<津山市内>
「生贄」という習俗を話題にする際、
よく耳にするのが「渡来人が来日する前から、
日本には生贄文化が根付いていた」という話です。
ただし、個人的な感覚では、
超古代の日本(縄文時代より以前)には、
「神のために生き物を捧げる」
という風習はなかったと感じますし、
仮に縄文時代に入って、
アイヌの熊送りや能登半島のイルカ奉納、
そして鹿の血を用いる農耕儀礼など、
動物供犠が行われるようになっても、
あくまでも無駄な殺生を最小限に
抑えた上での神事だったと想像しております。
恐らく、播磨国およびその一帯では、
「死」や「葬祭」に関わる祭祀をする人々が集まり、
様々な神事のあり方が検討されていたのでしょう。
日本由来の「鹿」から、大陸由来の「牛」へと
供犠の動物が入れ替わる中で、祭祀の質も次第に
「大陸の色」を帯びて行ったのだと思われます。
もしかすると、「産鉄」と引き換えに行われた
「生贄」という習俗の蔓延により、
日本古来の祭祀が浸食されつつある
状況になったのかもしれません。