九州に独居している母がいる。
何度一緒に住もうといっても「この歳で知らない町では暮らしたくない」と言っていたのだけど、自分の身体に自信がなくなってきてやっと去年くらいから東京に出てくるしかないことを不承不承認め始めている。
子供に迷惑をかけたくない、負担になりたくないという思いも、「寂しさや、不安」の前にはどうしようもなくなった自分を認めざるを得ないのだろう。
だから上京するとは言いながらいつまでもぐずぐずしているし、先日来の大雨で見つかった雨漏りなどを修理しようとしている。
歳をとっているし、生活資金が潤沢なわけもなく、引きこもりが悪いことは当人も知っていながら、外へ出歩くこともままならない。家の中に引きこもり、庭の手入れ以外は、父の残したものを整理したり、形見分けのつもりだろうか自分の身の回りのものをいろいろな口実をつけては送ってくる。
そんな生活を十年近くしていながら、母も私に比べればずいぶんと達者だと思う。体のあちこちに歳相応の問題は派生してきてはいるけど、頭も記憶も、むしろ私以上にはっきりしていると母を見ながら密かに舌を巻いている。
専門家の話を聞いても、引きこもり、刺激のない生活が認知症の予備軍になるということらしい。外出を極力控えできることはPCの前に座り込んで済ませている私もその意味では立派な予備軍の一人なんだろうけど。
まだこちらのブログには転載していないけど、以前のブログには、認知症に罹ったご主人を毎日散歩に連れ出していた老婦人の話を書いたことがある。このおばあさんが癌で緊急入院をして、一週間も経たないうちにこのおじいさんは完全な認知症になり、二週目くらいにおばあさんが亡くなったその翌日のおじいさんもなくなってしまった。
おばあさんに連れられての毎日の散歩が認知障害を起こしていたおじいさんにとってどれだけの生きる価値を与えていたんだろうね。そしてそのおばあさんと一緒になくなったのだから、幸福だったんだろうねっていうのがその話をしてくれた友人のコメントだった。
ヨーロッパでも高齢者が独居しているケースはたくさんあるし、それをケアをするためのシステムも結構きちんとしたものが出来上がっているところが多い。何よりもそれらの施設が活発なボランティアによって支えられていることが見ていて気持ちいい。
健康な高齢者向けであれば、箱物を作る必要はない。簡単な例をあげれば、いろんな町会にある高齢者のグループを高齢者だけの集まりではなく、子供たちへの世話をしたり、ちょっとした町会の活動へ積極的に参加を呼びかけたりして、彼らに責任をもたせ、もっと社会へ連れ出すような思いやりの気持ちが地域にももっと満ちてくればって思う。
高齢者の施設やさまざまなサービスを見ていても、本当に高齢者の目線で、気持ちになって何かしようということではなく、あくまで高い場所からやってやるというような気持ちでのシステムばかりあるような気がしてならない。
問題を抱えて相談に来ているおじいさん、おばあさん、あるいはその家族。自分の担当しているサービスでは何もできないとしても、断る前に、もし断ったらこのおじいさんやおばあさんは行き場がなくて死ぬかもしれないというようなことを思えば、他のサービスで何か救いの手が差し伸べられないのか真剣に考えるだろうと思うのだけど、役所の現場にはその気持ちがないところが多い。そしてその結果が、あちこちで親殺しや、自殺などの悲惨な事件となっていっている。それでもその人たちは自分たちの責任範囲ではないからとそれを傍観することになんの呵責も感じないのだろうかと悲しくなる。
これでは現場で働く人々にはジレンマしか残らないし、ターゲットの高齢者には余生を地獄で過ごすような状態になってしまう。
医療が必要な人々のケアも必要だけど、それに至らせないための働きかけをもっと活発にすることが本当の意味での高齢者へのケアではないだろうか。
何度一緒に住もうといっても「この歳で知らない町では暮らしたくない」と言っていたのだけど、自分の身体に自信がなくなってきてやっと去年くらいから東京に出てくるしかないことを不承不承認め始めている。
子供に迷惑をかけたくない、負担になりたくないという思いも、「寂しさや、不安」の前にはどうしようもなくなった自分を認めざるを得ないのだろう。
だから上京するとは言いながらいつまでもぐずぐずしているし、先日来の大雨で見つかった雨漏りなどを修理しようとしている。
歳をとっているし、生活資金が潤沢なわけもなく、引きこもりが悪いことは当人も知っていながら、外へ出歩くこともままならない。家の中に引きこもり、庭の手入れ以外は、父の残したものを整理したり、形見分けのつもりだろうか自分の身の回りのものをいろいろな口実をつけては送ってくる。
そんな生活を十年近くしていながら、母も私に比べればずいぶんと達者だと思う。体のあちこちに歳相応の問題は派生してきてはいるけど、頭も記憶も、むしろ私以上にはっきりしていると母を見ながら密かに舌を巻いている。
専門家の話を聞いても、引きこもり、刺激のない生活が認知症の予備軍になるということらしい。外出を極力控えできることはPCの前に座り込んで済ませている私もその意味では立派な予備軍の一人なんだろうけど。
まだこちらのブログには転載していないけど、以前のブログには、認知症に罹ったご主人を毎日散歩に連れ出していた老婦人の話を書いたことがある。このおばあさんが癌で緊急入院をして、一週間も経たないうちにこのおじいさんは完全な認知症になり、二週目くらいにおばあさんが亡くなったその翌日のおじいさんもなくなってしまった。
おばあさんに連れられての毎日の散歩が認知障害を起こしていたおじいさんにとってどれだけの生きる価値を与えていたんだろうね。そしてそのおばあさんと一緒になくなったのだから、幸福だったんだろうねっていうのがその話をしてくれた友人のコメントだった。
ヨーロッパでも高齢者が独居しているケースはたくさんあるし、それをケアをするためのシステムも結構きちんとしたものが出来上がっているところが多い。何よりもそれらの施設が活発なボランティアによって支えられていることが見ていて気持ちいい。
健康な高齢者向けであれば、箱物を作る必要はない。簡単な例をあげれば、いろんな町会にある高齢者のグループを高齢者だけの集まりではなく、子供たちへの世話をしたり、ちょっとした町会の活動へ積極的に参加を呼びかけたりして、彼らに責任をもたせ、もっと社会へ連れ出すような思いやりの気持ちが地域にももっと満ちてくればって思う。
高齢者の施設やさまざまなサービスを見ていても、本当に高齢者の目線で、気持ちになって何かしようということではなく、あくまで高い場所からやってやるというような気持ちでのシステムばかりあるような気がしてならない。
問題を抱えて相談に来ているおじいさん、おばあさん、あるいはその家族。自分の担当しているサービスでは何もできないとしても、断る前に、もし断ったらこのおじいさんやおばあさんは行き場がなくて死ぬかもしれないというようなことを思えば、他のサービスで何か救いの手が差し伸べられないのか真剣に考えるだろうと思うのだけど、役所の現場にはその気持ちがないところが多い。そしてその結果が、あちこちで親殺しや、自殺などの悲惨な事件となっていっている。それでもその人たちは自分たちの責任範囲ではないからとそれを傍観することになんの呵責も感じないのだろうかと悲しくなる。
これでは現場で働く人々にはジレンマしか残らないし、ターゲットの高齢者には余生を地獄で過ごすような状態になってしまう。
医療が必要な人々のケアも必要だけど、それに至らせないための働きかけをもっと活発にすることが本当の意味での高齢者へのケアではないだろうか。