夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

豚は真珠の夢を見るか

2010年08月08日 09時50分30秒 | 芸術・文化


このブログに引っ越した最初のころはまだ仕事のことを引きずっていたので、人間の感覚がどれほど微小な差を認識できるのだろうなんてことをよく書いていた。

たとえば、音。
442のピッチのときに443の音を出せば誰でもわかると思うけど、プロはコンマ以下の差を感じて、演奏中に修正できなければ「プロとはいえないよ」ってのが私の弟の言葉。
たとえば、アンサンブルのときに、10分もしないうちに弦と管のピッチは狂ってくる。片方は上がり、もう一方は下がる。それを演奏しながら、トップのバイオリンのピッチに合わせているのが演奏者の裏の仕事。

長短でも、32分音符でスケールが書かれているときに、メロディとしてそれを弾くのなら、出だしの2,3音。中間の音、そして終わりの3,4音の長さは違うはず。絶対的な長さと言うことから言えば、プロは10分の1以下の長さを区別しているのです。
以前のブログには、MM60のときに、32分音符の長さはいくら。その1割の長短をつけたとすればってことで書いておりましたけど、ほとんど100分の一秒の世界なんですね。
それがその演奏者の解釈であり、個性となっていくのですね。

でも、それはプロだけの問題ではなくって、それを聞いている人が感じてしまう、分かってしまうことでもあるのです。だからプロはその差別を意識して弾いている。




知人のブログには花や猫、空の雲なんてのが毎日アップされている。それに対して一行のキャプションで終わり。
その写真もほとんどがぼかし気味の写真。それが結構素晴らしくって、それだけで意味を持っているので、私のようなだらだらとした説明が要らないのです。

私も究極はそのようなふんわりとした写真を撮りたいのだけど、今のデジカメではどうしてもシャープさ、質感が足りない。

実はふんわりとした写真の基礎は、きっちりした質感の描写ができるだけの力を持っているかどうか。それがなくってだただたふんわり写真を撮ると、ただのぼんやり写真にしかならないのですね。

ハイキーやローキーの写真を撮るときにも、その意図した白さ、輝き。あるいは黒さ、締りを感じさせるのは、そこに隠れた黒い線であったり、黒い部分であったりするのです。

だから、私のは、現段階ではシャープさ、質感の描写で行き詰ってしまって、念願のふんわり写真にはどうしても行けないでいるのです。

フルサイズのカメラ、あるいは「超絶的な解像度を誇る」6*4.5のフォーマットのカメラを使って、ふんわり、ぼんやり写真ばかり撮り出すってのも、私の単なる自己満足を満たしたいがための、馬鹿げた夢なんでしょうな。
ちなみに上に述べた方の使われているカメラ、私がサブカメラにしているもの。決して上級機種なんてレベルではないのです。要するに、私の腕がそこまでいっていないってだけの話なんですね。


なんて、またまた道草を食いそうですので、元に戻って、、、
トップの写真、変哲もない干し海老。
その辺のスーパーで求めた安売りの、どこにでもあるような代物。

でも、その何倍か出すと、ほんとうに粒のそろった、濃くのある干し海老がある。もっともその辺のスーパーでは入手できないとは思うけど。
そして更にその何倍かを出すと、美味しい、綺麗な、味も濃くもある物が手に入るけど、果たしてそれだけのお金を出す必要があるのかって、貧乏な年金生活者の私としては考えてしまう。

いや~、地方税、健康保険、介護保険、、、、みんな年金から天引きされて、そのうち、年金は下りたけど、天引き分で赤字になっているなんてことにならないか心配。
仕事もできなくなり、体や、頭にも問題を抱えるようになった、卒業生のお年寄り達から、なんだらかんだらってお金を搾り取るような今の制度、国のあり方として、どうも不思議。なんてことは今回は関係がないか。

干し海老の話に戻って、おまけに、それを扱っている店を見つけるのもなかなか大変。
私の干し海老の食べ方は、辛味のある大根おろしにつけて食べたり、そのままを口に放り込んで食べるやりかた。特にこれで出汁をとってどうこうしようというような大それたことではないのですね。
それでも、トップの写真のクラスの干し海老にはほとんど触手が動かない。できれば、このもう一つ上のランクのが欲しい。そして更にその上のランクのものを手に入れるのは夢みたいなこと。
だけど、、、、それを手に入れるための手間、そしてため息がでるような値段、、、、そんなことを考えると、今の私には到底無理な見果てぬ夢。

まったく同じようなものに、白子干しがある。私の欲しいのはカリカリのもの。でもただ、干し過ぎたのでは、ぼろぼろとした食感が残るだけ。どこかが違うんですよね。それがその白子干し、あるいは干し海老の味や濃くの差になって出てきている。そして、それがみんなに分かるから、あのような何十倍の値段になっても需要があるし、道楽ではなく、商売として生産できる。

極端な話でしょうか。
皆さんも、海苔だったり、お米だったり、塩だったり、そしてお茶、、、これは私も未だに未踏の台地になっておりますけど、、、、なにか、そんなこだわりを持つものがあるはず。

日常のものではなくって、趣味のもの、道楽のものはもっとすごいですね。
オランダにご一緒した林屋晴三先生。「おいちゃんさん、茶碗は道具だよ。飲めてなんぼかだよ」っておっしゃるけど、でもただ飲めるだけの道具を先生に鑑定していただくと、何十秒で何十万だもんね。
私は350円で買ったお茶碗でも、茶筅の通りがいいなんて喜んでいるけど、確かに、釉薬の掛け方、形、、、、、何をとっても、いいものはいい。
でもあれいいな~とか、今度のお茶会に出せそうかななんてのはその千倍出したって買えないものがほとんど。それだって、その辺のおばちゃんたちの集まりように、「普通のお道具をそろえた」ってことにしかならない。
師匠のとこみたいに、8月に明治神宮でお茶会をやりますのでってレベルだと、使うお道具全部集めたら、数千万なんてことなんでしょうな。。。
私みたいに、お道具全部集めても、1万円行くかどうかなんて環境の中にいる人には夢のまた夢。というより、そんな夢も見ない。
豚は真珠の夢はみないんだ。

食卓に乗せるもの、、、車や、コンピュータのような生活の道具、、、なんでも、なぜそんな差があるのか、そのどれを採るのが自分にあっているのか、、、結構、自分の周りには面白いことがいっぱいある。
そしてそれが自分の生き様にも関係してくるし、生き様もまたそれに関係してくる。


でもその全部を知ろうとしても、自分の生きる時間ってあまりにも短すぎるんですよね。
なにを、捨てていくか、、、、
ほんと大変。
そして、ほんとに面白い。


なんて、たかが干し海老から、、、、
トピックに詰まった証拠ですな。