狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

橋下教育改革の突破力!

2012-01-16 17:41:14 | 県知事選
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昨日の「報道ステーション」で橋下大阪市長と山口北海道大学教授の生バトルを見た。

橋下氏の完勝というより、山口教授は2度と立ち直れないほどのKO負けである。

八重山教科書問題で、ヤクザ顔負けのごり押しを展開中の極悪複合体には是非とも見て欲しいバトルであった。

それにしても山口教授のような学者バカに政治指導を受けていた既成政党が行政改革・教育改革を実行できなかった理由がこのバトルで明らかになっただけでも貴重な【動画】である。。

【動画】⇒橋下大阪市長の教育改革

橋下教育改革が全国に飛び火したら最も困るのは、現在沖縄という「治外法権」地域で、勝手気ままに振舞っている「極悪複合体」の面々であることは間違いない。

新teru0702の日記by今井照容さんがバトル内容をまとめて下さっているので、そっくり引用させて頂きました。

例によって太字強調などは引用者が施しました。

以下引用。 ☆

2012-01-15
改訂版 大阪市長・橋下徹と北大教授・山口二郎がテレビ『報道ステーションサンデー』で激突!橋下の「政治」に山口の「政治学」が敗北した瞬間!!

「nagano_t 」ことニュースキャスターの長野智子の次のようなツイートが目にとまったからである。

明日の報道ステーションサンデーは大阪から橋下市長、山口二郎さんをお迎えして大阪都構想や教育問題について激論です。ぜひご覧ください。

山口二郎は政治学者にして北海道大学教授。内田樹、香山リカ、 薬師院仁志との共著で『橋下主義(ハシズム)を許すな!』を刊行していて、橋下徹には批判的な立場を自ら表明している。これに対して橋本は彼らに対する厳しい批判を自らのツイッターで開始していただけに、この二人の「激論」を期待して久し振りにテレビを見てしまった。視聴者の誰もがとは言わないまでも、二人のやりとりを見ていた私も含めて多くの視聴者は、橋下に改革に邁進する政治家としての「やる気」を感じ、山口には象牙の塔に閉じこもっているばかりで庶民が日々の暮らしのなかで抱いている生活実感を欠いた「専門バカ」に過ぎないという印象を抱いたのではないだろうか。橋下は既得権とは全く縁のない民衆のルサンチマンを味方にしているのだ。

テレ朝なう(^o^)ノ橋本さん、最高~「高学歴の屁理屈やろうに言い負けない!!」改革にはこれが大事~(笑)~

これは「ワンコカメラマン小森」のツイートである。テレビで橋下が語った教育行政についての見解は既にツイッターで発言している内容の繰り返しである。橋下のツイートはこんな具合である。

今の教育行政の仕組みは、教育委員会にも首長にも決定権と責任を与えない。教育委員会はカネの権限・責任がない。首長は教育目標の決定権がない。お互いに、そっちがやってくれないという意識。そしてどうなるか。教員現場が全てを決める教育行政になっている。

首長が目標を定めることを批判する自称インテリに言いたい。では教員現場が目標を定めることは常に正しいのか。政治が常に正しい判断をするとは限らない。しかし教員現場も同じだ。何が正しいかは分からない。色んな価値観がある。だから最後に決めるのは選挙しかない。これが民主主義のルールだ。

今は選挙で責任を負わない教員現場が全て決定できる仕組みになっている。極めて危険。政治の世界では選挙に負ければ主張が通らないどころが身分まで失う。ところが
今の教員組合はガンガン政治活動をやって選挙で結果が出ても、のうのうと身分を保持できる。権限と責任を明確にする仕組みに変えるべきだ

形骸化している教育委員会は廃止。首長が権限と責任を持つ。歯止めをかける装置を作る。あとは有権者が責任をもって首長を選ぶ。教育委員公選制は今の枠組みでは意味がない。カネの権限・責任がないまま公選にしても無意味。もし委員にカネの権限・責任を与えて選挙で選ぶなら、それこそ首長そのもの。

教育委員会制度も一から作り直さなければなりませんよ。これは官僚では無理。政治でやるしかない。前平松市長と年一回の意見交換、タウンミーティングは0、学校視察は一年で4校程度、一校1時間。大阪市の学校は525校。こんな教育委員会で、教育行政などできるわけない。

テレビでも橋下はいかに現在の大阪市における教育行政が制度疲労を起こしているかを実例と数字を織り交ぜながら「具体」を語ってみせた。これに対し、山口の物言いは所謂「啓蒙主義」に依拠した(それだけに視聴者からすれば「上から目線」に感じられた)単なる「論」であったために「高学歴の屁理屈やろうに言い負けない」という印象を(私も含めた)視聴者に強烈に与えたのだ。私などは橋下に押され放しの山口を見るにつけ、彼はテレビ出演に際して全く「予習」をして来なかったのではないかとさえ思ってしまったほどである。本当にそうだとすれば、山口が「テレビの視聴者」たる「民衆」を小バカにしているということになるだろう。一方、橋下からすれば今回のテレビ出演は大阪市長として「(教育)改革」を実行する際に「世論」を追い風にできるという意味からすれば大成功であったはずだ。そこに抵抗勢力、即ち「敵」を明確に措定したうえでのテレビ出演の狙いがあったに違いない。橋下は民衆の眼前でカール・シュミットの「政治学」を実践してみせたのである!そうした橋下の手法を「劇場型政治」という言葉で安易に片付けてはなるまい。そもそもマスメディアの報道は劇場型でなかったためしがないではないか。むしろ橋下はジャーナリスティックな感性の持ち主であることを認めなければなるまい。一方、山口はジャーナリズムがアカデミズムの「反対語」であるということにまるで無自覚、無頓着であった。少なくとも山口は『橋下主義(ハシズム)を許すな!』なんていう威勢の良いタイトルの本を出す割にはハシズムを軽く、また甘く見積もっていたのだろう。「masason」こと 孫正義は、こうツイートしている。

報道ステに橋下市長出演中。自治体の無駄は目に余る。改革に頑張って欲しい。 それにしても、何の責任も無い学者先生は改革に対し批判だけだな気がするなあ。

孫もまたジャーナリスティックな感性を武器とする経営者である。「和民」の創業者である「わたなべ美樹」も、こうツイートしている。

こちらこそ、本日の、テレビ見させて頂きました。教育改革 百パーセント支持します。頑張って下さい。

孫にしても、わたなべにしても、「報道ステーションサンデー」に出演し、橋下に何年かやらせてみるべきだと言った作家の渡辺淳一にしても大阪市民ではない。つまり、橋下は大阪市という一都市にかかわる教育行政の問題をテレビというマスメディアを通じて普遍化することにも橋下は成功してしまったのである。橋下が実現しようとしている「教育改革」に沿って言えば大阪市における教員の労働組合をわが国の民衆から孤立させる布石を打ったのである。結果的に山口二郎なる政治オンチの政治学者は、そのお先棒を担がされてしまったことになる。「政治」とは、民主主義であると否にかかわらず、このようなものなのである。日経電子版は1月13日に次のように報じた。

大阪府の松井一郎知事と大阪市の橋下徹市長は13日、公明党大阪府本部の新年会に出席し、府市を解体・再編する大阪都構想の実現に向けて協力を呼びかけた。橋下市長は協力が得られれば、国政選挙で公明を支援する考えも表明。公明側も改革に前向きに協力する姿勢を打ち出し、接近ぶりを印象づけた。

日経電子版は1月13日に次のように報じた。

「大阪府の松井一郎知事と大阪市の橋下徹市長は13日、公明党大阪府本部の新年会に出席し、府市を解体・再編する大阪都構想の実現に向けて協力を呼びかけた。橋下市長は協力が得られれば、国政選挙で公明を支援する考えも表明。公明側も改革に前向きに協力する姿勢を打ち出し、接近ぶりを印象づけた」

公明党は府市各議会で橋下市長が代表の地域政党「大阪維新の会」に次ぐ第2勢力であり、橋下が「教育改革」を実現するためには最適のパートナーなのである。何故なら、公明党の支持母体は言わずと知れた創価学会。創価学会の前身は創価教育学会であり、日教組と創価学会は教育の現場では対立関係にある。橋下と創価学会は敵を共有できるのである。また大阪は『人間革命』を読めばわかるように創価学会の選挙活動の言わば「聖地」に他ならない。来るべき総選挙において失った議席を何としても奪還するためには橋下人気にあやかりたいところだろう。

これも橋下の「政治」である。

         ☆
政治には突破力、瞬発力、説得力それに実行力が不可欠である。

それには若さが加われば百人力である。

橋下氏は現在40代前半。

40代に出来ることは50代、60代では出来ない。

若さは突破力と瞬発力を速させる。

山口教授とのバトルで見せた橋下氏の瞬発力を伴った説得力には学者バカの山口教授は防戦一方でタジタジの有様だった。

番組中、大阪市民でもない渡辺淳一氏が「橋下さんにやらしてみたい」とエールを送ったが、筆者橋下行政改革に、小さい声ながら、エールを送りたい。

教育行政が制度疲労を起こしているのは大阪だけではな。 日教組のあるところは全国に及ぶ。

特に沖教組が主導した沖縄の八重山教科書騒動がその典型である。

橋下氏が叫ぶ「教育委員会をぶっ潰す」という掛け声は、沖縄県の教育委員会にこそ最も相応しい、

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参考:Birth of Blues

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コメント (10)

疎開秘話 大本営が県外疎開を発案 

2012-01-16 13:15:39 | 県知事選
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         ☆

誰も知らない沖縄戦の疎開につい過去エントリー大本営が県外疎開を発案 沖縄戦秘話に加筆した引用です。

             ☆

沖縄戦の最中、荒井退造・県警察部長が、島田叡・県知事とコンビを組んで、沖縄県民の県外・県内疎開に尽力したことは、県史に詳しい人の間ではよく知られたことである。

だが、沖縄県民の「県外疎開」を真っ先に考えていたのが、あの「住民を守らない」はずの大本営だったことは、あまり知られていない歴史の事実である。

県庁壕から形見の碁石 沖縄戦中の荒井警察部長遺品 カメラ 2008年1月13日

県庁壕内にある警察部長室の入り口部分を発掘する知念堅亀さん(中央)と沖大の学生ら=2007年12月22日、那覇市真地

 沖縄戦中、県民の県外・北部疎開に尽力した荒井退造・県警察部長の遺品とみられる碁石11個が、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で昨年末までに見つかった。1945年6月下旬に糸満市摩文仁で消息不明となったまま、遺骨も遺品も全くなかった。戦後62年たっての発見に、長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「父親の肉体に一番近い存在だったものが見つかるとは、本当に驚天動地。遺骨代わりとして大事にしたい」と感慨深く語った。
 碁石を見つけたのは、県庁壕を長年調査研究している知念堅亀さん(74)=那覇市繁多川=と繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。昨年9月に7個、12月末に4個を発見した。
 県庁壕は45年3月末から5月末まで荒井部長や警察部職員らが避難していた壕。4月からは島田叡(あきら)知事も合流。4月27日には戦中最後の市町村長会議も開かれた。
 碁石が見つかった場所は、壕内に掘られた警察部長室入り口。水がたまりやすく、常にぬかるんでいる。昨年9月21日に知念さんが壕を案内している時に、天井からのしずくで表土が洗われ、碁石が露出しているのを発見した。さらに周囲5、60センチの範囲から、黒5個、白2個を探した。
 その後、12月22日に沖大の学生らも加わり、部長室入り口を発掘し、深さ4、5センチの泥の中から、新たに黒3個・白1個を見つけた。そのうちの黒1個は鍾乳石からの水滴を長年受けたとみられ、表面が白く石灰化していた。同じ深さから、日本兵の軍靴や小銃弾なども出土したことから、沖縄戦中のものと判断した。
 荒井部長は大の囲碁好きだった。当時、泉崎にあった部長官舎に住み込みで働いていた上地よし子さん(81)=ハワイ在住=によると「夜通しやることもあった」ほど。「とても大切にしていたので、(44年の)10・10空襲の時、私が命懸けで碁盤と碁石を官舎の応接間から持ち出した」。その後、警察職員らによって真地の県庁壕まで運び込まれた。「壕でも、部長さんはよく課長さんたちと碁を打っていた。娯楽がないから、(持ち出したことを)みんなから褒められた」と語る。
 碁石の一部を昨年11月に受け取った紀雄さんは、お寺でお経を上げてもらい、仏壇に安置した。「60年たって戻ってきたのは因縁めいたものを感じる。おやじも喜んでいるでしょう。知念さんや皆さんのおかげ。ありがたい」と感謝している。
 発見した知念さんは「県庁壕には11年前から何度も入っているが、見つかった時には興奮した。前に紀雄さんを案内した時に、碁石の話をしていたので本当に良かった」と話している。
(志良堂仁)

<ニュース用語>荒井退造

 1900―45年。栃木県出身。43年7月に沖縄県警察部長として赴任。米軍上陸直前に知事や他の部長が次々と本土に渡る中、行政の責任者として沖縄に残り、県民の県外・北部疎開や軍との交渉などに当たった。その後、新任の島田叡知事と行動を共にし、6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出たのを最後に消息不明。

                                             ◇

沖縄防衛のため配備された第32軍を代表する軍人といえば、司令官の牛島中将と参謀長の長勇少将が上げられるだろう。

この二人は、軍人というだけで、沖縄での評価は極端に低い。

長参謀長に至っては、大陸戦線で南京攻略に参加していたという理由だけで、

「南京大虐殺」の実績を引っさげて「沖縄人虐殺」のために沖縄にやってきた、といわんばかりの悪評を受けている。

牛島司令官も長参謀長ほどではないにしても、反日左翼勢力にとっては「悪逆非道日本軍」のシンボルとして、

牛島司令官の孫まで引っ張り出して日本軍を貶め、自分の祖父を罵倒するという醜いシーンまで披露している。

日教組に毒された戦後教育の悪い面を、祖父が自決した沖縄に来てまで、祖父を面罵する孫の姿に見出すのは残念なことである。

軍抗戦「住民に犠牲」 牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語る

沖縄戦について授業する牛島貞満さん(右)=豊見城市立長嶺小学校

 <沖縄戦で日本軍を指揮した牛島満司令官(中将)の孫に当たる牛島貞満さん(51)が20日、豊見城市立長嶺小学校(大城早智子校長)で「牛島満と沖縄戦」のテーマで平和学習の授業を行った。「沖縄戦ってどんな戦争だった?」と児童たちに質問すると、「住民が多く死んだ」「持久戦だった」などと回答。牛島さんは「人が人でなくなるのが戦争。沖縄は本土の時間かせぎの戦争だった」などと説明した。>

牛島中将の孫に当たるという牛島貞満という人物、

2007年には「11万人集会」にまで駆けつけて、祖父の戦死を公衆の面前で冒涜し続けた。

県民大会の様子 東京で伝えたい 牛島中将の孫・貞満さん http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710011300_05.html
<牛島さんは、沖縄戦で日本軍の総指揮を執った牛島満中将の孫。五年前から「牛島満と沖縄戦」をテーマに、小学校高学年を対象に平和授業を続けている。

 文科省が「集団自決(強制集団死)」の日本軍の強制を削除したことについて「軍隊は住民に捕虜になるなと徹底しており、日本軍がいた場所で『集団自決』は起きている。軍の強制・誘導があったのは当然だ」と強調した。>(沖縄タイムス)

軍人の評判が悪いのに比べて、県民の安全のために努力した島田叡県知事や冒頭に引用記事の荒井退造警察長官は、県民の間では県民の疎開に尽力した「県民の命の恩人」として今でも尊敬されている。

島田知事については過去にもエントリーしている。

毎日コラムのGJ  沖縄戦で散った本土出身県知事

沖縄マスコミが本土出身の官僚・軍人をいかに悪し様に言おうとも、沖縄県民は島田県知事への敬愛の気持ちを忘れてはいない。

沖縄県の高校野球で夏の県大会を制した高校に「島田杯」が授与されるが、これが野球を愛した島田知事に対する県民の敬慕の念の何よりの証拠である。

島田県知事は1945年1月31日沖縄に赴任し、同じ年の6月27日頃戦死している。>

 

「昭和18年7月、沖縄県警察部長(現在の県警本部長に相当)となった荒井退造は、黒の制服にきらめく肩章をつけ、真夏の太陽が輝く那覇空港に降り立った。」
(「戦さ世の県庁」荒井紀雄著のプロローグより)

沖縄赴任後、荒井警察部長は島田県知事とコンビを組んで、県民の県内外への疎開に尽力するが、昭和20年6月26日、島田知事と共に沖縄南部の壕を出たあと、消息を絶つ。

遺骨・遺品の無いまま摩文仁の丘の「島守の塔」に、島田知事以下の県職員と共に合祀されている。

63年ぶりに父の遺品が見つかった長男の荒井紀雄さん(75)が、

「父親の肉体に一番近い存在だったものが見つかるとは、本当に驚天動地。遺骨代わりとして大事にしたい」

と感慨深く語る気持ちは共感できる。

 

昭和19年7月1日、荒井紀夫さんの家族は本土引き上げのため旧式の軍用機で那覇空港をよろよろと飛び立って行った。

当時那覇の甲辰小学校に通っていた荒井紀雄さんは、父・退造氏との別れを自著「戦さ世の県庁」で次のように描写している。

<私には、真夏の太陽が振付ける飛行場でただ一人、真白い警察官の制服をつけた父がいつまでいつまでも白い帽子を振ってみおくっていたのが、昨日のことのように思い出される。 それが私と父との最後の別れであった。>

 県民の疎開に尽力をしたことで島田知事と荒井警察部長は、「県民の命の恩人」と讃えられているが、

その一方沖縄配備の第32軍は、

「軍は住民を守らなかった」

というサヨクスローガンにあるように、

沖縄で極めて評判が悪いし、こんな連中もいるが、
極左が陸自の沖縄慰霊祭を批判

果たして実際はどうだったのか。

 

驚いたことに、予測される米軍来襲に備え、

県民の生命の安全を計るために、

真っ先に「沖縄県民の県外疎開」を発案していたのは、

なんと日本軍・大本営だった。

 

まだ小学生だった荒井紀雄さんが、父の退造氏に見送られて那覇空港を発った昭和19年7月1日。

第32軍の参謀長に正式着任の一週間前のその日、長勇少将は木村参謀を伴って、那覇空港に降り立っていた。

彼が正式着任の一週間も前に沖縄に着いた最大の理由は、

8月に予定の牛島・新司令官着任の前に、法律的に不備だった「県民疎開」を閣議決定させるための、現地視察であった。(続く)

【お知らせ】

 パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内 

  表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。

 尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。

          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室

 

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コメント (5)

七つの顔の男の息子が日航社長就任!

2012-01-16 07:10:35 | 県知事選

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終戦直後に作られた日本映画を見ると、戦前の「封建的社会」の呪縛から抜けきれない旧世代の大人たちと、アメリカから輸入された「民主主義」を享受する若者との対立を描く場面が頻出する。
戦前は弾圧されていた言論も、GHQがもたらした「平和憲法」により言論の自由が保障された・・・つまり言論の自由はGHQの日本占領によって保障されたという誤解を、戦後70年近く経っても信じている人が今でも少なからずいる。
これは戦前の日本を暗黒時代として否定する「自虐史観」の結果だということが出来る。
だが、GHQが日本占領と同時に行った占領政策は「言論・表現の自由の保障」とは逆方向のきわめて巧妙な言論弾圧であった。
GHQは「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令し、言論の検閲を始めた。
これに関連して、封建的風潮を蔓延させるという理由で、「剣劇映画禁止令」を出す。
その当時の映画スターは時代劇、現代劇とお互いに住み分けられており、嵐寛壽郎、片岡千恵蔵ら戦前からの時代劇スターは「剣劇映画禁止令」で事実上職を失うことになる。
昭和天皇が、沖縄に主権を残しながら米軍に長期リースで租借させるというい「委任統治」を模索しておられた頃、
1人の時代劇俳優が、転進を考えて苦慮していた。
 
 
陛下より3歳年下の片岡千恵蔵のことである。
              
以下はマッカーサーが生んだ「七つの顔の男」に加筆したものです。
           ☆
        
子供の頃、心踊らして観た時代劇、と言うよりチャンバラ映画には数々の想い出がある。

片岡千恵蔵と言っても50歳以下の世代には片岡鶴太郎の弟子かと間違えられるほど遠い人になってしまったが、千恵蔵は当時のチャンバラ映画のヒーローだった。

若い人の中には名前だけは知っていると言う人もいるだろうが、先代林家木久蔵がオーバーなモノマネをするセリフ不明瞭な昔の時代劇スターと言った程度の知識だろう。

昔の時代劇スターは歌舞伎出身が多く現代劇に出る事は殆ど無かった。

ちょん髷に刀を振り回す立ち回りにも歌舞伎の要素が取り入れられていたと聞く。

そのチャンバラ映画専門の片岡千恵蔵がちょん髷代わりに黒のソフト帽をかぶり、刀の代わりに二丁拳銃を構えてバタバタとギャング団を撃ち倒す映画には面食らった。

今で言えば高橋英機の桃太郎侍のイメージが突然黒い背広に黒ソフトで拳銃を乱射するようなモノだ。

いや、もっと衝撃的だった。 
高橋英機は元々日活デビューの頃は現代劇青春スターだったし、テレビのトーク番組でもファンにはお馴染みなので背広姿もけしておかしくは無い。それに時々はテレビドラマの現代劇にも出ているようだ。

片岡千恵蔵のギャング映画登場の衝撃は今の時代劇スターでは、例え里見浩太郎や、松方弘樹をもってしても例える事は出来ない。
いやいや、「暴れん坊将軍」のマツケンが突然、マツケンサンバを踊りだした以上の衝撃であった。

その衝撃の映画は「名探偵・多羅尾伴内シリーズ」と言うシリーズもので最初に観たのは小学校3年か4年生の頃那覇市の「国際劇場」か「平和館」のどちらかで見た。


シリーズのうち何編見たかは曖昧だが、筋書きは大体決まっていた。

場面は客の帰ったキャバレーか遊技場。

悪の親玉と十数名の子分達が捕らわれの身の令嬢を脅している。

令嬢の悲鳴! 親玉が「殺(や)っちまえ!」と命ずる。

令嬢に迫る危機。

其処へフラフラと1人のお馴染みの人物が現れる。

八の字髭にロイドめがね。 ソフト帽子にくたびれた背広で悪漢の前に立つ。

今までの騒音は一瞬沈みかえり、一同は動きを止めてこの男を凝視する。

沈黙を破って親玉が怒鳴る。

「お前は誰だ!」

待ってました! 

ここでお馴染みの極め台詞!

「七つの顔の男だぜ。」

勿論演ずるは時代劇のヒーロー(だった筈)の片岡千恵蔵。

悪の親玉はこれも時代劇の悪役でお馴染みの進藤英太郎。

「七つの顔の男 多羅尾判内シリーズ」の名場面である。

この進藤親分、時代劇では越後屋から小判の贈答を受け、

「越後屋、お前もワルだのう」

「そういう代官様はもっとワルで御座います」

「ケッ ケッ ケッ・・」

・・と声を潜めて何度笑ったことか。

最後は千恵蔵扮する正義の剣士に何度切られた事か。

そして虚空をつかんで何度死んだことか。


進藤親分は懲りもせずに、ギャング映画でも悪事の限りをつくしていた。

次の場面は愈々この映画のクライマックス。

七つの顔の男は拳銃を構えている悪漢の群れを前にして変装(しているつもり)のロイドメガネ、八の字ヒゲ、くたびれた背広を一気に剥ぎ取る。(本当に瞬く間に)。

おー! 何とその下から現れたのは黒の背広の上下に何故か茶色っぽかった帽子も黒に変ってしまっている。 勿論シワ一つ無いビシッとした筋目入りだ。

それから延々と自己紹介を始める。

「ある時は片目の運転手、ある時は謎の中国人、ある時は多羅尾伴内、ある時はパイプの画家、またある時はセムシ男、しかるにその実体は!?」

「正義と真実の人、藤村大造だ!」

(この藤村大造の出自は良く分からない・・・が、そんな事はどうでも良かった)。

変装の達人と言う設定らしいが誰の目にも千恵蔵がバレバレというのに当時は何の疑念も持たず手に汗を握って観ていた。

自己紹介がやっと終わると、今度は事件の謎を解説する。

敵地に乗り込むのに得意の変装で敵を欺いて秘密を探ると言う筋書きだ。

何故かその間悪漢の群れは手に拳銃を持ったまま凍りついたように動かない。

一同の前に仁王立ちで長演説をする千恵蔵を手に拳銃を持った悪漢の手下が何故撃たないのかは問うヤボなファンはいなかった。

長い解説が終わった頃合を見計らって進藤親分が又しても怒鳴る。

「殺(や)っちまえ!」

その一声が合図だ。

拳銃の乱射戦で画面は入り乱れる。 ・・・が何故か悪漢の弾は一発も当たらない。 

窓ガラスは派手な音を出して割れるが。

ところが千恵蔵の拳銃は確実に敵を倒していく。
拳銃の弾が何発入りだったかを気にする人はいなかった。

大方勝負がついた頃を見計らったようにパトカーのサイレンが鳴り、警官隊が現場に雪崩込み悪漢の残党を取り押さえる。

救出された令嬢が我に返って警部(何故かいつもマヌケな役)に尋ねる。

「あの方は?」

一同が辺りを見回すと既に「あの方」の姿はない。

警官の1人がわざとらしく叫ぶ。

「警部! ここにこんな手紙が!」 

さすがに手紙の内容までは憶えていない。

七つの顔の男は一枚の置手紙を残して何処(いずこ)へともなく去っていく。

去りゆく男の背中に「完」の文字。


この映画は全部で11シリーズあって第一作は終戦の翌年の1946年に作られている。

私が始めて見たこのシリーズは第四作目の「三十三の足跡」というタイトルだった。

制作年は1948年だから多分7歳のころ観たのだろうか。

結局1960年の11作目でこのシリーズは終わってしまい、千恵蔵も進藤親分も晴れて時代劇の世界に戻った。

千恵蔵と並ぶ時代劇のスターに市川右太衛門がいる。

真っ白に塗った顔、ド派手な衣装それに眉間の刀傷が売り物の「旗本退屈男シリーズ」も子どものころ良く観た。

やはり7歳前後に那覇の栄町にあった「沖縄劇場」で観た映画であの右太衛門が黒いソフトに黒背広そして拳銃を携えていたのを憶えている。

タイトルははっきり憶えていないが「海のジーメン?」とかいったようなタイトルだったような気がする。 

映画を観た後、ジーメンとはどういう意味か、と親にしつこく聞いた憶えがある。

こちらの方は七つの顔シリーズほど人気が無かったのか、右太衛門の拳銃を持つ姿を見たのはこの一作だけだった。

時代劇専門のスター千恵蔵や右太衛門が戦後の一時期、ちょん髷を黒のソフト帽子に代え、刀を拳銃に持ち替えたのには深い訳があった。

                  *


昭和21年、日本占領中のGHQは、日本刀を振り回すチャンバラ時代劇は軍国主義を煽り立てる危険があるとして禁止の「剣劇映画禁止令」を出した。

学校の体育教科では剣道や弓道と言った武士道に関わるような教科も禁止された。

以後、連合軍の占領中は剣劇が製作できないことになり、時代劇スターを含む映画界は対応策を迫られた。

時代劇の大スター片岡千恵蔵のために現代活劇の構想が練られた。

試行錯誤と苦心の末、黒いソフト帽に黒い背広で決め二丁拳銃を構える名探偵「多羅尾伴内」を主人公とする『七つの顔シリーズ』の登場となる。

時代劇のチャンバラは拳銃による銃撃戦に置き換えられ、内容は毎回ワンパターンの千恵蔵が七変化をするミステリ活劇というものであった。

映画は大評判となり、大ヒットを記録して、以後はシリーズ化されることになった。

千恵蔵と並ぶ時代劇スターで旗本退屈男で有名な市川右絶太衛門も黒のソフトに黒背広で現代活劇映画に転進を求めたが成功しなかった。 テレビCMの犬の父親の声でお馴染みの北大路欣也の父上だ。
まもなくGHQにも「チャンバラ映画禁止令」のバカバカしさが分かり解除されたが、「多羅尾伴内シリーズ」は千恵蔵の代表作となり時代劇に復活後もシリーズは続いた。

名探偵多羅尾伴内は瓢箪から駒で、マッカサーの判断ミスによって生まれたともいえる。

余談だが、マッカーサーのチャンバラ映画や剣道の禁止令を解除した後も「剣道は人殺しを教える武道だから学校では禁止すべき」と叫ぶ婦人団体がいた。

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さて、当日記の欠点では有るが、これまでは次のニュースに至る極めて長い、いや長すぎるプロローグである。
七つの顔の男のご子息が日本航空の社長となり、日航再建に尽力するというニュース、これが本文である。
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 片岡千恵蔵さんの息子、植木氏が日航社長に

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植木義晴氏(撮影日・2012.1.14)         

   経営再建中の日本航空は13日、大西賢社長(56)が会長に退き、後任に植木義晴(うえき・よしはる)専務執行役員(59)を昇格させる方向で最終調整に入った。来週にも決定し、年度内に就任する見込み。稲盛和夫会長(79)は名誉会長となる見通し。植木氏はパイロット出身。日航トップにパイロット出身者が就任するのは初で、父親は大正、昭和の時代に映画界の一翼を担った俳優、故片岡千恵蔵さん。その血筋も申し分なし!

 腕利きのパイロットとして第一線で活躍した植木氏が、今度はトップとして経営の“操縦桿”を握る。しかも父親は、戦前戦後の時代劇で活躍した俳優、故片岡千恵蔵さん。銀幕の大スターだった父親譲りのイケメンも注目となりそうだ。

 日航関係者によると、植木氏は京都府出身で、航空大学校卒業後の1975年に日航入社。パイロット、運航乗員訓練企画部長、グループのジェイエアで副社長、稲盛氏が会長に就任した2010年2月に本社の運航担当執行役員となり、同年12月に専務執行役員に抜てきされた。

 パイロットとして長年勤務し、その操縦技術には社内でも定評があるという。経営側に立ってからは、稲盛会長の経営哲学を吸収し、経営者としての素質を評価されたようだ。

 日航は今年秋の再上場を目指して準備中。2010年1月の経営破綻から2年で、収益力強化にも成果が出つつあり、植木氏を中心とした新たな体制で再建に向けた改革を加速させる。

 植木氏は現在、路線統括本部長として新規路線の開設計画などを担当し、稲盛会長の経営方針を着実に実行できると判断されたとみられる。

 日航は経営再建に向けて不採算路線の撤退や人員削減などリストラを実行した結果、11年9月中間連結決算で営業利益1061億円と大幅な黒字を確保した。

 ただ、欧州の金融不安などで経営環境は厳しい状況が続いており、植木氏には新たな「成長戦略」の立案が求められる。“安定飛行”の予測はつかない。

 また、再上場に向けた安定株主の確保も課題だ。日航は、株主でもある官民出資の企業再生支援機構とともに、上場で確実に資金を集めるため、取引先などに一定の株式を引き受けてもらうことを検討している。しかし、破綻前の株主だった取引先は大きな損失を出しており、順調に集まるか不透明な情勢だ。

片岡 千惠藏(かたおか ちえぞう)
 明治36年(1903年)3月30日 - 昭和58年(1983年)3月31日 享年80歳)は、大正・昭和期の俳優。本名は植木 正義(うえき まさよし)。戦前・戦後の長期にわたり、時代劇人気を支えた剣戟スターである。

 

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産経抄 1月15日

 昭和30年代の正月、楽しみのひとつは「東映」の時代劇映画を見ることだった。それも正月やお盆限定で、主役級の俳優がずらり並ぶ「オールスター映画」である。「忠臣蔵」や「清水次郎長」ものが主だったと思うが、子供心にも胸をときめかせたものだ。

 ▼中でも「主役中の主役」を張っていたのが片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。ともに「御大」と言われていた大物だ。オールスター映画となると、ポスターの2人の名前の順番をどうするか、台詞(せりふ)やカットの数をどう割り振るか、スタッフの悩みだった。そんな話も伝わっている。
 ▼その片岡千恵蔵さんが亡くなって29年近くがたつ。だが昨日、サンケイスポーツなどで久しぶりにその名前を見て驚いた。経営再建中の日本航空の社長に就任が固まった植木義晴氏の父親だという。調べてみると、確かに千恵蔵さんの本名は「植木正義」である。
 ▼千恵蔵さんは4男1女の子宝に恵まれた。だがこの世界の風潮とは異なり、亡くなったときは誰も芸能人を継がず、銀行員や医師など「堅い」職業を選んでいた。義晴氏も航空大学校から日航に入り、腕こきのパイロットとして知られてきた。
 ▼もっともそのパイロットから経営トップへというのは日本の航空業界では初めてだという。むろん経営者としてはまだ「無名」に近い。父親の映画のように難問をバッタバッタと切り倒し、軌道に乗り始めた経営再建を進められるかまだ分からない。
 ▼とはいえその父親も東映の取締役をつとめる「重役スター」として知られた。若手俳優から慕われていた「御大」のDNAを買われての抜擢(ばってき)なのかもしれない。東映映画を見て育った世代としてはつい応援したくなる。
 

 【おまけ】

そういえば片岡千恵蔵が演じる金田一耕助は、七つの顔の男と同じく、黒いソフトにダークスーツで決めていた。

 

【おまけ】その2

■八重山日報 1月15日

見出し


1月14日尖閣諸島開拓の日
上陸要請を継続
中山市長 式典で決意


台湾総統に馬氏再選
中台改善継続へ


「諸島を守る行動を」
尖閣開拓の古賀氏称える


台湾総統選で馬氏再選
中・台安定を選択
格差や失業に課題


政治協議へ圧力
中国平和統一に力


記者の目
○…尖閣諸島開拓の日の14日に合わせるかのように、中国の漁業監
視船が尖閣諸島付近に姿を現した。昨年8月には、尖閣諸島が日本
領だと明記した育鵬社の公民教科書が選定された翌日、漁業監視船
が尖閣諸島に接近している。偶然の一致か。八重山住民への威嚇
か。市民からは「中国にも八重山ウォッチャーがいるのかな」との
声も。


自費購入で
竹富町教科書
平野文科相も
 平野博文文部科学相は13日、就任記者会見で、八重山地方の中学
公民教科書採択問題について「共同採択制度のもとで教科書の無償
給付をしており、理解してもらうしかない」と述べ、独自採択を決
めている竹富町に自費購入を求める姿勢を示した。
 文科省はこれまでに、同地方の採択地区協議会が選定した育鵬社
版と異なる東京書籍版を選んだ竹富町に無償給付しないことを決
定。平野文科相もこの方針に変わりがないことを強調した。
 平野文科相は「竹富町の意見を踏まえて、採択の在り方がこのま
までいいのか検討したい。事務方に指示する」とも語った。

■八重山毎日 1月15日

見出し

中山市長 「上陸許可」訴え
尖閣諸島開拓の日式典
国に学術調査、慰霊祭求める
尖閣利活用にも意欲


資料200点を展示
「尖閣開拓展」始まる


「岩礁管理を石垣市で」
「尖閣の日」シンポで提言
権利の明確化求める


「開拓の日」制定祝う
尖閣諸島を守る会
 

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