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夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

なんとなく、しみてきて ヘンデルのリコーダー・ソナタ   ブリュッヘン

2007年12月15日 09時33分40秒 | 芸術・文化
笛をやっている人なら、ヘンデルのソナタはいやというほどレッスンで吹かされる。
だからプロならともかく、アマチュアは聞きたがらないし、吹きたがらないのじゃないかな。
私も、ヘンデルのソナタ集なるものをいくつか持っていて、例えばミカラ・ペトリなんかはあのぴちぴちした演奏に上手いな~って感心したりして、でも何度も聞くかというと、そうでもないんですよね。
結局棚に積み上げえられて、はてどこかにあるはずなんだけどってことになる。

ブリュッヘンのCDも車に積んでいて、何度か(他に聞くものがなかったので)聞いていて、そのときはそんなにいいとは思わなかった。
私的にはマルティン・リンデだったらどう吹いただろう。彼はそのときのメンバーで乗ってしまうと、とてつもない演奏をする。気が乗らないときには、ばっちりと楽譜どおりだけど、好きな相手とのアンサンブルだと、譜面を見ていても「はて、どこを吹いているんだろう」なんてことがある人だから、いろんな人との演奏を聞かないと彼の演奏はわからないよな~なんて思ったりする。まあ、弟なんかにはリコーダー奏者としてより、インプロビゼーションの大家として認識されているようだし、バロック音楽だったらそれも当たり前なんでしょうけどね。

自分に合うものとしたら、演奏的にはリンデかケース・オッテンだろうな~って思う。リンデの当意即妙さに比べるとケース・オッテンは地味。でもあのなんともいえない暖かい音って絶対に捨てがたい。とにかく話していてこちらの目を見ながら、ゆっくりと、にこやかに対応してくれるあの人柄がそのままにじみ出ている感じで、惚れ惚れするんだけど。でも最近は全くニュースを聞かない。オランダにいる笛吹きたちに聞いても「さぁ~」って答えしか返ってこない。佐藤さんとやっていたアンサンブルもとっくに活動を中止しているし、まぁ、生きていればもう相当な歳だからね~

なんて、まったく「お勧め」投稿にはなっていないことを書きながら、ブリュッヘンに戻りましょう。以前聞いたときにはペトリの後に聞いたのかな。なんてそっけない演奏をするんだろうって、ペトリの演奏の後だから余計にそう思っちゃった。そのあとも長距離のドライブで持っていったCDをあらかた聞いて、体も疲れ果てて、そんなときにばかり聞いていたんです。だから「ふん」という気しかもてなかった。

でも、昨日の朝、白鳥を撮りに朝もやの中を車を出して、たまたまこのCDをかけていたら、「いいじゃん」って再認識してしまいましたね。だから車から降りても、家に持ってきて、何度かかけていたけど、ぼんやりと、軽い仕事をこなしているときにはこの音が沁みてきて、結構素敵。これからの人生、ぼんやりしていることが殆どになってくるから、これからはこのCDはちょいちょい聞くのかな~

ところで、ラフマニノフのピアノ・コンチェルトがどうなったかって?
あのときにも書いたけど、これはそんなに好きな曲ではなくって、ただ自演版やルービンシュテイン版があるので聞き比べ、お勉強にはいい曲かと思っただけ。今はアシュケナジーで止まっておりますよ。
おまけにこの間はパガニーニの主題による、、、買い込んできちゃって、そんなに好きな曲じゃないのをいろいろ買いこんでどうするのでしょうね?







ヘンデル:リコーダー・ソナタ集
ブリュッヘン(フランス),アーノンクール(アリス),ビルスマ(アンナー),アーノンクール(ニコラウス),レオンハルト(グスタフ),タヘッツィ(ヘルベルト),ヘンデル
ダブリューイーエー・ジャパン

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好雪片々不落別處

2007年11月30日 10時49分23秒 | 芸術・文化

今日のアクセス解析を見ていたら、「好雪片々不落別處」で探されて来られていた人がいた。碧巌録の言葉ですよね。碧巌録はトラックバックの練習でちょっとオチャラケを書いていたけど、とにかく難解。あまりにも難解すぎて、睡眠薬代わりに本を読むなんてレベルではなく、手にとった段階ですぐにパタッと眠ってしまう。条件反射の見事な見本になりました。だから、いまやベッドサイドの必需品。なんせ「眠れぬ夜」が多い人ですから。同じベッドサイドに置くものでも、ペイネみたいな本はエッチ本だからかえって眠れなくなるでしょうしね~

なんて思いながら、先日の「鬼が笑う」のコメントにレスをつけていたんですけど、薄いピンクの山茶花を深い緑の木々をバックに一杯に撮った写真で、「背景がもっと明るいとき、画面に他のものが入っているときにはこの山茶花は目立たなくなるでしょうね」って書いていて、自分のカメラ目線は山の風景に感動して、紅葉の一枚を撮るようなことが多いな~って思い直していました。

目の前に広がる風景、山でも海でもいいのですけど、を見ながら、それを見て綺麗だなって思うのではなく、その中にふっと溶け込んでしまっている自分を見つける。
自分が山の一部になっているから、一枚の葉っぱを撮り出すことで自分には山が見えている、というよりそれに同化している。

展覧会でもステージでもいいのだけど、絵を見て、その絵が綺麗だなって思っている段階では、まだ作品を鑑賞している段階。その絵とそれを見ている自分が溶け込んで一体になっている自分を見るとこれは何とか紹介しなければと思う。

美術史なんかをやっている連中がその流れの中でこの作品がどれだけ重要かなんて、口に泡を飛ばして説明し、人を引きずり込もうとしているのを見るとそんなの論外だよって感じになってしまい、引いてしまう。芸術ってもっと違うものじゃないっていいたいんですよね。もちろん売名や、売れるからって企画を立てる人が多い中で、これはとても良心的な人だとは思うけど。

だから私の場合いつも一匹狼の、マスターベション企画でしか過ぎないのはよく判るけど。

でも、ほんとうにパリでも、バルセロナでも、アムステルダムやロンドンでも、道を歩いていて、誰かに呼ばれたってふっと横のショウウインドウを見ると絵がかかっていてそれがおいでおいでをしている。足が動かなくなり、画廊のドアを開け、あの絵はいくらってことになる。金なんかないんだけど、プラスティックマネーなる悪魔の発明がそれを可能にしているんですよね。後々どれだけ苦労するのか、毎回の経験でわかっているのに。
このPCの前にかかっているダリ。この部屋のシャガールやコルネイユ、コレクターであったある大支社長が「お前はビッグネームだけ買うのか」って聞いたことがあるけど、とんでもない、クレジットカードを出すまで誰の作品か知らなかったのだから。
絵に呼ばれて、動けなくなって仕方なく、物にした、、、(自分にとって)いい作品ってそんな力をもっているんだと思っている。

現代作品は嫌いっていつも言っているけど、99.99%のそんな作品は、綺麗で終わるか、どうだこれなら面白いだろうとか、これなら注目を引けるとか、売れるとか、そんな気持ちしか伝わってこないもの。
でも現代作家の作品の中にもふっと暖かな気持ち、一途な気持ち、そんなものを感じられるようなことがある、動かされるような作家の気持ちが伝わってくるというのは、作品と一体化する時のどうしても必要な橋だと思う。そしてそれを見ているうちに、その作品とそれを見ている自分が一体になっていることを感じたら、もうこれは何とかしなきゃ仕方がないでしょうってことになる。

蕎麦を食べたいと思ったときに、美味しくない蕎麦を食べても、その気持ちは変わらない、いつまでたっても蕎麦を食べたいって気持ちに動かされている。私ってそんな粘着質なところがあるから、なんとなくこれは絶対に紹介しようと思ったものは大体やってきた。好運な生涯だったんですよね。

「好雪片々不落別處」 
雪がちらほらと落ちてきている。ここに落ちないし、あそこにも落ちない。
綺麗な雪景色だと思うのは自分の気持ち、そしてその風景を作り出している一つ一つの雪を、ここに落ちた、あそこに落ちたというのも自分の気持ち、雪はただ落ちているだけだけど、雪景色を見るのでもなく、雪の一つを見るのでもなく、そして雪の景色や、雪の一片になるのでもなく、その全部と溶け込んでしまう、、、
ねっ、碧巌録はあまりにも難解すぎて、睡眠薬の代わりになるってよく判るでしょう。

雪は無心だけど、作品はそうは行かない。どうしても自分の気持ちや、作為(理性?)が入ってしまう。ならいい作品を仕上げるには自分をもっと見つめなければ、本当の自分に蓋をしていたんじゃいつまでも、作り物でしかない。
そうするには、自分の行動を分析していくしかない。ほんとうの自分の奥底の気持ちをね。失敗を恐れないで、失敗はすぐに忘れてなんて、誰が言ったのかな。それはゲームの途中ならそうかもしれないけど。ゲームが終わったらきちんと見直さなきゃ。それも単なる技術的、表面的なことだけでなく、もっとなぜそうしたのか、なぜそれがいいと思ったのかまで深く、深く掘り下げていかなきゃね。そうしなければ失敗から何も学べない。

ラフマニノフはお好き?  ピアノコンチェルト第二番

2007年11月29日 20時07分39秒 | 芸術・文化
ラフマニノフはお好き?
なんて聞かれると、ちょっと困ってしまう。
そんなに好きでもないかもしれないって言うのが本音かもしれないね~
じゃなんでこんなCDを聞くのって聞かれると、それは簡単。
この曲は、このアシュケナージ版だけでなく、リヒテルやアルゲリッチ、ツィマーマンそしてルービンシュタイン、おまけにラフマニノフの自演版まで揃っているから。

この中で、あまり私好みではないアシュケナージの版から聞き比べていこうという計画。
たしかにアシュケナージの歌い方を好きな人にはこの演奏はとても彼の歌い方が出ていて、嬉しい版かもしれないけど、私はどうせ歌うならルービンシュタイン的に歌われるほうがぴったり来るので、どうも聞いていて、お尻がもぞもぞするって感じ。
なにか曲に没頭できないんですよね。
断っておきますけど決して悪い演奏ではない。私の好みに合わないというだけ。演奏としては超一流なんですね。

でも好みの作曲家の曲でないものを集めて、聞き比べなんて私もずいぶんと自虐的になってきたのかな~





<ttable>ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1~4番
アシュケナージ(ウラジミール),ラフマニノフ,プレビン(アンドレ)
ポリドール

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波兎から 染付唐子文瓔珞茶碗へ

2007年10月26日 11時00分24秒 | 芸術・文化
昨日(今朝ですね)の日記「兎のダンス」は、波兎(鳩じゃありませんよ、バニーちゃんです)を念頭に入れているのは、皆様は当然お分かりのことと思います。
謡曲の竹生島(ちくぶしま)に源流をなんて言われていますけど、でもこの兎ちゃん、もっと前からいても不思議じゃないような感じがしますけどね。
竹生島は琵琶湖の島ですけど、因幡でも白い兎ちゃんが海で遊んでいたじゃないですか。
もともと仏教では水の嫌いな兎でさえ、仏様のおかげで水遊びできる、、、、
バニーの水着はここに由来する、、、なんちゃって。
もちろん、冗談ですってば。
こんなの学会に発表しないでよ。

それで波兎なんてたくさんあるだろうって、家の陶器を見てみましたけど、これが一個もない。手近な食器棚だけをごそごそやっただけですので、他を探せば、どこかになにかあるはずなのですけどね。

その代わり、リンボウがでてきました。リンボウっていってもあの大作家先生じゃありません。私の地元、長崎の三河内焼きなどに普通に見られる文様。
ご飯茶碗も、お茶飲み茶碗もこれがついています。



そこで、今日は真面目にリンボウのお話。リンボウというのは三河内などで言われている方言なのでしょうか、正式には瓔珞(ようらく)文様。なんか凄い名前ですね。美術史家や、学芸員たちはこんな難しい名前を付けて人を煙に撒いているんですよね。嫌な人種ですね~
(ということで、今日のトップの写真のキャプションが決まりました。
染付唐子文瓔珞茶碗、、、、これでどうだ! なんかお茶漬け茶碗が神々しくなってきません?)

いや、神秘主義と文様の歴史は私がずっとやりたいと思っていた企画なんです。
まあ、神秘主義のほうは可愛い女の子を捜してきて会場で黒ミサをやりたいなんてはなはだけしからん思いがあったりしたのですけど、、、

文様の歴史はね、ほんとうに古代から文物の交流が世界的な規模で行われてきたことの証明でもあるのですよね。
貴方がお昼に食べたラーメンのどんぶりの縁についているあの変な線のつながりは中国の紀元前5000年くらい前のデザイン。戦いに行くときに亀の甲羅を焼いて吉兆を占った、それが源になっています。
南米の貝紫はヨーロッパを経て日本にも入っていますし、文様ではないけどコロンブスが持ち込んだタバコは100年もしない間に日本の中に溶け込んでしまった。
今でこそ禁煙運動が盛んですけど、日本の誇る茶道にもちゃんと煙草盆の扱いがありますから。
もっとも梅毒もまたコロンブスのお土産で日本に広まってしまいましたけど。
コロンブスは1498年にヨーロッパへ戻っていますので、あの当時ヨーロッパから日本へ、途中大概船を乗り換えたりしていますのでね、一年弱かかってたどり着いていたことを考えれば、ほんとうに早い、「文化」の伝播ですよね。

なんて道草は別にして、この瓔珞文様はもともとアッシリアの椰子の葉っぱの文様だったんです。パルメット文って言われています。それがギリシャ・ローマを経て、中国に伝わり、日本に入ってきた。中国ではこの文様をインドの瓔珞(ヘアバンドやネックレスみたいなもの)の名前を取って瓔珞文って名前をつけたのですね。

この瓔珞文が唐津に取り入れられてリンボウになりました。
写真は、普段使いの食器棚から発掘した瓔珞文の入ったお茶碗とお茶飲。おまけに月兎のデザインのカップをつけておきます。



現代でもちょっとはなれたところの風俗や文化が判り難いときがあります。それなのに数千年も前にすでに世界的な規模でこれほど活発な文物の交流があったというのを知っておくことはとても面白い。

先日ご紹介していた長崎楽会でも、少し前に砂糖の交易の歴史の話がありました。砂糖ひとつを見ても、世界的な視野に立たないと全貌が解明できないおもしろさがありました。

それが中世、近世の話であればことは当然なのでしょうけど、日本の稲作だって、東南アジアから古代の時代に入ってきたものですしね。
日本は島国、世界とは隔絶して文化を育ててきた、、、なんて、誰が言っているのでしょうか?


極小の無限

2007年08月29日 10時06分16秒 | 芸術・文化
一光年を秒とするこの無限に広がる宇宙の中で、
小さな命が生まれる。

その宇宙に生命が生まれてから今までの時間ですら極小ともいえないほどのつかの間。
その種の持つ時間、そして種の個体の持てる時間。

固体としては無限とも感じられる時間。
極小の極小の時間の中で生物は必死に生きていく。

愛を探し、その愛の中で自分の生の記憶を育て残していくために。

それは親から授かり、子へと受け継がれていく、種の記憶。

作家が世評を気にするのは、作品を作り、評価してもらう環境を作るため
作家が自分自身を必死に見ようとするのは、その作品に込める魂を磨くため
世評のため、作品のために自分を見失い、汚すのであれば
それはもう作家ではない。
そのような作家から生まれる作品はもう作品ではない。
どんなに有名になろうとも、いつかはその作家は自分でそのことに気がつくだろう。

人の一生が至上なのではない。それは環境。
人の愛が至福のものでもない。それも環境。
愛は単なる手段、人の一生は単なる道具。
恵まれた愛、幸福な一生は、それを受け継ぐ幸福な子孫への贈り物。





自分の音 ホールの響き

2007年07月19日 22時56分55秒 | 芸術・文化
何とかしてよ  ソニーさん」で部屋の中で響く音のことを書きましたけど、考えてみれば、楽器を弾けない私のような素人って幸福なんですね。どんなに素晴らしい演奏家でも、自分の音はきちんと聞けないのですから。

子供のころ、放送部って部活をしていました。テープレコーダーで録音した自分の声を聞いて、これは機械が悪いからこんな変な声になるんだって思うことにしました。すこし機械がよくなってきて、そして友人の声はそんなには違わないのに気が付いてからも、マイクがちゃちぃとかいろんな理由をこさえて自分の声はちゃんと録音できないって信じることにしました。

声楽家は同じことですね。自分の声はかなりの部分骨を通じて聞こえているので、自分が知っている自分の声は人の知っているものとはちょっと違います。
これはバイオリンやビオラも同じ、楽器を顎の骨と鎖骨ではさみますから。
オーボエなんかのリード楽器はリードを歯ではさみますから、ストレートに脳天まで響いてくる。
先ほど以前のブログを見ていてこの辺のことも書いていたのを見つけました。
人間はどこまで詳細な区別がつく オケのピッチ
(http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/65cb05334c2e6f533f3e79bfe3e41a62)

水琴窟 その2  音色について
(http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/719bcabd8b9add091e5e27fa2869422e)

ここでは温度や湿度のことはピッチの問題で以前のブログに書いていますのであえて省きますね
質問 ビオラダガンバと調弦
(http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/fd9811caac7133ae5c1a8aca05e7684b)

これらは聴衆が聞いている楽器の音とはちょっと次元の違う音です。

でもピアノやチェロ、コンバスのような共鳴箱を自前で持っている楽器はまだ幸福。
知り合いのピアニストはイギリスのランズエンドという、大陸の一番西にあたる崖の上でピアノを弾きました。
もし、フルーティストにそこで吹けって命令したら、彼はその崖から飛び降りるかもしれません。フルートは自前では蚊の泣くような音しか出せません。もっとも自前の音も金や銀をどのくらい混ぜるかでずいぶんと違ってはくるのですけど。
ステージの反射板などの音の反射を利用してやっとあのフルートの音になるのです。
ですから反射のない(デッドな)ホールで吹かせたら、どんな名人でもめろめろになるはずです。

その楽器の持つ自前の音は代わりませんが、ステージなどの近間で反射してくる音はそれぞれのホールで違います。例えば今までで最高の音が得られたのは日光の戦場ヶ原の樹海でした。初春で木がまだ枯れていてその枝に音が反射して素晴らしい音になりました。やはり自然ってすごいんだな~って感じた一瞬でしたけど。
朝日ホールやカザルスホールも、素晴らしい音をだしますけど、できたては最悪でした。ステージやホールに張り詰めてある木が1年ほどして馴染んできて始めて今の素晴らしい音を出せるようになってきたのです。
でもここまでは演奏家は聞けると思います。

本当に聴衆が聞いているのは、その音がホールに満ちて反射してくる音とミックスされた音ですね。誰の音が綺麗とかって言われるときには実はこの音が基準なのです。もちろん、演奏家もステージでのリハーサルはします。でも客の入っていないホールの響きと客が入ったときの響きは全く違うものになってしまいます。演奏家はそれは聞けないのです。

ステージの広さ、高さ、反射板の角度や材質で響きの長さ、全体の音の色、艶が違ってきますし、設計によって途中で変に強く反響してくる部分もあるし、音が濁ることもある。オランダのコンセルトヘボウがこの問題で、ホールを修復しましたけど、いまだに一部の演奏家からは不満があるようですね。

プロのステージでのリハーサルは自分の考えている音楽をそのホールではどんな弾き方をすれば実現できるかの微調整なんです。でも人の入っていないホールは人が入ったときとは違う響きになるって書きましたよね。。。

国立博物館の主任学芸員というかたが、専門は音楽ではないのですけど、このことにものすごく詳しくて、例えばゲバントハウスっていうと、どこと、どこと、どこのホールで聞き比べたけど、あのオケはどこのホールの方が素晴らしい音を出すっていうようなことをお話になれる。でも本当に同じ演奏家、同じ楽器でもホールによってずいぶんと音が違うのです。

よく遠鳴りのする楽器って言い方をします。素晴らしくいい音を出すバイオリンをそばで聞いたことがありますが、傍ではただゴーゴーって音が出ているだけ。それが離れて聞くと素晴らしく色艶の音になっている。今でも不思議なのはあれを弾いていた人には少なくともバイオリンの音になって聞こえていたのかなってこと。その人には骨を伝わって聞こえている音がありますからね。

また、音楽が貴族の楽しみだったころには、ホールも小さく、音は小さくても綺麗な音が出る楽器が好まれました。音のピッチも今よりも半音以上低いことが多かったのです。
でも音楽が大衆のものになって、大ホールができるようになると、大きな音が出る楽器、そしてもっとさまざまな音色、表現ができるような楽器が好まれるようになってきました。ちょうどチェンバロがピアノフォルテになり、現在のピアノが生まれたように。

岬の部屋一杯に響くオケとピアノの音を夢見ているとなんだか変なことを書いていますけど、、、

干物女が増殖中? 社会の趨勢じゃない

2007年07月18日 10時30分33秒 | 芸術・文化
「干物女」ただいま増殖中! (ゲンダイネット - 07月17日 10:00)によればドラマ「ホタルノヒカリ」が話題なのだそうだ。
>>
主人公は20代の女盛りなのに恋愛に興味がなく、枯れていることから“干物女”と呼ばれている。干物女は決して特殊な存在ではない。...家でゴロゴロするのが何より好きで、部屋は散らかり放題。休日は昼間から缶ビール――こんな女は実際に増えている。「働いてるのに、自炊や掃除なんてできないっスよ。外で気を張っている分、家ではダラダラしてもいいでしょ? 一人暮らしのOLなんて、みんなこんなもんよ」... でも「一人暮らしの干物女はまだ救いがある」と言うのは、女性心理に詳しいライターの大野宏美氏だ。「自分のだらしなさを認識しているから、何かのきっかけで立ち直る可能性がある。... 好きな男ができたら化粧してデートに行くし、いつ部屋に来られてもいいように掃除だってしますよ。
本当にマズいのは、実家暮らしの“隠れ干物女”。隠れ干物は放置しておくと発酵して“くさや化”し、手の施しようがなくなります」... 散らかしても親が片付けてくれるため、自分が干物女だと気づかない。それが結婚後に表面化し、“くさや主婦”になってしまうのだ。... 夫は出社前に洗濯、帰宅後は片付け、たまの休日は掃除やアイロンがけに明け暮れる羽目になる。...
「干物女は表面を取り繕うのがうまく... 一見それとわかりません。一人暮らしなら、部屋に上がって水回りの汚れをチェックすれば一目瞭然ですが、実家暮らしだと判別が難しい。見破るには、細部をよーく観察すること。マニキュアがはげていたり、ムダ毛の剃り残しがあったり、いつも同じピアスをつけっ放しの女は要注意。干物女はパッと見さえ取り繕えればいいため、細かいところまで気が回らないのです」
(途中、ちょっとはしょったところがありますけど)

仕事に明け暮れ、家は寝て、着物を換えるだけってのは男だってそうですよね。確かに昔はオスは外でマンモスと戦って、外敵から家族を守り、食料を得てきた。メスは出産、育児という大事業があるので、巣の中を守り、疲れたオスを癒して、また兵士として、働き蜂として送り出す役を担っていた。生物進化学的に言えば、それが生物としてのDNAに深く刻まれてきたのでしょうね。

それは戦い方にも現れているように見えるのです。
オスは獲物を持ち帰る家族をしょって戦うから、常に自分のリスクと成果を天秤にかけた戦い方をする。オスが自暴自棄になるのはオスとしての生存価値を問われるような場だけなのかもしれない。
メスが戦うのは家族を死守するとき、常に後の無い状態での戦いになるから、最初から全てをかけて敵を倒す。「されど母は強し」の状態になるのですね。

人間の知識や技術でかってのような危険な作業はなくなってきている。出産、育児も命を賭け、一生を捧げる仕事ではなくなってきた。おまけに子供を産まない方法も進化してきた。もうオスや家族に縛られる必要もなくなってきたのかもしれない。だから女性がもっと自由をと叫ぶのは歴史の必然なのでしょうか。

そんなには長い年月ではないにしても千年、あるいは何百年かかけて、人類の社会はだんだんとそのような新しい環境に慣れてきている。そして過去50年くらいにそのレベルが急速に高まってきていると思う。ただ、個人的、社会的な意識にはまだ古い感覚がどこかに染み付いているので新しい環境、それから生まれる生活、道徳観念に馴染まないところが多いように思われるけど。

女性が自由になり「好きな男と寝て何が悪い」って開き直れば、オスの守護から外れてしまう。でももうその必要性も薄れてきたのだから、家族やしきたりからもっと自由に生きたいという考えはどんどん染みとおってきたのだろう。今はまだ自分が古い考えに反した新しい考えで自由を謳歌しているという段階なのかもしれないけど。「好き」のレベルも、生きるために食べるから、単にお腹がすいたから目の前の食べ物が何でも好きに見えるような、その場の感情だけのレベルでの判断に落ちてしまっていることなのかもしれない。昔の愛とか恋といったものはだんだんとなくなっていくのでしょうか。

赤ちゃんポストの問題のときにその根底にあるものとして、ほんとうはこんなことも書きたかったけど、でもあのときは現場での命を守ろうとする悲痛な叫びだったし、急を要する問題でもあったのであえてここまで話を紛糾させることは無いと思ってはしょってしまった。
安易な衝動で産まれた望まない子供を死なせたり、捨てたりするのはむしろセックスというものに対する価値観が薄まってきた、命を賭け、生涯をかける大事業ではなくなってきた時代を表すものかもしれませんね。だとしたらこれはこれからもどんどんと広がっていくのだろうかと心の隅で思っています。その末路を見なくてすむのは嬉しいような気がしますけど。

アーティスト イン レジデンスという活動を1980年からやってきました。若い作家たちが何ヶ月も滞在しているのですから最初から男女の問題がいろいろとあることは覚悟していました。でもそれがあまりにも目立つと何のために来日したの、何のために私はあちこちで頭を下げてお願いしまくっているのって活動への意欲が減退してくるのも確かでした。

最初とその後数回来日した男性作家は行く先々で恋人を作って帰国の前後にはその後始末がこちらに廻ってきたりしてました。数年前に来日した女性のアーティストは異性問題でレジデンスのオーナーと問題を起こし途中で別なレジデンスを探すのに大騒ぎになりました。彼女は自分が必要なもの、協力を得るためには体を差し出すのも自分の意欲の表現として思っていたようです。ステージのアーティストにはどんなに練習をつみ、どんなにすばらしいプランを立てても舞台というチャンスがなければ単に空に書いたお城よっていうのが彼女の口癖でした。途中来日した彼女の旦那(彼も大きな劇場のアーティストディレクターでしたけど)もそのことでも特に驚いた様子は無かったのです。彼女のことで相談をしたある女性は、私が彼女にそのことで詰問したのかってきくので、「レジデンスのオーナーからクレームがついて、途中で止めることになったから」っていいましたら、「彼女が可哀相。こちらではそんなことはむしろ当たり前の出来事だから」って言っていました。でも彼らはまだ干物。自覚した上での行動ですね。

外国は日本とは違うって言わないでくださいね。
友人からの頼みで、恋人が文化庁の在外研修で一年の助成をもらい出かけるののお手伝いをしました。受け入れの施設の指導員は彼女の元彼。もともとは彼と一緒に住むために助成金をもらったというのが本音だったと思います。友人と付き合うようになって彼のことは過去の存在になった。でも私のためにいろいろと企画をしてくれるし、申請に指導員からの受け入れ状が必要だからって、元彼にはまだ愛しているよって振りをしながら、新しい彼氏には「協力してくれるから求められれば断れない。でも一年したら帰ってくるから待っていて欲しい」ってなんの不思議もなく言える人でした。最終的に私はどうしても彼女の考え方が判らないのと、彼氏の悲しみを見て協力を断りました。日本だって若い人たちの考え方(人類の歴史から見れば、ほんとに短い間ですけど)がもうわからなくなってきていると思います。このケースなんかもう「くさや」のレベルじゃないかと思います。だって彼女には自分のやっていることに対する自覚がまったく無いのです。協力を断るときに彼女にはっきりとこの考えを伝えましたら、びっくりして、人生の大きな夢が実現するということで自分を見失っていたって言いましたけど、とんでもないそれが一番の問題。自分の本来の姿がそうなのだということに気がつかなければこれ以上彼女に協力することは無意味だと思いました。アーティストとしては彼女は成功するでしょう。自分の行動を自分に都合のいいようにしか解釈しないのですから、何でもできるでしょう。でも、人が可哀相でしたね。
物事の判断が皮相、突き詰め方が上っ面だけ、だから自分の心の底も判る必要もない。だから自分が何をしているのかもわからない。

愛とか恋、使命、なんて人間の文化、芸術の根底にあるものが薄れてくれば、芸術なんか薄っぺらい紙切れみたいになってしまうかもしれないし、そんな社会での芸術なんて私には考えられないおもいです。

売春を悪く言う女性はたくさんいる。これは昔の倫理観がそれを悪いこととしているからその目で見るからでしょうね。でも売春をしている女性は何かの理由があってそうなっていったのかもしれない。そして自分たちのやっていることが社会の倫理観に反しているのは自覚しているのだろうとおもいます。だからその倫理観を持たない若い子たちには「楽いことをして、お金までもらえるのだから」何が悪いのってことになる。

自覚がある人は干物女なのでしょうね。それなら自分が干物になるだけですむけど、「くさや」女は相手まで腐らしてしまう。でも、そういえるのは私がいかに昔の倫理観に縛られているからって反応が来るのはわかっていますけどね。。。
私はオスだから、女性の事を書きましたけど、メスから見れば今の男性にだって言いたいこと山ほどなんでしょうね。

洞庭湖のネズミ 雑感

2007年07月15日 14時23分39秒 | 芸術・文化
洞庭湖で20億匹もの鼠が異常に増殖し、それを駆除しようとしたら、広東省に持っていって売ればという案がネットで飛び交っているというニュースがありましたが、今日はその第二段で、すでにもう売られていたって話もでていました。

ちょっとニュースからは外れるのですけど、

以前にも書いたことがありますけど、昔の上司が、東南アジアにいて、一番困ったものはこの鼠の唐揚(?)生きたままの鼠を尻尾を持ってぐらぐらと煮えている油に漬けるのだそうです。そしてそれを食べる、、、
ある女王が王族のやるべきことで一番つらいことは、出されたものを食べることって言っている記事がありました。その中の一番最悪なものが猿の丸焼き。まるで人間の赤ん坊に見えるのだそうです。
このほかにも、東南アジアでは、特別な種類、飼料で育てられたとはいえ、蛆虫やこうもりなどもご馳走です。

でも、悪食、ゲテモノっていうのは、そこで育った人には通じない観念。日本でも、犬や、蛇、バッタ(?)それに生きたままの魚、あるいは西洋人から見ればとんでもないと思われるような鯨とか、馬を食べる地方や人々は沢山いますよね。

ある国の文化を日本に紹介する仕事をしていました。
自分の基準、自分がプロモートしなければならない国の基準、そしてターゲットにしている相手の基準や、日本全体での基準。そんなものの間で何をどう取り上げてプロモートしていくのがいいのかが、毎回毎回の仕事のスタートでした。

どこに基準を置くのか、何がゲテモノだのか、何が素晴らしいものなのかっていうのを判断するのはとても難しいことなのかもしれませんね。
まして違う基準の世界へ別な基準で生まれた文化を紹介するということはとてもたいへん。

ある部分心の問題になりますよね。
絶対的な形質の差があったとしても、それの良し悪しの判断は心の問題。
でもその範囲ならまだ誰にもわかるけど、ゲテモノなんて心と形質の間に来る判断に関しては、ついそれが絶対的なものとしてみてしまったりすることが多いのですよね。




20億匹のネズミが農作物食い荒らす=中国湖南省(時事通信) - goo ニュース

ベーゼンドルファー

2007年07月01日 19時22分32秒 | 芸術・文化


ある人のブログを見ていたら、コンサートの話が出ていた。
ゲネプロでステージに上がったら、ベーゼンドルファーが置いてあって、でも気持ちよかったわ~って話なんだけど、、、
一昔前なら、ステージに上がって、ピアノがベーゼンドルファーとかベヒシュタインなんかがおいてあるとみんな構えてしまって、それだけで上がる人もいたんですよね。世の中が大らかになってきたのかな~

ベーゼンドルファーやベヒシュタインは独特の癖があるから、それが判っている人は、低音部を抑えるとか、全体にフォルテを弱くするとか、それなりの苦労をするんだけど、、、

リハーサルをやらないのはプロの自覚がない?
でも、プロだからこそ、結構そんな場面に行き当たることがあるんですよ。

知り合いのピアニストは客の前で引き始めたら、なんとチューニングしていないピアノだったって泣いていたし、

友達のフルーティストはホールへ行ったらデッドなホールで、音がすかすか、
彼は大器だって評判で学校を卒業して、その演奏会をやって、一月もしないうちに病気になって笛がふけなくなってしまった。プロとしての最初で最後の演奏会だったんです。

プロなら、いつでも最低限の結果が出せるように、前もっての調べも、用意も必要だけど、、、、世の中何があるか判らない。
そんなスリルにはまっちゃうと末は賭博師?

ねぇ、そうは思いません?




デジカメ練習帖   バラ

2007年06月30日 08時53分32秒 | 芸術・文化

最近鳥を撮っていることが多い。
それも燕だとかコアジサシのダイブの瞬間とか、、、
師匠からは目にキャッチライトが入っていないなんて更なる難題を突きつけられて目を白黒させている。フレームに入れるので精一杯の対象なんです。

鳥でも、その辺の鳥、コサギでも、鳩でも、雀でも、ムクドリでも、もう少しこちらに余裕がある。何しているのなんて相手からメッセージを受けて、写真を撮っているんだよなんて、キジバトでもそんなシーンがありましたね。
犬や、猫はもっとその辺が強く出てくる。嬉しい、楽しい、煩いな~、ダルだよ、、
なんて気持がストレートに伝わってくる。写真はまずくても、そんな気持が写真に少しでもでてくれば、他の人にはくずでもかまわない。私には大満足。写真が楽しくなる瞬間ですね。

花は動かない分もっと、相手を見据えられる。こちらの求めるイメージとは別に、「どんな風に撮って欲しい?」って聞きながら相手の見て欲しい形を探していくのはとても楽しい時間。
知人はバラは一番難しい題材の一つという。もちろんこの人のレベルではそうかもしれない。私は自分が満足していればそれでいいのだけど、この人は自分の気持をその中に込めてその写真を見る人にも同じ気持を共有して欲しいと思っているから。一桁も二桁も違う難しさがそこにあるのでしょうね。

バラは美しい。そして自分でもそのことに密やかな自信を持っているように思える。
ともすれば、撮る人はその美しさだけに心を奪われるのじゃないかな。とすれば奥行きのない、情緒のないフォルムだけが出来上がってしまう。



風景はもっと難しい。風景にはもっと自分のメッセージを入れ込む必要があるように思えるから。風景をきちんと撮れるようになるまで、それも人に見せるということではなく、自分を満足させるものが撮れるまで、はたしてどれくらいの修行が必要なのだろうって、、、風景も撮りたいのですけどね。