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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 黥布

2009-12-19 08:47:28 | 十八史略
随何、説九江王黥布、畔楚歸漢。既至。漢王方踞床洗足。召布入見。布悔怒、欲自殺。及出就舎、帳御・食飮・從官、皆如漢王居。又大喜過望。

随何(ずいか)、九江王黥布(げいふ)に説き、楚に畔(そむ)いて漢に帰(き)せしむ。既に至る。漢王方(まさ)に床(しょう)に踞(きょ)して足を洗う。布を召し入って見(まみ)えしむ。布、悔(く)い怒って自殺せんと欲す。出でて舎に就くに及び、帳御・食飮・従官、皆漢王の居の如し。又大いに望みに過ぎたるを喜べり。

随何が九江王黥布に説いて、楚に叛いて漢につかせようとした。黥布が来たとき漢王は床几に腰掛けて足を洗っていた。だがそのまま黥布を引き入れて会見させたので、布は王の無礼な態度に来たことを後悔し怒って自殺しようと思った。ところが思いとどまって宿舎に入ってみると、部屋のとばり、調度、食事の献立から部屋付きの役人までみな漢王の住まいと同様だったので、思った以上の厚遇に大いに喜んだ。

黥布 本名英布、項羽に従って転戦し九江王となった。罪を得て黥(いれずみ)の刑を負ったので。
畔 あぜ、くろ、のほかにそむくの意味がある。=叛、反

十八史略 背水の陣(二)

2009-12-17 12:50:51 | 十八史略
陥之死地而後生
趙軍已失信等歸壁、見赤幟大驚、遂亂遁走。漢軍挟撃大破之、斬陳餘、禽趙歇。諸將賀。因問曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今背水而勝何也。信曰、兵法不曰陥之死地而後生、置之亡地而後存乎。諸將皆服。信募得李左車、解縛師事之。用其策、遣辯士奉書於燕。燕從風而靡。

趙の軍已(すで)に信等を失って壁に帰り、赤幟(せきし)を見て大いに驚き、遂に乱れて遁(のが)れ走る。漢軍挟撃して大いに之を破り、陳餘を斬り、趙歇(あつ)を禽(とりこ)にす。諸将賀す。因(よ)って問うて曰く、兵法に山陵を右にし倍(そむ)き、水沢を前にし左にすと。今、水を背にして勝ちしは何ぞや、と。信曰く、兵法に之を死地に陥れて而して後に生き、之を亡地に置いて而して後に存すと曰わずや、と。諸将皆服す。信、李左車を募り得て、縛を解いて之に師事す。其の策を用い、弁士を遣わして書を燕に奉ぜしむ。燕、風に従って靡く。

趙の軍はすでに韓信等を取り逃がして、城壁に帰ろうとすると、敵の赤旗が立っているのを見て大いに驚き、遂に混乱して逃げ走った。漢軍はこれを挟み撃ちにして大いに破り、陳餘を斬り、趙歇を生け捕りにした。諸将は韓信に祝いをのべて、そして問うた、「兵法に、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷く、とありますが、この度川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は答えた「兵法に、これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだとあるではないか」と。将たちは皆感服した。
韓信は李左車を懸賞をかけて探し出し、縄を解いてこれに師として事(つか)えた。そして李の策に拠って、弁舌の巧みな者に書を持たせ燕王に奉じた。燕は韓の威風に従って服した。

倍 背に同じ、背にする

十八史略 陳餘奇計を用いず

2009-12-12 10:21:47 | 十八史略
漢の三年に、韓信と張耳は兵をひきいて張を撃つことになり、兵を井陘口に集めようとした。趙では王の歇(あつ)と、臣の成安君陳餘が防禦についた。李左車という者が、陳餘に「井陘口への道は狭く、車は二台並んで通ることができません。騎馬も列になって進むことができません。そのため兵糧は軍の最後尾になるでしょう。そこでお願いですが、奇襲の兵をお借りして間道から、輜重の車列を分断しましょう。あなたさまは濠を深く、城壁を高くして、敵と戦ってはなりません。漢軍はついに進んで戦うこともできず、退却することも出来ず、野には冬とて掠奪する物もありません。十日と経たないうちに韓信と張耳の首をお旗本に届けることが出来ましょう」と。
ところが陳餘はもともと儒者で自から正義の兵といい、不意を撃つ計を用いなかった。韓信は間者を放ってこれを知り、大いに喜んで、井陘口から趙へと下った。

十八史略 陳餘、奇計を用いず

2009-12-10 11:32:56 | 十八史略
三年、信・耳、以兵撃趙、聚兵井陘口。趙王歇及成安君陳餘禦之。李左車、謂餘曰、井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。其勢糧食必在後。願得奇兵、從道絶其輜重。足下深溝高壘、勿與戰。彼前不得鬭、退不得還、野無所掠。不十日兩將之頭、可致麾下。
餘儒者、自稱義兵、不用奇計。信知之、大喜、乃敢下。

三年、信・耳、兵を以(ひき)いて趙を撃ち、兵を井陘口に聚(あつ)めんとす。趙王歇(あつ)及び成安君陳餘、之を禦(ふせ)ぐ。李左車餘に謂って曰く、井陘の道、車、軌(き)を方(なら)ぶるを得ず、騎、列を成すを得ず。其の勢い糧食必ず後ろに在らん。願わくは奇兵を得て、間道より其の輜重を絶たん。足下、溝を深くし塁を高くし、与(とも)に戦うこと勿れ。彼前(すす)んでは闘うを得ず、退いては還るを得ず、野には掠(かす)むる所無し。十日ならずして両将の頭(こうべ)、麾下に致すべし、と。
餘は儒者にして、自ら義兵と称し、奇計を用いず。信、間(かん)して之を知り、大いに喜び、乃ち敢えて下る。

十八史略 是口尚乳臭

2009-12-08 15:54:53 | 十八史略
蕭何は、関中を守り、漢の宗廟を立て、社稷を祀り、県邑を整備して何事も適宜に施し、関中の戸数、人口を調べ、陸と舟から兵糧を運び、兵を調達して、未だかつて不足する事が無かった。
魏王豹がそむいた。王は韓信を派遣して撃たせた。魏王豹も柏直を大将に任命した。漢王が言うには「やつは、まだ乳臭い子供だ、なんで韓信に対抗出来ようか」と。韓信は兵を伏せ、夏陽より甕(かめ)を木に縛りつけて仮橋にし、安邑を急襲して豹を虜にした。韓信は間もなく魏を平定した。そして漢王に三万の兵を請うて「北は燕と趙とを攻め取り、東は齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽(けいよう)にお会いしたい」と申し出た。漢王は張耳を遣わして韓信とともに行かせた。

宗廟 先祖のみたまや  社稷 土地の神(社)と五穀の神(稷) 
転漕 転は車で運ぶこと、漕はふねで漕いで運ぶこと
木罌 罌は甕、多くの甕を木に括りつけて橋の代用にした。