められている。沖縄戦は米国が予想していたよりも日本軍・県民が一体となって善戦したが、集団自決(玉砕)が慶良間諸島の他に数カ所でも起きていた。それは隊長命令の有無だけで解決できる問題ではないだろう。総体的に沖縄戦の犠牲者数をあげると、日本軍が約8万5000人、沖縄県民が約10万人、米軍が約1万3000人。この概数の多寡も問題になるが、軍民が一体どころか、入り乱れて、融合と反発の狭間に、お国のために死ぬんだという思いがあった。無念どころか、献身的な自己犠牲の思いがあったことも忘れてなるまい。

 沖縄戦がほぼ終焉(離島等は残っていた)に向かっているとき、米国は広島(8月6日)・長崎(8月9日)に原爆を投下した。日本はポツダム宣言受諾の決断に迫られた。昭和天皇はポツダム宣言受諾を決断され、8月10日の御前会議でいわゆる「終戦の聖断」を披瀝された。8月14日の御前会議では、同宣言の無条件受諾を決意し、敗戦の詔書を提示し、同日、詔書を自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により国民に終戦を伝えたのだった(玉音放送)。

 筆者は、熊本県八代中学1年生の時、妙見寺の境内で聞き取りにくいユニークな音声の玉音放送を神妙に聞いていたことを思い出す。その時、先生方は嗚咽をもらしていた。その後、日本は戦争終結のための調印式を9月2日に予定し、東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵が連合国代表を相手に行事を済ませたのである。

 1946年から48年にかけて行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦勝国が敗戦国である日本の指導者を裁く形式で、罪刑法定主義・法の不遡及が保障されていない裁判だった。裁判は東條英機ら7人を死刑、16人を終身刑にするなどの判決を下した。

 しかし、判事の一人インドのパール判事は判決文の中で、この裁判について「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないというようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い」と断罪した。そして「裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために設置されたに過ぎず、日本の敗戦を被告たちの侵略行為によるものと裁くことによって、日本大衆を心理的に支配しようとしている」と批判、「かつて欧米諸国がアジア諸国に対して行った(植民地政策の)行為こそ、まさに侵略行為である」と、全被告の無罪を主張したのである。

 その後、来日したパール判事は、日本の現状を見て「東京裁判史観というゆがめられた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい」と苦言を呈した。パール判事の言葉は、現在の日本にとっても示唆に富むものである。

 最後に、日本軍と戦ったマッカーサーが1953年の朝鮮戦争後に帰国した際、米上院の軍事外交合同委員会で、「日本の戦争は自衛のためのものだった」と証言していることも記憶にとどめておく必要があろう。

(ほし・まさひこ

             ★

関連ブログ:

星雅彦というスリル

 



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 【拡散希望】 田母神俊雄先生講演会開催

日時 7月12日 金曜日 午後6時30分開場 7時開演

場所 那覇市田原在 JA小禄 3階大ホール

会費 ¥500 (当日の寄付も大歓迎です)

連絡先 090-8305-4896

【拡散希望】 田母神俊雄先生講演会開催が決定しました!!    来週、田母神俊雄先生が急遽来沖されることとなりました。  またとない機会ということで、講演のお願いをしたところ、快く引き受けてくださり、下記の日時にて講演会を開催する運びとなりました。    私たちは、このような講演会の開催は初めてであり、また告知の時間も1週間もないことから、ぜひ皆さんにこの講演会の告知と、スタッフとしてのお手伝いをお願いしたいと思います。    日時 7月12日 金曜日 午後6時30分開場 7時開演    場所 那覇市田原在 JA小禄 3階大ホール    会費 ¥500 (当日の寄付も大歓迎です)    前回、沖縄から真実を報道するラジオ番組「わんぬうむい」の継続と、FCP(フェンスクリーンプロジェクト)及び、HCP(ハートクリーンプロジェクト)の活動へのご支援を多くの方々からお寄せいただきました。  この場を借りて、心から感謝を申し上げます。  ご寄付をされた方のなかで、私たちの活動のシンボルであるマーク入りうちわをご希望の方は、ぜひ私宛にメッセージをお願い致します。  感謝の気持ちを込めて郵送させていただきます。    沖縄はいま、灼熱の日差しが降り注ぐ盛夏となっており、活動の際に多くの飲料と氷、その他の機材が必要となっております。  平和を騙るおかしなヘイワ運動の異常さから、多くの沖縄県民を覚醒させ、この美しい島を守るためにも、今後とも皆様のご支援を宜しくお願い申し上げます。    支援先    ※ゆうちょ銀行から  記号 17020 番号 10416511  氏名 ワンヌウムイキキン    ※ゆうちょ銀行以外から  銀行名 ゆうちょ銀行  店名 七O八(ナナゼロハチ)  店番 7O8  貯金種目 普通預金  口座番号 1041651  名義人 ワンヌウムイキキン    連絡先 090-8305-4896

 

 

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中国領海侵犯と教科書採択事件の深い関係

仲新城誠

ついに牙を剥き出した中国-沖縄併呑計画の先兵は誰だ

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