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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

カンポートからコムポン・サムへ

2010-03-21 19:19:48 | 旅行
『踏査行』の『3.コムポートからコムポン・サオムへ』は特に興味深い記述が多く、これを読んだ誰もが、もしバイクで行ける距離であればこの地を訪れてみたいと思うに違いありません。特に子供の頃の夏休みにカブト虫採りに熱中した経験があるような人ならば尚更かとも思います。

もっとも今は舗装された国道を走ることが出来るので、アンナン人の道を歩き山脈から流れる急流を裸足になって渡るなんてことはなく、ヒルに噛まれることもありませんでした。

それではあまりにも味気ないではないかと思い、山脈方向に分岐する道の入り口に「ナショナルパーク」の看板があったので右折して山の方向に進んでみました。すると直ぐ検問ゲートがあり、建設用トラックが入って行きましたが、バイクでの進入は拒まれました。公園なのに何故入れないのかはわかりません。水力発電所建設の現場だったのかどうかも不明です。

仕方なく引き返し、今度は海岸方向に折れてみました。穏やかで小さな浜に出ました。が、道の突き当たりは民家の庭。庭が海と接しています。津波が来たらどうするんだろう、などと思わざるを得ないほどの近さです。家屋は高床式なので多少の海水面上昇には問題なさそう。

国道に戻り暫くすると路上でエビを干していました。子供達が干したエビを選別しています。覗いて見るとエビの種類も様々でカニや貝殻なども混ざっていました。確かに天日乾燥させ、選別しなければ商品にならないし・・・などと思つつ様子を眺めていると、仕事として選別してるというよりは、その場で自分の食べたいものを探してるような感じでした。

シアヌークビルの幾つもある海岸をあちこち見て回り、コンテナ・ヤードなどにも立ち寄ってみました。日の丸の付いた看板なども立ち、JICA ODA LOANと記されていました。港には客船も停泊し、また大きな高級ホテルも建設中です。

カンポートからは100km程度。かつては4日間を要した行程も今は2時間足らずで付く距離です。ところがいざカンポート方向に戻ろうとすると道に迷い同じ所に3度も来てしまいました。半島の山道はカーブが多く方向感覚を掴むのが難しく、しかもカンポート州ではないので買った地図から外れています。

焦ると悪循環と思い、高校生が集まっている甘味店に立ち寄り、尋ねてみました。男子の方が行動範囲も広いだろうしと思い男子高校生に声を掛けたところ英語が旨く伝わらないのか教えて貰えませんでした。仕方なく地図を広げて氷の入った甘味菓子を食べてると女子高生の一人が来てノートに地図を描いて説明してくれました。何やら男子高生には冷かされていましたが。最後にWhere are you fromと聞かれたので、日本からだと答えると、「日本語一つだけ知ってます」と言ってから暫く考え、「オメデトウゴザイマス」。

教えて貰った道は正解で、無事国道に出ることができました。ところがそこからカンポート方向に行くには途中で右に分岐しなければならなかったのにその分岐点を見落とし、プノンペン方向に北上する道をそのまま走ってしまいました。

暫く走っても山ばかり、海岸方向が見当たりません。あれーと思い、方位磁石を見ると進行方向は南を指しています。南だから良いんだと思い再び走り続けると明らかに来るときに見た風景とは異なります。どうせ帰るだけだからプノンペン経由で大回りでも良いか、とも考えましたが、回りには人家も滅多になく夕暮れ近くになると心細くなりました。

路上に置かれた標識は見知らぬ地名ばかり。方位磁石が90度逆を指すなんてことが・・・と、二度三度試してみましたが、結果は変わりません。ガソリンの残量も気になり、今更ながらと思いつつやはりUターンして引き返すことにしました。

道を間違えたまま50km以上も北上してしまったようです。引き返す途中でやっと見つけたスタンドで満タンに入れると9.9Lも入ってしまい、ガス欠寸前だったようです。カンポートに向かう3号線の分岐点に着くと既に日は暮れていてました。

街灯の無い田舎の見知らぬ道路を走るのは疲れます。当然ながらスピードも出せないし、道路の凹凸に気付いた時は既に遅く、望まぬ夜道の危険性を体感することができました。

カンポートの町に戻ると8時を過ぎてました。とりあえず無事に戻れたのでこの日は奮発して温シャワー付きの15ドルに泊まりました。前日は7ドルのゲストハウスでしたが。




カンポートの塩田

2010-03-19 20:11:00 | 旅行
ベトナムのドンソン文化を象徴する銅鼓には舟が描かれているそうですが、川や海を見たいと思ってしまうわが心境もそんな古代の人々と何処かで繋がっているのかも知れません。カンポート川を見た後で海岸方向に走ってみました。川沿いの道がわからず適当に進むと小さく区切られた水の張られた田圃が並んでいました。何でここの田圃はこんなに小さいんだ?と思っていると田は田でも塩田でした。

ベトナムに長く暮らしていても見る機会のなかった塩田作業を初めて見ることができたわけです。パヴィーさんの『踏査行』にはカンポートの塩田は出てなかったのでそれ以降の時代に作られた塩田のようです。ベトナムの海岸線と比べればカンボジアのそれは悲しくなるほど短いわけですが、Kep Beach方向の道を行った時に Salt companyが2社ありました。

カンポートの町は多くを見る時間もありませんでしたが、小さな町のようでした。埃まみれのジャンバーは洗濯しなければ着られないほどになってしまい、仕方なく市場に行ってシャツを買うことにしました。混雑するためか市場周辺は警官の姿が少なくありません。シャツはとりあえず一日着られれば十分なので襟の少々黄ばんだ古着を3ドルで買い、本屋を探してカンポート州の地図を見つけました。

市場前の歩道ではスカーフを被ったマレー人風の女性二人が秤を置き、カシューナッツの買い付けをしていました。以前ベトナムで見たものより色が青みがかっているように感じました。

町の川沿いの道には外国人観光客向けのレストランも並び、日本式指圧マッサージの看板も。その裏手にはゲストハウスやホテルがあります。そのまた裏手方向に官庁関係の建物がありました。

川沿いのそこから少し離れた場所には華人学校があり、マク・キュウさんのカンポート開拓の歴史を感じさせてくれました。と言うか、マクさんがこのタイ湾沿岸の開拓を始める前から既にこの周辺には多くの中国人やベトナム人、チャムの人々が集まって交易を行っていたわけで、マク父子勢力が没落した後も権力者とは別に人々は生活を続けて来たようにも思えます。

当時のマク氏の勢力範囲はコンポン・サム(シアヌークヒル)からベトナムのカマウまでだったとか。と、いうことでシアヌークヒルまで行ってみることにしました。

郵便局払い下げバイク

2010-03-18 17:40:57 | 旅行
工事中の国道3号では小さな町の店で二度休憩を取りました。サトウキビ・ジュースが1000リエル(ムイポアン)程度。しかし「幾らですか」?という言葉も喋れないのは悲しいものがあります。財布を出して支払いの格好をすれば日本語で「幾ら」?と聞いても通じるわけですが、親切なオバサンは「ムイポアン」と言いながら紙幣を見せてくれました。

同じ店で休憩してるカンボジア人のオジサンが乗っていたのは日本の郵便局の払い下げバイク。ベトナムでもたまに見掛けるバイクですが、この辺ではやたら多く走っていました。カンボジアに渡ってからもかなり走行を重ねたような草臥れた外観で、テールランプは根こそぎ取れ、割れたプラスチックカバーが針金で補修してあります。

オジサンの赤いバイクにはキーが差したままだったのでエンジンを掛けさせて貰いました。軽くキックすると滑らかなエンジン音が軽やかに響きます。ボロボロの外観からは想像できなかった音です。わが中国製KTM150の不安定で安っぽいエンジン音とは大違い。

ベトナムでは1950年製の2サイクル、べスパすら走っているわけですから2・30年そこそこ走ったホンダのカブの健在ぶりに驚くことはないのかも知れませんが。

次に寄った店ではオバサンが居合わせた二人の娘を指差し、「どっちか気に入った方を連れてて頂戴」てなことを身振り手振りで語り掛け、当の二人の娘さんは当惑した顔付きでこちらとは視線を合わせません。こちらは返す言葉も知らずただひたすら笑っているだけでした。ホンダのカブ同様に使い古し日本人ならまだ使い道がある、というところなのでしょうか。

道路は一部は砂利も敷いてないないラテライトの硬い赤土で、砂利道よりはスピードも出ますが土埃は免れません。カンポートまではどんなことがあっても走り続けることはできますが、帰りもこの道を通らねばならないのか思うと恐怖です。130年前の徒歩や像に乗っての旅よりは時間だけは短縮できるとは言え、得るものは何もないような。

やっと舗装された道路に出たと思ったら既にカンポートの町でした。市場の前を通って進むとカンポート川に架かる橋がありました。乾期にも関わらず川幅は思いの他広く、山から流れる水は澄んでいました。




埃まみれの国道3号

2010-03-18 14:59:40 | 旅行
国境を越えてからタケオまでは1時間足らずで着きました。省都とは思えぬ殺風景な町並みなのでここではガソリンスタンドに併設されたコンビ二に寄りアイスクリームを食べ(1.2ドルも取られてビックリ)ただけで3号線に向かう道を探して西方向に折れました。

鉄道の線路がありました。プノンペンとシハヌークビルを結んでる線路のようですが枕木の損傷磨耗はひどく、線路も波打ってるのでもうだいぶ前から列車の運行はないようです。いつだったか新聞で読んだシンガポール・昆明連結鉄道は一部カンボジアも繋がるはずですが、この線路を見た限りでは実現は遠いみたいに思えます。

そのまま10kmほど進むと国道3号との交差点に出ました。交通の要衝のためか少し賑やかです。右に行けばプノンペン、左折するとカンポート(Kampot)。

ここからカンポートまでの距離は80km程度だと思うのですが、しかし道路はほぼ全線舗装工事中。敷いたばかりの砂利道にハンドルを取られながらの走行が続きます。せいぜい30km/hの速度しか出せず、いつ終わるとも知れぬ砂利道を行くわけですが、砂利道でも転倒のリスクのない四輪車は容赦なくスピードを上げて埃を舞い上げてくれます。一瞬視界が閉ざされ急ブレーキを掛けたくなることも何度か。

130年前にオーギュスト・パヴィーさんがプノンペンからカンポートに向かった道と同じかどうかはわかりません。紀行文を読んで同じ道を通ってみたいなどと思ってしまったわけですが、これでは周りの風景を観察するどころではありません。分かるのは、木々の葉がすべて埃を被って茶色くなっているということだけ。

両側はほとんど田んぼの平坦な道で紀行文のイメージとは大違い。この辺では乾期作の米は作っていないようで、田んぼは刈り取ってから数ヶ月も経ったような感じです。この130年の間に何が変わり何が同じなのか・・・そんなことよりただひたすら早くカンポートに着きたい、の一心でした。



ティンビエン-プノンデン国境出入国

2010-03-17 17:45:36 | 旅行
チャウドックからVinh Te運河に平行した国道91号線を30kmほど走るとティエンビエンの越境地点に着きました。ロンスエンからは約90km。ハーティエンへ行くより30km以上短い距離です。国境手前には免税スーパーの建物が幾つか立ち並び、日曜日のせいか来客者のバイクで混雑してる様子。国境を越えられなかったら店を覗いて帰るつもりでした。

ここもドンタップ省のDinh Baやハーティエンの国境と同じで田んぼ風景の只中です。国境線となる目印があるとは思えません。

ゲート小屋の守衛(兵士?)にパスポートを見せ、「カンボジアにバイクで行きたいんですけど」と告げるとパスポートや出入国票を眺めて公務とは思えぬ質問をされ、しかしここは愛想良く雑談に応じるしかありません。ズボンの下に着けた膝用のプロテクターなども目ざとく指摘され、見るべきところは見ているようです。出入国事務所へ行くように促され、最初の関門を通り抜けられ一安心。

出入国事務所でもバイクに関して何も言われず、呆気ないほど簡単に出国することができました。ベトナムを出国したのだからカンボジアでは受け入れざるを得ないだろう-何しろここにはバイクタクシーも乗り合いバスも見当たりません-と思っていたところ、カンボジア側のイミグレ・オフィサーは少々不満顔で、「先ず裏の事務所でビザを取得し、バイクは税関で許可証を貰え」とのこと。

カンボジアの観光ビザは20ドルですが、顔写真の持ち合わせがないので写真代として毎回5ドルプラスして払ってました。今回は写真も持参したにもかかわらず25ドルの請求。「えっ?写真あるから20ドルじゃないの」?と言ってしまうと「いいえ、何処でも25ドル」との答え。要するに写真代という名目で5ドル徴収しても実際は写真を撮らないわけですからその種の料金であると諦めました。そのせいかどうか、係官は満面に笑みを浮かべ「good luck」と声を掛けてくれました。

税関の担当者もバイクについて聞くと「どうぞ行ってください」とばかりに手で出口を示しました。イミグレに戻ってその旨を告げるとバイクの登録証の提示を求められたもののそれ以上の要求はされず、やっと出国スタンプを押してくれました。勿論その間もイミグレに立ち寄らずにバイクを押して通過する人々の姿が両方向からありました。

昼時の炎天下の道路上でしたが、ゲートを通り抜けると開放感に身体中が満たされた気分になり、これで一週間でも一ヶ月でもカンボジア全土を走り回ることが出来る、などとも思いつつ、しかし今回はバイクでの通過が可能かどうかを試したまでだし長期間旅行する準備は何もしてません。

プノンデンの国境は国道2号の終着点。これを北上すれば40kmほどでタケオの町に出る筈です。中国の史料に残る扶南国の首府がこのタケオ周辺だったとか。その外港と言われるOC EOからタケオまでの水路が何処を通っていたのかわかりませんが、この国道2号沿いの水路は乾期で殆ど干上がっています。

道路の広さとバイクやトラックの通行料の少なさがベトナム側との違いを際立たせていました。その分乗用車が猛烈なスピードで走り抜けるはとても危ない。先ずはタケオまで行ってみることにしました。

ミトーで一泊

2010-03-12 22:30:32 | 旅行
ティエンザン省のミトー市で一泊して来ました。ホーチミン市から70~80kmの距離なので今までは泊まる機会がなく、今回初めてでした。

ロンスエンからは120kmほど。午後からの用事なら朝で出てその晩一泊ですが、午前中に着かねばならないので前日の木曜日、ちょうど昼前から工場が停電になったので昼食後すぐ出かけました。

ロンスエンからサデックを抜けてヴィンロンの橋で前江を渡る道を選ぶならVam Congフェリーを渡ることになりますが、この日は特にフェリー待ちの車が多く国道91号線をびっしり塞いでいました。それに土曜日にここを渡った時にフェリーの上で係員と派手な怒鳴り合いをしてしまったばかりで、その記憶がまだ鮮明に残ったまま。ちょっと気が進みません。

後江を渡るもう一つのAn Hoaフェリーはバイクで渡るのに4000ドンと他より1000ドン高く、しかもカオランで前江を渡るフェリーにも乗らねばならず時間も多くかかります。が、ここの後江から前江に至る道路沿いの田圃風景や蓮池を眺めるながら進むのは悪くありません。去年の10月から何度も見てる風景で、稲刈りと田植えが繰り返されています。蓮池には蓮の花が何時も咲いています。

行き先はティエンザン省のミトー市(Mỹ Tho)ですが、カオランの町を抜けるとドンタップ省にもミトー(Mỹ Thọ)という紛らわしい名の町があります。この日はここでスピードの取り締まりをしている交通警官の姿があり、慌ててアクセルを戻しました。もっともこの中国製の150ccバイク、心配するほどのスピードは出ません。


Kien Giang の海岸

2010-01-16 21:28:10 | 旅行
3週間振りに週末をロンスエンで過ごせることになり、アンザン省西部に出掛けることにしました。Nui Sam という山に登りメコンデルタを見渡してみようとも思っていましたが、今までにも何回か近くを通ったことがあり、周辺に宿泊施設等が建てられ中途半端に観光地化されてた光景を思い出し、今一つ気乗りしませんでした。

朝9時に部屋を出てTri Tonまでは約50km、1時間ほどで着きます。途中、トラックが飼料袋を農家の庭に荷卸していたのを見てバイクを止めました。付近に大量の飼料を必要とするような家畜・家禽の飼育がされてるようには思えなかったせいです。タバコに火を付けて眺めていると家の人が近付いて来て話し掛けました。このオジサンも少々形状の異なるバイクに興味をそそられたようです。カンボジアやラオスに行けば飽きるほど走ってるバイクなのに。もっとも向こうはホンダやヤマハの250cc以上のバイクで値段も倍以上の筈。

このオジサン、水路の向こう側でアヒルを1千羽飼ってるそうです。一袋25kg入りの飼料を毎日4~5袋使うのだとか。

今朝は薄曇で何時になく気温が低く、薄手のジャンバーだったのでバイクで走ると身体が冷えました。お陰で昼までに3回もバイクを止めてタチション。Nui Samの頂上からカンボジアやタイ湾の海が見渡せるだろうか、などと思い双眼鏡もバックに詰めたのですが、Tri Tonの町に着くと、まだ時間は早いし、遠くまで見渡せるような快晴でもないのでキエンザンの海岸まで走ってみることにしました。

ハティエンとラックザーの海岸はチラッと見たことはありますが、地図を見るとTri Tonからの道を行くとその中間に出ます。海岸まで行かないまでも見知らぬ初めての道を走ってみるのは刺激的でもあるし。

ところが、ハティエンとラックザーを繋ぐ国道から海岸に出る道がなかなか見つかりません。昼を過ぎると雲も消えて青い空が広がりました。水路沿いの細い道を行くと木々の緑が水面に映りメコンデルタの水路とは思えぬ澄んだ色をしていました。水路沿いには民家が延々と続き家の中では女性が魚網の補修らしき仕事をしている姿が少なくありません。

水路を逸れるとまだ耕地となっていない荒地というか、たぶんこれがメコンデルタの原風景かも、などと思える景色もありました。それでも道があれば数軒の民家が必ずあります。そんな中に小さな中学校も一つありました。たぶん今までに見た中で一番小さい中学校です。川鶴保育園よりも遥かに。

再び水路沿いに引き返し、暫くすると海が見えました。メコン河の河口からはだいぶ離れているためか、或いは乾期で雨水が土砂を運ばないせいか海水は思っていたよりも澄んで見えました。久々に爽快な気分。





プレイヴェン州

2010-01-07 09:41:07 | 旅行
泊まった倉庫はプレイヴェン州Peam Ro郡に位置し、国道15号線を北に進むと州都プレイベンまでは20kmほどの地点です。前夜睡眠が十分でなかったせいか食事のせいか、胃の働きが悪く、同じ環境が続けばちょとヤバそうな感じがしてきたので一人だけ別にフェリー近くの町で宿を見つけることにしました。

エアコン、冷蔵庫、ケーブルTV付なら15ドルだと教えられましたが、そんなホテルに泊まれば他の3人も部屋に押しかけて来そうな口調だったので、シングルベット一つだけでエアコン、冷蔵庫、ホットシャワー無しの狭い6ドルの部屋に泊まりました。ベトナム人三人と24時間一緒に過ごすということが何よりも一番胃に堪えるような気もします。

しかし言葉の通じない異国で連絡が取れないのは何かと心配、不都合だということで携帯電話を買わざるを得ませんでした。SIMカードだけ買って入れ替えれば済むわけですが、充電器を持って来てません。中古を買って問題があれば交渉も面倒だと思い、一番安いLGの新品を30ドルとSIMカードが3ドル、計33ドルを払いました。通話料金は4ドル分が付いてました。

カンボジアの携帯電話から日本にショートメールが送れるだろうか、と思いNTTを使ってる息子に送ってみましたが返信がありません。日本語でメールしても返信率は低いので送受信の確認にはなりませんでした。ベトナムへの送受信は問題ありませんでした。一般的なカンボジア人は携帯の言語環境をカンボジア語にしているようで、その場合は英文で送信するとどのように表示されるのか?などとも思ったわけですが、確かめる相手は見付かりませんでした。

3日目に州都プレイヴェンまでバイクタクシーを拾って行ってみました。運転手はベトナム語が喋れないので途中で売店のベトナム人のオバサンに通訳を頼み、オバサンに「プレイベンの何処に行くのか?」と訊かれましたが、こちらも目的地がないで言い淀んでると「あんたベトナム人?タイ人?」と訊かれたので、運転手に「ジャポン」と答えました。ベトナムと国境を接する州のためかベトナム人の多さは想像以上でした。

もっとも、ベトナム語を話すカンボジア人も居るのでしょうし、カンボジア国籍のベトナム系の人々も少なくはないようです。朱印船貿易の頃には日本人も居たわけだし、中国人にいたっては2000年もの長きに渡って行き来があるわけで外見だけで分かることは限られてますが。

町に入ると日本人の名前の付いた学校が目に入りました。方向を示す看板に「プレイヴェン・マーケット方向」とあったので、市場まで行きバイクタクシーを降りました。これが人口100万のプレイヴェン州の州都の市場なのか、と疑ってしまうものでした。交差点にプノンペンにあるようなガソリンスタンドに併設されたコンビニがあったのには個人的には助かりました。

夕方、湖周辺を散歩してると欧米人の観光客らしき8人のグループが自転車を走らせてました。こちらも観光客気分になって夕涼みしていた地元の女の子達と話をしてみました。こちらも英語会話力には大いに問題ありですが、彼女達も英語は得意でないということだったので英語下手同士の気楽さも手伝って久々に楽しい時間を過ごすことが出来ました。

皆18歳の高校3年生だそうで、一人は卒業後この町にある服飾デザインの学校に進みたいそうです。日本人の個人や団体がカンボジアへの支援で学校を建てるというのは彼女達の希望を実現させることに繋がるものなのか・・・などと思ったりもしました。

キャッサバ倉庫の直ぐ近くには校舎の壁に「大田区議会」と日本語で書かれた学校がありました。水路を掘るパワーシャベルに○○建設と日本語で書かれたものはしばしば見受けますが、プレイヴェン州の片田舎で建物にくっきりと日本語が表示されている光景を見ると、何か微妙な心境にさせてくれました。

蚊に刺されながら年明け

2010-01-05 20:05:15 | 旅行
西暦元旦を含めた三連休は何処かでのんびり過ごすつもりでいたのに、急にカンボジアでの仕事に付き合うことになってしまい、まだ2ヶ月足らず3千キロしか乗っていないバイクも置きっ放しにしなければならず、プノンペンの街をバイクで走るなんてことも夢に終わってしまいました。

地図を見るとメコンデルタのカンボジアとの国境ゲートは幾つもあるようで、たぶん地元の両側の人々はかなり自由に行き来していて、その既得権みたいなもので今でもパスポートすら提示せずに通っているようです。カンボジアに住むベトナム人の子供たちが毎日船に乗ってベトナムの小学校に通っている姿もニュースにありました。

最近になって国境経済区建設構想とか諸々の計画に従って、またベトナムの商品販売や資本投資の積極化に伴い、国境通過の意味合いも地元の人々の日常生活という領域を超えて変化しつつあるようです。ベトナム側ではマーケットの建物も出来ていました。カフェの売店兼質屋があり、バイクはそこで預かって貰うことになりました。カンボジアへも自由に(?)走れるバイクタクシーの運転手もそこの椅子で時間を潰してました。子供の頃から2ヶ国語を話して育ったように流暢な言葉を話してました。

目的地までは約60km。バイクタクシーを頼んでもまぁ何とか支払える金額です。もっとも1台だけ、従って3人乗り。国境を越え北に進む道をまっすぐ行くと両側は稲刈りの終わった田んぼ広がっています。ベトナムの田んぼ風景と異なるのは椰子の木と牛のの多さと民家が少ないことでしょうか。しかしそれだけでなく何か根本的に違った風景のように見えます。その違いが何なのかをあれこれ考えているうちに埃だらけの砂利道は国道一号線に出ました。

国道を西北方向に15分ほど走ると見覚えのあるメコン河のフェリー。一号線はこのフェリーを渡ってプノンペンに至りますが、我が目的地はフェリーを渡らずに右折して7kmほどの地点でした。

宿泊先はメコン河に沿って建てられた船積み用のキャッサバ・チップの保管倉庫の中の一角。ベトナム人夫婦がオーナーのようでカンボジア人の使用人らしき数人も一緒でした。

エアコン、温水シャワーは望むべくもなく、水は川から汲み上げた水槽の水をトイレから炊事にも使っていました。身体を洗うのもこの水ですがトイレ兼水浴び所には電気も引いてないのにはため息が出ました。川沿いだけあって蚊の多さは半端ではなく、蚊帳を吊って早々と寝ることになったのですが、タイル張りの床の上にゴザを敷いてのザコ寝は老化し筋肉の落ちた身体にはいささか厳しく、尾骨がコツンコツンと当たってどうにも寝付けません。

11時頃まで我慢して目を閉じてましたが、我慢しきれず持ってきた文庫本を持って蚊帳を出て虫除けスプレーを何度も腕に吹き付けながら読み耽りました。中国の通史の入門書です。眠くなる筈の本ですが3時間ほど読み続け、ふと大晦日が過ぎ、新年を迎えていることに気付きました。

毎年、元旦を迎えることに伴う厳粛さや感慨をその欠片くらいは感じることが出来ていたように思うのですが、まったくそんなものとは無縁に年が明けてしまいました。

コンツムからラオス

2009-09-02 00:26:10 | 旅行
中部高原のコンツム(KonTum)に初めて来ました。火曜日にサイゴンからVN航空の国内線で隣の省都プレイクに到着し、空港からコンツム市街までは50km足らずでした。木曜日には100kmほど離れたコンツム省北部のダクレイ(Dak Glei)までバスで出掛けたところ窮屈な座席のせいでか腰を痛めてしまい、土日はホテルでゆっくりしよう、などとも思っていたわけですが、そう何度もこのコンツムに来る機会があるわけでもないので、取り敢えずラオス南部のパクセ行きのバスがどうなっているかを調べようと旅行会社のオフィスを訪ねてみました。

DakBlaホテルの一階にある旅行事務所は7時を過ぎていたため閉まってましたが、閑散としたホテルのレセプションで訊くと電話で問い合わせてくれました。予約をすれば朝9時半にこのホテルの前にバスが着きパクセには午後5時に到着とのこと。夕方5時着ならまだ明るいからメコン河を眺めることぐらいはできるだろうし、日曜の朝そのバスが戻るというので帰りの便も確認できたのでパクセ行きを決めました。

バスはプレイク市のLam Hong社が運行していて、料金はKonTum旅行社に片道20USドル取られましたがバスには26万ドンと掛かれており、10万ドンほど余計に払わされたようです。以前ならこの手の理不尽さに目くじら立てて文句を付けたりもしてたわけですが、その気力も失せてきたこの頃です。フエから出ているサバナケット行きのバスと違って外国人観光客がこのバスに乗ることもまだ滅多にないということでもあるようです。マイリン社の急行バスもあるそうですが、まだ月・木の週2便だけだとか。

コンツム旅行社の前でバスに乗り、国道14号線を北上して2時間ほどでNgoc Hoiの町に着きました。ここで西方向、ラオス国境に向かう40号線と分岐してます。ここで昼食となり、バスには20数名の乗客がいましたが、何故かテーブルを囲んだのは8名だけ。通常のこの手の店の食事と比べ上質な料理が6品ほど並べられ、8人で箸をつつきました。バスの運行会社と食堂との間に物資の運搬やら何やらで強い絆と信頼関係があるように感じられました。そこから20km足らずで Po Y国境ゲートに着きました。

昨年フエ、クアンチから国境を越えた時はベトナム人はIDカードと5000ドンを手にして出国手続きをしていて窓口も他の外国人とは別でしたが、ここでは皆パスポートに1万ドンを挟んで窓口に提出してました。緑色のベトナムのパスポートが10数枚と紺色のラオスのパスポートが4枚、そしてわが赤色パスポート1枚でしたが、赤色パスポートは後回しの上に丹念に出入国のスタンプ等を確認されて一人だけ置いてきぼりの憂き目に。

ラオス側の入国手続きの場所までは少々離れていてバスに乗っての移動です。ラオ階から雲南に抜ける国境のように歩いて越境する人は居そうもありません。ここではコンツム側はそれでもNgoc Hoiの町からもそう遠く離れているわけでもなく、また国境経済区の開発も進んでいますが、それは比較的に平坦な土地であるわけで、しかしラオス側は山々が続く人の住めない地域だからです。太い木材を積んだトラックが止まってました。

この国境がどんな時代に画定されたものなのかは知りませんが、ベトナム側からすれば「もうこの辺で十分、あっちの険しい山は要らんわ」てな感じもして来ます。実際、この山を下り、ラオス側の最初の町アティプに着くまでは120kmほどの距離でしたが、3時間以上かかりました。サイゴンの市内バスでも使われてるSAMCO社製のボロボロバス-中国から輸入してベトナムで組み立てたように思えます-のせいもあるのでしょうけど。

アティプの町で休憩し、運転手にパクセまで後どのくらいで着くのか、と訊きました。後200kmだから4時間。着くのは8時だ、との答え。夕暮れのメコン河が見える時間ではありません。