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夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

デューク エリントン      柴田浩一 愛育社  追加あり

2008年10月05日 22時30分55秒 | 芸術・文化
最近、愛育社から柴田浩一さんの「デューク エリントン」という本が出版されました。
(やっと、Amazonで売りに出ましたので、一番下にリンクを追加しておきます)

この前の二つの日記、「板橋文夫って」と「Proceed with caution」はこの本を紹介したくって、何をどう書くってもやもやした思いを心の中で纏め上げるために書いたものだというと怒られるかな?

板橋文夫はこの本の出版記念に演奏してくれた人。私としては彼が自分の作り出す音の世界と自分の戦争を、自分の中だけに終わらせないで、聴く人の心にまで投げてくるようなあのスタイル。あれに心を奪われてしまったのです。それは数年前に横濱ジャズプロムナードで彼のアンサンブルとして聞いた音とはまた違うもの、ソロ演奏としての彼の音楽は、私がそれをどう受け止めるかを真摯に、心の真ん中に投げかけてくる宣戦布告のようなものとして受け止められました。ほんとうに身震いがするような音。でも、日記にも書いたけど、正直疲れた。。。。

奴隷として異国につれてこられ家畜のような生活を強いられてきた黒人達が、唯一生きる力を振起させたものがジャズ。それは心の叫びでもあったわけです。それが南北戦争によって廃棄された軍楽隊の楽器を持つようになり、音楽として成長していった。それがジャズなのですね。あきらめに裏打ちされたような音楽と、板橋氏の音楽はまったく異質なもののはずなのに、私の心の中ではなぜかまったく違和感がなく受け入れられる。なぜなのだろう、これはこれから考えなければいけない、私の宿題になりました。

ところで「Proceed with caution」はまた違った方向からの、アプローチ。こちらではproceed with cautionというアメリカの道路標識を導入にして、柴田氏の出版記念に行く前に電車の中で読もうと買った漢詩の本のことについて書いています。
この本には、詩は心だよってことが一番の命題として掲げられています。でもどのページも漢詩の作法についての話ばかり。以前にこの日記で紹介した碧巌録のことを思い出しました。この本のまず最初に、真理というのは言葉では表せないものっていうのが堂々と書かれている。そして連綿とその真理についての言葉が並ぶ。はて?って感じの本ですね。
そのときは東洋の考え方は難しすぎるなんて逃げを打っていましたけど、なに、私がずっと仕事にしてきた西洋の美術でも、音楽でも、「大事なのは心」って言うのです。技術はその心を表すためのもの、技術は単なる道具だってね。でも、実際に習おうとすると、技術や理論しか教えてもらえない。
それは芸術だから特別なのでしょうって言われるのですか?
私が携わってきたアートマネージメントの世界でも、教えるのは技術や情報だけ。何を、どう評価していくかというのが最初にあるべきだけど、それは個人の問題だから、科学ではないのだそうですよ。
でもアートマネージメントなんてたんなる職能教育。科学の一部門なんていうのは学者さんが象牙の塔の中でほざいていればいい。
ここで学んだ学生が一番最初、そして最後まで当面するのは、道具の使い方じゃなくて、自分がすばらしいって評価するものってなんだろうってことなんですから。

ジャズを理解するのも、まずは心で理解することなのでしょう。
そしてその上で、その背景とか、動きとかを理解し、さらに理解を深めていくということなのでしょう。まあ学者さんや評論家は反対のアプローチをするけどね。

エリントンというジャズの巨匠に関しても、さまざまな出来事や、演奏を通じて、いろんな論評や、優れた記録が断片的に出されている。でもこの本はほとんどエリントン狂いといっても過言でない柴田氏が一生をかけてまとめ上げられたエリントンという人の生涯の膨大なモニュメントであるとともに、エリントンという近代ジャズの巨匠の活動を通じてのジャズの変遷の記録になっている本に仕上がっている。(なに? まだ一生を終わっていない。あっ、これは失礼、ごめんなさい。香典をくれる人を怒らせたりしちゃいけないんでした)

でも私がこの本を紹介したいと思うのは、それがただの歴史や記録だけの通年史で終わっていないところ。
多くの出来事には、柴田氏の気持ちや、彼の目に映じた背景説明や、その折の音へのアプローチのヒントが埋め込まれているのはとてもすばらしい。
最初の板橋氏のところで感じた疑問も、この中になにやら答えがありそうな予感。
エリントンが嫌いな人でも、ジャズが好き、ジャズのことを体系的にもっと知りたいという人にはぜひ一読してもらいたい本だと思う。

なお柴田氏によれば、「この本の写真、僕が撮ったんだからね」ということらしい。エリントンの来日の写真などたくさんの写真が資料として添付されているけど、エリントンのフアンにとっては、本当に貴重な写真だと思う。







デューク・エリントン
柴田 浩一
愛育社

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Proceed with caution

2008年10月05日 15時35分48秒 | 芸術・文化
知人のブログを出発点にあちこちサーフしていたらこんな看板のついたブログの日記に行き当たった。

Squirrel Crossing
Proceed with caution

テネシー州ナッシュビルにある道路標識。

リスが横断します。
運転に気をつけて。

なんて文を渡されて、翻訳しなさいって言われたら、Proceedって単語をすんなり使えるかなって思うと、多分思いつかないでしょうね。
昔もイギリスの田舎のドライブインで車を駐めたときに、
「駐車場に止めている車に事故があっても私ども(マネージメント)は責任を負いかねます」というような看板が出ていたけど、そのときの「責任を負かねます」という部分が、こんな言い回しは、どうとちくるっても、私の英語力ではでてこないよねって、魂消てしまったことがある。写真は撮ったんだけど、どこかへ行ってしまったので、その言い回しが出てこない。
英語は仕事の言葉だったのだけど、でもいくらやっても旨くならないし、今でもへぇ、、、、ってことがずいぶんとある。
外国語って難しい。
それにその社会背景や、そのときの環境を知らなければ訳なんてできないよということはいくらでもある。
翻訳や通訳をやる人たちって尊敬しちゃいますよ。


なぜ、そんなことを言い出しているかというと、昨日の外出のときに電車で読む本を買ったのです。安岡正篤「新編漢詩読本」 この本に関して今、何もいうことはできないし、安直に人にお勧めするということもできないのだけど、でも読み進めると、安岡氏の言われる詩の心ということより、文字を知らなければ、社会を知らなければ、人を知らなければ、詩ってわからないんだね~ってことを痛感したからにほかなりません。

ほんと、あと十回生を受けて、好きなことを勉強できたとしても、果たしてそれで満足できるものが見えてくるのでしょうか。たぶん、私には無理でしょうね。
それにしても、果たしてそんな勉強がなんの役に立つのだろうっていう、私の持論もまた強くなってくる。でも、感覚的であるためには理論的でなければ、、、それが私の思いでもあるのですけど。



猫が分からなきゃ、猫の詩は分からないよ、、、ねっ。






板橋文夫って

2008年10月05日 00時30分19秒 | 芸術・文化

知人の出版記念のパーティーに出席しました。
横浜の著名なライブハウス、バーバーバーでありましたが、文字通り立錐の余地のないくらいに大盛況でした。
本に関しては、まだ読み終えていませんので、読み終えたら、紹介記事を書くことになるかもしれません。でもつらつらと見るに、読了するまでにだいぶ時間がかかりそうです。
タイトルは「デューク エリントン」愛育社からの刊行ですが、今日の時点では、まだ本屋には出ていないと思います。

今日のパーティには私がいる間には二組のバンドが出ていました。ひとつはクワルテットで、そつのない演奏、スタンダードなプログラムで高齢者の多い???会場の雰囲気を上げてくれていました。やはりジャズって、もう若い人の趣味ではなくなってきたのでしょうか?

もうひとつは板橋文夫。彼はアンサンブルを予定されていましたけど、私が聞いた時間は彼のソロ。
彼の音楽って、自分の音やメッセージを聞く人にぶつけて葛藤を呼び起こさせるようなものですね。音だけをそのまま受け入れられるようなものではない。それに対してこちらも自分の気持ちをそれにぶつけて、その上で、やっと自分なりの聞き方ができる。音の一つ一つとの勝負みたいなところがあって、正直に告白すると、疲れました。
でもやはり、音の世界で、そこまで聞く人に要求する、あるいは思わせる演奏ができるっていうのは彼の希有な世界なのでしょうね。それができる才能というのもまたすばらしいものだと思います。


サブカメラで、クアルテット(パーカッションが隠れてまして、トリオになっていましたけど)や板橋氏、挨拶をされた鶴岡氏や、ご当人を抑えましたけど、承諾を得ていないので、ブログにアップしていいのかどうか迷い、今回はアップしておりません。

今日は珍しく、絵面なしの日記だけで終わりますね。

変わっていくものですね

2008年09月10日 09時25分12秒 | 芸術・文化


素晴らしい秋の空になりましたね。
風も爽やかでもう言うこともない。
一日を過ごすのが嬉しいと思えるような日。
今日は、夕方からライブにいってこようと決めました。

先日来、マイミクさんや友人のライブを都合で失礼してしまったこともあるので、それの代償行動なのでしょうかね。

ブログについている足跡のウィジェットを見ているととても面白い。
こちらに来られ、それにつれてお伺いして面白そうと何度もお訪ねしているサイトがあるのですけど、それに音楽の人が多いのに気がつきました。
そしてこの方たちが、すぐそばでライブやコンサートをおやりになっている。
すぐに因縁を感じてしまう私ですけど、でもこの偶然は何故なのでしょうね?

仕事を辞めてから、仕事がらみのことからは離れてしまった。
もともと専門はビジュアルアート、それに多少の音楽や、ダンスなどをマネージするのがメインだったけど、仕事を離れたとたんに全く白紙になってしまった。情報も入らなくなったことが理由だけど、自分から進んで情報を取りに行こうと思えばいくらでもネットワークはあるのだけどそれをやる気がない。
仮に、これは絶対に紹介すべき作品だとか、作家だという人が現れても、岬の平穏な生活を犠牲にしても、それをやるだろうかと思うと、もうたぶんそんなことはしないだろうと、思えてしまう。

本来私は芸術が判るような人間じゃなかったのだろうって思う。
特にビジュアルアートは、「メインです」なんて言ってきた割に、展覧会の告知を見ても、「あら、たいへんですね~」くらいの他人事にしか見えないし、画廊のコンテンポラリーな作品を見ても、最近はゴミにしか見えなくなってきた。

その辺、音楽はまだ自分から聴こうとする気持があるからいくらかましなのでしょうね。私の付き合いとしては、音楽が一番長かったから、それに回帰しているのでしょうか。でも、今までの人生ではクラッシック一辺倒だったのが、今、周りで起こっていることはポピュラーやジャズが多いのはどうしたことだろう?




太陽に向いて咲く向日葵なんていうけど、実は向日葵はそんなに頭を動かすことはない。いい作品、いい作家がいて、それに追従できるのは愛好家。マネージャーは自分の夢、理想の作品がこころにあれば常にそちらに向いているもの。あるいはその作家が目指すものへどうすれば近づけるかを考える人。
周りがどれだけ熱狂していても、白けていられる人なんですよね。

アートマネージメントの話をするときに、本来は、その価値評価が最初で、最後の話であってもいいのだけど、そんな切り口を誰も与えてくれなかった。
数知れぬ作家の中から誰を取り上げる。何故取り上げる?
その作家、作品としての評価、受け入れ側としての価値、マネージする側としての効果。。。。
学問ではないと言われるかもしれないけど、アートマネージメントそのものが果たして学問かって、私は疑問を持っているから、どうでもいいじゃないですか、そんなこと。
クラスの後の学生との飲み会でも、もっと生臭い話はでても、その発端の話をする機会は一度もなかった。

とても残念。



賞味期限 ピアノの場合  リンクを追加しました

2008年07月29日 17時53分06秒 | 芸術・文化
ちょっと前に熊本マリさんの「人生を幸福にしてくれるピアノの話」という本について日記を書いていたことがあった。この人のことはこっちのほうが面白いかな?
楽器やホールのピッチや音色、響きというようなことは門外漢の私にもいやおうなしに耳に入ってくるけど、ピアノを弾かない私なんかには判らないような湿度の話がでていたりして面白かったんだけど、この本の中にピアノの「賞味期限」の話が出ていた。
たしか25年くらいって書いてあったのかな?
えぇ~って思う。そんなに短いのかな?

確かに楽器の「賞味期限」についてはよく話題になる。
バイオリンなんかは、例えばストラディバリウスは300年経った今でも、「期限切れ」にはなっていないし、ピアノもそんなものかと思っていた。

以前にも、知人がストラスを持っていて、彼の先生もまたストラスを持っているんだけどこの先生の楽器をどうしても聴いてみたいと書いていたことがあったと思います。
彼のは今のピッチに合わせた「普通の」ストラスだけど、彼の先生のはオリジナルのままのもの。おそらく現存するものでは唯一のオリジナルピッチのものなのです。バイオリンもやはり賞味期限があるので、ストラディバリウスも作られた当時の音を聞いておきたい。ストラディバリがどんな音を目指していたのか、その期限内にその音を頭に刻んでおきたいな~って、、、でも、この先生、世界的なバイオリニストだから、ちょっとお宅をお訪ねして聞かせてくださいなんていえないしね~なんてもだえた日記でした。

ピアノの場合は、今のピアノの形態になって200年ちょい(まあ、何を持って今のピアノだというかによって違いますけど)だからまだまだお若いさなかだろうと思っていたのですよ。
だから演奏家が賞味期限が25年なんていうと「へぇ、そんなものかな~」という気がします。
ということは、ベーゼンドルファーのインペリアルでも殆どが賞味期限切れなんでしょうかね。特にタイプ3なんて面白いピアノだったけど。
でも、そうすると今聞いているオリジナルのピアノフォルテやチェンバロは全部期限切れの音? 知人のピアノフォルテなんかずいぶんと艶やかな、色っぽい音を奏でるけど???

ベーゼンドルファー
この日記にはずいぶんとこのピアノのことが出てきます。
やはりExtendされた低音部が格別なのですね。別にこれを弾かなくっても、この追加された低音部のために全体がデザインされたということが中音から下の響きが全く違うものになっている。別格のピアノなんです。
もちろんベヒシュタインの音の切れというのも別格ではありますけど。

気になるものには積極的にアプローチして、何が何でも聞いておくべきなのでしょうね。知り合いの刀剣の専門家だったら、インペリアルの1,2,3をあちこちののホールで聞き比べしたいなんて言いだすかもしれませんけど、私はそこまで贅沢は言わないから。

賞味期限が過ぎる前に、、、、、



お茶碗だってね~
利休のころのものは、もう使えないって話を先日の茶壷のときに悪口を書いていた著者に言われたことがある。
彼女は美術館の人だから、陳列していればいいのでしょうけど、お茶碗でも刀剣でも本来は道具、林家先生がおっしゃっているように「使って何ぼ」なんです。
その辺の微妙な差が茶壷の本にもお茶人が解説を書いて欲しかったな~ってことだけど、この日記とは関係がないか。




賞味期限が過ぎる前に、、、、、
うん。


友人がニーナ・アナニアシヴィリの公演に行ってきて、さかんにいつまで踊れるか気にしていた。
踊るだけならねぇ、彼女より十年以上あとまで踊っている人もいないでもないよね~
艶やかかな色気とかなんとか、かんとか言い出したら、それがバレエであるのかちょっと判らなくなるけど、、、、

賞味期限ねぇ
うん。



人生を幸福にしてくれるピアノの話 少しだけ追加あり。

2008年06月13日 10時41分00秒 | 芸術・文化
ピアニストの熊本マリさんの「人生を幸福にしてくれるピアノの話」という本が送ってきた。肩のこらない、でもそのなかにはとても大切な言葉が埋め込まれたいい本に仕上がっている。

最初のお話が、「ピアノにタッチするということは、自分の好きな人にさわるのと同じこと」なんてばら色の妄想をしてはいけませんよ。ピアノは480キロの巨体を持つ彼氏。それを弾きこなすには体力勝負。食べろ食べろ!ってお話だとおもうと、でもその彼氏がいかに繊細かというような話が前段にあったりして。
よく、ベヒシュタインがどうこうとか、ベーゼンドルファーがああだと、あそこのホールのアクースティックがどうたらとかって私は書いているけど、それは自分が弾かない、企画者の立場からの条件出し。
彼女のように彼氏をとっかえひっかえ触ることがお仕事の場合はもっと細かな条件、状態が重大な問題になってくる。たとえば湿度が上がるとタッチが重くなるというような。
面白いね~
逆に、彼女はソロが多いけど、温度一つとっても、ピアニストは演奏の間にピッチが上がってきてもどうにもならない。それに合わせている周りの楽器やオケもまた人知れず苦労して、その結果がその日の演奏なんですよね。
なんてことを思ったり。。。

あるいは、彼女は基本的な勉強を子供のころにすごしたスペインとアメリカ、イギリスでやってきているのだけど、日本とヨーロッパの教え方の差を書いている部分がある。
ヨーロッパでは多少のミスよりも音楽性、歌うことを大切にする。

友人からこんどそっちの留学生に応募したい生徒がいるから話をしてくれなんていわれるたびに言ってきたこと。小品でいいから自分がちゃんと歌っている曲を提出してよねって。
これだけ弾けますって気違いみたいにがんがん弾いているのを毎日何十となく聴かされるこちらの身にもなってよって言いたくなる。
エチュードを弾く場面と、プロとして、プロを目指す音楽家として自分を見せる場面は違うし、エチュードを弾いているのなんか人に聞かせるもんじゃないと思うけど。
だから日本人の音楽家ってテクニックはあるけど、自分を表現していない。
これは別に音楽だけの問題じゃないけど。
なんてことを以前のブログにはよくこぼしてたのを思い出しました。

ところで、この本の中に楽器の「賞味期限」についてちょっと触れられていた。
そのことと、楽器が生まれてきたヨーロッパとの湿度の違いなどを以前のブログに書いていて、それをこちらに転記したものがあったので、こちらにリンクを張っておきますね。ハモンベジョータとストラディバリウス
2005年7月10日の記事でした。

続きはまた、後で追加しますね。
なんて書いたけど、あまり追加しても仕方がない。皆さん買って読んでくださいよ。
ただ、一つだけ追加するとすれば、彼女がグレングールドからもらった「自分自身をよく知ること、自分を信じること」っていうメッセージは、実にこの芸術・文化のアンダーラインされたノートではありませんか。
それにしても自分に自信がなければ、自分を信じられない。切磋琢磨すること、、、
音楽でも、美術でも、表現者である限り、それは一番大切なことなのでしょうね。


人生を幸福にしてくれるピアノの話
熊本 マリ
講談社

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心象の発露か、わかってもらうことか

2008年06月09日 22時49分29秒 | 芸術・文化

プロフィールにも書いているけど、最近の私のブログ(この夢幻泡影になってから)は、突き詰めていえば、散歩が必要、そのために写真でメモを撮って、ブログにアップして、散歩に付加価値をつけてということに落ち着いてしまう。

時々、自分がアップした写真をしげしげと眺めることがあるけど、ここの写真は自分がそのときに見た綺麗だな、面白いなというものを撮っているだけ。
まれに、一見心象的なものをアップすることもあるけど、ほんとうに自分の心象に忠実なものだけをアップしようと思えば、今までアップしたものの全てを消してしまわなければならない。

でも自分の心象に忠実なものだけだと、誰にも見向きもされないだろう。
もちろん、メモの写真だって、人に好まれるから、好まれるように写そうという気持は最初から持ち合わせてはいないのだけど。
誰とも共通の価値観での話しのしかたになってしまうのが恐ろしいと思うこともある。

10000枚の写真をアップしても、後で見返して整理すると、その全部を消してしまうかもしれない。
その場での私の個人的心象が、私の中でさえ、いつまでも同じ価値を持っている、そんな物を作ったこともないし。

人の作品を展覧会などで紹介する仕事を重ねてきて、歳を経て、自分の伝えたいメッセージ、好み、撮りたいもの、撮るべきものがある程度はわかっているつもりでもそうなのだから、若い人が、一時の感情、感興だけでの作品で終わってしまっても仕方のないことなのかもしれない。

一万人の人にわかって貰える写真は、自分でも理解できるし、綺麗だと思える。
でもほんとうに自分に忠実な写真は10人の人にもわかってもらえないかもしれない。
プロではないのだから、ほんとうはそれでもいいのだけど、、、、
いくらメモだからといって、ただ綺麗、雰囲気がある、、、、
それだけでは、それでいいのかなと思うことがある。

私が散歩の付加価値と逃げ道を作る理由なのだけど。
でも、撮り溜めた写真を見ながら、私はどこへ行けばいいのだろうと、恐ろしくなる。


いすみ市の小池(大原台入り口)のレストランCafe⑤oceanで写真展があっていました。
内山涼という銚子の写真家さんらしいのですが、波の写真を並べていました。
一枚だけ、私の琴線に凄く触れるものがあった。
もちろん、私なら違うやり方で撮ると思うけど、でも、その写真を見て、自分の写真を改めて考えさせられたのでした。


このブログになってからアップした写真がもうすぐ5000枚になります。
ここらで、一度考えなければね、、、

なんて、雨の日の夜、小人は閑居して、具にもつかないことを考えております。



蛇の足
日記をアップした後(後から調べなおすなんて非常に私的ですけど)、内山涼でググっていましたら、お近くのオールドローズさんのブログがヒットしました。彼女が行かれたのは別な写真が展示されていたときだと思いますが、店内の様子など、素晴らしい写真で紹介されていますので、ぜひご覧になったらと思います。

もっと個人的なことだと思うけど   新指導要領に「愛国心養成」

2008年03月28日 13時44分05秒 | 芸術・文化


私の仕事はある国の文化、特に芸術を日本に紹介することだった。
その縁で新聞に半年に渡り「国際化」というコラムを書いたけど、その原点は、いろんな価値観を持つ国々の人の考え、文化を理解し、評価するためには、まず自分の立っているところを知ること。自分の文化、風土を大切にということだった。
そして、育った町の市長への文化政策の審議員をやったり、その任期が終ると県からリクルートされたりしていた。
仕事の関係もあったけど、国や自治体が文化や芸術の振興、保存に力を貸してくれることは大賛成。
でもそれを教育の分野で押し付けることが必要なのかどうか疑問に思えてならない。

愛国心も、自分の国の文化や歴史に愛着を持つことも、それはもっと個人的なレベルのものじゃないかと思う。
確かに愛国心や、日本の文化の衰退みたいなことがよく言われているし、そのようなことを目にすることも多々ある。
でもそれを押し付けなければ駄目になってしまうほど日本の国や文化は弱い、脆いものだとは思えないのだけど。

今いろんな文化が入ってきているし、外国へ行くチャンスも殆どの人が持っている。
黙っていても、日本のいい面も目にすることが多いはず。
どうにもならない国、政治をしていて、愛国心が生まれるわけはないし、それを押し付けるのは本末転倒に思える。
政治家はいい国を作っていく。そして自分の文化や風土を大切にしていく。
そこからこそおのずと愛国心は生まれてくるのではないだろうか。




指導要領、異例の修正 「愛国心」など追加(朝日新聞) - goo ニュース

ホールのピッチと残響  

2008年02月16日 10時32分01秒 | 芸術・文化
昨日、ベーゼンドルファーとヤマハの事を書いたときに、知人が楽器の弾き比べをやったことに触れていました。終ってから、楽しかった、興味深かったって言われても、どこのホールでどんなピアノだっかた詳細がわからないので、ふんふんと思うしかなかった。

ベーゼンドルファーやベヒシュタイン、スタンウエイなどを比べたということは判っているけど、ベーゼンドルファーもインペリアルの1900年以前のものと後のもの、ベヒシュタインにいたっては近年のものは往時のものとは構造も、あのピアノの特徴である透明感も全く別物。スタンウエイは、むしろシュタンウエグとかボストンの方が特徴を出しているかもしれない。

もしそこまで考えてピアノを選び、ホールも選んだのなら、絶対にCDかDVDで記録しておいて欲しかった。あれだけたくさんのCDを出している人だから一枚くらい遊びがあってもいいじゃないか、なんてことを考えたり、、、

相変わらず長すぎる前置きの後で思い出しました、今日はホールのことを書くのでした。

このことはずいぶん前に書いたのだけど、アムステルダムの定宿で泊り客同士話をしていた。彼はそばのコンセルトヘボウに来ていたゲバントハウスがコンセルトヘボウでどんな音を出すのかに興味を持っていて、このオケは今までどこどこのホールで聞いて、あそこはこんな音色、ここはこんなところが素晴らしいとかといういろいろなホールでのオケの音色の違いを事細かに話してくれた。
ホールピッチとか残響、アクースティックという言葉では尽せないいろんなものを感じさせてもらってとても楽しい一日だった。
もっとも、最後のほうで、話が美術館のことにとび、私が東京の国立博物館がいかに官僚的であるかと悪口の限りを尽していたのだけど、彼もそうそうって相槌を返しながら一緒に嘆いてくれた。
翌朝、彼が出発するというときに名刺を交換したら、なんとその国立博物館の刀剣のトップだった、、、
私にしてみれば大トクイさま、それからますます国立博物館には行けなくなってしまった。

なんてまた話が横道にそれておりますぞ。

共鳴箱を持つ楽器はどんなところでも弾ける。上に述べたピアニストはイギリスのランズエンドの崖の上でピアノを弾いていた。(もっともこれはテレビの番組のためだけど) でもフルートなどは反響がなければただのすかすかのか弱い病気の音。とても聞いていられるものじゃない。オルガンのように部屋自体を共鳴箱として使う楽器もある。

プリバロックのあのめちゃくちゃなピッチは実は、おらが町の教会のオルガンのピッチであり、その教会の礼拝堂のピッチにあわせたもの。
歌っていていちばん心地よいピッチに何となくなってきたものがプリバロックのピッチの秘密。
だから場所によっては今のピッチよりもはるかに高いピッチもあるのですね。
(あの時代は多声法の時代であり、その影響を強く受けていた時代だから、ピッチよりもむしろ残響とアクースティックのほうが重要だったのかもしれない)

通奏低音に身を包まれながら、オブリガードの歌声にかき口説かれたら、無神論者でも改宗する。それは長崎という特異な場所で育ったのでよく判ります。年がら年中オラショと聖歌に囲まれていたのですから。

友人が東京のマリア聖堂で声明とグレゴリオ聖歌の聞き比べを企画しました。
あの僧侶(天台とカトリックの)の動き、歌、そしてその場の雰囲気。ローソクの光を反射する金きら金の道具たち、揺れ動く光と煤に満ちたなんともいえない摩訶不思議さ、、、これが見事に同じなのですね。
宗教というのは集団催眠の最たるものであるという気を改めて感じましたね。


演奏の前にオーボエがピッチを出していますね。
オケによって持っているピッチがあります。
もしかしたら、オーボエは最初はそのピッチでぷっと音を出してみて、「あれ、もうちょい高めがいいかな」なんて微妙に高く吹くかもしれません。まあ、弟に言わせるとその差はコンマ1とか2とかの差、つまり444ではなく444.3と444.4は区別がつかなければいけないということ。
もちろんデジタル的に4.5とか4.6というのが目の前にちらちらするのではなく、何となく高いとか低いって感じられる差のことなのですけどね。
これを持っていないと、オケでは弾いているうちに、管はピッチが上がってくる、弦は下がる、それを演奏の合間に調整しているのですけど、それができなくなって、自分だけが不協和音を奏でることになる。

下一桁の差になるとはっきりと444ですねっていえる人が殆どだから。
(人間にはどれくらいの微小な差が区別つくのかってよく書いていましたね。アゴーギクの問題は別にして、ピッチやメロディの中での微妙なテンポの取りかた、音の長さの取りかたなんかを書いていたら、これまた友人から、ロンドンにいたときにその関係の研究の手助けをした。本が出ているから読んでくれって言われてアマゾンで調べたけど、品切れで未だに読んでいない)

だから平均率になる前の絶対和音で育ってくれば、平均率のあの濁りはがまんできないかもしれないけど、でも平均率を使わなければバロック以降の和声の進行も困難。
仕方ないんですね。


おおい、ホールのピッチの話はどこへ行った?
長くなるからそれはまた次の機会にしましょう。
  ちょっとカテゴリーの芸術・文化で見ていましたら、「自分の音 ホールの響き」というのを書いているのを見つけました。この中にリンクで上の話一部の日記へ飛ぶようになっていますので、もし気になる方は見てみてください。


お恵み深い王様、このお話の続きはまた明日の夜。
                インシャラ-



ベーゼンドルファーとヤマハ  一つ質問を追加

2008年02月15日 17時15分19秒 | 芸術・文化
去年知人のコンサートの後で、彼女のこのプログラムだったらベヒシュタインで弾いて欲しかったな~なんてもらしていたら、聞こえたのか、ピアノの弾き比べなんて企画をやっていました。
曲想とそれに要求されるタッチや音色ってこともありますけど、その人自身のタッチでもまたその人にあったピアノというのが出てくるんですよね。

個性の強いピアノというのがあるんです。
ベヒシュタインやベーゼンドルファーなんかがそう。
コンクールなんかでベヒシュタインが出てくると、そのことを知っているピアニストは青くなるっていいますもの。
知らなきゃ、ひっぱたいて、音を割ってしまう。
でも、ベーゼンドルファーも知らないで弾けば低音過多になったり、それに気がついてパサパサになったり。
楽器の性格を充分にわかって、タッチや音色を調整してあげればそれはほかのピアノとは比べ物にならない音を出してくれるのですけど。

話はちょっとずれますけど、上の彼女、アンコールで結構超絶技巧の曲を弾きます。
プログラムの途中で入れるとピアノのピッチが狂ってしまうからなんだそうですけど、こんな時にもベーゼンドルファーなら大丈夫かもしれない。(もっともこの点ではヤマハも大したものですけどね)

ヤマハが買収したベーゼンドルファーは一番個性の強いピアノじゃないかと思うのです。ベヒシュタインの影響が強かった優等生のヤマハが、ベヒシュタインのライバル(性格的な)であるベーゼンドルファーを買うことがはたしてヤマハにどう影響するのだろうかと、今から興味津々です。
(それよりも、ヤマハが販売量に走ってベーゼンドルファーを殺さないかが一番気になるところですけど)

ヨーロッパの名品といわれるものの中には、個性が強く、その長所、短所を知っておかなければ買えない、使えない、使うのに技術や知識が要求されるものが多くあります。
大量生産で、誰の要求にもそこそこの答えを出すという日本的な優等生技術とは、根本から違う取り組みのもの。

卑近な例ですけど、足に使う車(本妻号ちゃん)は絶対国産だと思います。どんなときにでもきちんと求められていることを果たしてくれるという信頼感。これが必要。
でも道具としての車はそうでなければいけないけど、乗って楽しい車(悪妻号ちゃん; 今はまだ危篤の状態のまま、病床でお休み。2年に一度の定期検診も昨年やらずじまい。だってこの子、私と無理心中を図っているんです。検診を通してあげたら、私は借金地獄に陥るからね)って必ずしも良妻賢母ではないんですよね。悪魔だからキャワイイ。
その悪魔ぶりでしびれる気持ちと、引っ張りまわされるデメリット、それをわかった上でなければこんな遊びはできない。悪妻をコントロールできる技術が必要。(お金と体力も、、、)
悪女には、充分気をつけましょうね。
虜になったらもう抜け出られない。



ところで、今読み返していて、ふと思いました。
ピッチをどうしましょう?
低音域が豊かに出るピアノはわざと高めのピッチ、、
柔らかな中・高音域を持つ楽器には逆に低めのピッチ。
普通とは逆みたいだけど、これでやってみたらどうだろう???
それにしても、最近のヨーロッパのオケのピッチ、また下がってきたのかな?
一時、高すぎた時期があったものね。
ピッチとユーロは逆比例する? なんちゃって。