遅ればせながら、2018年、平成30年の新年のご挨拶を申し上げます。
平成元年組として社会人生活をスタートさせた「旅の坊主」としては、
これから始まる1年は、来し方を振り返るという意味でも、定年までのカウントダウンが始まるという意味でも、
いずれにしても節目の年となります。
改めて、己の背筋がしっかり伸びているかを確認する、仕事始めの日となりました。
さて、仕事始めを期しての更新ゆえ、新年に相応しいかどうかはさておき、
今年2018年にちなんだ話題から、道中記を始めたいと思います。
2018年ということは、1868年の明治維新から数えて150年という節目の年に当たります。
別の言い方をすれば、江戸時代・徳川幕藩体制が終末を迎えた年でもあります。
一つの社会システムが終わりを告げるということ、それは、
古い社会の仕組みが新しい時代に適応できなくなったことを意味しています。
昨年末、といってもまだ一週間も経っていないのですが、
「社会システムがダメになっていくことって、こういう所に表れてくるのかもしれないなぁ」と、
旧年中の最後の旅でとある被災現場を訪問した時、思うところがありました。
昨年10月22日未明、台風21号がもたらした豪雨により、
奈良県三郷町(さんごうちょう)を走る近鉄生駒線の勢野(せや)北口駅~竜田川駅間の造成地が崩れ、
土砂が線路内に流入、同線が数日間運休になる事態が発生しました。
いろいろな人がいろいろなことを言っています。
私もこの災害の直後、拙FBで思うところを述べさせてもらいましたが、
遅まきながらも現地を訪問して、改めて、いろいろなことを考えさせられました。
「旅の坊主」が考えたことは、こんなところです。
1 わざわざ崩れやすいところに選んだかのような宅地造成であった。
2 かつ、相当にいい加減な施工であったと思われる。
3 かつ、買った側がその土地の「来歴」を調べたとは思われない。
4 己の所有物が他人に損害を与えた場合、その責任は所有者に帰すのが筋。
(この事例では民法717条「工作物責任」が関係条文となるのであろう。)
5 その筋論をメディアがまっとうに扱わない。
(注:開発許可を出した行政が悪いとの議論がまともであるとは全く思われない。
その種の立論をする人が多いことは当方も承知。
しかし、書類が整っていれば許可を出さざるを得ないのが現行制度。
現場を見る限りそんなに難しい施工技術を要する場所とは思えなかった。
施工中の実地検査も完了検査も実施する余裕のない行政の現状では、
施工業者の良心を信用する以外の選択肢はない。
つまりは書類を「作文」し手抜きをされれば行政に手の打ち様はない。
「行政が悪い」との立論をしたい人は勝手にすればよいが、その場合は、
①劣悪な開発許可をゴリ押しするような政治家の使い方をする市民がいる現実をどう変えるのか、
②実地検査や完了検査等々を実施出来るようになるまでの行政コストの増大=増税を受忍するのか、
の少なくても2つの問いにしっかり答えて欲しい。)
地番としては三郷町東信貴ヶ丘になるのでしょうが、
防災を生業にする身からすれば、この現場は、流れるべくして流れた、
と言わざるを得ません。
安全度順あるいは危険度順に、上から下へと並べて行ったら、
土地を知る者、あるいは少しでも防災に関心がある者、知識がある者であれば、
決して買わないであろう、下から数えて何番目、という場所でした。
「住む場所選びの目を養う(育む)」が防災や防災教育の大テーマであろうに!と考える身としては、
「見る目を持たないとこういうことになります」という典型的な事例だよなぁ、と思った訳です。
ただ……。
今日の話は、もう一歩進んだところからアプローチしてみたい、と思います。
昨年の新語流行語大賞、「インスタ映え」はさておき、「忖度」に贈られましたよね。
この言葉を選んだ『現代用語の基礎知識』関係者の目は、さすがと思います。
社会システムがダメになっていく具合って、忖度の現れ方によって測ることが出来るのではないか。
断言する力はなく、もちろん論証も出来てはいませんが、
社会のシステムは、誰もが責任を取らないこと、
あるいは、責任を取るべき者に「責任がある」と言わないことで、
ダメになっていってしまうものなのかもしれない、
そんなことを思っています。
1~5に整理してみた論点、どこか一つでも、誰か一人でも、誠実であれば=まっとうに責任を果たしていれば、
防ぐことが出来ただろうに、と、思わざるを得ません。
それほど、一目で「アホやんけ」とわかる場所でしたから。
1ステップや2ステップの不誠実さは、社会システムがしっかり機能していれば何とかなります。
しかし、すべてのステップで不誠実さがまかり通ってしまえば、
あるいは「己の責任の限りは○○する」という気概が失われてしまえば、
特に、現行の社会システム上、責任を取るべき者(この場合宅地の所有者である住民)が己の責任と向き合わず、
さらにそれを社会の公器であるべきメディアまでが追認してしまえば、
社会システムは崩壊します。
三郷町の現場のような谷埋め盛土の擁壁は、全国に十万単位であるでしょう。
そのすべてが、今回の場所のような施工ではないと信じたいところですが、
「ハインリッヒの法則」を持ち出すまでもなく、このような無責任の相乗効果が現実にある以上、
より大きな社会システムに、致命的な破たんが近づいているのかもしれない、と思ったところで、
大きな間違いがあるとは思われません。とすれば……。
年の初めから、暗い話になって申し訳なくも思います。
でも、社会システムが間違った方向へと突っ走っていこうとしている今、
それに警鐘を鳴らすのも大学人の仕事である、
そう思い、自らを鼓舞しようとしている新しい年の始まりです。
のっけからの長文、ご容赦を。
平成元年組として社会人生活をスタートさせた「旅の坊主」としては、
これから始まる1年は、来し方を振り返るという意味でも、定年までのカウントダウンが始まるという意味でも、
いずれにしても節目の年となります。
改めて、己の背筋がしっかり伸びているかを確認する、仕事始めの日となりました。
さて、仕事始めを期しての更新ゆえ、新年に相応しいかどうかはさておき、
今年2018年にちなんだ話題から、道中記を始めたいと思います。
2018年ということは、1868年の明治維新から数えて150年という節目の年に当たります。
別の言い方をすれば、江戸時代・徳川幕藩体制が終末を迎えた年でもあります。
一つの社会システムが終わりを告げるということ、それは、
古い社会の仕組みが新しい時代に適応できなくなったことを意味しています。
昨年末、といってもまだ一週間も経っていないのですが、
「社会システムがダメになっていくことって、こういう所に表れてくるのかもしれないなぁ」と、
旧年中の最後の旅でとある被災現場を訪問した時、思うところがありました。
昨年10月22日未明、台風21号がもたらした豪雨により、
奈良県三郷町(さんごうちょう)を走る近鉄生駒線の勢野(せや)北口駅~竜田川駅間の造成地が崩れ、
土砂が線路内に流入、同線が数日間運休になる事態が発生しました。
いろいろな人がいろいろなことを言っています。
私もこの災害の直後、拙FBで思うところを述べさせてもらいましたが、
遅まきながらも現地を訪問して、改めて、いろいろなことを考えさせられました。
「旅の坊主」が考えたことは、こんなところです。
1 わざわざ崩れやすいところに選んだかのような宅地造成であった。
2 かつ、相当にいい加減な施工であったと思われる。
3 かつ、買った側がその土地の「来歴」を調べたとは思われない。
4 己の所有物が他人に損害を与えた場合、その責任は所有者に帰すのが筋。
(この事例では民法717条「工作物責任」が関係条文となるのであろう。)
5 その筋論をメディアがまっとうに扱わない。
(注:開発許可を出した行政が悪いとの議論がまともであるとは全く思われない。
その種の立論をする人が多いことは当方も承知。
しかし、書類が整っていれば許可を出さざるを得ないのが現行制度。
現場を見る限りそんなに難しい施工技術を要する場所とは思えなかった。
施工中の実地検査も完了検査も実施する余裕のない行政の現状では、
施工業者の良心を信用する以外の選択肢はない。
つまりは書類を「作文」し手抜きをされれば行政に手の打ち様はない。
「行政が悪い」との立論をしたい人は勝手にすればよいが、その場合は、
①劣悪な開発許可をゴリ押しするような政治家の使い方をする市民がいる現実をどう変えるのか、
②実地検査や完了検査等々を実施出来るようになるまでの行政コストの増大=増税を受忍するのか、
の少なくても2つの問いにしっかり答えて欲しい。)
地番としては三郷町東信貴ヶ丘になるのでしょうが、
防災を生業にする身からすれば、この現場は、流れるべくして流れた、
と言わざるを得ません。
安全度順あるいは危険度順に、上から下へと並べて行ったら、
土地を知る者、あるいは少しでも防災に関心がある者、知識がある者であれば、
決して買わないであろう、下から数えて何番目、という場所でした。
「住む場所選びの目を養う(育む)」が防災や防災教育の大テーマであろうに!と考える身としては、
「見る目を持たないとこういうことになります」という典型的な事例だよなぁ、と思った訳です。
ただ……。
今日の話は、もう一歩進んだところからアプローチしてみたい、と思います。
昨年の新語流行語大賞、「インスタ映え」はさておき、「忖度」に贈られましたよね。
この言葉を選んだ『現代用語の基礎知識』関係者の目は、さすがと思います。
社会システムがダメになっていく具合って、忖度の現れ方によって測ることが出来るのではないか。
断言する力はなく、もちろん論証も出来てはいませんが、
社会のシステムは、誰もが責任を取らないこと、
あるいは、責任を取るべき者に「責任がある」と言わないことで、
ダメになっていってしまうものなのかもしれない、
そんなことを思っています。
1~5に整理してみた論点、どこか一つでも、誰か一人でも、誠実であれば=まっとうに責任を果たしていれば、
防ぐことが出来ただろうに、と、思わざるを得ません。
それほど、一目で「アホやんけ」とわかる場所でしたから。
1ステップや2ステップの不誠実さは、社会システムがしっかり機能していれば何とかなります。
しかし、すべてのステップで不誠実さがまかり通ってしまえば、
あるいは「己の責任の限りは○○する」という気概が失われてしまえば、
特に、現行の社会システム上、責任を取るべき者(この場合宅地の所有者である住民)が己の責任と向き合わず、
さらにそれを社会の公器であるべきメディアまでが追認してしまえば、
社会システムは崩壊します。
三郷町の現場のような谷埋め盛土の擁壁は、全国に十万単位であるでしょう。
そのすべてが、今回の場所のような施工ではないと信じたいところですが、
「ハインリッヒの法則」を持ち出すまでもなく、このような無責任の相乗効果が現実にある以上、
より大きな社会システムに、致命的な破たんが近づいているのかもしれない、と思ったところで、
大きな間違いがあるとは思われません。とすれば……。
年の初めから、暗い話になって申し訳なくも思います。
でも、社会システムが間違った方向へと突っ走っていこうとしている今、
それに警鐘を鳴らすのも大学人の仕事である、
そう思い、自らを鼓舞しようとしている新しい年の始まりです。
のっけからの長文、ご容赦を。
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