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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

タタラと鬼

2019-02-03 09:48:34 | 出雲の神社

<安来市広瀬町>

 

出雲神話を代表する物語のひとつ

「ヤマタノオロチ退治」の一件は、

「砂鉄をめぐる部族間の争い」を

描いた話ではないかという説があります。

何でも、奥出雲の「タタラの民」を、

高志から来た異国人の集団が襲った一件を、

ヤマタノオロチの物語として描いたのだとか。

 

ときに、「鉄」の伝承や「鉱物」の遺産の類は、

古代史を読み解く有効な手段として引き合いに出されます。

神社の由来やご祭神などに関する資料は、

時代に応じて変更されているものも多く、

史実とは真逆の解釈をもたらす場合もあるゆえ、

鉄を調べることにより、確固たる「歴史的事実」

が浮かび上がってくるのも確かでしょう。

 

ただし、「渡来人=製鉄」

「鬼=タタラの民」などの話を聞くたびに、

個人的にはどうも物足りなさを感じるもの。

タタラ仕事に従事していた土着の民が鬼なのか、

はたまた製鉄文化をもたらした渡来人を鬼と呼ぶのか、

論ずる人々によって意見は千差万別ですし、

また、すべての古代部族間の争いを、

「鉄の奪い合い」に結びつける風潮にも、

違和感を覚えるのが正直なところです。


鉄穴流

2019-02-02 09:44:40 | 出雲の神社

<安来市広瀬町>

 

奥出雲で見られる美しい棚田は、

たたら製鉄における行程のひとつ

「鉄穴流(かんなながし)」によって

生み出された景観だと聞きます。

鉄穴流とは、山を切り崩して土砂を流し、

それに含まれる砂鉄を採取する方法でして、

大量の砂鉄を取り、大量の鉄を製造するには、

何よりも「豊かな森」が必要不可欠なのだとか。

恐らく、たたら製鉄が始まる以前の奥出雲には、

深い森林地帯が広がっていたのでしょう。

 

一説に、スサノオが新羅国から出雲を目指したのは、

製鉄の炉を燃やす際に必要な、

木材の確保が目的だったとも言われています。

ただし、本当にそうであるなら、

日本書紀の一書にある

「はげ山だった全国の山々に、

自らの体毛を抜いて植林をした」

というスサノオの行動が、

どことなくしっくりこないように感じるもの。

すでにはげ山ばかりになっていた日本へ、

わざわざ植林をしにやって来るというのも不可解です。

そこで、他の逸話を読み比べてみたところ、

どうもスサノオという神は、

「鉄」とは一定の距離を置いていた節が伺えるのですね。


たたらの聖地

2019-02-01 09:41:41 | 出雲の神社

<奥出雲町>

 

一般的に「ヤマタノオロチ」とは、

1.川砂に多くの鉄分を含む

赤褐色の斐伊川と指すという説、

2.奥出雲の谷で鉄を溶かす際に立ち上る

「野だたら」の炎を指すという説、

……などが有力視されています。

真っ赤な炎が滝のように流れ落ちる谷、

赤い砂鉄が厚く堆積した川底……など、

この地にあるすべての自然物は、

まさに「赤一色」だったのでしょう。

 

安来市・金屋子神社付近を源流とする

飯梨川の上流域も、斐伊川などとともに、

良質の砂鉄が採れた土地でしたが、

現在、日本の伝統的な手法を用いて、

日本刀の材料となる「玉鋼」を製造しているのは、

奥出雲町にある「日刀保たたら」のみと聞きます。

恐らく、その頃の奥出雲の生活を探ることで、

当時の人々が何を見て「オロチ」と呼んだのかが、

はっきりと見えてくるのかもしれません。


出雲の原風景

2019-01-31 09:39:23 | 出雲の神社

<安来市広瀬町>

 

奥出雲町の船通山のふもとから車で約30分。

お隣の安来市に入ってまもなくのあたりで、

金屋子神社へと続く山道が見えてきます。

山道と聞くと条件反射的に身構えてしまいますが、

そこはさすがに「ザ・観光地出雲」でした。

どんな小さな集落にも、きちんと舗装道路を

整備してあるのが出雲のすごいところです。

おまけに、かなり山間部の神社を訪ねても、

「●●神社⇒」といった具合に、

至る所で親切な看板が設置されているため、

どうあがいても迷うことすらできません。

 

よって、酷道踏破と「名もなき神社」の探索が

当たり前となっ(てしまっ)た身には、

少々肩透かしを食らったような感覚になったものの、

この金屋子神社の近辺には、

まだまだ観光地化されていない「素朴さ」が残り、

出雲・松江市内などでは少なくなった、

「出雲の原風景」に出会える場所でもあります。

訪れたこの日も、谷間に連なる雨上がりの棚田に、

キバナコスモスが華麗にアクセントを添え、

初夏の「たたら場」を彩っていました。


シラと牛首

2019-01-30 09:11:44 | 出雲の神社

<白山周辺>

 

日本書紀の別伝に登場する

「新羅の国のソシモリ」という文言をきっかけに、

つらつらと妄想の旅を繰り返していたところ、

なぜか朝鮮半島ではなく、出雲のはるか東、

牛首の地名を要する白山へと導かれました。

ちなみにその昔、牛は神として崇められていた動物で、

頭に「角」を持っていることから、

牛首を「鬼」とも呼ぶこともあったそうです。

 

牛首という名の集落に取り囲まれた白山は、

大汝峰(おおなんじみね)と称する山峰を有し、

その名前の響きから「おおなむち」との

関連が囁かれている場所でもあります。

オオナムチと言えばまさしく、

イズモを統治した大国主神のことですね。

 

果たして、「新羅のソシモリ」というキーワードは、

「シラ」と「牛首」の暗喩なのでしょうか……。

仮に、スサノオたちの出自に縁する場所が、

白山の近辺であったと仮定するなら、

日本書紀の編纂者たちは、「新羅」の言葉の裏に、

「シラの鬼」を隠そうとしたのかもしれません。


ソシモリ

2019-01-29 09:10:18 | 出雲の神社

<白山周辺>

 

スサノオとイソタケルが滞在していた

「新羅国のソシモリ」のソシモリは、

実は「牛頭」を表した言葉だと言います。

牛頭と聞きますと、スサノオとも習合される、

京都八坂神社の牛頭天皇のことが頭に浮かびますが、

北陸地方には牛頭と同じ意味を持つ、

「牛首」という地名がいくつか存在し、

牛首紬で知られる白山市の白峰地区や、

白山をはさんで反対側にある岐阜県白川村、

石川県の津幡町などにその痕跡が見られるのだとか。

 

ちなみに、新羅という国は建国した当初、

「斯蘆(しろ・しら)」と呼ばれおり、

また、白山ははくさんとは読まず、

「しらやま」と読むのが正解だ、

という話を聞いた記憶があります。

もしかすると、新羅のソシモリというのは、

朝鮮半島のソシモリ(一説にはソウル)ではなく、

「シラの国の牛頭(牛首)」だったのでしょうか……。

だとすれば、スサノオ(およびイソタケル)は、

「白山を通過して出雲にたどり着いた」

という意外な可能性も出てきそうですね。


奥出雲の鬼

2019-01-28 09:07:25 | 出雲の神社

<鬼神神社 おにかみじんじゃ>

 

鬼神神社の入り口近くにある大きな船形の岩は、

スサノオとイソタケルが鳥上山に降り立った際、

乗ってきた船が岩と化したものだと伝えられています。

その際、鬼神神社の裏山は、二神を導くように光輝いて

神々を出迎えたため、「船燈山」と名付けられたのだとか。

 

ちなみにですが、奥出雲を目指して急いでいた夕暮れ時、

すっきりと晴れ渡っていた空がにわかに暗転し、

突然車体を叩きつけるかのような豪雨に襲われました。

前方に目をやると、船通山の上方で鋭く走る稲妻が、

雷鳴とともにあたり一帯に強い光を散らしています。

 

あまりにも急な展開に、「いったいこれは……」

とうろたえながら、必死にハンドルを握っていると、

ふいに目の前に現れたのがこの鬼神神社だったのです。

まるで天から矢が落ちてくるような雷雨に打たれながら、

やはり「奥出雲には鬼がいる」と確信したのでした。


スサノオの精鋭部隊

2019-01-27 09:02:36 | 出雲の神社

<鬼神神社 おにかみじんじゃ>

 

イソタケルと同一視される大屋毘古神という神は、

大禍津日神(おほまがつひのかみ)とも呼ばれており、

災厄を司る神のとしての側面を持つと聞きました。

記紀において、大屋毘古神と名の付く神は二柱存在し、

それぞれ「別の神」との説もあるため断定はできないものの、

イソタケルが荒神・スサノオの子であることから、

これらの神々が同じ系統だと考えても間違いではないのでしょう。

 

主に、林業の神として知られるイソタケルですが、

出雲の神社の伝承などから垣間見えるのは、

「怨霊を鎮める神」としての荒々しい一面です。

もしかすると、鬼神神社の「鬼神」は、

この地に災厄をもたらしたヤマタノオロチのことではなく、

ご祭神であるイソタケルを示しているのかもしれません。

 

恐らく、オロチという鬼を鎮めるための役目は、

それ以上に荒々しい御魂を宿すイソタケルという名の

「角の生えた神」にしかできなかったのでしょう。

イソタケルが、国防を目的に作られた社である、

韓国伊太●神社のご祭神として選ばれたのも、

朝鮮半島にいた部族たちを誰よりもよく知る、

スサノオの精鋭部隊だったからだと思われます。


オロチの怨霊

2019-01-26 09:55:50 | 出雲の神社

<鬼神神社 おにかみじんじゃ>

 

ヤマタノオロチ退治の伝説が色濃く残る

奥出雲・斐伊川沿いのいくつかの神社には、

なぜかオロチ討伐には登場しないイソタケルが、

スサノオとともに手厚く祀られていました。

一方、イソタケルが上陸したとされる大田市内では、

意外なほどイソタケルをご祭神とする神社は少なく、

さらに、五十猛町より西の地域においては、、

イソタケルの名前はほぼ見当たらないと聞きます。

これらの事実はいったい何を示しているのでしょうか……。

 

一説によりますと、出雲の斐伊川沿いに、

イソタケルをご祭神とする神社が連なるのは、

「オロチの怨霊を鎮めるため」だったのだとか。

何でもイソタケルは、スサノオに殺され

怨霊と化したヤマタノオロチを追いかけて、

斐伊川の河口から上流へと遡ってきたことから、

近辺に多くの痕跡が残されたのだそうです。

 

ちなみに、鬼神神社の社伝によれば、

その昔、火の玉がイソタケルの御陵に舞い降り、

頻繁に船通山のほうへと飛んで行く様子を見て、

人々は「ヤマタノオロチの怨霊」と恐れたとのこと。

そして現在も、オロチの御魂を鎮めるべく始まった、

龍燈祭というお祭りが続けられていると言います。

もしかすると、イソタケルは植林の神であると同時に、

「怨霊封じの神」としての役目も担っていたのかもしれません。


鬼神神社

2019-01-25 09:53:22 | 出雲の神社

<鬼神神社 おにかみじんじゃ>

 

スサノオが降り立ったとされる船通山のふもとに、

「鬼神神社」という名の神社が鎮座していました。

「鬼神だからご祭神はスサノオだろう」と思い込み、

きちんと下調べもせずに参拝してきたのですが、

家に戻って調べてみますと、スサノオとともに、

イソタケルを祀る社だったということが判明……。

神社の裏山には、イソタケルの墓所があることからも、

イソタケルを主とする神社なのかもしれません。

 

ちなみに、こちらの鬼神神社は、「上宮伊賀多気神社」

とも呼ばれており、昨日ご紹介した伊賀多気神社とともに、

出雲国風土記に載る「伊我多気社」の比定地のひとつです。

また、この地の地名である「大呂(おおろ)」とは、

オロチという鬼を指しているそうで、

鬼神神社とはつまりオロチが鎮まる神社なのだとか。

伊賀多気神社の鎮座地には、「角」という

地名がつけられていることを考えても、この一帯に

「鬼と呼ばれる何か」がいた可能性は高いのでしょう。


伊賀多気神社

2019-01-24 09:50:32 | 出雲の神社

<伊賀多気神社 いがたけじんじゃ>

 

奥出雲の出雲横田の中心地近くに、

伊賀多気神社という神社があります。

何でも「いがたけ」は「いたけ」、

つまり五十猛を表しているそうで、

「イソタケルはこの地で生まれた」

との説もあるのだとか。近隣の「鬼神神社」には、

イソタケルの御陵と伝わる場所もありますし、

少なくとも奥出雲のこの一帯が、

イソタケルと深く関係することは確かなのでしょう。

 

また、伊賀多気神社には、「ヤマタノオロチ」

に関する伝承が残っており、父であるスサノオを助け、

オロチを退治したイソタケルがこの地に留まり、

全国に植林造営の技術を伝えたと言います。

神社近くを流れる斐伊川沿いには、

ヤマタノオロチ関連のスポットが集まるだけでなく、

イソタケルをお祀りした社なども連なっていることから、

「オロチ討伐にイソタケルが加わっていた」という説も、

あながち無視できない伝承なのかもしれません。


大きな鬼

2019-01-23 14:44:24 | 出雲の神社

<韓神新羅神社 からかみしらぎじんじゃ>

 

大田市五十猛町の海岸にある韓神新羅神社を、

地元の人たちは「大浦神社」と呼ぶと聞きます。

恐らく、本来はこの「大浦神社」が正解であり、

のちに日本書紀の記述に合わせて「韓神新羅」

という別名があてがわれたのでしょう。

 

ちなみに、大浦は「おおら」と読むそうですが、

「おおら」の響きを聞いて思い出したのは、

「うら」とも「おんら」とも言われる

吉備国にいた温羅という鬼のことでした。

 

もともと「浦」は「裏」と同じ意味で使われ、

「鬼」との関連を強くうかがわせる言葉です。

この地を大浦と呼ぶようになったのも、

「大きな鬼」を暗示させる「何か」が

実際に存在していたからなのかもしれません。


スサノオの化身

2019-01-22 09:40:49 | 出雲の神社

<大屋姫命神社 おおやひめのみことじんじゃ>

 

大田市の大屋地区にある大屋姫命神社のご祭神が、

オオヤツヒメとなったのは、実は明治維新後のことで、

それ以前は「荒神社(あらがみしゃ)」と呼ばれていたそうです。

「鬼村」「大国」「角折」など、この地にまつわる意味深な地名は、

もともとこの神社に祀られていた「荒神」を指すのでしょう。

近隣の鬼村という地区には、鬼岩や大歳神社など

「鬼」に縁する場所もあると聞きました。

 

ちなみに、記紀および他の日本の歴史書の中には、

八百万と呼ばれるたくさんの神々が登場しますが、

それらの大元には、イソタケルやオオヤツヒメなど、

スサノオとイナダヒメとの間に生まれた

「八柱の神」が存在すると言われています。

ゆえに、多種多様な名称を冠する神たちの多くは、

「スサノオの化身」と考えても

間違いではないのかもしれません。

 

恐らく大屋姫命神社も、もともとはスサノオを祀る社であり、

オオヤツヒメと呼ばれる(オオヤツヒメの御魂を宿す)女性が、

この地でスサノオを奉祀していたのだと思われます。

大屋という地名がオオヤツヒメを語源にしたのか、

オオヤの響きに神話の神名を当てたのかはわかりませんが、

言えるのは、この地の人々がオオヤツヒメの陰に潜む、

「大元の神」に気づいていたということなのですね。


オオヤツヒメ

2019-01-21 09:35:35 | 出雲の神社

<大屋姫命神社 おおやひめのみことじんじゃ>

 

イソタケルが上陸したとされる

大田市五十猛の海岸から、

20分ほど内陸に車を進めますと、

イソタケルの妹神・オオヤツヒメノミコト

が祀られる大屋という地区に出ます。

伝承によれば、オオヤツヒメ、

そしてツマツヒメの二人の姫神は、

兄イソタケルとともにスサノオの帰国に随伴し、

造林や機織りなどの技術を広めたのち、

オオヤツヒメは大屋の大屋姫命神社に、

また、ツマツヒメは物部神社の境外社である

漢女(からめ)神社に祀られたのだとか。

 

ちなみに現在の大屋地区は、明治時代に

「鬼村」「大国村・尾波」「大国村・角折」

という、何とも曰くありげな3つの地区が

合併した地域だと聞きますが、

現在はポツリポツリと

民家が点在する静かな山間地です。

川のそばの小高い丘の上にあるお社は、

うっかりすると見過ごしてしまうほど控えめな雰囲気で、

入り口に建つ鳥居だけが白々とした輝きを放ちながら、

静かに到着を出迎えてくれました。


スサノオの子

2019-01-20 09:32:16 | 出雲の神社

<五十猛神社 いそたけじんじゃ>

 

記紀の出雲神話の舞台となっているのは、

「神と人間」が混在していたころの「イズモ」です。

ゆえに、日本書紀における出雲関連の話は、

スサノオやイソタケルの「神としての側面」と同時に、

スサノオやイソタケルを「出雲にやってきた渡来人」

と仮定した上でのエピソードも記載しているため、

物語の解釈が難しくなっているのでしょう。

 

恐らく、イソタケルという存在は、

偉大なる父・スサノオの息吹を宿す

紛れもない「神」であると同時に、

スサノオへの信仰とともに、大陸より日本へと

帰還した人々を指す名称でもあったはずです。

 

もしかすると、イソタケルが「人」として生きていた時代、

朝鮮半島にいた彼らは、スサノオの神託に従い、

日本へと向かったのかもしれません。

朝鮮半島を経由し「イズモ」に上陸した

「スサノオの子」たちは、優れた知識と

目新しい文化を数多く持ち帰ったことから、

「韓神」という名で呼ばれるようになったのでしょうか……。

彼らは国津神の血を引きつつも、

表向きは渡来系として定義され、

「国造り」「国譲り」の場面のキーマンとして現れたのち、

「陰の氏族」として日本建国にも関わったのだと思われます。