夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

夢幻泡影 でも何をやれる?

2006年09月13日 08時58分11秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
以前、子供のころから原爆症が発症するかもしれないと恐れを抱きながら成長してきたことを書いたことがある。
でも、それは可能性の問題で、今になるまで(胃潰瘍やその他の病気がもしかしたらその影響だったのかもしれないけど)原爆症は発症してはいない。

原爆症に代わって私を悩ませているのが昏倒。20年ほど前に初めて経験し、その後10年後、5年後、3年後と間隔を狭めながら続いている。一昨年からは半年とか3ヶ月とかになってきた。昨年も、2度に渡り昏倒し、救急車で病院に運ばれたりすると、死が可能性の問題としての遠くの存在ではなくなってしまった。

昨年も最初の昏倒の後、人との関係とか、経常的な仕事やプロジェクトなどを理由もきちんと説明しないで、強引にやめてしまい関係者に迷惑をかけた。仕事上の人にはある程度の説明はしたけど、個人的に親しい人や、あまり知らない人のグループでは説明することをはばかられて、ただ「辞めた」って辞めてしまい、非難轟々だったことも知っている。でもそのまま続けていってある日突然死んでしまいましたってことになるよりもいくらかはましだろうって思いだった。

でも今年も昏倒は起こったけど、未だに生きている。
だから永続性のあるものはそれ以来何も引き受けていない。今の仕事も非常勤のもので、会長は私の状況を知っている。
いつでも死ねるような状況に自分を置いておかなければならないとなると、誰かを好きになったとしてもそれ以上の関係になることはできないだろう。
仮にプロジェクトを企画したとしても、私の状況をきちんと理解して、私が倒れたらその場で私の代わりができる人がいなければ、何もできないし、それだけの力のアル人なら私がいなくても、最初から自分でできるわけで、私が存在する理由がない。
単発性の、短期の、人との接点ができるだけないものだけしかできなくなってしまった。

世の中、何かに邁進することもできないで、先の夢も、プランもなく、人との絆を今以上に強固なものにすることもできなくて、ただ夢の中のようにふらふらと生きていくことは結構辛いということを実感している今日この頃。

つい最近も言っていることがネガティブだと非難された。
私自身としては、今でもいくつかの企画を抱えているし、やりたいこともありその方法を模索しているし、そんなにネガティブだとは思っていない。ただ現状をかなり厳しく見るのでそんな風に見えるのかなとも思うけど、それだった甘く見て後で困るより厳しく見て、それに対処できるようにして進むことが成功への鍵だと思っているだけ。
ただ、そうはいいながらも、本能的に永続的な、強力な指導力を発揮するような形でのプロジェクトの立案などというものからは身を引こうとしているだろうかと思えてしまう。