「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「災害学は自然科学、防災学は社会科学」

2017-09-13 22:08:32 | 防災学
不定期更新の拙ブログ。例によって?更新が止まってしまっていた。面目のないところ。
今週金曜日からは後期授業。それに向けて気持ちを高めていかなくてはならない時期なのだが、
折り良く?半日近く飛行機にカンヅメ中。
つまりは、少しはモノを考え、サボりまくっていた情報発信を再開させよ、という天の声なのではないか、と。

この先もまた、とぎれとぎれになってしまうかもしれないけれど、ともあれこの機会に、
最近考えていることを、少しまとめて(まとめ始めて)みたい、と思う。

表題は、ここ数年来ずっと考えていること。

自然現象としての災害(地震、噴火、台風等々のこと)の発生のメカニズムを知ることは、
防災(あるいは災害対策)の出発点とされている。
例えば、多くの防災教育論が地震発生のメカニズムから論を展開させているように。
しかし、実のところ、災害発生のメカニズムを理解できたとしても、その現象そのものを止めることは出来ない。
そして、災害発生のメカニズムを理解できたところで被害を軽減できる訳でもない。
両者は全く別物。

防災学では、自然現象としての災害(正しくは災害因という言葉を使っている)と、
社会現象としての災害(被害という言葉を、人的物的被害)の対比として、
このことを整理・理解している。

誘因と素因の関係と表現されることもある。

誘因としての降雨が甚大であったとしても、
素因としての堤防の高さや頑丈さが十分にあれば破堤による洪水は起きず、
素因としての排水能力が高ければ内水氾濫も起きない、という具合。

さらに、そもそも論を言えば、
破堤したら洪水につかりそうな場所は水田として活用すれば良い訳で
(川は肥沃な土を運んでくれるだろうし、2日くらいの冠水ならば稲は腐らない)、
そのような場所には社会的に重要な施設は立地させない、
というのが、本来あるべき防災(災害対策)の姿だろう。

これらは防災学の「イロハのイ」。
とすれば、災害発生のメカニズムを知るだけでなく、
どうやれば被害を防げるのかが、学術的にも検討されなくてはならないはず。

例えばこんな感じ。

「素因としての何にどれほどの税金を投入して強化するか」

「限られた予算の中で、他の重要施策との比較考量の中で、どのような優先順位付けをするか」

「どうやって危険な場所に住まわせないようにするか」

「危険な場所にある家々や施設をどうやって災害リスクの少ないところに移転させるか」

「これらを行う上でモラルハザードを防ぐためにはどうすればよいか」

等々。

これらは押しなべて社会科学、例えば政治学や行政学、財政学の重要テーマとなる。
否、なるはず、否否、なってもらっていなくては困る。はずなのだが……。

「旅の坊主」が飛び抜けて不勉強だから、とは思いたくないが、
政治学や行政学の課題としての災害対策についての論議が、
あまりに深まっていないように思われてならない。

例えば……。
災害リスクの高い場所には(公権力の行使により)住居や施設を建てさせないというゾーニングの考え方は、
現行でも複数のスキームが用意されているのだが、
では、なぜうまく機能しないのか?展開されていないのか。

政治学の、あるいは行政学の、(地方)財政学の課題として、
これらのテーマを取り扱っている論考は、あるいは論者は、
世の中にどういうものがあり、どういう人がいるのだろうか。

そして、もし、その種の方々がおらず、論考も書かれていないとするならば、
それらについて何かしらのものをまとめて世に問うのが、
アカデミックな世界にも生きているはずの「旅の坊主」の社会的役割、
ということになるのかもしれない。

で、そのように考えればこそ、その習作を発信し続けることが、
今後5年ほどの己の大きな役割ではないか。

そんなこと思いつつ、日本に戻ってきたような次第。


コメントを投稿