<粟鹿神社 あわがじんじゃ>
播磨国一の宮のひとつである「粟鹿神社」の名称を見て、
まず思い浮かんだのが「粟(農耕儀礼)」と「鹿」
というキーワードが登場する佐用都比売神社の伝承です。
粟鹿神社の由緒によりますと、
「粟を三束くわえた鹿が山(粟鹿山)から現れ、
土地の人々に農耕を教えた」ことが社名の起源とされますが、
恐らくこの場所でも「鹿の血」を用いた
農耕儀礼が行われていたのでしょう。
天美佐利命の一族と佐用都比売の一族は、
「伊和大神」を中心として血縁関係でつながり、
アメノヒボコの侵入を阻止すべく、
共同戦線を張り巡らせていたのかもしれません。
ちなみに、アメノヒボコがおよそ数年の日本滞在ののち、
故郷である伽耶(もしくは新羅)に帰国する際、
天皇自らが赤い絹の織物を贈ったという逸話があります。
もしそれが本当だとすれば、アメノヒボコは
日本側の要請に応じて来日した可能性も大です。
天皇の命でこの地に派遣され、
自らの土地を奪おうとしたアメノヒボコに対し、
伊和大神の一族はどんな感情を抱いていたのでしょうか……。