真臘風土記で周達観は、通常の村里に居る者について、「みめかたちはみにくくて[色]は甚だ黒い」「宮人南棚(役所)の婦女のごときに至っては、その白いこと宝玉にようである者が多い。思うに太陽の光を見ない故であろう」と記しています。
注解によると、真臘風土記を650年ほども遡る時代の「隋書」真臘伝にも「婦人はまた白い者がある」との記述があるそうなので「太陽の光を見ない故」ではないようです。
ベトナムに居た頃、カンボジア人はベトナム人より肌が黒いとの固定観念が揺らぐことはありませんでした。古くからメコンデルタに暮すクメールの人々とは別に近年になってからカンボジアから様々な理由で親がベトナムに来たという人々もHCM市では少なからず出会いましたが。
それだけにカンボジアで暮してみて最初に驚いたのは肌の色がベトナム人よりも白い女性の数の多さです。プノンペンの接客業の女性やTVに映る女性の多数派となっているだけでなく、地方都市や農村部ですら珍しくありません。都市というものがカンボジアでも本来的に国際都市としてあったことの証明のような気もします。
島国日本ですら飛鳥の都は国際都市であったようですから民族の坩堝と言われるインドシナ半島では尚更のこと。
ケップ海岸でカラオケ用ビデオ撮影のモデルをしていた女性、たぶん今風のカンボジア美人なのではないかと思います。クメール美人には何処か憧れを抱いているつもりですが、どうもそのイメージとは重なりませんでした。
タケオで孫の女の子二人が昼寝する側で機織り用の糸を束ねていたお婆さんがいました。覚束ないクメール語であいさつを交わし、それがどんな作業工程なのかを知ろうとしたのですが、上手く伝えられず、お婆さんも「チャー、チャー」という返事ばかり。
お婆さんの顔も画像に残しておらず、記憶にも残っていません。しかし、「チャー」という発音の響きは柔和で暖かく胸に沁みました。もしかしたらそれが、幻のクメール美人の言葉の響きであったのかも。かつては、傍らの孫のように可愛い女の子の時代もあったわけだし。最近はどうも若い女性と話をしたいとの欲求が湧かず、したがってクメール語学習も挫折したままでしたが、このお婆さんの昔話などはぜひ聞いてみたいものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます