DREAM/ING 111

私の中の「ま、いいか」なブラック&ホワイトホール

ブログについて考える★ネットイナゴ考察・再び

2007-06-12 | ブログについて考える
池田信夫 blog /はてなに集まるネットイナゴ

はてな系ブロガー(という言い方がいいのか悪いのかはさておき)の
はてブ(はてなブックマーク)でかなり見かけたので、
ちょっとチェイスしてた記事です。

ネット右翼、ネットイナゴ(最近ではネット赤潮?)は以前はすごく気になったのですが、
なんか最近感覚が麻痺してきたというか、「個人」として識別できず、
よほどしっかりした記事構成や明快な意見がないと
風景になりつつあるのですが(コワイ現象だ)。
まだまだブログ界で話題になるようですねー。
(被害者からすればたまったものではないでしょうから当然でしょうか)
祭りや炎上とはまた違う攻撃方法として
ちょっと興味深いので、ひさびさにとりあげてみます。

で、記事そのものよりコメント欄が面白い。

記事で一番気になったのは以下。
こういうイナゴの及ぼす社会的コストは大きい。彼らに食いつかれるのを恐れて、専門家はブログで意見を表明しないし、普通のユーザー(特に女性)はSNSに逃げ込んでいる。

うーむ。知らない間に、ネット内の格差化もかなりなレベルまで進んでたようです。
gooは「はてな」に比べると、けっこう思想的に偏りなく平和(?)なので、
そういう変化というか淘汰は、あまり意識しませんでした。
・・・まぁ、あまり過激な記事はたしかにお目にかかれない気はしますが。

池田信夫さんの自己レスで
この記事にも、さっそくイナゴからコメントが来たが、削除しました。彼らのメッセージの特徴は「おまえはバカだ」と断定するだけで、その理由が書かれていないことです。論理を組み立てて相手を説得するという訓練を学校でしてないからですかね。
実は社会では、こういう脳の小さいイナゴがsilent majorityなのですが、そういう連中は普通の学校や職場では発言の場がない。それが、だれでも発言できるウェブで多数派を占めてしまったということでしょう。
こういうノイズが増えると、記事の平均的な質が下がるため読む人がいなくなり、おかげで書く人もいなくなる・・・というadverse selectionが起こってメディアが崩壊してしまうことは、ネットニュースなどで経験ずみです。ブックマークは、そういう結果を避けるために記事を格づけするシステムなのに、それが逆淘汰を促進してるんじゃしょうがない。


というのも、今のところ個人的には実感できてないのですが・・・。

あ、でもそういえば、専門家はブログに書かないというのは、
先日来、死刑制度関係で弁護士の個人ブログを検索していて
少し感じたことではあるかも。
(弁護士を看板にしてる個人ブログで、書いてる人がいなかったと言う意味で)
ただ、マーケティング関係者は異様に多かったりするので
専門のジャンルにもよるのかも?
また、業種・職種的に、守秘義務が多い職業だと、
もともとオープンブログが使えないケースもあると思います。

ただ、コメント欄の流れを読んでいて、
たとえネットイナゴな弊害があったとしても、
こうしたある種良質な情報喚起が起り、意識連鎖が起り、
情報交換が起るブログのソーシャルメディア力は変わらず健在だと思う。

ある意味、「普通の学校や職場では発言の場がない」
(・・・ちょっと「?」マークがつきますが・・・)とする
ネットイナゴのような存在をあぶりだせることそのものが、
WEB2.0的な面白さだと思う。・・・なんて書いたらヤバイ?(ドキドキ

以下、思考メモ。

思考の濃度というものがあって、
それはもちろん善悪でも優劣でもなく。
ただ、あまりに濃度が違うと相いれない。
影響をうけすぎて、自分の濃度が保てない。

だから、心地よいと感じる思考は
個人的に「私」に適した濃度なのだろうな、と思う。
(同じ、というのではなく、
相手を受け入れたり、自分を開放したりが心地よくできる関係)

ネットイナゴは、その濃度のバリアを
数に任せて変化させようとする、その行為自体が楽しいのではないか、と。

実は、ネットが&ブログがすごいのは、
リアルだと、なかなか感じられない&もしかしたら勘違いしやすい
そうした濃度の差を、ROM含めた様々な記事を通して、
語りかける前に感じることができることそのものにあると思う。
ネットいなごもいるけど、そんなものとは引き換えられない
上質コミュニケーションに出会える場がたくさんある。

ネットイナゴをおそれず(できれば襲われないにこしたことはないですが)
鍵をあけて、自分でネットフィールドを歩く。
すると発見がむこうから飛び込んでくる。
過剰防衛で、早々に閉じこもってしまうのはなんだかMOTTAINAIと思います。


参考:
[雑記][議論]ネット!イナゴ!(novtan別館)

[雑記][議論]ネット赤潮(novtan別館)
ネットイナゴ、ネット赤潮、ネットエチゼンクラゲの定義が面白い。


追記と修正:

今回のイナゴ騒動は、もともと専門外のネットワーク関連について
記事化した内容に対し、正当なものを含めて来た反論を、
池田氏が自己批判として全てアラシ扱いしたことが原因のようですね。
うーむ・・・。

関係性を見ず、記事単体で深く考えず、記事化しましたが、
こういう行動もまたネットイナゴなんじゃ?(大汗;)と大反省いたしました;

勉強になった記事を修正版として紹介させていただきますです。
アラシ関係の捉え方と書き手の品位の規準が凄くわかりやすい。
※一部抜粋です。記事元へGO!

[Text]書き手側の品格(NC-15 )
えーと。今回の炎上って、そもそも知識不足でわけわからんエントリ挙げた挙句、論理的に異論を唱える奴も荒らし認定して対応してたのが原因じゃねえのかと。要するに自業自得って奴で。

俺が考える「書き手側の品位」は具体的にこんな感じかなと。
・反対意見はあることを前提に書く。
・論理的な反論については真摯に返す。
・反対意見を全て「相手が悪い」と思わずに、まず「自分のエントリのどこに原因があったかを考える」。
・事実誤認があるときは素直に謝る。
・自分のミスで不具合なコメントがついたエントリは削除しない。わかるように訂正する。
具体的にそこら辺が書く側に要求される最低限の品格だろうと。てか、俺のところは全部それやってるけど、それでも荒れるときは荒れるからね。
そもそもブログで意見を発信するっていうことは、当然レスポンスを期待してるから発信するわけで。そうでなかったらチラシの裏に書いてりゃいいだけの話じゃん?そのレスポンスには当然ポジティブなものもあればネガティブなものもあるわけで。どっちか一方だけ欲しいといっても無理な話。


明快だ!

それにしても、はてブ(はて部?w)はブログ考察活動が活発です。
もう自分で考えないで、秀逸だと感じた記事の編集だけしてればいいかも?
なんてことも思いつつw

や、やっぱ何かアンテナにひっかかった話題を自分なりに考え、
腑に落とすのが楽しいってことですね。ぱくぱく。(←鯉の口イメージ
ただ、こういうコミュニケーション考察エントリはもともと大好きなので
ハイったら出てこれないのが個人的な問題だ。;ぱくぱく(←エラ呼吸

で、こういうネットトラブルテーマの自己増殖傾向もまた
赤潮現象なのかな?と。


関連カテ:
ブログについて考える

ブログについて考える★「炎上」はリアル飛び火が一番問題では?
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リアルタイム・ドラ

2007-06-12 | コネタ
学校から帰宅直後、2007年6月12日18:30の会話


息子:吐きそう


私:え?お弁当悪かった?<そこか!


息子:や、モラルとか常識とか・・・


私:・・・吐くほどないやん



こうしてなる@家の1日は過ぎてゆくのであった。

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ドラえも~ん!(小原乃梨子さんで

2007-06-12 | コネタ
朝の会話。

わたくし:
あんたね、
おかあさんを誤魔化すことばっか考えてるんじゃなくて
自分のために、本気で頑張りなさいよ。
未来の自分を助けられるのは、今の自分だけなんだからね。
未来のドラえもんは今のあんた自身なんだよ!


息子:
今おかあさんがイイコト言った!

わたくし:・・・・・・・






とりあえず「暗記パン」 を365個ほどお願いします。

ところでドラえもん、ドラネコ、ドラ息子のドラって何?
野良の変形?

お口直し(?)に
ドラえもん絡みでつい先日話題になった著作権問題ネタなどもどぞ。

ドラえもん最終回同人誌、売れすぎて・・・


ドラえもん:無断で漫画化…男性が売上金の一部支払い
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死刑について考える★犯罪と裁き

2007-06-12 | 事件を追う(短期別枠カテ)
安田好弘★「生きる」という権利 麻原彰晃の主任弁護人の手記
からの派生ログです。

認知&認識主体が自分でしかない人間は、ある意味
「社会」を自分が見たいように構成できる、と思っています。

で。ブログはそのすごくわかりやすい実例だな、と。
好きな記事だけで構成することができ、
時間がたてば、その記事だけがネット上の事実=「記憶」となって化石化する。
どんなにリアルで悲しくても
ブログで笑っていると、時間がたって笑っている過去だけを
残すことができる。
(まぁ実際はそんなに単純なものではありませんが・・)

少なくても、ブログのみが接点の他者には
そういうイメージを残すことはできるかもしれない。
ある種の自己演出。(ネカマのような虚偽含め)

新聞でもニュースでも、自分が知る「事実」「現実」の範囲には限界がある。
逆説的にいえば、だからこそ、自分なりの世界を作ることができる。
(でないとどんどん拡散してしまうだろうから。
コラージュした記憶や認識・思考に
「真実」をかぶせると、ブログの記事の積み重ねのように
「生活」が輪郭を表す。

ただし、犯罪を犯した途端、自分が現実を編集する、
その権利も自由も失ってしまう。
現実は時間を止め、ある種の防腐処置を施され
過去からはずされて、二重写しのようにそこにあり続け
事実は警察、検察、弁護士の手に委ねられ、
真実は作り替えられて、再度、脳に埋め込められる。

『「生きる」という権利』を読んでいて、一番、コワイと思ったのは、
そして「地獄だ」と思ったのは、上記の部分。

私はシロウト判断で、死刑に該当すると判断される殺人犯を
いろいろな理由(たとえば未成年)で死刑にできないのなら、今は禁止されている
ロボトミー手術賛成派だったのですが、この本を読んで、少しその考え方が変わりました。
凶悪犯罪で裁かれる者=毎日、生活に他者の手(思考・意識・存在)が関わる者に、
自分の現実を実感する自由は、ものすごく少ないのだと。
それはある種のロボトミー手術を受けるようなものだと思いました。
(安田弁護士の論を信じるとして)

安田弁護士は「裁判が被告にとって拷問であってはならない」としてはいるが
一般的な感覚なら、せめぎあう対立構造の真ん中に置かれる行為自体が
一種のさらし者であり、拷問に極めて近い。

で、私はそれでいいのだと思います。

そういう思考への他者の強制関与に対し、拒絶するか、受け入れるかで、
苦痛に差はあるとも思いますが・・・
(自分の代わりに誰かが考えてくれることを良しとすれば、
間違った自白も、間違った記憶も、
頭の中の消しゴムで簡単に消せてしまえるのかも。)

裁判の過程をどんどん開示して、
どれだけの時間が、自分を解体する作業に費やされるかを知ったら
犯罪はもっと減るのかもしれない。
少なくても私には、死刑よりも、そうした過酷な取り調べや
弁護士を含めて徹底して繰り返される事実確認のほうが、
そうして失われていくアイデンティティの方がつらいように感じる。
(仮想レベルですが)

同様に死刑と無期懲役はどちらがつらいのだろう・・・
それも個人差がありそうです。

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!!!
今、私が死刑に関して考えてる疑問を質問にしてみました。
答えていただく必要はないので
よかったら一緒に考えて見てください。

●あなたのとても大切な人が殺されてしまいました。
 あなたが犯人に望むのは?

1.犯人が逮捕前に自殺する。
2.犯人が逮捕されて、死刑になる。
3.犯人が逮捕されて、無期懲役になる。
4.犯人が、刑務所内で自殺する。
5.その他

●あなたの友達の大切な人が殺されてしまいました。
 弁護が通って、犯人は無罪になるようです。
 あなたの友達は「釈放されたら犯人を殺す」と言っています。
 あなたはどうしますか?

1.友達を応援し、犯人を殺す手伝いをする。
2.友達を応援するが、手伝いはしない。
3.友達を殺人者にしたくないので、止める。
4.友達の代わりに自分が犯人を殺す。
5.その他

コメント (6)
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