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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

天皇の特権

2019-08-06 09:49:22 | 鉄の神々2

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

昨日、桓武天皇が「牛殺祭祀」を禁じた理由について、

「疫病の蔓延を防ぐため」と考察しました。

ただし、他にもいくつかの理由が取り沙汰されており、

その中のひとつが、「国家祭祀」に関わるものです。

何でも、桓武天皇は牛殺祭祀という祭りを

「天皇の特権」とするために、地域の権力者や

民間人がこれらの行為を行うことを禁じたのだとか……。

 

当時、天皇の監視下にあった畿内一帯に留まらず、

伊勢・尾張・近江・紀伊、若狭・越前などに関しても、

自らの手で祭祀を取り行うべく(自分の支配下に置くべく)、

これらの地域に「殺牛・漢神禁止令」を出したのだそうです。

 

その事実を示すかのように、当時の書物には、

「殺牛儀礼は天皇のみが行える儀式である」、

あるいは「民間人の祭祀では効果が出ないときも、

天皇が神事を行えばすぐに雨が降る」……など、

「天皇」がいかに優れた呪力を要していたかを

物語る文章が残されていました。

果たして、桓武天皇が「殺牛」を禁じた真の目的とは、

自らの祭祀権を守るためのものだったのでしょうか……。


桓武天皇の思惑

2019-08-05 09:45:13 | 鉄の神々2

<天津神社 あまつじんじゃ>

 

桓武天皇が「牛殺祭祀」を禁じた

「最も現実的な理由」として考えられるのが、

疫病の蔓延だったと思われます。

先日の記事でも触れましたが、

供物として神に献上されるのは「牛の頭」のみで、

それ以外の胴体の部分は川に捨てられたのだとか……。

ただし、そのまま放置しておくと肉が腐敗するため、

牛を屠る役目を担った最下層の民たちが、

残りの部分を食することを許されていたそうです。

 

つまり、牛殺祭祀という習俗が広まれば広まるほど、

「疫病」のリスクも増えて行ったわけで、

実際に「殺牛文化」が到来した時期と重なるように、

「疫神」という概念が一般的になり、

同時に「漢神信仰」も急速に伝播したと聞きます。

恐らく、桓武天皇が牛殺祭祀を厳しく取り締まったのは、

仏教における「殺生」の概念の影響以外にも、

まずは疫病の蔓延を防ぐという目的があったのでしょう。

 

そしてさらに、桓武天皇がこれらのお触れを出した背景には、

別の理由も潜んでいるという噂がありました。


秦氏と牛

2019-08-04 09:38:45 | 鉄の神々2

<京都市遠望>

 

アメノヒボコと同じく「新羅」を

故郷とする「秦氏」という氏族は、

一説に牛殺祭祀を持ち込んだ集団

ともいわれており、秦氏の来日とともに

「牛」および「牛の祭祀」が輸入され、

各地に伝播したという説が有力視されています。

 

その理由として、

1. 秦氏が牛殺祭祀の習俗を持つ、

新羅由来の集団だと推測されること

2. 秦氏が渡来したとされる時期が、

牛の伝来時期と重なること

3. 秦氏の本拠地である京都太秦に、

「牛祭り」という祭礼が残ること

……などがあげられますが、

恐らくはその頃から農耕儀礼の供物となった「獣」が、

「鹿」や「猪」から「牛」へと切り替わり、

民衆の間に広まった可能性が伺えます。

 

ただし、秦氏という氏族は、

日本史上最大とも噂される「大集団」を形成して、

日本にやってきたそうですし、その中には

様々な信仰を持つ人々が混じっていたのでしょう。

ゆえに、「秦氏=新羅」という図式のみで、

牛殺祭祀の大元を特定することは難しいはずです。

 

事実としていえるのは、

秦氏が天皇祭祀に深く関与していた時代、

桓武天皇が何らかの差し迫った理由により、

「殺牛および漢神祭祀を禁止するお触れ」

を出したということかもしれません。


生贄の習俗

2019-08-03 09:33:15 | 鉄の神々2

<出石神社 いずしじんじゃ>

 

以前のブログの中で、アメノヒボコと

伊和大神との国占めについて記事にした際、

「生贄を持ち込んだ部族(アメノヒボコ)と、

生贄を嫌う部族(伊和大神)との争いだった

のではないか?」という仮説を立てました。

一方で、いくつかの伝承を踏まえますと、

どうもアメノヒボコという人物(神)は、

「生贄という習俗を嫌っていた」

という可能性も捨て切れないのですね。

 

もし仮に、アメノヒボコが「牛殺祭祀」

に否定的な立場を取っていたとするなら、

恐らく、日本に渡来した理由の中には、

これらの生贄風習から逃れる、

あるいはこれらの風習を日本から

淘汰する狙いがあったはずです。

 

アメノヒボコが来日した際、

「天皇への謁見」を申し出たときの態度も、

アメノヒボコが単に自らの都合ではなく、

「天皇側からのコンタクト」があった上で、

日本を訪れたことを匂わせますし、

生贄の習俗を持つといわれる金屋子神の一派が、

播磨国から出雲国へと移り住んだ背景が、

どことなくアメノヒボコらの来訪と

連動するようにも感じられます。

 

もしかすると、アメノヒボコという存在は、

日本の各地に蔓延し始めた「生贄祭祀」を阻止すべく、

日本側から招かれた人物だったのでしょうか……。


漢神と殺牛

2019-08-02 09:30:07 | 鉄の神々2

<姫路市内>

 

「牛殺祭祀」という神事を行う際、

牛を捧げる対象となったのは、

「漢神」だといわれています。

「牛」を欲する「漢神」とは、

いったいどのような神なのかを考えて行きますと、

やはり思い浮かぶのが牛頭天皇という存在ですね。

 

何でも、牛頭天皇の顔は「黄牛」そのもので、

頭には鋭い角が生えており、その風貌は兵主神とも

称される「蚩尤(しゆう)」を彷彿させるのだとか……。

ちなみに、牛頭天皇王国でもある兵庫県には、

多くの殺牛・殺馬祭祀の伝承地が存在し、

その名残なのかこの一帯は現在も、

国内随一の皮革産地としても有名です

(古代の播磨国は主に馬革生産)。

 

一般的に、「生きた動物」や「獣肉」などを用いる祭祀は、

「農耕儀礼」との関わりが深いとされ、

「牛殺祭祀」に関しても、主に農耕のための雨乞い神事、

雨止み神事の名目で行われていたと聞きますが、

「鹿の血」の話が残る佐用都比売神社の周辺が、

大規模な砂鉄の産地であることなど考えれば、

「鉄」の祭儀との関連も否定できないのでしょう。


黄牛

2019-08-01 09:27:05 | 鉄の神々2

<由布島>

 

古来、生け贄に用いられる牛を、

「黄牛(あめうし)」と呼びました。

ただし、当時の日本に「牛(および馬)」

が存在した形跡はなく、

そのほとんどが弥生時代以降に、

朝鮮半島から持ち込まれたものだそうです。

 

アメノヒボコ(ツヌガアラシト)伝承の中にある、

「殺された黄牛の代価として白い石を貰い受けた」

という一節からも伺えるように、

「牛」はもちろん「牛」を使った生け贄も、

日本由来の祭祀ではなかったのでしょう。

 

ちなみに、神への供犠のために用意された黄牛は、

首を落として神前に捧げられたのち、

胴体部分は谷底の川へと捨てられたのだとか……。

その際、牛を屠る役目は、身分の低い人々

(いわゆる被差別民)が担い、その代償として

捨てた牛の肉を食べる権利を与えられていたといいます。

 

これらの説話をアメノヒボコの伝承を重ね合わせると、

恐らくアメノヒボコという存在は、

牛殺祭祀と密接に関わっていた人物か、

逆に牛殺祭祀に否定的だった人物かの

どちらかになるのかもしれませんね。


牛殺祭祀

2019-07-31 09:23:30 | 鉄の神々2

<気比神宮 けひじんぐう>

 

延暦10年(791年)9月16日、

桓武天皇により「牛を殺して漢神を祀ること」

を禁止する勅命が出されました。

これらの祭祀は俗に、牛殺祭祀(殺牛祭神)と呼ばれ、

違反した場合は「故殺馬牛罪」という罪に問われたそうです。

対象となった主な地域は、伊勢・尾張・近江・紀伊

・若狭・越前などで、延暦20年(801年)4月8日には、

越前国に対してのみ、再度通達が出されたと聞きますから、

越前国における牛殺祭祀の定着度は他国以上だったのでしょう。

 

ちなみに、以前の記事内でも、

「ソシモリ」と「牛首」というテーマを取り上げましたが、

白山信仰と「牛」との間には切っても切れない縁があり、

白山信仰のお膝元である越前国をはじめ、

北陸から新潟にかけての「越」のつく国々には、

朝鮮半島からもたらされた「殺牛祭」

が多数残存していたとされます。

 

また、牛を殺す祭儀は、朝鮮半島だけでなく

中国古代でも盛んに行われており、

祭祀の供物として牛を屠ることは、

神に対する最高の犠牲行為であったのだとか……。

いずれにせよ、中央日本を中心に広がりを

見せていた殺牛祭祀という儀式、

そして「漢神」と名指しした桓武天皇の思惑が、

どのようなものだったのか興味が尽きないところです。


牛を屠る祭祀

2019-07-30 09:20:29 | 鉄の神々2

<石上神宮 いそのかみじんぐう>

 

アメノヒボコに関わる伝説の構図は、

俗に「日光感精神話」と呼ばれており、

「太陽の光により処女懐妊する」

という筋書きが特徴とされます。

さらに、「赤い玉(白い石)から人間が産まれた」

という内容の「卵生神話」も加わることから、

一般的には「日光感精型+卵生型」の神話などと分類され、

これらと似たような伝説は、

世界各地で伝えられているのだとか……。

 

ちなみに、「日光感精神話」は、

エジプトのあたりから伝播したという説があり、

もしこれが事実ならアメノヒボコの来日譚は、

古代イスラエルの人々によって

もたらされた可能性も出てくるのでしょう。

 

そんなアメノヒボコ伝承の中で、

個人的に気になったのは、

物語の途中で「牛」という動物が唐突に登場し、

牛を殺した(殺そうとしていると思い込んだ)相手を、

アメノヒボコが厳しく咎めているという部分でした。

その所業はあたかも、アメノヒボコ自身が、

何らかの形で「牛」を屠る祭祀に関わっていたという事実を、

それとなく暗示しているような気がしてならないのです。


麻と銅鐸

2019-07-29 09:45:13 | 鉄の神々2

<大麻比古神社 おおあさひこじんじゃ>

 

「鉄」と「麻」との間に強力な結びつきがあることは、

各地の「麻」と名の付く場所から、

「銅鐸」が出土するという事実からも証明できるそうです。

 

例えば、四国を例にあげると、香川県善通寺市の大麻山や、

鳴門市大麻町の阿波国一の宮・大麻比古神社の近辺、

古くは麻植郡と呼ばれた吉野川市山川町の遺跡など、

なぜか「麻」のそばには、常に「銅鐸」が寄り添う

という奇妙な偶然が見られるのだとか……。

 

また、旧麻植郡は徳島県内最大の銅鉱山

高越鉱山を要する「鉱物の都」で、

その昔は忌部郷(いんべごう)と

射立郷(いたてごう)とに分かれていたと聞きます。

 

射立郷に祀られる天村雲命は、

天五多底命(あめのいだてのみこと)

とも呼ばれていたという話があり、

もしそれが本当だとすれば、

たつの市の中臣印達神社に合祀された、

「アワヂ」と名の付く謎の社が、

もともとは射立郷に鎮座していた

可能性も出てくるのでしょう。

 

いずれにせよ、「アサ」という音は、

朝鮮語で「鉄」を意味するともいわれていますし、

「麻」をシンボルとする忌部氏と

「鉄」や「銅鐸」との関わり、

そして「麻」をシンボルとする忌部氏と、

伊福部氏・出石氏など「鉄」を専業とする氏族

との関わりが、にわかに気になってまいりますね。


鉄と麻

2019-07-28 09:39:15 | 鉄の神々2

<出石町宮内>

 

「鉄」にまつわる神々を調べて行きますと、

時折「麻」という文字が目に入ってきます。

以前ご紹介した『金屋子神祭文』の

「金屋子神が麻に足を取られて亡くなった」

という一文しかり、天目一箇神の由来を語る

「麻の葉の鋭い葉先が神の目を傷つけた」という話しかり、

鉄の神々の周りには「麻」というワードが頻繁に現れ、

そのほとんどが「神が麻を避ける」という

あらすじに沿って描かれたものなのです。

その中のいくつかをご紹介しましょう。

 

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『常陸国風土記』逸文

兄妹が同じ日に田植えをしていました。
しかし、「遅い時間に苗を植えると、
伊福部神(雷神)の祟りに遭う」と
いわれていたにも関わらず、妹はその約束を破り、
遅い時間まで田植えをしていたため、
雷に打たれて死んでしまいます。
妹の死を嘆き悲しんだ兄が、雷神に復讐をすべく、
肩に止まった雉の尾に積麻の糸をつけて追跡すると、
雉は伊福部岳へと兄を導いたそうです。
そして、雷神のいる石室を見つけて押し入り、
太刀を抜いて襲い掛かったところ、
雷神は命乞いをし、今後兄妹の子孫が
雷の被害に遭わないよう誓ったのだとか……。
男は雷神を許したのち、雉の恩に報いるため、
以後雉の肉を食べなかったと聞きます。

==========================

『播磨国風土記』

昔、但馬国の伊頭志君麻良比
(いずしのきみまらひ)という人物が、
山の上に居を構えていました。
ある日の夜半、麻を打っていたふたりの女が、
麻を自分の胸に置いたまま死んでしまいます。
ゆえにこの地を麻打山と呼ぶようになり、
この辺りに住む人は夜は麻を打たくなったのだそうです。

==========================

これら二つの伝承からは、

製鉄氏族である伊福部氏が

「雷神」と同一視されていたこと、

そして佐用郡の話と同様に、

製鉄氏族と「田植え」が関わること、

さらに出石の君と呼ばれる人物が

「麻」を禁忌としていたことなどが読み取れます。


アメノヒボコと氏族

2019-07-27 09:35:34 | 鉄の神々2

<出石町宮内>

 

古代史における「渡来神」の代表格

アメノヒボコという神の周辺には、

様々な氏族の影がつきまとっております。

まず、宍粟郡においてアメノヒボコを尋問した長尾市は、

出石神社の宮司家・長尾氏の先祖ともいわれておりますし、

アメノヒボコが但馬国に入り婚姻関係を結んだのは、

物部氏につながる太耳の娘でした。

 

また、アメノヒボコの渡来説話が残る地域と、

秦氏の居住地、および天目一箇神(忌部氏の祖神)

が祀られる神社の分布が一致するという話もあるなど、

多くの豪族がアメノヒボコの来日に

絡んでいた形跡が伺えるのです。

 

つまりこれは、「銅鐸」や「製鉄」に関わる氏族の支配地を、

アメノヒボコの勢力が抑えて行ったか、

もしくは「銅鐸」や「製鉄」に関わる氏族自体が、

アメノヒボコと同族であったという

意味にも受け取れるのでしょう。

 

恐らく、「親の国に帰る」といって日本に逃げてきた、

アメノヒボコの最初の后・アカルヒメだけでなく、

アメノヒボコ自身も日本とのつながりを持ち、

朝鮮半島にいた時分から、猿田彦一族や

その他大勢の部族との「奇縁」があったのかもしれません。


邪視文

2019-07-26 09:28:50 | 鉄の神々2

<国立歴史民俗博物館>

 

数ある銅鐸の図柄の中でも、

希少かつユニークな文様として知られるのが、

「邪視文(じゃしもん)」と呼ばれる

「眼」を模したような文様です。

邪視文は、悪霊や邪悪なものににらみを利かす

「邪視(じゃし)」を表現した絵であり、

邪視文が描かれた銅鐸には、人間らしき顔と

水鳥とがセットで描かれている場合が多いと聞きます。

 

ちなみに、先日から記事にしている猿田彦という神は、

邪視の神あるいは邪視防御の神とされ、

「ニニギの前に立ちはだかった猿田彦の眼は、

八咫鏡のように輝き怪しい光を放っていた」

という内容の一文が、『日本書紀』の

天孫降臨の段に記されていました。

 

このとき、猿田彦の眼力を唯一跳ね返したのが、

天岩戸の件で手に鐸(さなぎ)の矛を持って

舞った天鈿女なのだとか……。

つまり、邪視文銅鐸に描かれていた「眼」は

「猿田彦の目」でもあり、

以前ご紹介した「鹿文様」と同様、

「地霊鎮め」としての力を秘めた

サイキックな図柄だったのでしょう。


猿田彦と銅鐸

2019-07-25 09:25:29 | 鉄の神々2

<和気神社 わけじんじゃ>

 

先日ご紹介した和気氏の氏神・和気神社は、

もともと「猿目(さるめ)神社」と呼ばれていて、

天鈿女命だけでなく猿田彦命もお祀りしていたと聞きます。

現在の和気神社のご祭神である鐸石別命

(ぬでしわけのみこと)しかり、

天鈿女命や猿田彦もまた「銅鐸」

との関連を伺わせることから、

古代の人々にとって猿田彦という神が、

「鉱物の神」として認識されていた

と考えても不自然ではないのでしょう。

 

一説によりますと、猿田彦の一族は

紀元1世紀ごろ但馬国に移住したのち、

土蜘蛛の王となったという話があり、

但馬国がアメノヒボコの支配下になる前は、

猿田彦の一族がこの地を管理していた可能性も大です。

また、和気神社の近辺はもちろん、

「別部の犬」が砂鉄を発見したとされる

佐用町の近辺からも、銅鐸が出土しているそうですし、

岡山東部から兵庫県一帯にかけて、

猿田彦に関わる一族がこの地の「鉱物資源」を取りまとめ、

一大銅鐸文化圏を形成していた時期があったのかもしれません。


古代の出石

2019-07-24 09:20:53 | 鉄の神々2

<余部湾>

 

一説に、アメノヒボコが日本にやってきたのは、

大和朝廷が武力強化を図るために、

「朝鮮半島の職人集団を招いたからではないか」

という説があります。

つまり、朝鮮半島にいた製錬技術者たちを呼び寄せ、

立地や資源に恵まれた但馬国に定住させることで、

「鉄不足に陥っていた大和国へ、

優先的に鉄資源が流れ込むよう画策した」

のだとか……(~海峡を往還する神々 関裕二)。

 

もしそれが本当だとすれば、

アメノヒボコの「案内役」を努めたのは、

恐らく猿田彦一族(の末裔)であり、

彼らが日本へと上陸した際の様子が、

能登の熊甲祭に代表される伝統行事や、

麒麟獅子に同伴する「猩々(しょうじょう)」

などに影響を与えた可能性も否定できないのでしょう。

 

ちなみに、縄文時代の出石市一帯は、

周囲を低山に囲まれた「湾」だったそうですが、

実際に車で走ってみますと、

想像以上にアップダウンが続く山道を、

右へ左へとハンドルを切りながら盆地へと突入し、

気づけばこの土地の名物である

「大量の霧」に視界を阻まれるという、

なかなかスリリングなドライブが体験できます。

 

もしかすると、アメノヒボコが

アシハラシコヲとの国占めの際、

出石「しか」占有できなかったのは、

ある意味大和朝廷側にとっては

「狙い通り」だったのかもしれません。


猿田彦の役目

2019-07-23 09:15:46 | 鉄の神々2

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

昨日、猿田彦について書いている最中

ふと思い出したのが、美作国一の宮

中山神社の一角にある「猿神社」のことでした。

これまでの記事内で、この猿神社に祀られているのは、

「渡来系部族の首長であった猿田彦」か

「オオナムチに討ち取られた猿田彦一族のならず者」

である可能性を示唆しましたが、この仮説に

能登の熊甲祭というお祭りを重ね合わせてみれば、

新たに「猿田彦一族とツヌガアラシト(アメノヒボコ)

一族とのつながり」が浮かび上がってきます。

 

考えてみますと、天孫降臨の場面で

ニニギ一行の道案内を努めた猿田彦の様子は、

すでに彼らの到着を待ち受けていたような雰囲気でしたし、

日本国内の地理を熟視し、また天孫族と

旧知の間柄であったからこそ、猿田彦が大役を

任されたと考えても不思議ではないのでしょう。

 

恐らく、猿田彦の一族というのは、

天孫降臨以前に来日し、日本に土着化した

渡来系の国津神であり、後発の渡来神たちを

日本に導く役目があったのかもしれません。

だとすれば、猿田彦神がアメノヒボコら渡来神を、

日本に呼び寄せた理由が気になるところですね。