光市母子殺害差し戻し審・5★怪弁護団(?)21人の素性と主張
この記事を書くと同時に、死刑制度の反対意見に興味を持ち、
下記を入手して読んでみました。
「生きる」という権利―麻原彰晃主任弁護人の手記 (単行本)
安田 好弘 (著)
最初に断っておきます。
私は作者である弁護士の安田氏にかなりのマイナス印象を持っています。
その先入観で読んでいますので、
これ以降は、そこを差し引いてお読みください。
全体のトーンでいえば、個人のノンフィクションなので
当然なのかもしれませんが、
どうしても視点が弁護人&弁護士会サイドから、かつ安田氏個人サイドからで
専門用語やシチュエーション、業界の慣例や常識等々、
シロウトには状況がほとんど見えないままに話が進むので、
これはある程度の裁判や警察、検察、弁護士の知識がある方でないと
善悪や是非が判断できない部分が多いように思いました。
そういう中での全体印象。
イデオロギーの前には1つの「事実」は無効だということ。
そして安田氏は多分非常に情熱的な「信念の人」なんだな、ということ。
ある意味、弁護士であるよりも活動家・運動家のようです。
なにが真実か、という議論は対立する受益構造の場合、
いくらでも視点を変えてねつ造できる。(犯罪者の自白強要のごとく)
そして、世の中で起る様々な「真実」は、
現状我が国においては、法によって裁量され意味付けられる。
裁判とは「事実」関係を明確にする場所以上に、
関係者相互の「真実」を推し量る場所なのだと認識しました。
言い換えれば、国家の真実=「正義」(という名の、実は個々人の信念の総和)を通すためなら
戦争で何人死のうが、「個人の死」は関係ない。そういう感覚にも近い。
(ここで問題なのは、国家上層部が自分を国家と同一視することで
自分の信念を「国のため」と、実態なき幻想にアイデンティティ注入する
悲しく脆弱な認識主体であるという点。またこれは別の機会にでも・・・)
●死刑制度絶対反対(=罪を償うのに死なないでもいい方法をとるべき、という考え方)
●警察と検察と裁判所への根強い不信感と敵対感。
自分の信念のために、凶悪な殺人の実行犯であろうが、その1人を救うために
全力をかけ、打てる方策はすべて打つ。
ビジネスの姿勢としては、ある意味、非常に尊敬できます。
前半は長々と警察・裁判所・検察と弁護士との対立、、
弁護士業界内部の派閥(共産党系やら、新左翼系やら・・・)と
それに伴う弁護士個人間の対立、弁護士会と安田氏の対立、
ある弁護士と安田氏の対立 等、
様々な対立構造と、それらと戦う安田氏の考え方、立場が描かれています。
・・・正直言って、自分の考えに合わないものは全て「攻略すべき敵」という
わかりやすい思考です。
優柔不断を嫌う姿勢は個人的にはキライではありませんが
他者への決めつけや見下し方など、根拠や背景が見えないと、
安田氏自身が嫌う、私憤や個人的な感情のようにも思えて
ちょっと同意しかねる部分もあります。
(一生懸命書かれれば書かれるほど、自己都合&自己弁護に見えて
正直、嫌気がさす内容でもある。)
裁判の健全運営がどういう状態かはわかりませんが
(そして確かにえん罪含めて、急ぎすぎる機械的な裁判もあるのでしょうが)
あまりに弁護人(被告=加害者=凶悪犯罪者)の権利を重視し、
できる限りの引き延ばし(に見える)を行う加害者サイドに対し、
なんとしても裁判を進めようとする裁判所の行為を
すべて妨害工作と見る向きに辟易します。
麻原のような実行犯として確定した凶悪犯の犯罪行為を
1日も早く裁き、社会を正常化するのは当然のように思うのですが・・・。
あと、加害者が長引く審議に耐えきれず、
常軌を逸脱した発言や行動をとった場合、
すべて裁判の過酷さのせいにするのもどうなのか。
裁判制度はもともとそういう性格のものであり、
そこに正当性があるからこそ、あなたも弁護人というポジションで
参加してるんではないのか。
と、作者がいくらでも裁判、被告、周辺、を穿って見ているように
私も穿って見てしまう。
自分のための読書メモ:※犯人への「さんづけ」は本文に準じます
●刑事訴訟法の改正案/特別案件制度
●予断と起訴状一本主義
●麻原さんの名誉回復
●弱い信者のなし崩し的、相互依存的行為
●警察は、サリン事件が起ることを完全に把握していたにも関わらず、
事件を起させ、テロ対策等の治安優先施策実行のために活用した。
●「国家転覆」や「首都圏テロ」ではなく、自分たちの細かい失敗と
教団内での派閥争い、地位争いの結果焦って引き起こした事件
●「ほとんどの被告が教祖の麻原さんに責任を負わせようとしている。
だが、現実はそんなに簡単な話ではない。そこには様々な軋轢があった。それは麻原さんがしゃべってはじめて明らかになる。しかしいま、彼は沈黙したままである。」
●実行犯は村井さんで、麻原さんは利用されていただけ?
●麻原の錯乱→精神病にするわけにはいかないので精神鑑定を受けさせない。
●「刑事裁判は死んだ」
なんだか戦争の戦犯裁判の様相をイメージしてしまった・・・。
突き詰めていくと「誰も悪くない、社会と運が悪い」という感じです。
ただ、裁判所や検察の不備や横暴も確かにあるのでしょうけど、
それをいうなら弁護人だって同じはず。
そして被害者についてあまりにも意識されていないのが特徴的です。
なにより、弁護人の被告への共感(シンパシー)、感応能力の高さを感じる。
それが弁護人というものなのかもしれませんが。
ただ、白紙=「被告は犯罪者ではない」というところからの出発点であるべき、
という主張がすでに事実ではない、と思うのだけど・・・。
「事実」の判定って難しいですね。
※事実についてはkei様の下記記事をぜひご参照ください。
刑事事件の「事実」って複雑なんですよね。
kei様の適確な情報のおかげで、本書の理解が進みました。感謝します。
安田さんはすべての犯罪者は「弱者」だという。
誰も弁護しない弱者だからこそ弁護したいのだと・・・。
裁判沙汰の犯罪を犯さない人間はすべて強者となる。
それはすでに定義の問題であり、カテゴライズの線引きの問題だけで
「弱者」という単語に意味はないように思います。
犯罪者は裁かれるべきであり、弱い・強いは犯した犯罪
(とくに一方的で被害者に非のない殺人)には関係がないと思うので。
「弱者だから弁護する、それが正義だ」と言うベクトルは
私は相いれません。
追記:
読み終わりました。読んでよかったと思います。
でもこの1冊ではまだまだいろんな暗黒が見えない。
なにより安田弁護士への不信感は変わりませんでした。
死刑を伸ばすためにはある種のねつ造(彼としては、事実から導き出された仮説)も厭わない、
安田氏にとってそれが真実であっても、そこに強烈な違和感を感じる。
それはやはり、殺された人の真実は永久に語られないだろうから。
ただ、死刑そのものの意味は、少し深く考えることができました。
死刑制度の必要性含めて、また記事にしていこうと思います。
この記事を書くと同時に、死刑制度の反対意見に興味を持ち、
下記を入手して読んでみました。
「生きる」という権利―麻原彰晃主任弁護人の手記 (単行本)
安田 好弘 (著)
最初に断っておきます。
私は作者である弁護士の安田氏にかなりのマイナス印象を持っています。
その先入観で読んでいますので、
これ以降は、そこを差し引いてお読みください。
全体のトーンでいえば、個人のノンフィクションなので
当然なのかもしれませんが、
どうしても視点が弁護人&弁護士会サイドから、かつ安田氏個人サイドからで
専門用語やシチュエーション、業界の慣例や常識等々、
シロウトには状況がほとんど見えないままに話が進むので、
これはある程度の裁判や警察、検察、弁護士の知識がある方でないと
善悪や是非が判断できない部分が多いように思いました。
そういう中での全体印象。
イデオロギーの前には1つの「事実」は無効だということ。
そして安田氏は多分非常に情熱的な「信念の人」なんだな、ということ。
ある意味、弁護士であるよりも活動家・運動家のようです。
なにが真実か、という議論は対立する受益構造の場合、
いくらでも視点を変えてねつ造できる。(犯罪者の自白強要のごとく)
そして、世の中で起る様々な「真実」は、
現状我が国においては、法によって裁量され意味付けられる。
裁判とは「事実」関係を明確にする場所以上に、
関係者相互の「真実」を推し量る場所なのだと認識しました。
言い換えれば、国家の真実=「正義」(という名の、実は個々人の信念の総和)を通すためなら
戦争で何人死のうが、「個人の死」は関係ない。そういう感覚にも近い。
(ここで問題なのは、国家上層部が自分を国家と同一視することで
自分の信念を「国のため」と、実態なき幻想にアイデンティティ注入する
悲しく脆弱な認識主体であるという点。またこれは別の機会にでも・・・)
●死刑制度絶対反対(=罪を償うのに死なないでもいい方法をとるべき、という考え方)
●警察と検察と裁判所への根強い不信感と敵対感。
自分の信念のために、凶悪な殺人の実行犯であろうが、その1人を救うために
全力をかけ、打てる方策はすべて打つ。
ビジネスの姿勢としては、ある意味、非常に尊敬できます。
前半は長々と警察・裁判所・検察と弁護士との対立、、
弁護士業界内部の派閥(共産党系やら、新左翼系やら・・・)と
それに伴う弁護士個人間の対立、弁護士会と安田氏の対立、
ある弁護士と安田氏の対立 等、
様々な対立構造と、それらと戦う安田氏の考え方、立場が描かれています。
・・・正直言って、自分の考えに合わないものは全て「攻略すべき敵」という
わかりやすい思考です。
優柔不断を嫌う姿勢は個人的にはキライではありませんが
他者への決めつけや見下し方など、根拠や背景が見えないと、
安田氏自身が嫌う、私憤や個人的な感情のようにも思えて
ちょっと同意しかねる部分もあります。
(一生懸命書かれれば書かれるほど、自己都合&自己弁護に見えて
正直、嫌気がさす内容でもある。)
裁判の健全運営がどういう状態かはわかりませんが
(そして確かにえん罪含めて、急ぎすぎる機械的な裁判もあるのでしょうが)
あまりに弁護人(被告=加害者=凶悪犯罪者)の権利を重視し、
できる限りの引き延ばし(に見える)を行う加害者サイドに対し、
なんとしても裁判を進めようとする裁判所の行為を
すべて妨害工作と見る向きに辟易します。
麻原のような実行犯として確定した凶悪犯の犯罪行為を
1日も早く裁き、社会を正常化するのは当然のように思うのですが・・・。
あと、加害者が長引く審議に耐えきれず、
常軌を逸脱した発言や行動をとった場合、
すべて裁判の過酷さのせいにするのもどうなのか。
裁判制度はもともとそういう性格のものであり、
そこに正当性があるからこそ、あなたも弁護人というポジションで
参加してるんではないのか。
と、作者がいくらでも裁判、被告、周辺、を穿って見ているように
私も穿って見てしまう。
自分のための読書メモ:※犯人への「さんづけ」は本文に準じます
●刑事訴訟法の改正案/特別案件制度
●予断と起訴状一本主義
●麻原さんの名誉回復
●弱い信者のなし崩し的、相互依存的行為
●警察は、サリン事件が起ることを完全に把握していたにも関わらず、
事件を起させ、テロ対策等の治安優先施策実行のために活用した。
●「国家転覆」や「首都圏テロ」ではなく、自分たちの細かい失敗と
教団内での派閥争い、地位争いの結果焦って引き起こした事件
●「ほとんどの被告が教祖の麻原さんに責任を負わせようとしている。
だが、現実はそんなに簡単な話ではない。そこには様々な軋轢があった。それは麻原さんがしゃべってはじめて明らかになる。しかしいま、彼は沈黙したままである。」
●実行犯は村井さんで、麻原さんは利用されていただけ?
●麻原の錯乱→精神病にするわけにはいかないので精神鑑定を受けさせない。
●「刑事裁判は死んだ」
なんだか戦争の戦犯裁判の様相をイメージしてしまった・・・。
突き詰めていくと「誰も悪くない、社会と運が悪い」という感じです。
ただ、裁判所や検察の不備や横暴も確かにあるのでしょうけど、
それをいうなら弁護人だって同じはず。
そして被害者についてあまりにも意識されていないのが特徴的です。
なにより、弁護人の被告への共感(シンパシー)、感応能力の高さを感じる。
それが弁護人というものなのかもしれませんが。
ただ、白紙=「被告は犯罪者ではない」というところからの出発点であるべき、
という主張がすでに事実ではない、と思うのだけど・・・。
「事実」の判定って難しいですね。
※事実についてはkei様の下記記事をぜひご参照ください。
刑事事件の「事実」って複雑なんですよね。
kei様の適確な情報のおかげで、本書の理解が進みました。感謝します。
安田さんはすべての犯罪者は「弱者」だという。
誰も弁護しない弱者だからこそ弁護したいのだと・・・。
裁判沙汰の犯罪を犯さない人間はすべて強者となる。
それはすでに定義の問題であり、カテゴライズの線引きの問題だけで
「弱者」という単語に意味はないように思います。
犯罪者は裁かれるべきであり、弱い・強いは犯した犯罪
(とくに一方的で被害者に非のない殺人)には関係がないと思うので。
「弱者だから弁護する、それが正義だ」と言うベクトルは
私は相いれません。
追記:
読み終わりました。読んでよかったと思います。
でもこの1冊ではまだまだいろんな暗黒が見えない。
なにより安田弁護士への不信感は変わりませんでした。
死刑を伸ばすためにはある種のねつ造(彼としては、事実から導き出された仮説)も厭わない、
安田氏にとってそれが真実であっても、そこに強烈な違和感を感じる。
それはやはり、殺された人の真実は永久に語られないだろうから。
ただ、死刑そのものの意味は、少し深く考えることができました。
死刑制度の必要性含めて、また記事にしていこうと思います。